第二章6『黒い衣服の男と炎に覆われた地獄』
血も流れていなければ、体全体を傷がないか手で確認するがそれらしいものは無い。
「……嫉妬の奴が言ってたのは本当だったのかよ」
夢の中、いや別世界でほんの少しだけ会話した嫉妬の司教を思い出す。『あなたが味方だと勝手に言っておきます』そのおかげか、今木葉は生き長らえている。
安堵のため息を大きく吐いた。その瞬間に体から力が抜け、そのままベッドに体を任せる。
ベッドに体を落とした木葉は耳を澄ませる。聞こえてくるのは、洞窟に入り込んだ風の音、開けたり閉めたりを繰り返す扉の音。
そんな扉の音は木葉の部屋まで近づくような感じはない。何か別の事で忙しくしている。
重たい体を無理やり持ち上げ、蜘蛛の巣やカビで汚れきった部屋を後にしようとする。
「……相変わらずいつ見ても汚いな」
そんな一夜を共にした部屋を遠い目で見たあと、扉をゆっくり開け、部屋を後にした。
短い廊下で歩を進める木葉に届く扉の音は少しづつ近づいてくる。
それと同時に木葉の耳には、扉の音とは全く別の音が響き渡る。
木製の床になにかを書いているような音、聞き慣れないチョークの音とよく似ている。
短い廊下を歩き終えた先の扉を開けば、そこには、腰を深く落とし、チョークのような物で床に魔法陣のようなものを書いているテオの姿があった。
「……やっと起きたようじゃな。実は君を魔人にするか今迷っていたところじゃ」
「俺の意見が通るなら俺は魔人になりたくねぇな」
嫌な言葉、嫌な提案、もちろん魔人になるつもりはこれっぽっちも無い。出来ることならば普通の人間のままでいたい。テオのような、無感情の『魔人』には絶対になりたくはない。
木葉は一瞬だけ体を大きく震わせた。
震わせる原因になったものは、テオを心の中で罵倒する時に使う『魔人』という言葉、そして目の前にいるテオの姿。
噛みちぎったのか、右腕から大量に流れる血。その血で妙な魔法陣を書き続けるテオ。
その姿は一般男性とは程遠い物がある。
「……ならば良い。とりあえずこの血を片付けるとするかのう」
自分の血を布のようなもので擦って消そうとしているテオを見て、木葉は喉に温かいものが上がってくる感覚に襲われる。
テオの右腕を見やる。
傷が徐々に癒えていき、何も無かったかのように、床にこびり付いていた血も消えてなくなっていた。
目を細め、脳をフル回転させる。
木葉はテオの再生能力の速さを目にした。
実際に見てはいないが腐敗能力も確認した。あとは視界を共有する能力、この能力の条件が分かれば、また一つ、戦いやすくなる。
ただエリスを殺そうと企むテオからそんな事を聞き出すのは至難の業だ。
だから木葉はテオの行動を裏から操る必要がある。
平然を装っている木葉は心拍数を速め、胃液の混ざった唾を飲み込んだ。
「魔人になりたいのならばいつでも言っておくれ。手伝おう」
「誰が好き好んで魔人になんてなるもんか」
テオの機嫌の良さそうな顔を見て、イラつき、木葉は舌打ちをしながら別の方向を見た。
そんな木葉を見たテオの機嫌は少しだけ悪くなり、テオは木葉に聞こえるようにため息を吐いた。
少しの沈黙、そんな沈黙を消し去ったのはテオの方だった。
「……君はまずハーフエルフに近づいてほしいんじゃ。俺から君に命令する」
「命令とはご立派なもんだな」
「……訂正、君にアドバイスする」
その瞬間に木葉の首筋に冷たい空気が触れた。まるで指先でゆっくり撫でられるような感覚。
冷たい空気は人間の気配を作り上げる。後ろから感じる異様な気配。後ろを向いてはいけない、と一斉に言われているような感覚。
テオは後ろの存在に気づいたのか、額に手をやり、ため息を吐いた。そして木葉の丁度後ろを睨みつける。
「――俺の土地だぞ? 勝手に入るなと言っただろう」
「あら? 私は不思議なお客人に会いに来ただけですよ」
