necromansis Ⅰ
目が覚めたとき、何が起きたか、すぐには理解できなかった。ごちゃごちゃになった記憶や感情が、荒れ狂う濁流となって頭の中をめちゃくちゃに掻き乱し、経験したことのない強烈な頭痛と眩暈と吐き気のせいで、何も考えることが出来なかった。単なる眠りからの目覚めとは明らかに違っていた。支離滅裂な思考や心像が頭の中いっぱいに展開し、目を開けているのか閉じているのか、起きているのか夢を見ているのか、生きているのか死んでいるのかもわからないような状態だった。
少しすると、だんだんと落ち着いてきて、自分の置かれた状況がわかるようになってきた。傍には嬉しそうにしている少女と、一見、男か女か判別のつかない若者がいた。少女と目が合うと、少し考えてそれがミアという名前だと思い出した。ミアは横になったままの私に抱きついてきて、「やった! よかった!」と喜んだ。状況をいまいち理解できていない私は、どうすればいいのかわからず戸惑った。
若者のほうをちらりと見やると、その顔からは感情がうまく読み取れなかった。表情がないというわけでもないのに、その顔が何を表しているのかがわからないのだ。
「記憶が戻るにはまだ時間がかかるな」
中性的な顔立ちと同様に、そう言った若者の声からも、男か女か、判断できなかった。
「体の感覚はどうだ?」
若者はさらにそう言って、私の体を触り始めた。そのとき初めて気づいたが、私は裸で、体の上には薄い布を被せられているだけだった。若者は脚の先から上に向かってするすると手を滑らせた。全身は痺れたようになっていて、自分の意志ではほとんど動かせないうえに、少し触れられただけでも、こそばゆいような、堪えきれないような感覚があり、私は悶えた。痺れと恥ずかしさのために歯を食いしばり、「く……」という声を漏らすと、若者がようやく笑みらしきものを浮かべた。
「こっちもまだ少し時間がかかるかな。安心しろ、こう見えて俺は女だ」
不審や戸惑いの入った私の視線に気づいた若者が言った。男ではないだけ良いのかもしれないが、だからといって女なら歓迎というわけでもなく、何が「安心」なのか、と思った。それに「俺」とは。
「確かめてみるか?」
なおもあまり表情の和らがない私の顔を見て、若者は着ていたローブの胸元の部分を引っ張って大きく広げた。たしかに、そこには明らかに女のものとわかる膨らみがあった。
「なんなら下のほうも」
そう言って女は、裾を大きく持ち上げ、滑らかな肌の長い脚を晒した。太ももの辺りまで捲り上げたのをさらに上げようとしたので、私は辛うじて声を出して止めた。ローブの下には何も身に着けていなかった。
私が目覚めたのは、木でできた堅い台の上で、そこはなぜか少し濡れていた。部屋は年季の入った木造家屋のにおいがし、そこに少し埃や黴くささが混ざっていた。周囲には壁に沿って戸棚や台があり、それらの上には本や何に使うのか一目ではわからない道具、様々な色の石、乾燥した植物、動物の骨や毛皮などが雑然と置かれていた。
ふと気がついた。ここは魔女の部屋だ。
目覚めの直後の混沌と恐慌が過ぎ去ると、今度は逆に、妙に冷静な状態が訪れた。ところどころに蜘蛛の巣の張った天井の梁や柱を見上げながら、私は考えた。状況から察するに、私は何かのきっかけで気を失うかどうかし、それをミアが魔女に頼んで助けてもらったというところだろう。服を着ておらず、自分の乗った台が濡れているのは、私の体が濡れていたということで、これは私が水に落ちて溺れたというのが妥当なところだろうか。しかし記憶がない。
「お前は一度、死んだんだよ」
魔女が唐突に言った。
言葉の意味を理解するのに少し時間がかかった。
私が死んだ……? 何の冗談だろう。一度死んでから、また生き返ったとでもいうのだろうか。いくら魔法が万能とはいえ、死者の復活などは聞いたことがない。
私の反応を見た魔女が、目でミアのほうを示した。私は困惑したまま、ただその視線に従うと、ミアと再び目が合った。けれど彼女は笑みを浮かべるだけだった。埒が明かないのでもう一度魔女のほうを見やると、魔女は少し呆れたように、「ミア、何があったか話してやれ」と言った。
「うん。えっとね、川に行ったらエリスが死んでたから、治してもらおうと思って連れてきたの」
