第二章10『秘密は二人の間だけ』
「……それでどうしたのかな? 僕もそろそろ寝たいんだけどね」
「悪いけど今日は寝れないぞ」
寝服に着替えたアイザックがいる部屋に勢いよく入ってきた木葉は腕を組み、ちょっと自慢げな表情でアイザックを見ている。
「人って寝ないと死ぬんだよ?」
「例えば大罪教を前にして寝る奴とかいるのか? つまりそういう事だ」
そう言い終わるとアイザックの眠気が消え去ったのか表情を険しくさせ、木葉が話し出すのを待っている。
「……憤怒の司教、テオ・アンガーの場所が分かったぜ」
「詳しく」
それからアイザックと木葉はテオの居場所に関する会話を続けた。
木葉の口からテオの名前が出るたびにアイザックの目が鋭くなる。木葉が嘘を言っている可能性を考えているのだろうか。
そんな張り詰めた空気の中、木葉は口を滑らせた。
「そうそう、俺が何度も死ん――」
その瞬間にアイザックの部屋にはただならない空気が満ちる。
木葉の視界に入る範囲で起こった変化はそれだけじゃない。
アイザックの動きが完全に止まった。それは決して集中している訳でもなく、死んでいる訳でもない。答えは一つ、この世界そのものの時間が止まった。
「なんだよこれ……」
完全に止まった世界の中で木葉は焦りを覚えた。
「おい! レイ、反応しろ!」
今は亡き者の名を呼ぶ、しかし返答は帰ってこない。
その確認をした所で木葉は気づいた。
完全に時間が止まったこの世界では、目の前にいる霧と木葉以外、今の状況を理解出来る奴はいない事に。
「な……んだよ、それ……」
孤独と言う恐怖で怯えていた木葉の震えは一瞬で止まった。
目の前の霧は今まででも感じた事の無い異様な空気を発している。それは傲慢の物でもレイの物でもない。
強いとか弱いとか、そんなんじゃない。今、目の前に現れた存在はただの恐怖の塊。
その霧が近づくと共に木葉の心臓はゆっくりすり減っていく。不思議と痛みはなかった、もうそれどころじゃないのかもしれない。
心臓の鼓動が速くなる。脳が今すぐ逃げろと叫んでいる。そんな事、あの黒い霧を見た瞬間に思った。しかし木葉は腰を抜かしてしまい動けない。
例え、歩いて逃げられたとしても逃げ道を確保していないし、止まった世界であの存在に追いかけ回されるのも嫌だ。
「何なんだよ……お前は!」
『大丈夫……約束は破っちゃったけど…………私だって力に……なれるはずだから……』
跡切れ跡切れで聞こえるその言葉は木葉の意識を掴んで離さない。
逃げ道は無いか、戦える武器は無いか、そんな事を考えている間に黒い霧は息がかかるほど近くまで来ていた。
『でも…………秘密は……守らなくちゃ…………悪い子には……罰をあげなきゃ』
それだけ近くにいても黒い霧はそれ以上、中の人物を見せてくれない。それどころか、霧が濃くなっていく。
「――!」
言葉には表せられない痛み。これまで味わってきた『巻き戻り』による代償よりも強い激痛。
その痛みは木葉の心臓を掴んでいる、物理的に。
霧の中から伸ばされた細い腕が木葉の体の中へ入っていった。そしてそのまま、その手は木葉の心臓を掴み、捻り潰そうとする。
少しでも痛みを和らげようと木葉は体を揺らそうとするが痛みで体が言う事を聞かない。
少しでも動こうとすれば、木葉の心臓を掴む手は強くなる。挙句の果てには痛みで体を震わせる事すらも禁止された。
何もする事が出来ないその時間、木葉はただひたすらに痛みに耐え抜くしかなかった。
少しでも集中を切らせば、全てを持ってかれてしまう。そんな事を胸に刻み、木葉は耐える。
