第二章9『紅い瞳が映した見慣れた景色』
復讐は何も生まない。ただ失うだけの戦いに意味は無い。
私は何もしなければいい。そうすれば、みんな生きられる。余計な事さえしなければ、他のみんなが生きられる。
今はただ時間が過ぎ去る事をじっと待ち、何もしなければいい。自分が動く必要は無い。他の誰かがもっと上手くやってくれる。
もっと早くそれを知れば、今の状況は無かったはずなのに、自分の無知が自分を殺した――大事な居場所を壊した。
「思い出したんだな。それが始まりだ。そして業火の支配者であるお前がするべき事は一つだけだ……自分の欲に正直になれ」
「私は九年前のあの日に決めたの。絶対に復讐には溺れないって」
何も出来ない、無力な自分にも出来る最後の甘え。
誰かに頼り、救ってもらうしか出来ない。それが足でまといで、邪魔だという事は昔から知ってる。
アゼレアの手を払い、一つの道を歩み続けた。その中で自分の力を使ったのは一回だけ。ただそれも最悪の結果を招いた。
業火の支配者である自分に出来ることは人の時間を奪う事しか出来ない。
魔人の力では決して幸せになれない。
魔人は色々と得られる物は多いがそれ以上に失う物の方が多い。
「他人は信用出来ない。信用できるのは自分の力だけだ」
「そんな事ない……」
「それだけの力があるのにまだ人に頼るのか? それがどれだけの罪だと思ってる」
決して耳は傾けない。
こんな自分でも良いって言ってくれた人がいる。
『エリス様は今を生きていた方が美しいですよ』
こんな自分でも心配してくれる人がいる。
『――絶対にダメだ』
自分を強く持て、負ければ全てを犠牲にしてでも戦う、絶対にそれだけは許されない。
例え、この力が操れるようになっても絶対に使う事は許されない。
メアや木葉を失望されるのは絶対にダメ。
「……また来るよ。剣聖を殺せたその日にまた」
瞼を閉じればそこには誰一人立っていない。瞬間移動の一種なのだろう。
「……もう起きられるよね」
独りでに開かれる扉、その先は何も見えない。しかし道は必ずある。こんなところで止まっている訳にはいかない。
エリスは立ち上がり、扉に近寄る。
「――木葉を助けに行こう。魔人とバレても、木葉を失望させても」
覚悟を胸に、エリスは扉の先へゆっくり歩を進める。
そのエリスに囁くでもなく、大声でもなく、頭に直接、一言。
『――試練の始まりだ』
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「だぁー眠い!」
危機感の持たないその言葉は目の前にいる男に苦笑いをさせてしまう。
「なら寝ればいいんじゃないかな?」
目の前にいるのは騎士王のアイザック・グルーエンバーグ。
白い服に身を包んだ彼の髪は主張を怠らない。アイザックの風貌は誰もが羨み、誰もが惚れるもの。
騎士王が髪を染めるなんてなんという事だ、というのはない。多分地毛だからだ。
「なんだ? イケメン君はこの俺にこの場で寝ろとそう言うのかよ」
「なら僕の部屋でいいかな? エリス様達は多分寝てるだろうし」
「いや良いよ。別に眠たくないしな」
開いた手を横に振り、アイザックの誘いを断る。そしてアイザックとの他愛のない会話を始める。
始まりはアイザック。
「君が王城から出ていった時はびっくりしたよ」
「俺がどこに出かけようが勝手だろ。お前は母親かよ」
『――――』
アイザックとの会話は別にめんどくさい訳でもない。普通に会話していればごく普通の人間なのだから。
しかしそんなアイザックと交わした会話も、一瞬だけ聞こえた一言で何もかも聞こえなくなってしまう。
集中を謎の声の方へ向け、聞き取ろうとするがまるでノイズがかかっているような聞き取りずらい声。
『――今すぐここから離れてください』
一瞬だけよく聞こえた。
ノイズが完全に消え去り、聞こえたその言葉は木葉の足をいとも簡単に動かした。
木葉はその場から逃げるかのように走り去る。その様子を見てアイザックも走ってきたがすぐにそれはやめたようだ。
木葉はとりあえずさっきの場所より距離がある場所まで走る。そして行き着いた場所は。
「――王部屋にそうやって入れる人って中々いないよ」
どこよりも出口に近い王部屋に勢いよく入った。
その音で王ははね起き、少し機嫌の悪そうな声で木葉にそう言った。
「心の準備が出来たら出てくことにするぜ」
「なるべく早く出ていってほしいね」
木葉は扉に耳をつけ、外で起こっている状況を把握する。