こともなげにミアはそう言った。死というものが、まるで日常的な出来事ででもあるかのような言い方だった。この子は、死というものを本当に認識しているのだろうか。
「……と、いうわけだ」
魔女がそう締めたが、それだけではほとんど何もわからなかった。
何なんだ、いったい。私が少し苛立ちを覚えはじめたとき、魔女が付けくわえる。
「まあ、詳しくは追い追い思い出すだろう。記憶はまたちょっとずつ戻ってくるだろうが、お前もどうせ自分で拾いにいかないといけないし、死んだ場所までちょっと行ってくるといい」
「拾いにいく?」
「そうだ。記憶ってのは、人の頭の中だけに存在しているものじゃない。記憶は人間からこぼれ落ちるんだ。そのこぼれ落ちた記憶は、残り香のようにしばらくはその場に留まる。だから、それがまだ残ってるうちにその場所に行けば、記憶は自然に戻ってくる。こぼれ落ちた記憶は、その落とし主のところにまた引き寄せられるからな」
なんとか体を動かせるようになると、ミアが私の死体を見つけたという場所へ向かうことにした。
魔女の家の扉を出た途端、何か嫌な感じがした。そしてそれは、実際はもっと前から、そう、目が覚めたそのときから、既にあったような気がした。後ろめたいような、思い出したくないような感覚だった。何か重いものが頭の後ろの辺りから背中を滑り落ち、胃の辺りにわだかまるのを感じた。
私が動き出すのを躊躇っていると、ミアが声をかけてくる。
「どうしたの? 行こう」
「あ、うん……」
返事をしたとき、まだ名前だけしか思い出していなかった、このミアという少女についての記憶が戻ってきた。私と彼女は幼馴染みであること。けれど歳は二つ離れていて、彼女が一二歳で私は一四歳であること。明るく無邪気で、年齢の割に子どもっぽいこと。それに。
私たちは歩きだした。しかし私の歩みは重かった。思い出したくないことしかないような気がした。そしてそれに関係して、自分が死んだ理由についても、ある程度わかってしまうように思えた。でも私には、ただミアの後ろに従ってついていく他には、どうしようもなかった。
「何か思い出してきた?」
私はあまり話をする気分ではなかったが、そんなことには気がつかない様子で、ミアは話しかけてきた。
「ああ、ちょっとずつね……」
「早くいろいろ思い出せるといいね」
「うん……」
ふと、私たちの目線の高さがあまり変わらないことに気づいた。二歳も離れているのに、私のほうが少し背が高いだけだった。
「ミアって、けっこう背高いんだね」
「そうかな? エリスがちっちゃいんじゃない?」
「そうかな」
そうなのかもしれない。さっき魔女に体を触られたときに見た自分の体は、そういえば細く見えた。それに対して、ミアは大人っぽく見える。薄い金色でゆるく波打った長い髪に、整った顔立ちをし、女らしい体つきをしていた。幼い言動と大人びた容姿という不釣り合いな様は、私の内に何やら言い難い、恥と焦燥が混ざったような気持ちを呼び起こし、またもや後ろめたい気分になった。
しばらく歩いていると、いくつか疑問が湧いてきた。既にけっこうな距離を歩いているが、この長い道のりを、ミアはたった一人で私を運んだのだろうか。その間に誰かに見られなかっただろうか。私が死んだということを知っているのは、ミアと魔女だけなのか。私が死んでからどれだけの時間が経っているのか。そもそも、私が一度死に、また蘇ったなどというのは本当なのだろうか。
しかし、最後の疑問については、認めたくはないが、どうやら本当なのではないかという気がしていた。こうして歩きながら考えている間にも、少しずつ記憶と感情が私の元に帰ってきていて、魔女とミアの言っていることが嘘ではないということを、それらが保証しようとしている。
薄暗い森を抜け、川に橋が架かり、その傍に巨大な岩がある場所まで来ると、私の嫌な予感は確信へと変わった。
私は自殺を図ったのだ。
