向かいのあの人
帰りの電車で見かける彼女に、僕は憧れている。
どうということはない日常の連続の中で、彼女への憧れは少しずつ水々しさを失い、風景の一部へと記号化されるだろうと思っていた。
そう思いながら、幾日が過ぎ、幾月が過ぎ、しかし、僕の想いは変わることはなかった。純情という書き方をすればとても美しいが、それは現代風に言うならさながらストーカーとも言えるのかもしれない。彼女と同じ車両に乗れる時間を見計らって、一喜一憂する自分がいる。
ある日の夜。いつもの路線。いつもの時間。彼女をまた、向かいのシートで見つける。赤の他人である僕は、彼女に声を掛けるなんてことは出来ない。
出来ないからこそ、僕はいつもと同じように一瞬だけ、視線を彼女に向ける。
そう。いつもと同じ。同じ空間にいるのに、僕の時間は決して彼女の時間とは交わらない。僕らは名前も声も知らない。日常の風景同士なのだから。
でも、今日の彼女は、いつもと違っていた。
僕は一瞬だけ向けるはずだった視線を、しばらく反らすことが出来なくなった。
俯いた彼女の頬を伝った涙。堪えるような、嗚咽。
ただ向いに座るだけの、ただすれ違うだけのひと。
交差しないはずの、赤の他人。
それなのに、彼女の姿を追ってしまう自分がいる。
彼女の涙に、打ちひしがれる自分がここにいる。
どうして泣いているのだろう。
その涙は、いったい誰のために流しているのだろう。
あなたの事が知りたい。
声を聞いてみたい。
見つめ合いたい。
あなたの涙の意味を知りたい。
その涙を、僕が拭ってあげたい。
そうやって熱っぽくなる僕を傍観する、もう1人の僕が冷静に告げる。
何も知らないくせに、そこまで思えるお前はやはりどこかおかしくなっているに違いない。
これは何かの疾患だ。
そう思い、僕は彼女から目を逸らした。
もうすぐ彼女の乗り換え駅だ。彼女はこの電車から降りる。僕は降りない。
ここから先の彼女を、僕が知る術はない。
徐々に減速する電車のスピードに比例するように、僕の思いも胸を通り過ぎていく。
しかし、本当にそれでいいのか。
交差しない日常。
それがこのまま続くことは幸せなのか。
彼女の時間に、僕はこのまま永遠に現れないのか。
まるでメビウスの輪のように、思考が終わりのない回転を始める。
電車は慣性を伴って停車した。
待ち侘びた人々が靴音を立てて次々と降りていく。
あの人も立ち上がった。
咄嗟の出来事だったので、僕はその時の感情がなんなのかよくわからなかった。後悔したくなかったのか、向こう見ずだったのか、それとも、相手の迷惑を省みない利己的な思いだけだったのか。
あるいは、この先の展開に対する無責任な期待だったのか。
僕は、交差しないはずの彼女の時間に割って入ってしまった。
涙を拭いながら歩く彼女に、僕は後ろから声を掛けていた。
「あの」
彼女は不意を突かれたように赤い目を丸くしながら、僕を振り返った。
「いえ」
僕はホームの上で、呼び止めた彼女に何と声を掛けたらいいのか分からなくなった。
何故、僕はいま、声を掛けたのか。
一瞬が永遠に感じられるような間に、僕の口が勝手に言葉を紡ぐ、
「きっと、明日はもっといい日になると思います。だから、その、今日は泣きたいだけ泣けばいいと思います。そうしたら、明日はもう少しだけ前を見れると、そう思います。だから…」
ここまで言って、しまった、と思った。
いったい僕は何様だ。彼女の名前も知らないくせに。何も関係ないくせに。何をそんなに偉そうな事を言っているのか。
いっそ、酒に酔っている事にすればよかったと後悔した。
僕は言葉を急いで飲み込み、言う事だけを言って、彼女に軽く会釈をした。この場から早く立ち去りたかった。
電車の発車音が鳴る。僕は急いで電車に飛び乗った。
そんな僕の背に、彼女の声が降ってきた。
「ありがとうございます」
振り返ると同時に、電車のドアが閉まる。
僕の目には、一瞬だが彼女が微笑んでいるように見えた。
僕はどんな顔をしていただろうか。阿保のように惚けていたのではないだろうか。
電車は定刻通りに発車する。僕はいつもと同じ電車で、初めて遠くなっていく駅のホームを追った。
いつから、人は他人同士ではなくなるのだろうか。
そんな事を呆然と考えながら。
初めての投稿となります。
短編作品です。
のんびり投稿していきたいと思います。