聞こえてくるのはメアとカーミラの声、そしてオネエ口調の男のような声。
「あれ? この扉の先どうなってんの?」
「そのまま普通に廊下だよ」
「……この先部屋のようなんですが」
扉に耳を付けたとしてもよく聞こえすぎる。まるで扉一つ跨いだだけのようだ。
木葉はゆっくり扉を開き、外の状況を確認しようとする。しかし後ろから王に押され、扉に勢いよく入ってしまう。
木葉が別の部屋に入った頃には王部屋への扉は閉められていた。
「あらやだ、エリスちゃんに会いに来たのかしら?」
「ハーフの娘ならそこで一人、寝ていますわ」
横を向けば、ぐっすり寝ているエリスの寝顔が近くにあった。
「……エリス様から離れてください。殺します」
「そんな! これは不可抗力だ!」
木葉はとりあえず、エリスから離れ、メアに言い訳をする。しかしメアの怒りは簡単に収まりそうにない。
指を鳴らしながら近づいてくるメアに恐怖し、頭をガードする。
何か妙な何かが感じる。多分デジャブ。
頭を上げると髪以外エリスによく似ている姿をした女がメアの腕を掴んでいる。
「おやめ下さい。彼は今一番大事な素晴らしい人材です」
「……そうやってあなたはまた、エリス様のようにこの者を魔人にするのですか?」
メアの怒りは行き場をなくし、金髪の女に向けられる。
そんなメアの怒りに怯えること無く金髪の女は話し始める。
「私は強要は好きじゃありませんよ。もし仮に彼が本気で魔人になる事を望んでいるのなら魔人にしますけどね」
『おい赤眼、あまり調子に乗っていると殺すぞ』
その場の雰囲気は一人の男によって凍らされる。
嫉妬の司教とは比べ物にならない気配。
その気配に気づかなかった者はこの部屋の中に誰一人いない。
全てを覆い尽くすその気配は嫉妬の司教を恐怖で動けなくさせるような人物。
その気配は窓際、男の服装とは思えないような服を着ている男の真後ろに存在した。
『俺は言ったはずだぞ? 魔人をすぐに連れ帰って来い、と』
「流石にあれ程の魔人を連れて帰ってくるなんて無理ですよ。殺していいのなら殺しますよ」
そんな会話をしている嫉妬は窓際の方を向けずにいる。顔には大粒の汗が何粒も流れている。嫉妬であろうとこんな雰囲気の中、余裕を保っていられないようだった。
部屋の中には五人と飛び抜けた化け物一人、その中で化け物の姿を見れていたのは木葉一人。
その姿は黒い、ひたすらに黒い。
その存在には実体がない。ただの黒い霧、それもレイが存在する世界とは比べ物にならないほど深い闇。
その闇に身を包んだ男から発される言葉一つ一つが心臓をわしづかみにする。
『ダメだ。あいつは道具としてまだ使える。殺すな、生きたまま連れて来い』
「私では相性が悪すぎま――」
嫉妬の言葉を遮った男は一言残し、部屋から存在を消す。
『――生きたいならな』
その一言で嫉妬のは崩れ落ちた。
そんな事に全く興味を示さない男は心配の一言も残さず、消え去った。
そして部屋の中には沈黙が作られた。
数分間ずっと誰も話出せない。それは木葉も同じ。あの存在が作り上げた部屋の沈黙はまるで声を奪い去ったかのようだ。
心臓の鼓動も小刻みに揺れる体もその部屋の中では騒がしい、と言える。
「傲慢も無茶な事言うわねぇ……」
沈黙を破ったのはオネエ口調の男だった。
「それに強いんだから一人でやれば何でも上手くいくのに馬鹿ねぇ?」
本人が目の前にいれば誰もそう言えないだろう。それは今話している男も同じ、だから傲慢と呼ばれた男がいない今、言えるのだ
木葉が不死身だからと言っても抵抗する気が起こらない。あの傲慢の存在は生きるや死ぬの次元を超えている。
もしあの時、傲慢が殺しに来ていたら生き返れないのでは、と思ってしまうほど。
「アゼレアさん……それ以上、彼の悪口を言うのなら……殺しますよ」
「あら酷いわ。それで用事は済んだの?」
「……木葉さん、テオは私ような魔力を持っている人物がいると視覚が共有出来ないみたいですよ。そしてその魔石も意味がなくなるみたいですね」
弱々しく言う嫉妬の姿は見苦しいものがある。
嫉妬ほど強い人物がここまで弱ってしまうのには何か理由があるのだろうが、決して踏み入れる事の出来ない領域に存在し続ける大罪教。その中で中ボスとも言える者の事が分かるわけがない。
ただでさえ、テオで手一杯なのに次から次へと現れる化け物の領域を越えた者達。その中でもずば抜けた力を持つ傲慢は魔神獣とは比べ物にならない。まさに天災そのもの。
それだけを告げると嫉妬は霧のように消えてゆく。