「がああああぁぁぁッッ!」
やっと出た言葉もその一言だけ、誰かに助けを求める言葉も出せない。その事実が木葉の精神を正常に保つものを砕き壊した。
「あああああぁぁぁああ」
木葉の精神は完全に壊れた。修復には時間や手間がかかるだろう。
『壊れちゃった……でもあの方法なら…………やる気出るよね……』
心臓を掴んでいた手が離され、部屋の中から存在をゆっくり消した。しかし木葉の失った物は帰っては来なかった。
「――木葉しっかりするんだ!」
「ほぁ?」
ずっと上の空だった木葉の視界にまず映ったものはアイザックの青ざめた顔。
「エリス様が!」
「――どけ!」
体は『エリス』と言う言葉を聞いた瞬間に動き出した。
アイザックを押し倒し、木葉はエリスが泊まっているはずの部屋へ走る。
「おい! エリスは!」
「……亡くなられました…………死因は分かりません」
息を荒くさせ、部屋の扉を勢いよく開いて入ってきた木葉の質問に答えたのはメアだった。
「お……い、これってどうい……う事だ?」
木葉が向けた視線の先には、ベッドで横たわり、安らかに眠っているエリスの姿。
その姿は木葉が想像していたもの。
木葉はゆっくりエリスに近づき、膝を着く。
「……なんで俺じゃねぇんだよ…………殺すなら俺を殺せよ!!」
部屋に響き渡る大音量で木葉は叫ぶ。その場にいる全員が確かにその言葉を聞いた。
「ふざけんじゃねぇぞ! 絶対殺してやる! 出て来やがれ、殺してや――」
『ごちゃごちゃうるせぇ』
その言葉と同時に背中の一点に熱が集中する。確かに何かが刺さった妙な感覚がある。その感覚の姿は木葉の腹から貫通して出てくる。
出てきたのは血で汚れた人の腕だった。
「汚ねぇよ、クソッタレが」
『木葉! 今すぐそこから離れるんだ!』
腕はゆっくり抜かれ、木葉は後ろを振り向く。
霧で覆われている中の人間の顔は確認出来ない、しかしその存在が持つ恐怖は間違いなく、傲慢の物だった。
その存在に気づき、レイも木葉に逃げる命令を下す、しかし風穴を開けられた木葉には立てるだけの体力は無い。
「聞こえてんだよ。レイ、お前が俺の一足先に行こうってんなら俺はお前のその先を行く」
『木葉を殺してみろ……その時、君の命は亡きものになる』
「殺さねぇよ、こんなクズ。俺が今から殺すのはこの世界そのものだ」
その言葉一つで今がまずい状況だと言うことは容易に理解出来る。
メアに逃げろと言おうとするが体どころか声すらも出ない。
傲慢はゆっくり、両手を天に掲げ、一気に振り下ろす。
「よく目で焼き付けて世界を巻き戻せ、水瀬木葉」
これまででも最大威力。
地面に振り下ろされた傲慢の一撃はその周囲を粉々に破壊し、生き物達を死滅させていく。
一瞬の事だ。
誰一人死ぬ恐ろしさを味わう必要が無い。それどころか命を失った事さえ、わからないかもしれない程、一瞬。
その攻撃は木葉にまで届かない。結界の様なものに守られている。
その攻撃が完全に終わった時には何も無い世界が続いていた。
「どうだ? 魔神獣を殺して手に入れた力だ。こんな世界、一瞬で消せる」
全てを消し去った傲慢は自慢げな言葉を並べる。そこには人間の心というものは無い。
『どうしてそこまで……』
「答える義理はねぇな。あと一つだけ言っとくぞ、水瀬木葉」
絶望の霧がゆっくり近づいてくる。
体に出来た傷なんてもうどうでもよかった。それよりもこの男が――
「――殺してみろ。お前の全てを奪ったこの俺をなぁ!」
けたたましい笑い声をあげ、傲慢はその場を立ち去る。
その場に残された木葉の呼吸は荒い。頭はしっかり、傲慢の方を向いている。しかし木葉の瞳に映っているのは傲慢なんて物じゃない。
