いつかまた思い出せるために
陽の光の来ない夜。
どこかの空。
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燃料の残量が少なくなっています。
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出発時は満タンだったナンディンの燃料を使い切る頃。
ティーミスは、この世界の人間の誰よりも長い距離の物理移動をしていた。
「…そろそろ降りますかね…」
光を失い黒く染まった雲を抜け、ティーミスはゆっくりと降下を始める。
海の匂いは感じられない為、少なくとも大海の真ん中と言う事は無さそうだ。
「うわ!?」
雲よりも高い場所からではしばし、地上の天気は分からない事が多い。
雲の中で唐突に降り頻る夜雨に不意を突かれ、ティーミスは思わずバランスを崩す。
結局、ティーミスは墜落を始める。
ティーミスはナンディンを収納し、その身をハーピィに変貌させ翼をばたつかせ始める。
浮力によって重力を少しづつ相殺し、出来るだけ優しく着地出来る様に。
「…にえ?」
落下が止まっている。
ティーミスの翼の生み出す浮力と重力とが釣り合い、ティーミスの体は空中で留まっている。
ティーミスは、いつの間にか閉じていた目を恐る恐る開ける。
ハーピィは、人間よりも遥かに夜目が効く。
ティーミスが辿り着いたのは、周囲を湿地の森に囲まれた巨大な湖。
湖の中心には巨大な大理石の聖堂らしき物が立ち、聖堂の正面から湖の岸まで続く道がある。
思わず見とれてしまう程の、幻想的な風景の場所だ。
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非常に強大な魔力を検知しました。
1km圏内に、第一種魔力の発生源が存在する可能性があります。
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間違い無い。
あの聖堂らしき建物は魔力の源泉である。
ティーミスはゆっくりと、湖の岸に降り立つ。
着地地点の数センチ上で変身を解き、聖堂へと続く橋には人間の二足で立つ。
「ひゃっ」
降り頻る雨が、其処彼処から露わになっているティーミスの素肌をつつく。
ハーピィ状態を解除してしまった為周囲が良く見えないが、この地には生物の気配は無い。
が、降り頻る雨は実に冷たく、とてもでは無いが野宿出来る環境では無い。
ティーミスは、湖に浮かぶ聖堂で夜を明かす事にした。
ティーミスは上着からフードを引っ張り上げその頭を覆う。
「…なんだか…怖いです…」
現在時刻は深夜。聖堂には灯りも人気も無い。
寒さも相まり、ティーミスはプルプルと震えながらその橋を渡り始める。
歩き心地からして、石橋だろうか。
月の登らぬ夜。
辺りは完璧な闇に包まれている。
岸から聖堂まではかなりの距離が有ったが、ティーミスの降り立った地点が橋の中腹だった為、聖堂には数分で辿り着く。
ティーミスは朽ちた二枚扉の右側を、自身の身体の通る最小限だけゆっくりと押し開ける。
扉から鳴る古びた木の軋む音が、数十世紀振りの来客を迎え入れる。
「う…お邪魔…します…」
ティーミスは目尻に涙を浮かべ両手を胸の辺りで縮こませながら、トボトボと聖堂の大広間を歩く。
その声色は、今にも泣き出しそうだ。
聖堂内部には座席らしき物は無く、即壁に扉が付いている。
その二つが、聖堂内部のほぼ完全な暗闇の中でティーミスが感知した数少ない情報である。
「ひ…ぃ…一晩…泊めて下さひ…」
震える声でそう呟くと、ティーミスは聖堂の壁際に身を縮こませ瞼を閉じる。
最初は泣き出してしまいそうな程の恐怖によって呼吸もままならなかったが、次第に眠気が優って行く。
次第に自分が何処に居るのかも忘れ、ティーミスは穏やかな寝息を立て始める。
雷がピシャリと鳴り、聖堂の正面に安置されていたそれが一瞬だけ闇から露わになるが、眠るティーミスはまだ、それを知らない。
「…んく…」
冷たい空気に頰を撫でられ、ティーミスは比較的爽やかな目覚めを遂げる。
ティーミスは数秒の間、自分がどうして此処に居るか分からなかったが、一歩遅れて昨日の記憶も目を覚まし、全てを理解する。
記憶と同時に、忘れていた恐怖心も。
「…ふぅ…もう朝です。何も心配する事は…」
ふとティーミスは、聖堂の再奥に置いてあるそれを見つける。
数多の装飾品に囲まれ、ステンドグラスを通った朝日に照らされながら、ガラスの棺の中で少女が一人眠っている。
「…?」
ティーミスは最初それが何なのか理解出来ず、棺に近付く。
「…にぁあ!?」
台分近付いた所で、ティーミスはやっとそれが、死んだ少女だと言う事を認知する。
図らずとも、ティーミスはこの少女とルームシェアをして居たらしい。
「ど…どうも…その…」
ティーミスは、ティーミスの生まれる、否、人類の生まれる何世紀も前に遠くへと旅立った少女を相手に人見知りを起こす。
劣化はおろか一片の変色すらも起こしていない薄青髪の少女の遺骸は、今にも目を覚ましそうなほど綺麗な状態で保存されている。
丁重に祀られた遺骸を見るのは、ティーミスは初めてだった。
ふとティーミスは、少女の眠る棺の上に置かれた枯草に目をやる。
もしかすれば元は少女に供えられた花だったのかもしれない。
ティーミスの足跡が、聖堂内にくっきりと残っている。
とてつもなく長い時間、この聖堂には誰も入っては来なかったのだろう。
