引っ越しと遠出
ティーミスの手首に開いた小さな切り傷から、赤い霧が煙の様に立ち上る。
赤い霧はやがてその黒剣を渦巻く様に取り囲み、黒剣の姿をしばしの間この世界から隠す。
(…もしかすれば、どんなガラクタでも凄いアイテムに変えられるんですかね…)
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アップグレードが完了しました。
【聖遺のドレインソード】→【在りし日の狂気宿しソウルドレイン】
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「…!」
突如重量が3倍ほどに膨れ上がり、ティーミスは思わずその剣を手から落としそうになる。
「…にぇ?」
ティーミスは、自身の握る大剣を眺めてみる。
刀身には骸骨と薔薇のモチーフが描かれており、持ち手は香などを焚く燭台を改造して作られた様にも見える。
その大剣の最もたる特徴は、一見すればまるで素人が鍛えたかの様な、海底を揺蕩う昆布さえ連想させてしまうほどの歪な刃。
しかしどうやったのか、その刃は歪であるにも関わらず、一部のズレも無く均一に研ぎ澄まされていた。
向こう側が見えてしまいそうな程に、その黒い刃は薄く鋭利に研ぎ澄まされていた。
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【在りし日の狂気宿しソウルドレイン】
真なる狂気は信仰を母とし。神を父とします。
純なる狂気は己を狂気と思わず。己こそが真なる信徒なります。
聖なる狂気はやがて、いくつかの神と、いくつもの信仰を生みます。
攻撃力+20000
対象を10体撃破する毎に、【奪取した命】一つを獲得
攻撃時HP吸収100%
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ティーミスは少し目を見開く。
大事な事をすっかりと忘れてしまっていた。
「…は、早く残機を確保しなければ…」
命がたった一つしか無いなど、何と危険な事か。
それが生物としての通常である事も忘れ、ティーミスは焦燥に駆られる。
ティーミスはアイテムウィンドウに手を突っ込み、ナンディンの仮面を取り出し前方に放り投げる。
仮面はすぐさま、無脚の牛頭獣へと姿を変える。
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現在の燃料残量 100%
里破 可能(燃料の90%を消費)
目的地を設定しますか?
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目的地を設定する為にティーミスはミニマップに手を伸ばし、ふと物思いに硬直する。
今まで残機は1つだけであったが、今自分は生きている。
つまり此処に居れば、少なくとも身の安全は確保出来るのではないか。
「…駄目ですね…」
此処は寒いし湿気っている。
スライムじゃあるまいし、こんな場所に住みたくは無い。
ティーミスはミニマップを軽く弄り、目的地を措定する。
アトゥは無くなってしまったが、住めそうな場所には心当たりがあった。
「…本当に、ドーナッツみたいな形なんですね。」
ミニマップに表示されていると言う事は、少なからずは原型は留めているらしい。
ティーミスは、両手を軽く合わせる。
(出来るだけ綺麗な状態の建物が残っています様に…)
場合によっては、そこが新居だ。
〜〜〜
「すー…すー…」
簡素ながらもふかふかなベッドの中で、キエラは静かな寝息を立てている。
窓はカーテンで覆い隠されていたが、カーテンの隙間からは、明るい午後の日差しが漏れ出ている。
“まあ…文がまたこんなに…キエラさん、きっと喜ばれるわ…”
リテは無数の手紙をポストから掻き出しながら、ボソリと呟く。
ポストの中身は新聞やチラシを除き、ほぼ全てがキエラ宛のファンレターだった。
キエラが仕事にリテを連れる様になってからと言うもの、その名声は瞬く間に膨れ上がって行った。
見物した客を等しく魅了するその才能に、召喚獣を連れた踊り子と言う個性が加われば、ある意味では当然の事かも知れない。
お金にも困らず、酔っ払いの喧嘩以上の騒動も起こらないし、誰かから恨みを買う事も無い、平和で充実した暮らしを送っていた。
“…?”
