第二章15『戦いの余興』
アルテミシアの瞳に映るのは、老人と言うには少しばかり遠く、それでいて若者と言うには少し老いている"何か"
「君のような奴に会った事は一度もないんだけどね?」
「まあ私は特殊でしてね。影が薄すぎて、誰にも覚えてもらえないんですよ」
頭を掻き、ニヤリと笑ったその男には、正気は感じられない。今この場を楽しんでいるように思えた。
「……君って生きてる? それとも死んでる? 感じられる物が死者のそれじゃないか」
「死んでいたらこの地に立つことは不可能ですよ。あなたぐらいにならなきゃね」
男は確実に目の前にいる、しかし脳は目の前に誰もいないと判断している。まるで霊と会話している気分だ。
それだけじゃない。
この男は誰かに似ている。覚えるだけでも反吐が出る、嫌いな奴にこいつはよく似ている。
「……私の記憶が正しければ、次起こる事は彼を大きく変えるんじゃないかな?」
「どういう事だい?」
「そこまで答えてやる義理は無いね。一つだけ言っておくと、助けに行っても無駄だよ、この世界は直に終わる」
「待て!」
男はフェンリルの様に霧なって消えていった。
国王である男が大罪教と関係があると言うのなら大問題だが、今はそれどころじゃない。
さっき言っていた"彼を大きく変える"という言葉は木葉を指していたものだろう。
もしその言葉通りに事が進んだら、ここまでしてきた意味が無くなる。どうにか止める方法を考えなければならない。
そして"世界は直に終わる"この言葉にも引っかかる点は多数ある。
傲慢が世界を壊すのか、それとも血の蛇を持っている者が魔神獣を召喚するのか、全く検討がつかない。
「一体どうすれば……」
二つのうち一番可能性があるのは、傲慢が世界を壊すという事、奴ならしかねないし、できる力がある。
もしそうだとしたのなら、今のレイには抗う術が全く残されていない。
魔力は赤眼と剣聖戦で使い切ってしまった。
素手で戦ったとしても、フェンリルには黒霧がある。あれを突破出来ない限り、触れる事すら出来ない。
「……僕はもう何も出来ないみたいだ。あとは任せるよ"メア"」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「……ハーフの娘、お前はいつ契約したんですの?」
「九年前です」
その瞬間、カーミラの顔色が変わる。
まるで好敵手を見るような獣の目、間違いない、カーミラはエリスに殺意を覚えている。
「わたくしの故郷、ベルリアンの惨劇は知っていますわね?」
「……はい」
「急に現れた炎に街が一瞬で消え去った事件でしたわ。魔人の仕業だと言うことで話が終わりましたわ」
ただでさえ狭い部屋の中で冷たい空気がカーミラやエリスなどお構いなく、暴れている。
なんの前触れもなく現れた冷たい空気は、エリスの首筋に触り、状況の危険さを伝え、何事も無かったかのように部屋を去る。
「ハーフの娘は確か、炎の使い手でしたわね?」
「……そうです」
「九年前にハーフの娘は契約し、それに重ねるように炎が故郷を焼き払った。つまりどういう事か分かるかしら?」
メアが何かを察知して使い慣れたナイフを取り出し、構える。
それでもなお、カーミラは少しも動かず、微笑み続けている。
この状況で笑っていられるカーミラは異常とも言える。
「この時を待っていましたわ。ずっと探していましたのよ? 故郷に関してはもうどうでもいいですわ。問題なのは、お前が"強欲の司教"だという事ですわ!」
突然、強い風が吹き乱れる。
それと同時くらいだろうか、背中に刃物で切られたかのような、鋭い痛みが走り回る。
「え――」
呼吸が出来ない。喉が痛い。
首を触れようとする。それよりも先に状況を理解出来た。
手についた生暖かい液体、赤く光るその液体はどう考えても血液だ。
思考回路が今の自分を必死に否定する。決して血は出ていない、ただ赤い液体か何かをかけられただけだ。
脳がどう否定しようと現実は覆らない。
助けを求める為に立ち上がろうとする。しかし体にそれを行うだけの力は残っていなかったようだ。
もはや何も聞こえない、声も出ない。ただ罪深い自分の死を待つのみ。
意識がゆっくり閉じられていく感覚、悲しくも苦しくもない。自分が一番望んでいた死に方。
罪を被ってやっと九年、この九年間はずっと償う方法を探してきた。それでもずっと償えずにいた。
何か言い訳を探しては、守られてきた自分、誰にも褒められないのは容姿が悪いんだ。みんな悲しそうな顔をするのは、私がハーフエルフだから。
『そうやって君は何回言い訳した?』
最初から言う事を聞いていれば、あんな事も起こらなかったし、誰かを苦しめる事も無かった。
『大事な人を追うのはいいけど、置いてくのはダメだよ』