別世界で聞いたことのある声、感じたことのある気配。そしてテオに対し、余裕そうな声色。
気配は別世界で感じたものとは比べ物にならないくらい、木葉の何倍もでかい、巨大な気配。
木葉はゆっくり後ろを振り向こうとする。その気配は木葉の首筋に息がかかるほど近いところにある。
恐怖で頭がおかしくなりそうになる。ただでさえ化け物のテオを遥かに凌ぐ存在が木葉の真後ろにいる。
一気に振り向き、巨大な気配を視界の中に入れる。
「――そこまで焦らなくても殺しませんよ」
視界に入った生き物は黒い衣服を着こなし、金色に光る髪は何よりも存在感を発し、紅く光った目は木葉の姿を全体を映し出す。
「テオさん。その服お似合いですよ。その赤髪にぴったりです」
「嫌味のつもりか?」
テオの服装は酷いものだった。
腕を噛みちぎる際に服まで噛んだのか、服が途中でちぎれている。
テオは目を鋭くさせ、嫉妬の司教を睨みつける。嫉妬は変わらず、余裕の表情を崩さない。
テオは敵意丸出しで喉を鳴らす。
狂犬のような唸り声のせいか、洞窟内は肌寒い空気が充満している。
「あまりかっかしていると頭に悪いですよ」
「傲慢に気に入られているからって調子に乗るんじゃないぞ」
そんなテオの言葉のあと、嫉妬から余裕の表情は消え、真顔でテオの事を見ている。
テオは少し顔を顰め、嫉妬の顔を見れなくなっていく。まるで犬が恐怖で躾されているような感じだった。
そんな事が起こっている間、木葉は一言も話せずにいた。
雰囲気に負けてしまっているのだ。勝てそうにない。嫉妬一人が作り上げたこの雰囲気で体の震えが全く止まらないのだ。
嫉妬は今の状況に満足したのか、また口の端を釣り上げ、木葉の方に見やる。
「失礼しました。私が来なければ無駄な時間が無かったはずですのに」
「……そう思うなら早くどっかいってくれ。今俺は恐怖で体から何もかも吐き出そうだ」
嫉妬は無言で出口まで歩き出す。振り向くことはせず、そのまま嫉妬の姿は消えていった。
木葉は息を整え、テオに話しかけようとテオの方を向くと、また怒りが湧いてきたのか、喉を先程より大きく鳴らす。
そのテオの姿に木葉はまた恐怖してしまう。
テオは怒りを収め、喉を鳴らすことも止めた。
テオは木葉の存在を忘れていたのか、驚く動作をしたあと、木葉にある物を渡す。
それは木葉のポケットにギリギリ入るくらいの宝石のようなものだった。
そんな紫色に光る宝石は中に真っ黒の霧が入っている。
レイがいた世界でカーテンの役割を果たしていた闇の霧とよく似ている。
「この魔石はどこからでも会話ができるようになる。そこから俺が話しかけるのじゃ」
この世界では木葉の常識は通用しない。元の世界ではただの宝石だったとしてもこの世界では魔法具になるのだろう。
テオの淡青色をした瞳は魔石の方へ行っている。
「魔石ねえ……?」
渡された小さめの石に目をやる。
魔石との距離はほんの少しだけ、魔石は近くで見れば見るほど、中にある闇の霧が濃いように見える。
別世界の霧を無理やり圧縮したような、漆黒の小型の闇。
木葉の意識は闇に飲まれたかのように体中の集中が闇に向けられている。
闇に集中していた木葉は周囲の状況を把握出来ていなかった。
「……森?」
意識を魔石から外し、周囲を見渡すとそこにはテオの姿はもちろん、人が住めそうな環境はどこにも無かった。
いつの間にか迷い込んだ森の中では風と生き物の声が木葉を急がせている。そんな声は『早く目的を果たせ』と言っているようだ。
それはテオが一番言いたい言葉、風や生き物達はテオの言葉を代弁しているのだろう。
状況を大体理解出来た木葉は森の外に行くため、歩を進めた。次の行わなければいけない行動を考えながら。
『――次の行動に移れ』