橋や大岩からではなく、それよりももっと高い断崖からの飛び降りだった。崖の上の端に立ったときのことが、つい先程のことのように感じられる。それはそうだ。何十分か何時間かは知らないが、実際についさっきと言えるほどの近い過去のことなのだ。縦も横も大人の背丈の二倍はあるあの大岩が小さく見え、もはや現実感も感じられないような高所だった。この崖がもう少し低くて、下にあるものがもっと細かくはっきりと見えたりしたら、長く躊躇ったりしたかもしれないな、とそのときの私は思った。崖下のものがそこからよく見えたりすれば、その分、水に落下したときの苦痛や死んだ後のことを詳しく思い浮かべてしまっただろうから。とにかく早く終わろう、といかにも何気ないふうに私はそこから跳んだ。長いような短いような、よくわからない時間の後、私は水面に叩きつけられた。瞬間的な衝撃が全身に走り、ががっ、という、こもったような音が頭の中に響いた。それで終わりだった。落ちた衝撃で気を失い、そのまま溺死したのだろう。
死んでしまえば、何かを思い返すということなど、もうあり得ないはずだったのに、こうして今、私は自分が死んだときのことを回想している。そう、あり得ないことなのだ、本来なら。死んだ人間が生き返るなどということは。
私はせっかく成功した死を無効にされたことに怒りを覚えた。しかしそれよりも、絶望に似た恐怖が大きかった。絶対的だと思っていた死というものが、そうではなかった。そうではなくなった。嫌なことも不安なことも、理解できないことも、ミアへの想いさえも、あらゆるものがその前では等しく無意味と化す、死というものの絶対性が否定されたことの恐怖。何ものにも決して侵されない不可逆の逃げ場が、もう失われてしまったのだ。この世界を成立させている根本が揺らぐようだった。自分の立っている地面が、急に不安定で頼りないもののように思えはじめた。
足元がふらついて倒れそうになった。けれど、
「大丈夫?」
ミアが心配そうな表情をして、私の体を支えていた。
ミア。私の死の原因の一つであり、私を生き返らせるよう魔女に頼んだ張本人。その顔を目にした瞬間、どういうわけか涙が込みあげてきた。
「エリス? どうしたの?」
ミアが訊ねてきたが、自分でもわからなかった。直前まで彼女には怒りを感じていたはずなのに、今では愛おしく思う。
「ミア……」
私は彼女を強く抱きしめた。涙を流しながら何度もその名前を呼んだ。
「エリス、どうしちゃったの? なんで泣いてるの?」
今度はミアが戸惑う番だった。
生前、私はミアのことが好きだった。愛していた。その感情が、今になって蘇ってきたのだった。
私が落ち着くまでの間、二人で大岩のすぐそばに腰かけていた。この巨大な岩にもいろいろな思い出があった。夏場には、その上から川に向かって飛び込むのが、村の子どもたちの習わしのようなものだった。本体と比べると小さいが、それでもかなり大きく平べったい岩が、もたれるように立っていて、その二つの岩の間にできた空間で遊んだり、雨宿りすることもできた。人には言えないこともあった。
そんなことを考えていると、ミアが声をかけてくる。
「これからどうしよっか」
その言葉を聞いて、私は少し呆然となった。そうだ、私はこれからどうすればいいのだろう。私には「これから」なんていうものはないはずだった。それをすべて絶つための自殺だったのだから。
思考が止まる。これから、これから? 意味を伴わないまま、頭の中で言葉だけがただ繰り返される。
……いや、やっぱり私にはここから先なんてものはない。ただ、あと少しだけ時間がいる。それまでの間、とりあえずどうするか、だ。
「とりあえず、私が死んでたっていう、その現場でも見てみようかな……」
私が水に浸かっていたのは、橋や大岩から少し下ったところだった。流れが淀んで砂が溜まっていた。たしかに、そこで誰かが何かをやったらしい跡があった。ミアが私を岸に上げたときのものだろう。私は自分がそこでうつ伏せになって死んでいる様子を思いうかべてみた。馬鹿馬鹿しいというか、みっともないように思うとともに、奇妙な感じもした。やはり自分が一度死んで生き返ったなどというのは、嘘のように思えた。ミアと魔女が一緒になって私を騙しているのではないかと思った。けれど、ミアがそんなにうまく嘘をつけるようにも思えない。それに、そんなことをして、いったい何になるのかもわからない。ミアを信じよう。私にはミアしかいないのだ。これまでも、これからも。
気がつくと、陽が傾きはじめていた。まだ沈むには時間があるが、そろそろ帰ったほうが良さそうだ。これまでの習慣でそう思ったが、あの家のことを思い出し、自分がまたあの場所に戻ることを考えると、途端に息苦しくなり、胸が押しつぶされるような感覚に襲われた。私はあそこから逃れるためにこそ死んだのだ。正確には、あの場所に代表される、村と村の人間たちから逃げるために。