そんな人、どこを探して見つからない。これまでもこれからも。
『じゃあ逃げるの? そんなのが言い訳なの?』
そう、逃げるしかないもの。弱い人に戦う資格も生きる資格もない。
好奇心ごときに負けて、いろんな人を殺し、悪人に負けたのに、何をノコノコ生きてるんだろう。
いっそ、殺してもらった方が――
『じゃあ僕が変わってあげるよ。僕が君になるんだ。素敵だろ? それで君の大事な物を壊して、君の存在を完全に消し去るんだよ』
「や……めて……」
『大事な人はいないし、物もない。そうなんだろ? それに』
目の前に広がるのは、一度見た光景、たった一言で表せられるそれは"地獄"だ。
ここで自分を殺し、逃げて、逃げて、誰にも追われないように、ひっそり暮らしてた。そんな夢を見たかった――でも
『死人に夢を語る権利は無い』
「死人に夢を語る権利は無い」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「――きざま! 殺してやる!」
「ただの犬風情がわたくしに触れられると思ってるのかしら!」
カーミラが契約して手に入れた物は赤眼の魔女との対話権利だけじゃない。
カーミラの身を包むのは、目に見えるほど速く渦巻いている"風"、多分それを刃物のように尖らせ、武器として使っているのだろう。
魔法も遠距離武器も持っていないメアには相性の悪い敵だ。
「エリス様の同情を買い、利用していたのですね……」
「父親が死んだのは契約のせいですわ! 決して嘘をついてありませんの! それに同情を買ったつもりもありませんでしたわ! ハーフエルフに同情を買うなんて鳥肌が立ってしまいますもの!」
カーミラから放たれる風を華麗に避け、攻撃に入るが想像していた通り、カーミラに渦巻く風は、盾としての使い道もあるようだ。
一歩でも間違えれば、体を真っ二つにされてしまうが、油断をしなければどうということも無い。
相手は戦った事も無いような、非力な魔人、動きは単調だ。
「ちょこまかとしないで下さいまし!」
「貴様の言う事を聞く気はありません」
近寄れないわけでもないが、体力を消費しながらなのだ。このまま続けていたら、カーミラより先にメアがばててしまう。
それにアゼレアとの戦いで受けた傷もまだ完治仕切っていない。避けるたんびに傷口がよじれ、痛みがメアを襲う。
「流石にキツすぎますね……」
「あら? メイド長でもあろうあなたが弱音を吐くんですの?」
「これでも一応、ただのエルフですから」
「魔人相手にここまでさせるあなたが言える言葉じゃなくてよ!」
魔人相手に互角で戦えるのは、ノアニールではメアを含め、たったの四人しかいない。
アレスロイとアゼレア、そしてエリスだけだ。
「エリス様が危険だというのにまだ邪魔するんですね」
「大罪教の始末は市民にも義務化されていますわ! それに司教を守る行為は極刑ですわ!」
「ならお前を潰すだけです」
しかしカーミラに纏う風を気合でどうにか出来る訳でもない。風さえ消えてしまえば、メアの勝ちは確定事項なのだ。
歴戦をくぐり抜けて来たメアとベルリアンの惨劇を見たカーミラ、魔人の力を抜けば、圧倒的にメアの方が優勢なのだ。
カーミラは魔人の力を駆使する事でメアと互角に戦える力を得た。
いくら戦闘技術が高かろうが、圧倒的力の前にはそれは無意味。
「さすが、魔人ですね」
「あなたが魔人だったら勝ち目は無かったですわ! このまま続けてれば、わたくしに負けはありえませんわ!」
「メイド長もなめられたものです。仕事柄、仕方ありませんけどね」
カーミラの必死の攻撃もメアは華麗に避けてしまう。その代償はでかいようで、カーミラに攻撃出来ないまま時間だけが過ぎていく。
このままではエリスが死んでしまうかもしれない。あまり長い時間は戦えなさそうだ。
何度か攻撃はしてみたものの、風は壊れる気配どころか、ヒビが入った気配もない。
「ガラスが割れて粉々じゃないですか、掃除するのが大変そうです」
「そんな事を言ってられる余裕があなたにあるんですわね!」
「どうにか弱点を見つけなければいけませんね……」
「だからなめないで下さいまし!」
人間観察は職業柄得意だ。
エリスに使い始めはずっと顔色を伺っていた。
どんな味が好みなのか、好きな花や色は何か、何時頃に風呂に入り、何時頃に眠りに入るのか、観察に観察を重ね、やっとエリスの好みを全て知ることが出来た。
その時間は果てしなく長かった。途中からはコツを覚え、楽に感じていた。今となってはひと目でわかる。
相手が魔人の力を使うのならば、こっちはエリスで育てたこの"観察力"を使おうではないか。
よく考えてみれば、さっきからカーミラは少しも場所を移動していない。