ふと物音が聞こえ。リテは慌てて外骨格の中に身を納める。
風だろうか。鼠だろうか。それともこの部屋の事だし、何処かで何かが崩れたのだろうか。
“…!?《茨の衣》!”
リテは目で認知するよりも先に、キエラの眠るベッドに向かってスキルを放つ。
床より飛び出した茨は、キエラのベッドの上にある透明な何かを捕らえる。
「クソ…が…」
流石にキエラは、その物音で目覚める。
「え…?だ…誰ですか貴方は!」
それを透明にしていた幕が、次第に茨によって破られ千切られていく。
姿を現したのは、30代前半ほどの男。
暗殺者だった。
“キエラさん。一先ずこちらへ。…さて、貴方は何処の誰でしょうか?”
「……」
当然、暗殺者は黙秘する。
黙秘するが、その表情は焦燥に歪んでいる。
“なるほど。猶予付きの自爆の呪いですか。…はぁ…人はどうして、自分の命の安全よりも、お金を優先してしまうのでしょう…”
「…革命の…為…金などでは…」
“…《解呪》。”
男の首筋から、瞬く間に黒い煙が吹き出し消えて行く。
即死性の呪いは確かに対象を即死させるが、呪いの効力が強い分、呪いの強度そのものは皆無な事が多い。
どちらかと言えば、対象の恐怖や焦燥を煽るのに使用するのが一般的だ。
「…貴方はあの時の…一体私が何をしたと言うのですか!」
キエラは掘り起こされたトラウマに震えながら、暗殺者を指差し叱責する。
「わたくしはもうイスラフィルでは御座いません!ただのキエラ!ただの踊り子ですよ!」
「…一族の穢れから…一人で逃れられると思うなよ…貴様も…本来ならば即刻その首を刎ねられるべきだ…」
「知りませんよ!私はもう、イグリスともイスラフィルとも、何の関係も御座いません!」
「…死ねぬのならば…せめて向き合え…己が血と…己が背負う恨みと……イグリスが…貴様を待っている…」
男は口の中で何かを噛み砕く。
「う…ぐああああああ!」
“何を…”
次の瞬間男は悶え苦しみ始め、程なくして絶命する。
自決用の毒を、あらかじめ口の中に仕込んでいたらしい。
「…死にましたの…?」
恐る恐る、キエラはリテに確認する様に告げる。
木面の口からは、透明な液体が垂れていた。
「リテ!?まさか、食べ…」
“何と…何と愚かな…あああ…人間とは何と愚かなのだ!”
「リテ…?」
リテは、泣いている。
“天より授かりし命を在ろう事か自ら捨て去るなど…人は愚かとは聞いたが、まさか…此れほどまでとは!”
リテは、キエラが今までに見た事も無い程、怒りを露わにしている。
悲しみながら、憐れみながら、忿怒に燃えている。
“キエラさん…貴女は…何をお抱えになっているんですか…?”
「わたくしにはもう関係の無い事です!祖国も…何も…」
“だとするならば!…いえ、だとしても、こんな事になると言う事は、それが向き合うべき問題だと言う事です!…私は…この貴女の召喚獣です。貴女の背負う物は私の背負う物。…どうか、教えて下さい。”
「…嫌です…もう…誰かが苦しむのは見たく無い…怖いんです…」
“一人で怖いのなら、二人で向き合いましょう。…大丈夫です。危険だと言うのなら、リテアンリエルの名にかけて、貴女には傷一つ付けさせはしませんから。”
「…リテ…」
“そうですね、暗殺者が来たためしばらく身を隠す事になった、と言う事にしておくのはどうでしょうか。”
「え?」
“宿屋の方々には私から伝えておきます。キエラさんは、荷物の御準備を。”
「ま…待って下さい!今日ですか!?」
“…現に一人死者が出ています。死が絡む問題は、時が経てばそれだけ悪化していきます故。”
もしも、出会って間も無い自らの主人が、次の犠牲者になってしまったら。
そう考えるとリテは、居ても立っても居られなかった。