全滅させたいと思っていた大罪教の手を借り、新たな情報を手に入れていく。しかしその中で木葉は仲間と言う感情は芽生えない。
嫉妬がどれだけ悲しもうと、苦しもうと、木葉も嫉妬も、ただ利用しあっているだけの関係。
嫉妬がくれた情報に感謝をするのは、それが事実だとわかった時だけ、それ以外は決して感謝も哀れみもしない。
「……孤独が全て、そうやって傲慢ちゃんも強くなったのよ。あなたもいい加減に理解したらどうなの?」
この場にいる誰にも向けられていない冷たい言葉。
この部屋から出ていった嫉妬に向けられたその言葉に哀れみの感情は感じられない。
嫉妬が苦しむ事をなんとも思わない木葉が思うとはあれだが、アゼレアの第一印象はとりあえず、クズで決まった。
その言葉は傲慢と呼ばれた男に向けられた陰口よりも酷く残酷に聞こえた。
そんな事を言っているアゼレアは口の端を釣り上げ、嘲笑しながら言い放った。
「――あなたが他人を信じてるうちは傲慢はおろか、私ですら殺せないわ」
最後に発せられたその言葉は嫉妬にも木葉にも向けられて言われたようだった。
そしてアゼレアはこちらを向き、微笑む。
「もうそろそろテオの能力が復活するわよ。あまりこういう所で長居すると計画がバレちゃうからねぇ?」
その言葉を聞き、木葉はゆっくり立ち上がる。
「あんたがなんでそれを知ってるかは聞かないでおくぜ……エリスに宜しくな」
アゼレアにそう言い、木葉は扉に近づく。
「――プレゼントは全てが終わった時、必ず渡す」
エリスの方に顔を近づけ一言だけ言った。
メアの表情を確認しようと顔を上げると今にも汚らわしい、と言おうとしているメアの顔が見れた。それだけで十分だ。想像している言葉を言われるのは流石に傷つく。
木葉はゆっくり扉を開き、部屋を後にする。そして向かうは騎士王の部屋。
――アイザックの手を勝手に借り、テオをおびき出す為に。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
目の前に広がるのは美しい花畑。
その花達を一層美しく見せようと努力する青い空。
「ここはどこ……?」
同然の疑問。
まだ続いている夢の中でさっきのような記憶を漁っているのならこんな景色が映し出されるはずがない。
一度も見たこともない美しい景色にエリスは目を奪われる。
「どうかな? 僕なりに努力してみたんだよ」
「なんで私が目の前にいるの……?」
いつの間にか後ろに立っていたエリスと瓜二つの人物。
口調を真似られてしまえばメアですらも気づけないかもしれない。しかしそれは似ているのではなく、エリスそのもの。
「悪いね。君の体をそのまま真似してみたんだ。どう? 似てる?」
まるで鏡。
綺麗な服を着て、鏡の前で嬉しくて踊っている自分のような別の人。
「……ごめんね。僕は一人で楽しんじゃう癖があるんだ」
自分と同じ姿の女の人は軽く頭を下げ、隣に座る。
「まずは僕が誰だか言わないとダメだね。僕の名前はレイ、君達がよく知る魔法使いだよ」
女の名前を聞いた瞬間にエリスはその場から立って逃げようとする。しかし女はそれを許さず、エリスの服を掴んでいる。
「落ち着いて、僕はただ話がしたいだけ、少し話をしてくれればここから出してあげるよ」
「だってレイは確か……」
「殺す気なんて全くないよ。ただ僕と話してくれればそれでいいから」
レイと名乗るエリスに似た女は掴んでいる手を離した。
死んだはずのレイが目の前にいるという、不思議な状況にエリスは冷静な判断が出来ない。過去の事もあってか、魔女と呼ばれる存在が何よりも恐ろしい。
まともな思考を保てなくなったエリスはとりあえずレイの隣に座った。
「……君って傲慢に会ったことあるでしょ?」
「なんでそんな事……」
全てを見透かしたその目は赤く燃えてその中でエリスを映し出している。まるであの日のように。
「別に無理して答える必要はないよ。客人にそんな事するほど僕は腐ってない」
そう言ってレイは微笑む。しかしその微笑みは完全に作っている。本当はどんな事をしても聞きたいはずだ。その表情で何もかも分かる。
「……それじゃあ、君は木葉の事、どうも思ってる?」
「木葉の事は……特――」
「――好きでも嫌いでもない、そこに特別な感情は無い、そうだろう?」
木葉の事をどう思っている、と言う質問に答えようとするもエリスの言葉はレイによって遮られる。
遮られたエリスの言葉をレイは的確に言い当てた。