「――俺の目標はずっと前から決まってんだよ、お前を殺すなんてちっぽけな目標なんて追っかけてねぇんだよ。俺は俺を救う、この異世界でだ!」
その言葉を終えると同時に木葉は隠し持っていたナイフで首を掻き切った。
痛みは無い。
痛みを無視するほど憎んだ男のもがき苦しむ声を聞き、木葉は笑いあげる。
「――殺してやるさ! 何回でもな!」
その言葉がこの世界での最後の物となった。
それを最後まで聞いていた傲慢は鼻で笑う。
「――この世で一番ダメなのは苦しむ事、だったか?」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「――よぉ後輩」
「……うぁ! おっさんの顔がめっちゃ近くに!」
「誰がおっさんだ! まだ二十だ!」
目を開け、先に入ってきたのは顔に傷が入った見知らぬおっさん。
目が覚めると知らないおっさんが顔を近づけている、今でも寒気がする。
「てか誰だよおっさん!」
「だからおっさんじゃねぇってんだろ!」
さっきまでの惨状を忘れ、木葉は正気がある振りを続ける。
顔に傷があるおっさんは木葉の顔が引きつっている事に気づいたのか、深いため息をした。
「なんでため息すんだよ!」
「お前、あんまり自分を追い込むなよ。相談してみたらどうだ?」
「……んなもん出来るもんか」
自分が何度も死んでいる事を言えば、間違いなく黒い霧を纏った『何か』が来る。もしかしたら傲慢も一緒に来てしまうかもしれない。
黒い霧は木葉の心臓を掴み、痛みで黙らせる無情、傲慢は一瞬で全てを塵に変える残虐性、この二人がいたら木葉が何度死のうと意味が無いかもしれない。まず傲慢一人に勝てる気が全くしない。
「まあなんだ……別世界から来たもの同士仲良くしようぜ」
「……今なんて?」
男がさりげなく言い放った言葉は木葉の興味を強く引いた。
これだけびっくりした事は無い。
「異世界人として仲良くしようぜって事だよ。なんせ俺もお前と同じ状況だからな」
「喜ぶのは質問の後だな。同じ状況ってどういうことだ?」
「……お前の『巻き戻り』とちょっと似た能力を俺も持ってんだよ。まあ俺のは不老不死で時間が巻き戻せるだけだけど」
「……何それ? 俺のより強くね?」
おっさんは頭を抑え、木葉の言葉を受け流す。
「もうこの世界で五百年くらい生きてきた。その五百年で大罪教を潰そうと考えた事は何度もあった……」
おっさんはそう言うとどこか遠い目で木葉から視線を外した。何か悲しそうな顔をしているのがわかる。
おっさんは舌打ちをし、木葉の方に向き直る。
おっさんは体制を少し変えたあと木葉を睨みつけ、酷く残酷な一言を木葉に言い放つ。
「――もう大罪教を追うな」
その一言はやっとの事で懐に潜り込めた木葉にとっては死刑申告と言っても間違いじゃない。それだけ痛みにも耐え、一人でここまで来たのだ。
その言葉を聞いた瞬間に怒りが湧き上がり、木葉はおっさんに掴みかかる。しかしおっさんは顔色一つ変えずため息をしていた。
「俺もな傲慢と何度も戦った、でもなあれは次元が違う、俺達の様な人間が敵う奴じゃねぇよ」
「次元がなんだってんだよ! あんたは大切な人を殺されて許せるってそう言うのか!」
その言葉を言い終わった瞬間に木葉の胸ぐらはとんでもない握力で握られた。
その力になす術なく木葉は体を持ってかれてしまう。そのまま木葉の体は大きく回転する。
「――グガァ!」
「もう一度、もう一度同じ事を言ってみろ。ぶち殺してやる」
