泣き虫少女
ユミトメザル、屋外。
城と防壁の間の、背の低い草以外何も無い広い土地を、ティーミスは特に目的も無く散歩していた。
理由など無い。
ただ、そう言う気分だっただけだ。
「……はぁ……」
ティーミスは、草地の上に座り込む。
ティーミスは散歩にも飽きてしまった。
ティーミスはこの世界において、ほぼ完全な自由である。
何をするも、何処に行くにも、ティーミスの自由。
ただしかし、ティーミスが持っているのは自由だけである。
自由以外、何も無い。
「…虚しいです…」
ティーミスは自身を抱きしめる様に腕を組みながら、ころんと横に寝転がる。
収容所の中で、ティーミスは確かに自由を望んだ。
そして、望み通りの自由が手に入った。
「……」
従属者の愛は、作り物の愛。
ティーミスは、ティーミスを愛する様に命じられた存在からしか愛されていない。
冷たい作り物達では、ティーミスを満たす事は出来無い。
「キィ!」
「……シュレアさん?」
何処からとも無く現れたシュレアが、ティーミスに声を掛けてくる。
シュレアは確かにティーミスとは違うエゴを持ち、ティーミスとは違う記憶があり、違う思考がある。
その筈なのにティーミスは、シュレアが現れても陰鬱な孤独が晴れた気が微塵もしなかった。
シュレアはティーミスの家族では無い、友達でも無い、家来でも、奴隷でも、ペットでも無い。
シュレアはティーミスと魂を共有する、ティーミスの一部である。
皮膚で繋がっていないだけで、シュレアはシュレアと言う名前の、ティーミスの身体の一部位である。
「…何考えてるんでしょう…私。」
ティーミスは寝転がったまま頭を振り、頭の中で奔流を起こしていた訳の分からない雑多な思考を全て振り払う。
「キィ!」
シュレアは懐から、ティーミスにとっては見慣れない紙束を取り出す。
「…これは?」
「シンブンですの。」
「……何故?」
「人間の大好物ですの。」
「…にぇ?」
ティーミスはシュレアに何事かと問い詰めようとしたが、姿勢を変えた頃には既に、シュレアは兵舎へと還った後たっだ。
ただ今は、文字を読む気起きなかった為、ティーミスは新聞をアイテムウィンドウの中に放り込む。
「…ぐす…」
ティーミスは悲しい気持ちになる。
こんな場所に売り子は来ない為、新聞を手に入れるには人里までのかなりの遠出が必要である。
シュレアはティーミスの為に、わざわざ遠出をして新聞を手に入れたと言う事は想像に容易い。
それなのにティーミスは、ありがとうの一言も言えなかったのだ。
「私…何で…ぐす…」
ティーミスは、自分の心はすっかり冷たくなってしまったと、地面に独り涙を流す。
「うわああああん!」
ティーミスは声を挙げて泣き始める。
ティーミスは、変貌して行く自分が怖い。
最後に平穏な環境で言葉を交わしてから、一体どれだけの時間が過ぎた事か。
(…私はもう、誰かの愛し方も忘れてしまったのでしょうか…
…そうですよね。…もう、自分自身さえも好きで居られないのに…)
15分程経ち、ティーミスはようやく泣き止む。
別に、今のティーミスの状態も今のティーミスを取り巻く環境が変わった訳でも無い。
が、泣きはらした事により、ティーミスの心は少しだけ軽くなっていた。
「…どうして私は、こんなにも臆病者なのでしょうか…」
ティーミスはもう、自身の人生に希望を持ってはいない。
ティーミスはもう、死ぬのが怖いと言う理由でしか生きていないのである。
ティーミスは、心の底から地獄が怖いのである。
「……?」
地面に仰向けに寝転んでいるティーミスは不意に、頰に冷たい物を感じる。
薄く曇ったユミトメザルの空からは、僅かながらに雪が舞い降り始めていた。
「…綺麗ですね…雪…」
自身に向かって舞い落ちる雪を眺めながら、ティーミスは在りし日の様々な思い出に浸る。
寒空の下の帰路、凍えながら家に帰って来た自分を、母の暖かいシチューの香りが出迎えてくれたあの満ち足りた気持ち。
兄と一緒に、裏庭を雪の彫像で埋め尽くした日の楽しかった思い出。