言おうとしていた事を完璧に言い当てられたエリスは動揺を隠していられない。
「なんで……分かるの」
「君は強欲すぎないかい? 自分だけが悲劇のヒロインなの? いや違うね、君は遠慮しているんだ。今までずっと我慢してきたからね」
「私はそんな……我慢なんて」
「してる。人を好きになれない君は心のどこかで自分を縛っているんだよ」
そう言っているレイの表情は楽しそうだった。決して哀れんでいるわけでもない。ただ嘲笑っている。
「僕はここからいつでも出られる。でもね、彼がここで待ってろってそう言うから待ち続けているんだ」
「――――」
「――決してこっちは向いてくれない。そんな事はわかってる、だからずっと前から諦めてた……僕が、レイが、人を愛するのは本当にダメなのかい?」
そえ言うレイの表情は笑っていない。顔を濡らし、消えぬ事の無い火から透明の雫を何粒も流している。
レイは泣いている。最強と言われ、世界から恐れられてきたレイ・ノアニールが今、エリスの目の前で泣いている。
「――愛する者の為に汚した手で愛する者を触ってはいけないのかい?」
その一言で美しかった景色は一瞬で崩れる。まるで紙に書いた街を燃やしているかのように。
レイのその一言にエリスはなんとも返せない。
人を好きになった事のないエリスにはレイが泣いている理由がイマイチ理解できていない。
「――過去は決して塗り替えられない。悪事に手を汚せば、善に終わりが来る。それが傲慢の名、フェンリル・コズニスが意味する『終焉』だ」
喉を震わせ、そう言うレイの姿は黒い霧に囲まれ姿が見えなくなる。それはまるで無理矢理上書きをしようとしているのかのよう。
レイが背負った罪、それは世界の三大英雄を殺した大罪。なら傲慢が背負った罪はいったい何なのだろうか、そして傲慢の名、フェンリル・コズニスが意味する『終焉』とはいったい何なのだろうか、エリスには全く検討がつかない。
「――剣聖は全ての『始まり』である。そして傲慢は全ての『終わり』である。そしてその二つを作り上げたのが『女王』と呼ばれる存在」
「――――」
「――魔人と言われる存在が出来たのは、その二人に対抗する手段を得る為。だから決してその力は間違っていない」
黒い霧を纏い始めたレイはゆっくりエリスから離れ、暗闇に二つの扉を作り出す。
「――僕と契約すればその力を完全に操れるようになる。それにもっと強い力が手に入る」
「でも代償は……」
「全てを終えたその時に貰おう。さぁ選べ、僕を認め生きていくなら右の扉、僕を否定し生きていくのなら左の扉だ」
そのどちらかは苦しむ道なのだろう。しかし今はそんな事はどうでもいい。
ずっと逃げていた。苦しむのは嫌だからって、失うのは嫌だって、ずっとそうやって生きてきた。自分に都合のいい逃げ道ばかり探し、他の人が苦しむような道を選んできた。
間違っていることはずっと前から分かってた、でも怖い、を理由にしてずっとただ背中を見せ、逃げていただけだった。
自分より弱い人が必死に戦っているのに自分は戦う意志なんて少しも見せず、恐怖に負けて逃げていた。でも今はそうは言っていられない。
普通の人間でなんの力もない木葉が巨大な敵を目の前に戦っている。誰よりも弱いはずの木葉が誰よりも早く動き、逃げずに戦っている。
そんな状況でエリスが逃げるなんて選択肢はどこをどう探しても見当たらない。
誰かの為になりたくて手に入れた力、大量の犠牲を出さなければ手に入れられない力を今までエリスは封じ込め、使う事を極力避けていた。だが今思う、それは誰か一人を助ける為に使ってはいけないのか、と。
完全に覚悟の決まったエリスが開く扉は一つ。
「私は――選ばない!」
エリスが進めた足の先には扉と扉の間、間違いなく何も無い。しかしエリスが手を伸ばすとそこにはドアノブの感触があった。
「――いい選択だ……どうかお願いだ。君の力で世界に一泡吹かせてやってよ」
「もちろん! だって誰の約束でもない、自分の中で決めた目標なんだから!」
扉をゆっくり開く。
その先には直視できない程に眩しい光がある。
その光の先がこの夢の世界の終わりなのだろう。
エリスは扉の中にゆっくり歩みを進める。
赤い瞳が映し出したその景色は偽物じゃない。見慣れたメアの顔がそれを物語っている。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「……想定外だって言いたそうじゃないか」
「――当たり前だろ。だって俺以外にも異世界に来ちまった奴、いるんだぜ?」