カーミラの周りを囲むのは、鋭く尖ったガラスの破片、その破片は盾があるであろうカーミラの足元まで来ている。
不思議で仕方ない。
風で操れば、ガラスの破片は殺傷能力の高い武器になる。
それに風でメアを取り囲んでしまえば、楽に殺せたはずだ。
大体予想のついたメアはカーミラに探りを入れる。
「そう言えばカーミラ様は尖った物が嫌いでしたね」
「それがどうしたと言うんですの?」
「……その事実だけで充分です」
メアはゆっくり服を脱ぎ始める。
メイド服ではなく、私服で活動している。脱ぐのは簡単だ。
ゆっくり上着を脱ぎ、銀色に光る物を見せびらかし、メアは一言。
「"活け造りは好きですか"」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「ここで待ってても来ねぇんじゃねぇのかァ?」
「ここはハーフエルフの部屋だ。必ず来るはずだ」
「でもよォ、ここに来てもう十分は経ってんだぜ? ぜーてぇに来ねぇよ」
帰ってくることの無いエリスを待って数十分、帰ってきたら帰ってきたで困るのだが、エリス達は戦っていた。もし負けたのなら、と言う不安が木葉を包み込む。
心配で心臓が痛い、このまま帰ってこなかったら自分はどうすればいいんだ、と問いかける。
答えてくれるのは縮まっていく心臓だけ、生存確認くらいはしたい。
頭を抱える間、暴食は一切話しかけては来なかった。それが何より怖かった。
広い部屋で静寂が訪れる。
それは世界が終わったあの時と同じ、本当に何も無いかのような静けさ、世界でたった一人の人間になった気分だ。
孤独は恐ろしい、それが何度、木葉を殺してきたのかは数えられない。ただ痛いだけだ。
そんな事に時間を使っているのは無駄だ。決して自覚していないわけでは無い、自分でもわかっている。
覚悟を決めなければ、諦めなければ、この世界で人を救う事は出来ない。
静寂はどんどん深くなっていく。
それは自分が自分の世界に入っている事を表しているかのようだ。
――殺せ
そんな静寂を掻き消したのは、死んだ何個もの自分の感情。
終わる世界の中で何度、自分を捨てたかなんて分かるわけがない。そんな不特定多数の"自分"が殺せと命じてくる。
――殺せ
何回も、何回も、頭を痛みつけるほど何回も"それ"は殺せと言う。拒み続ければ、木葉が崩れていくのだろうか。
冷たい体の中で一部、とても暖かい場所がある。
それは胸、つまりは心臓を意味する。気づけば鼓動が尋常じゃ無いほど速くなっている。
悪い事をする時になる緊張感、のようなもの。
――殺せ
どれだけ拒もうと"それ"は意見を変える気は無いらしい。
――殺せ
異世界に来て、何度も死んで、もはや木葉は人間じゃないのかもしれない。せめて心の中だけでも人間でいたい。
司教とは言え、相手は人間だ。殺せば殺人、法で裁かれなくても、それは間違いなく罪なのだ。
――弱い
人間でいられるのなら弱くても構わない。エリスには人間である木葉を見ていて欲しい、それ以外は木葉じゃない。
――弱いな、水瀬木葉
憎たらしい声、それなのにその声は頭の中で反響を繰り返し、木葉の頭の中から離れてくれない。
――もっと楽な方法があるじゃないか
何度拒否したんだろうか、それでも行き着く選択肢はいつも"そっち側"、逃げられ無いのかもしれない。いや最初からその選択肢しか、一本道しか無かった。
――俺を肯定しろ、そして踏み入れろ
木葉の決心は豆腐のように柔らかく、ガラスのように割れやすかったのかもしれない。
後悔は一つだけ、
――ようこそ、水瀬木葉
こいつを直視してしまった事だけ。
「やっぱり行こうぜェ、ここには来ねぇだろうよ」
「――――」
暴食は立ち上がり、扉に近づく。出口は窓を除き、それ一つだけ。
木葉も立ち上がり、暴食に続く。
二人とも操り人形のように同じ動きをしている。しかし木葉はポケットに手を入れている。その理由は――
「なに……しやがる」
「……見てわからねぇのかよ、俺はお前にナイフを刺した。それだけだ」
キッチンから勝手に借りてきたナイフをポケットから取り出し、なんの躊躇も無しに暴食に刺す。
「これは人殺しじゃない、ただ刺しただけだからな」
「てめェ狂ってやがる……」
暴食の背中から流れる鮮血は異常に冷たい。人間じゃ無いからかもしれない。この異世界じゃ木葉の常識は通用しない。
「ふ……ざけ…………る………………」
暴食はゆっくり倒れていく。
急所は刺していない気がするが心臓は止まっているし、立ち上がる気配もない。
木葉が最初に行った行動は死体を部屋の奥に隠した事くらい、決してバレるのが怖いわけじゃない。ただ邪魔だと思っただけだ。
――問おう。お前はなんだ?