私が自殺などということをしたのは、将来を悲観したからだった。私はこの時代、この場所に適していない、向いていない。
私は村の人間たち、大人たちが理解できず、恐ろしく思っていた。大人たちは二つの異なる顔を持っていて、その二つが入れ替わる瞬間がわからず、またそのどちらが本当の顔なのかもわからなかった。優しい言葉を言ったかと思うと、次の瞬間にはその同じ口から他人を呪う言葉を吐き、朗らかに笑っていたかと思うと、次には張り手が飛ぶ。私以外の村人たちや子どもたちにとっては、それは当たり前であるらしく、疑問に思う様子はなかった。
私だけがおかしいのだ。この村にいる限り、私に心の休まる暇はなかった。村の外に出るにしても、行く当てなどもなく、あったとしてもそこにうまく落ち着ける保証もない。どうしようもなかった。
この村にも、しかし救いはあった。それがミアだった。この村において、ミアだけが違っていた。裏表や二面性といったものがなく、常に変わらず、明るく笑い、優しかった。私にとってそれは頼みであり、唯一の光だった。私は彼女の純粋さ、屈託のなさ、天真爛漫な姿に憧れ、羨ましく思い、ときに嫉妬すらした。そうした感情は、いつの間にか好意へと変わり、そして私は彼女を愛するようになった。
私とミアの二人で野良猫を可愛がっていたことがある。まだ小さい仔猫だった。私たちはその猫にヌグアという名前を付けた。私がたまたま本で知った、デーリア語で猫の鳴き声を表す言葉だったが、どうやったら猫の声が「ヌグア」に聞こえるのかわからず、二人で声に出してみては笑った。
餌をやったり一緒に遊んだりしていたが、他の子どもたちに見つかっていじめられないように、森の奥でそうしようと言い出したのはミアだった。彼女がそんなことを言うのは珍しかった。ミアは基本的に物事をあまり深く考えないので、猫も他の子たちに見せようとするだろうと思った。何か思うところがあったのかもしれない。後に、ヌグアが村の子どもに見つかり、結局おもちゃのように扱われることになった。それを目にしたミアは猛烈に怒り、ヌグアを酷く扱った同年代の男の子に殴りかかった。めちゃくちゃに殴られた相手は泣き出し、彼女はさらに逃げた他の二人に向かって石を投げつけた。大きめの石が当たった一人は頭から血を流した。
ミアは顔を真っ赤にして震えながら、目に涙を浮かべており、とても声をかけられる雰囲気ではなかった。しかし私は、涙が彼女の睫毛に丸い水滴となって引っかかっているのを目にしたとき、それを綺麗だと思い、同時に胸が苦しくなるのを感じた。その苦しみは、愛情の発露であり、彼女の辛そうな顔を見たくないという気持ちからくるものであるようにも思えた。
助け出したヌグアは、その後、少ししてどこかへ行ってしまった。もしかすると、ミアに泣かされた子どもたちが、報復のためにどうにかしてしまったのかもしれないし、何かの動物に襲われたのかもしれないし、親の元へ帰ったのかもしれないし、本当のところはわからない。ミアは落ち込んでいたが、私は、ともかくヌグアが傷ついた姿や死体となって彼女の前に現れなくて良かったと思った。あの涙は綺麗だったが、辛い表情は見たくなかった。
いなくなってしまった後になって、ヌグアが子どもにいじめられて怪我をしたとき、魔女のところに連れていけば良かったと思った。それを話すと、もしまた同じようなことがあったら、そのときはきっと魔女のところに連れていこう、とミアは言った。
そうだった。死んだ私をミアが魔女のところに連れていったのは、おそらくこれがきっかけだ。あのとき、ヌグアにしてやれなかったことを私にしたのだ。せっかく死ねたのに、余計なことをしてくれたと思っていたが、やはりミアはミアだった。彼女らしいと思い、また抱きしめたいような気持ちになった。
しかし、ミアに対する私のこうした想いも、結局は自殺の原因の一つとなった。この保守的な村で、女が女を好きになるなどということが知られれば、どんな扱いを受けるかわかったものではない。昔よりも寛容になったらしいとはいえ、いまだに異物に対しては排他的だ。本人は意に介さなかったが、基本的に茶や黒といった濃い髪色が多いこの地域では、ミアもその容姿で目立ち、それが理由で攻撃されることもあった。