「…?」
ティーミスは、ガラスの棺の置かれた台座に刻まれた、彫文字が目に入る。
何と書いてあるかは分からないが、きっとこの少女の名前が神族文字で書かれているだろうと言う事は、何と無く想像出来る。
「…お綺麗ですね。」
当然少女は答えない。
ティーミスの生まれる遥か昔からずっと、少女は動かない。
ティーミスは、死についてぼんやりと考え始める。
この少女はきっと沢山の者達から愛され、死の際には沢山の者達が涙を流し悼まれ、壮麗な聖殿まで建てられ丁重に葬られ、少なくとも人間では無い沢山の者達からの祈りを受けていた筈だ。
ただしかし、今や此処にはティーミスしか居ない。
これほどまでに高度な技術によって少女の姿が留められているのに、この少女の容姿を、髪の色を知っているのは、今や世界でティーミスだけなのだ。
ティーミスも、否、この世の生きとし生ける者全て、いずれこの少女と同じ道を歩むのだろうか。
声も顔も性格も振る舞いも、生きた証すら、時の流れに押し流され、墓の場所さえ世界から忘れ去られ、じきに跡形も無く消えて無くなる。
ティーミスは突然、そんな当たり前のことが怖くなる。
ティーミスの生へのこだわりは、一層強いものへとなって行く。
「…貴女の名前が知りたいです。」
学校の授業は余す事無く頭に入れたはずなのに、台座に書かれたたった一行の文字すらも読めない。
ティーミスは、己の無学を恥じ悔いる。
せめて自分が死ぬまでは、この少女の事を覚えていたい。
ティーミスは目の前にアイテムショップを出現させると、その弱々しい指先でウィンドウを弄り始める。
「何か…何か無いんですか…」
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【支配の槍】50000G
【王の水薬】500G
【千死束ねる剣】25000000G
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「ああもう!」
何処を探しても、現れるのは武器や道具ばかり。
ティーミスは自分の能力の無能さに呆れ返る。
今度は、ティーミスはアイテムボックスを開く。
ダンジョンから簒奪した物品の中に、何か役に立つものがあるかも知れない。
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【東普辞典】
東洋の言語を、普通言語によって解説した辞書です。
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ダンジョンのクリアアイテムとしてはあまりにも陳腐な為、恐らくはダンジョン内のドロップアイテムか、又は冒険者の落とし物だろう。
「…駄目ですね。私も…」
ティーミスは肩を落とし、せめて花でも手向けようかと棺に背を向けた時だった。
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【東普辞典】を0HPを消費してアップグレードしますか?
≪はい≫≪いいえ≫
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「?」
辞典のアップグレードなど聞いた事が無かったが、かまどですら前よりも優れた物へと変化した。
ティーミスは少々の期待と共に、ウィンドウに肯定を示す。
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アップグレードが完了しました。
【東普辞典】→【デコーディングライブラリ】
【デコーディングライブラリ】
指定された文章、暗号を、アルゴリズム解読法を用いて解読し、指定された言語へと変換します。
同じ言語又は暗号の情報が集積された場合、対応する言語辞典データが自動で作成され閲覧が可能です。
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分厚く古びた辞書が、ティーミスが両手で抱えるほどの黒く薄い端末へと変化する。
一体何処をどう弄れば、古紙の塊から機械端末が生まれるのだろうか。
ティーミスはそんな事は気にもせずに、すぐさま台座に彫られた奇妙な文字にその端末を翳す。
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言語を確認しました。
ライブラリを検索中…検索完了。
指定された言語に対応する公式辞書を提示します。
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端末に、神普辞書と書かれた本の背表紙が表示され、それがパラパラと捲れるアニメーションが流れる。
次の瞬間、ティーミスは一瞬だけ、頭に手当たり次第に情報が流れ込んでくるような、そんな感覚に陥る。
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スキルを習得しました。
【神族の言語】
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「…リグテア…?」
ティーミスは端末をしまい込み、再び棺の前に立ち少女の顔を覗き込む。
「リグテア・アーケイ…それが、貴女の名前…?」
少女は何も答え無い。
ティーミスの生まれるずっと前から、少女は何も声を発しない。