暖かい暖炉で暖められた書斎で、何をするでも無くただただ父と共にぼんやりと過ごした時のあの言い知れぬ幸福。
そんな美しい思い出達が、雪と共にティーミスの元に帰ってくる。
忘却と美化の靄が掛かった、おとぎ話の様に美しかったあの日々が、ティーミスは恋しくなる。
「…くすん…」
家族が恋しい。家が恋しい。
甘い思い出は割れたガラスの様に、ティーミスの脆く乾いた心にゆっくりと切り傷を入れて行く。
切り傷からは今まで押し殺してきた感情が滲み出てきて、そんな感情達は涙となって、ティーミスの頰を伝って零れ落ちて行く。
ティーミスがどんなに足掻いても、もがても、ティーミスは結局、本当に求めている物だけが手に入れられていないのだ。
「…ああもう!」
不意にティーミスは癇癪を起こして立ち上がり、右手の指をパチンと一つ鳴らす。
次の瞬間、ティーミスはユミトメザルの屋外から城の私室(とティーミスが勝手に呼んでいるだけの城の一室)に移動する。
ティーミスはアイテムボックスから新聞を取り出すと、机の上に広げる丁寧に広げる。
小柄なティーミスでは、両手を一杯に広げても新聞を読める様に持つ事が出来無いのである。
新聞の内容はその大部分が全く別の大陸で起こっている政変の話題が占めていたが、所々にジョックドゥームの話や咎人に関する記事を見つける事が出来た。
そんな中、ティーミスはとある記事に興味を惹かれる。
「…剣闘大会…?」
ティーミスは今まで、貴族学校の男子生徒からしかその単語を聞いた事が無かった。
何でも、世界各地から強者が集結し、己が国のメンツを背負いコロシアムの上で闘うと言う物らしい。
「本当にあるんですね。こう言うの。」
ティーミスは、その剣闘大会の出場者の欄に目を通す。
「…案の定、殆どが帝国の方々か冒険者ですね…」
ティーミスは出場者の欄にとある名前を見つけ、反射的に両手で口を覆う。
ティーミスは収容所での日々のフラッシュバックに襲われ、両手で頭を押さえ、その場でしゃがみ込む。
ティーミスは記憶の中で、燃え盛る油によってその身を焼かれ、ペンチの様な器具で強引に歯を引き抜かれ、不本意な侵犯を受ける。
「はぁ…はぁ……ひぃ…」
ティーミスの目には、先程とは全く種類の違う涙が滲み出る。
忘れかけていた悪夢が、見て見ぬ振りをしてきた悪夢が、ティーミスの傷ついた心を削り喰らい始める。
ティーミスの発作は、数分の間続いた。
「…やっぱり、逃げちゃダメですね…」
恐怖と怒りに身を締められ疲れ果てたティーミスが、よろよろと立ち上がる。
「…どうせこの場所も、いずれ知られてしまうんです。…やられる前に、やらなければ…」
ティーミスはコロシアムの場所を調べようと、新聞に掲載されている地名を読み始める。
「…何処ですか…これ…」
ルサルガンノ共和国領、ルザリウス平原。
今のティーミスには、縁のゆかりも無い場所でる。
ここに来て足踏みかとティーミスは頭にモヤモヤマークを浮かべる。
不意に、ティーミスの目の前に大きなウィンドウが表示される。
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以下の位置情報を記録しますか?
《はい》《いいえ》
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「にゃ!」
そのウィンドウの大きさに驚き、ティーミスは思わず尻餅をつく。
ウィンドウには、中心に赤い点の付いた大きな地図が表示されていた。
地図の脇には、この場所からコロシアムまでの距離と方角がkmで表示されている。
「…あ…ありがとうございます…」
ティーミスは、自身の身体に備わっている基本機能に感謝の意を示す。
「…くす…」
ティーミスは不意に、こんな些細な事でも一驚している自分を情け無く思う。
こんな怖がりだから、悪夢を元から断ち切らなければ眠れやしないし、囲う壁も分厚く高くなければ気が済まないのである。