私は必ずしもここの人間たちを恨んでいるというわけではない。優しいときの両親は好きだったし、他の人たちも普通にしていれば問題なかった。これまでに具体的に何かされたわけでもないし、村の人々が保守的だったり、私に理解できない言動を取ったりするのも、すべてを誰かのせいにすることはできない。私は適合できなかったということだ。もちろん、全部を諦めるのも良くないし、村にも悪はある。ただ、私は弱く、ここにずっと留まることも、ここを去ることもできなかったのだ。
家に戻る気にはまだなれなかった。いろいろなことを思い、複雑な気分でいると、ミアが声を発する。
「暗くなってきたね」
「うん」
「そろそろ帰らないといけないかなあ」
「うん……」
私が小さな声で返事をすると、ミアは唸っているような声を出した。何かを考えて迷っているときのミアだ。
「うーん……でも、わたしはもうちょっとエリスと一緒にいたいかな。エリスは?」
「私は……」
私はどうしたいのだろう。自分がどうしたいのかもわからない。……違う、それは嘘だ。私だってミアと一緒にいたいに決まっている。それは当たり前だ。けれど、さっき泣いて縋ったことが恥ずかしく、ばつの悪い思いがした。ミアはそんなことは気にしないことはわかっている。気にしているのは私だけだ。
「一回キャスのとこに戻ろっか」
私が黙りこんでいるとミアが言った。
「キャス? ……ああ、魔女のことか。キャスっていうんだ、あの魔女」
「そう。戻る?」
まだ家に帰らないとなれば、あそこに戻るしかなかった。
「そうしようか」
私が言うと、なぜかミアは笑った。思えば、今日はずっとミアに引っ張られている気がする。生き返ったことに戸惑っている私を、気遣ってでもいるのだろうか。だとしたら、生意気なことだ。
私も少し笑った。すると、さらにミアは嬉しそうな顔をした。
「何、にやにやして」
「だってエリス、今日ずっと元気なくて、さっきは急に泣き出したりして、心配だったから、今良くなったと思って」
生意気なことだ。
私たちは来た道を戻り始めた。
ミアが私のことを考えてくれている一方で、思えば、私は自分のことしか考えていなかった。ミアの気持ちというものを、今まであまり考えてこなかったことに気づいた。私がミアを好きなように、ミアも私を好きでいてくれるだろうか。好きでいてくれたとしても、私と同じように、ということは期待できないだろう。おそらく彼女には、私の感情は理解できない。しかし、そんなことは別に期待できなくてもいいと思った。私が好きなのは、そういうミアなのだから。
しかし、いちおう訊くだけ訊いてみることにした。
「ミアはさ……私のこと、どう思う?」
「どうって?」
「だから、たとえば、好きとか、嫌いとか」
なんとなく、自分が卑怯なように思えた。
「好きだよ。そうじゃなかったら、生き返らせたりしないよ」
予想通りの答えだった。好きじゃなかったら生き返らせたりはしない。それはそうだ。
「私も、好きだよ」
私なりの「好き」という感情を意識しながら、そう口にした。率直に自分の気持ちを言ったのは、たぶん初めてだった。ミアが笑い、私も笑みを浮かべた。よく笑う顔だと思った。
ふと気になることがあった。
「好きじゃなかったら生き返らせたりしない、って言ったけど、もし、ヌグアをいじめた子たちの誰かが死んだりしたら、生き返らせないの?」
「生き返らせないよ。だって嫌いだし」
それはそうだ。それはそうなのだけれど。
好きだから生き返らせる。嫌いだから生き返らせない。
それはあまりに単純で、あまりに残酷な二分法だ。
その幼さゆえに、躊躇なく平然と答えるミアを、少し怖いと思った。その直情性は、私が好きになったミアの性質と表裏一体のものなのだ。私は漠然とした不安を覚えた。
「……そうだよね」
「帰ってきたな、お二人さん」
魔女の家に戻ると、キャスが出迎えた。
「どうだ、思い出したか、エリス嬢よ」
私は不機嫌な態度で、不満そうにうなずいた。不本意とはいえ、生き返らせてもらっておきながら、どうもこの魔女はいけ好かない感じがした。気安く名前を呼ばれるのも少し癪に障った。
「死体発見現場には行ってきたか」