「……俺は"終わりの魔人"だ」
『ようこそ水瀬木葉、こっち側へ来た気分は?』
「……最悪だ」
エリス、メア、俺は騎士のくせに弱虫で無力だった。でも今はそんな事ない。
不老不死で戦える。俺はもう最強だ。今度からは救われる側じゃ無くて俺が――
『――救ってやる』
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「な、なんですの……それは」
「メイドたる者、主人の散歩で無装備なわけが無いでしょう?」
上着を脱いで現れたのは、銀色に光る大量のナイフ、決して料理用では無い。これは人斬り用だ。
「だ、大体! あなたの拳が通らないというのにナイフぐらいで何が出来ると言うんですの!」
「……ガラスの破片があるのになんで使わないんですか? それだけの力がありながら何故、私を仕留めないんですか?」
「それは……」
「その理由は一つだけ、あなたが契約で手に入れた力は代償がもちろん付いてきます。その代償は勘ではありますが」
明らかにカーミラの余裕が無くなっている。
カーミラが契約で手に入れた物は傲慢にも対抗できるであろう無敵の力、それなのに魔人でもないメアを仕留められずにいる。
それは代償として弱点か何かを増やされたからじゃないのだろうか、そして鋭く尖ったガラスを武器として使えないのは一体何故だろうか。
その風でメアを取り囲み、八つ裂きにする事も出来た、それが出来ないのは何故だろうか。
カーミラが恐れる物は尖った物、肉を裂くほど速い風があるのにガラスの破片はビクともしていない。
「あなたの嫌いな物は尖った物全般、そしてその風で触れられないものは刃物のような尖った物」
「それがなんだと言うんですのよ!」
「私より速い風が何故私を切れずにいたのか? それは一つ、私が刃物を体に巻いていたから風が触れられなかった」
「だからそれがな――」
「――つまり、その風の弱点は刃物ですね?」
カーミラは一歩だけ後ろに下がる。しかしカーミラの周りにはガラスの破片ばかり、一歩でも動けば踏んでしまう。
全身を囲い、風を盾にしているカーミラならそんなガラスの破片、飛ばす事はいつでも可能だった。しかしガラスの破片は少しも動かず、カーミラはそのまま踏んでしまう。
「痛!」
「確定ですね」
メアはそのまま切りにかかる。
ナイフの扱いは王国一とも言っていい。死なない程度でカーミラを切り刻むのならエリスを寝かせるより簡単だ。
メアが振ったナイフは風に守られること無くカーミラに到達する。
戦い始めてから一分ほど、やっとカーミラに傷を負わせられた。
「いたい! ぐぅぅ」
「弱点が分かればなんて事もありませんね」
「メイドごときが……! 魔人のわたくしを!」
「もう一度お聞きします。"活け造りはお好きですか"」
両手にナイフを持ち、構える。
その姿はまるで魔人、いやそれ以上かもしれない。
魔人であるカーミラと対等に戦い、大罪戦争で生き残り、国一番のメイド長を務めるメアの力はそこらの魔人とは比べ物にならないだろう。
一秒経つ事に傷はどんどん増えていく。もはや抗う術はない。
「これで終わりです」
「ふ……ざけ…………」
天に掲げたナイフを一気に振り下ろす。
ナイフはカーミラの肩から入り、心臓に当たるギリギリのところで止まる。
そのままカーミラは倒れてしまう。死んだわけではない、一応気絶させた。しかし外傷が酷い為、すぐに治療しなければ死んでしまうだろう。
「……そうだ! エリス様!」
エリスから流れる血はただでさえ赤かった潤担を真っ赤に染めている。
それだけの大量出血をしているのだとしたら最悪の場合、死んでいるかもしれない。しかし辛うじて脈はあった。
「これって……」
エリスには切り傷はおろか、擦り傷すらも無かった。