柔道の投げ技なのか分からず、木葉は地面に叩きつけられた。
地面と接触した時、一瞬の事で受け身が取れず、木葉は背中にダメージを受けることになってしまった。そのせいか、息もしづらい。
「死んだら……どうしてくれる!」
「――グゥ!」
木葉の怒りと悲しみが込められた拳がおっさんの腹に一撃決められた。
不意をつかれて事でおっさんはガード出来なかった。
そんな不意をついた木葉の一撃は大人相手に今の自分と同じくらい痛みを味わってはくれなかった。
「お前とは来た道が違うんだよ。俺が無策で傲慢に挑むと思うか? お花畑もいい加減にしろ」
「……あんまり余裕こいてると足元すくわれるぞジジイ……大体、傲慢が危険な存在なら殺すべきだろうが」
「人の話聞いてねぇのかよお前は? 傲慢は別次元の生き物だ。俺達がどれだけ命を捨てようと勝てねぇよ」
「てめぇはいったい俺に何の用があって俺に接触してきたんだよ!」
全てを諦め、無駄だと言い放つおっさんに対し、木葉は死にかけの獣の様に歯をガチガチ鳴らし、威嚇する。
「いいか? よく聞け、大罪教には関わるな。もし少しでも関わったらお前はこっちに戻ってこられなくなる」
その一言だけで部屋は肌寒い風に包まれる。
木葉にはこの男の考えが読めている。だから警戒は決して怠らない。
この男の話が本当なのならば、正常な人間じゃないのは確かなのだ。
何度も死ぬ思いをした人間の言葉を信用しても命令などを聞く気などは全く無い。木葉の様に狂気に飲まれた事があるはずだ。しかもその狂気がいつまで続くか、もしかしたら終わりがないのかもしれない。
木葉が別世界の人間なのも、特殊な能力を持っている事もこいつは知っている。大罪教の司教であるテオですら気づけないのに何故こんな男に分かるのか、そこさえ分かれば多少信用できと言ってもいい。
そんな分からないことばかりのこの男に大罪教と関わるな、そんな事を言われて木葉が大人しく、はいそうですね、なんて言えるはずがない。
「おっさん……あんたの言う言葉はなんにも信用出来ねぇよ」
「一人で戦い過ぎだ。そんなんじゃお前が闇堕ちするだけだ」
「――悪いが俺はもう帰るぜ」
殺気なんて物じゃ表せられない殺気が映った底が見えない瞳で木葉は男を睨みつける。
その事に男も驚いたのか、それ以上は何も言わない。
「――人に頼ってばかりじゃ最後には何も残らない」
それから一時間か、それ以上かもしれない。
それくらい時間が経った。気づけば木葉は馬車に乗っていた。
「――――」
アイザックに話し、おびき出すと言う無謀な挑戦もテオは全く興味を示さなかった。まるでお前はいつでも殺せるから泳がせているだけに過ぎない、と言いたいかのように。
木葉は小さめなため息を吐く。
これからどうするべきかなんて全く考えていない。
所詮はただの引きこもり高校生、策士だと言うわけじゃない。こんな事ならもっと勉強しておけば良かったなんて思うのも仕方ない。
「もうすぐだな……」
『俺はもう居ない。目的を果たせ』
その言葉で木葉は馬車を止めた。
「おいおい、嘘だろ。めんどくさい事させんなよ」
木葉は再度馬車を動かし、ノアニールまで向かった。
長時間ずっと座っていたせいで木葉の尻は感覚が無くなっている。また同じ時間を座って過ごすのは流石にキツすぎる。
「またノアニールまで戻らなきゃ行けねぇのかよ……」
「お? 人間発見! 噂すればなんとやらだな!」
独り言を言い終わってから正面を見る。そこに立っていたのは黒い衣服に身を包んだ身長の低い人間ともはっきりしない化け物。
「俺は大罪教の『暴食』だ。色々と宜しくな!」