私はさっきと同じように首を縦に動かした。言い回しもいちいち気に食わない。わざとなのかそれともそういう質なのか、なんとなく前者という気がするが、この女には人をいらつかせる才能があるらしい。
「そうか。まあそれはいいとして、ミア、あのことはもう言ったのか?」
あのこと? また勿体ぶった言い方をすると思った。そして同時に、何か嫌な予感がした。
「あのことって何?」
相手に遠回しに悟らせるような言い方は、ミアには通用しない。どこか人を食ったような印象を受ける魔女も、ミアには参るらしい。面倒そうな顔をして言う。
「『代償』のことだよ」
代償。その言葉の響きに、私はどきりとした。心の底がざわざわと波立ちはじめるのを感じ、そしてそれは少しずつ大きくなっていった。
「だいしょう、って何?」
ミアが訊き返すと、呆れたのか、キャスは息を漏らして笑い、
「お前と俺が、どうやってエリスを復活させたか、って話だよ」
言い含めるようにゆっくりと言った。
私を生き返らせた方法。私は自分が死から蘇ったことに戸惑い、記憶が戻ってからは自殺とミアへの想いについて考えるばかりで、どうやって自分が生き返ったかなどということには関心がいかなかった。
「あ、そうだ、まだ言ってなかった。あのね、わたしの命の半分を、エリスにあげたの」
ミアはさらりと言ってのけた。
「え」
少し遅れて言葉の意味を理解し、私は殴られたような衝撃を受けた。
そんな。馬鹿な……。ミアが私に命を……? 馬鹿な。馬鹿な。嘘だ。なんで。どうして?
取り返しのつかないことをしてしまったと思った。
「人を生き返らせるなんて大それたことをするのに、何の代償も要らないとでも思っていたのか?」
驚愕した私の表情を見て、魔女が言った。
私はそんなことは考えもしなかったのだ。……いや、本当は察していたんじゃないのか? この場所を出たときに感じたあの嫌な感覚の中には、その可能性に既に思い至っていたからこそ感じたものも含まれていたんじゃないのか?
しかし、そんなことはもう今更どうでもいい話だった。
「なんで……そんな……私に、命の半分も……」
私はミアに訊ねた。
「だって、好きだから。さっき言ったでしょ」
そういうことじゃない。
「違う、そうじゃなくて……」
何と説明すればいいのかわからなかった。「私にそんな価値はないのに」? ……違う。「どうしてもっとちゃんと考えないのか」? 違う。「なぜ私なんかを好きでいてくれるのか」? 違う。しいていえばそのすべてであって、どれでもない。私はもはやミアを理解できなかった。
馬鹿げている。やっぱりこの子は馬鹿だ。馬鹿だ。
「命の半分というのは、正確には残りの寿命の半分だ。この村の人間はだいたい五十から六十ぐらいまで生きるから、ミアの寿命が平均的だと仮定すると、お前らの命はあと二十から二十五年ってところだな。もちろん、もっと長い可能性も短い可能性もあるがな」
魔女が私たちの残りの命についての計算をした。けれど、それももうどうでもいいことのように思えた。
本当は、私はもう一度死に直すつもりでいた。ミアを先に殺したうえで。私の自殺がなかったことになったのは、それをミアがなかったことにしたからだ。ミアが死の絶対性を奪ったからだ。だから、ミアを殺すことでそれを取り戻し、もう一度、死をやり直すつもりだった。私を生き返らせようなどと考える人間がいなければ、私はちゃんと死ねる。次は二人で一緒に死ぬのだ。
しかし、今度こそ私は死ねなくなったと思った。死が死んでしまった。死が再び生き返って私を迎えてくれるのは、ずっと先になってしまった。実行されたはずの死がなかったことになり、それどころかさらに、再びの実行が大幅な延期に見舞われる。これは何かの罰なのだろうか。私は途方もなく、虚しい気分になった。
私たちは家路につくことにした。空はまだ明るさを残していたが、地上はかなり暗くなっていた。
ミアに対してどのような気持ちを抱けばいいのか、私はわからなくなっていた。その困惑に加え、家に帰ることを思うと、気が重かった。二度と戻るはずのなかった場所。私は最後にそこを出るとき、大した感慨は起きなかったが、少し清々とした気分ではあった。もう何も面倒なことを考えたり悩んだりしなくても良くなると思うと、気分が軽くなった。
大きく溜め息をついた後、大きく息を吸い込んで気を落ち着かせると、家の扉を開けた。
「遅かったな。もう少し早く帰ってこいよ」
居間で何かを飲んでいた父が顔を上げて言った。私はその声色と表情から、父が怒っていないかどうか確かめようとした。少なくとも、すぐにそうとわかるほどに怒っていないことはわかり、少し安堵した。母は夕食の準備をしていて、私には気づいていないようだった。返事をして寝室に向かおうとすると、父に呼び止められ、びくりとした。
「お前、今日どこ行ってたんだ」
私は瞬間的に頭を働かせた。まさか私が死んだということが知られていたのかと思ったが、もしそうなら両親が今こんなふうにしているはずはないと思った。とにかく平静を装った。
「ミアと、大岩の辺りで遊んでた」
過敏になっているせいか、妙な間が空いたような気がした。
「そうか。隣のロージさんが、お前たちが森のほうから歩いてくるのを見たと言ってたんだが」
まずいと思い、言い訳を素早く考えだそうとしていると、私が話す番というわけではなかったらしく、父は続けた。
「あっちは魔女の家があるからな。あいつなんかとは関わるなよ。得体が知れないし、女のくせに男みたいな恰好をして男みたいに振る舞う変人で、自分と同じ女が好きだとかいう噂もある。気色が悪いし、お前も危ないかもしれない」
「……うん」
私は小さな声で返事をして、寝室に向かった。
その後、夕食を食べ、また自分の部屋に戻り、ベッドに入った。一度消え、復活し、再び消え、また復活した、私の「これから」について、横になりながら考えた。眠気はまったく訪れることがなく、結局、朝まで一睡もしなかった。
朝食をとると、私はまた外に出た。ミアを呼び出してシレの泉に向かった。シレはグレンダ地方の綺麗な水にしか住まない小さな魚で、この村にあるシレの泉も湧き水が絶えることなく、とても澄んでいた。
「やっぱりきれいだな」
桟橋の上で、しゃがみながら水の中を覗き込んだミアが言った。実際、ここの水は非常に透明度が高く、底までくっきりと見え、シレが群れになって泳いでいるのがよく見えた。しゃがんだ状態のまま、振り返ってミアが訊く。
「それで、どうしたの?」
「ミア、立って」
名前を呼んで立ち上がらせた。
「なに?」
私はミアと向かい合い、両肩を掴んだ。それから、ゆっくりとキスをした。
「なに、これ」
「キスだよ。好きな人同士がするの」
「きす?」
そんなことも知らない。この子は何も知らない。この子はやっぱり馬鹿だ。
それでいい。それがいい。それがミアで、それが好きだ。
「もう一回」
そう言って私は、何も知らないミアに、またキスをした。
唇を離すと、間近でミアの目を見た。純粋で透き通っていて、ちょうどこの泉の水のようだと思った。その目をしっかりと見ながら、私は言った。
「好きだよ、ミア。それと、ごめんね、ミア」
その瞳に疑問の色が浮かぶ前に、私はミアの肩を掴んだ腕に力を込め、泉のほうへ思い切り倒した。大きな音としぶきを上げながら、ミアは水に落ちた。ミアは必死にもがいた。だが、ミアは泳げなかった。私がいくら練習に付き合っても、まったく泳げるようにならなかった。私は少しの間、ミアが溺れている様子を見ていたが、そのうちに自分で水の中へ入り、ミアの頭を押さえた。苦しそうな姿は見ていたくなかったし、大きな水音を聞きつけて、誰かが来るかもしれなかった。泉はそこまで深くはなかったが、子どもが底に足をついて息ができるほど浅くもなかった。私が頭を押さえつけてからそれほど時間が経たない間に、ミアは力尽きた。私が水に入った時点で、既に水を飲んだりして消耗していたのだろう。水中には、ミアがもがいた影響で舞い上がった水底の白い泥が、靄のように漂っていた。
息を吹き返さないよう、しばらく待ってから、ミアの体を引き上げるために水の中に潜った。透明な水に浮かぶミアの姿は、幻想的で美しかった。差し込む陽の光が、波打つ水面で屈折し、その顔や体の表面を流れていた。髪や服がゆっくりと揺れ、非現実的で神秘的な印象をもたらした。何匹もの白いシレが周りを泳ぎ回っていた。
ふと、小さな気泡がミアの睫毛に引っかかっているのに気がつき、はっとした。それは、ヌグアがいじめられたあのときに、彼女が流した涙とよく似ていた。そう思ったとき、今度は私自身の目に涙が込みあげてくるのを感じた。それは悲しみなのか何なのか、自分でもよくわからなかった。ただ泣きたい気持ちだった。ミアを陸に引き上げた後、私は泣いた。どうしてこうなってしまったのだろう、という、意味がなく、虚しいと自分でもわかっている疑問が浮かんだ。
ミアが、その命の半分を分け与えることで、私を生き返らせたと聞いたとき、私はもう死ねなくなったと思った。ミアの命と気持ちを、粗末になどできないと思った。しかし私は、一日もしないうちにその考えを変えた。そんなものは重すぎて、私には受け止めきれない。それに、やはりここで生きていくのは私には無理だ。昨日、父が話した言葉。変人。気色が悪い。それは魔女について言った言葉だったが、私は自分に言われたような気がしたのだ。それを聞いた瞬間、ふっ、と何かが外れるような感じがした。ああ、もういいやと思った。私はもう、何もかもが面倒になってしまったのだ。私の弱さが、あらゆるものを凌駕してしまった。ミアへの持て余した気持ちも、以前と同じように、好きであるということに決めつけた。そのほうが楽で簡単だったから。死んでしまえば、私やミアがしてきたことも、想いも、どのみちすべてが無に帰すのだ。
もう後戻りはできなかった。そうしようと思えば、ミアを魔女のところに連れていき、蘇らせることもできるのかもしれない。けれど、弱すぎる私が、今更そんな面倒なことをするはずがなかった。これで私が死んで、本当に終わりだ。
だが、その前にやることがあった。
以前、大岩の近くで水遊びをしていたときのことだ。泳がないミアは、服を着たままだった。しかし、薄い生地でできたその服は、水に濡れるとよく透けた。生地を透して見えるミアの白い肌は、太陽の光を反射する水面と同じように眩しく、私を惑わせ、くらくらとさせた。その、あまりに無邪気で無防備な姿に、私は、危ないと思った。誰かを惑わせ、狂わせ、欲しがらせるのではないか。私はその危うさを彼女自身に伝えるために、その肌を、その体を、破り、壊したいような気分に駆られた。体の中心を突き上げる衝動を、そのときの私はなんとか抑えた。 ミアが帰った後、二つの岩の間で、私はその白い肌を思い浮かべながら、一人で、した。危ないよ、ミア。危ない。危ない。あの場所には、私が染みついている。
そのときのことを思い出しながら、ミアの服を脱がせた。眩しい白が露わになる。一二歳にして、既に私と同じくらいの大きさがある胸を見た。これからもっと成長したであろう、まだふくらみかけの胸を揉みしだき、顔を埋め、頬ずりをした。将来の可能性の象徴であるかのような、蕾に似た先端を口に含み、舌先で触れていると、唾液が溢れてきた。彼女の本質のようなものを吸い取るように、吸った。そうして、ミアの全身を貪った。ところどころ噛んでみたりした。この体と一つになりたいというか、入り込んでしまいたいような気持ちだった。自分の体を強く押し当てれば、私と彼女の皮膚が溶け合って、一つにならないだろうかと、そうなればいいのにと思った。
私はあなたと、本当はこういうことがしたかったんだよ。
もし二人とも死なずに、いつか恋人のような関係になることができたとして、どれくらい時間が経てば、ミアはこうしたことをさせてくれただろうか。ミアがこういったことを知るということ自体、私にはうまく想像できなかった。だから私は、最後のこのときに、あくまで一方的にするしかなかった。思えば、私たちはずっとすれ違って、想いも交わることがなく、いつも一方的だったのかもしれない。この終わりは、もしかしたら必然だったのかもしれない。
ミアの周囲を這いまわっているうちに、私はヌグアのことを思い出した。そういえばヌグアも、こんなふうに私やミアの周りを回ったり、頭突きをしてきたものだった。試しに、「ヌグア」と二、三回声に出してみた。やっぱり猫の鳴き声のようには思えなかった。考えると、「ミア」という名前のほうが、鳴き声に近いような気がした。また試しに、「ミア」と声に出して言ってみた。やはりそうだ。こちらのほうが猫に似ている。私はその言葉を繰り返し発した。そうしながら、ヌグアの真似をした。猫のような体勢でミアの周りをうろうろとし、丸めた手で体をつついてみたり、頭突きをしてみたり、顔を擦りつけてみたりした。そのうちに、ミアの名前を呼んでいるのか、猫の鳴き真似をしているのか、だんだんとわからなくなってきた。そうして、死体の周りを、私はいつまでもぐるぐると回りつづけた。