耳からではなく、頭の中に直接ただ一言だけ命令される。その瞬間に全身に渡り、寒気が襲う。魔石が握られている右手は異様に強い寒気を持っている。
魔石が握られている手をゆっくり開く。
魔石は光を帯びており、その魔石からは冷たい空気が流れてきている。
「頭の中に直接ってファンタジーあるあるだな」
力無く木葉は枯れた声で笑った。
考えれば約一日ほどご飯を食べていない。最後に食べた料理はメアの手料理だ。
「このままじゃ空腹で死ぬな」
テオは最初の命令から何一つ言ってこない。多分木葉の言葉はテオにも届いているのだろう。そうなれば、レイと会話する事は不可能になる。
独り言だと通していけばいいが、少しでも怪しまれれば殺されかねない。
魔石を捨てれば、敵と見なられ殺されるかもしれない。だがこのままエリス達の元に行けば、向こうの情報がダダ漏れになってしまう。
何か打開策が無いか考える。
もし木葉がジェスチャーで何かをしたとしても、気づける人はいない。今ノアニールが危険だと知っているのは、殺された第十四騎士団と木葉のみ。
「とりあえず王都まで行くしかねぇか」
無計画で歩を進める。その足取りは重苦しいものだった。
そんな木葉が離れた王都ではいつもと何も変わらず、普通の日常が流れている――数時間前までは。
「こんなとこで会うなんてつくづく不運ですわ」
「……カーミラさん」
暗闇の中で二人の少女はばったり出会ってしまった。
一人はしかめっ面で一人は険しい表情をしている。
「ここで何をしているのか教えてくださいまし? 悪魔の娘」
「……まず私の母親は悪魔じゃありません。魔法使いのレイとは無関係です。そしてここにいる理由はカーミラさんが怪しい行動していたからです」
真夜中かもしれない。だがその廊下には風ではない、少女達の会話から現れる冷たい空気が廊下を満たしている。
少しの光しか灯っていない廊下で相手の表情を確認するのは至難の業だ。だが確かにカーミラの表情は強ばっている。
「怪しい行動していたから何ですの?」
「――何故、私の部屋に入ってきたんですか?」
この状況に不満なのかカーミラは歯切れが悪く返答する。
そんなカーミラに追い打ちをかけるかのようにエリスは目を細めた。
『警戒心はどんな状況でも決して怠るな』王になるためにメアが最初に教えてくれた言葉。この言葉を教えて貰っていなければ、エリスはカーミラに不信感は覚えていなかっただろう。
同じ時期王候補だとしても、邪魔などをする者は今までいなかった訳では無い。
王の親族だからと言って、王に必ずなれる訳では無い。それ故に権力争いが起こってしまう。本当にひどい時は殺人も行われる。
「……悪魔の娘に話してよろしくて?」
「え?」
エリスはカーミラの独り言に一瞬で反応する。ただ独り言は独り言に収まらなかった。
『別にいいですよ。その方が彼も動きやすいだろうしね』
カーミラでもエリスでもない。この場にいる誰でもない者の声が廊下で響く。
エリスは驚いた表情を隠せずに口を開けたまま、カーミラはその状況に驚く様子は全く見せずに声の主と会話をしている。
何かの整理が終わったのかカーミラはエリスに顔を近づけ、口を小さく開いた。
「――木葉さん、今大罪教と一緒にいるわ」
「――!」
その言葉を聞き、メアを起こしに行こうとしていたエリスをカーミラは腕を掴み、阻止する。
カーミラは首を横に振る。
その事に不満があるエリスは声を出そうとするが、カーミラが口元に指を近づけ『しぃー』と小さくエリスの言葉を止めた。
「だからあなたにも手伝って欲しいんですわ」
「――え?」
カーミラは一度顔を離し、周りを見回したあと、エリスの顔を再度見てそう言い放つ。
カーミラの事を敵だと思っていたエリスはその事に驚きが隠せない。それもそう、自分の事を嫌いと言っている者がその騎士を助ける為に協力しろと言っているのだ。
だが木葉の事とは言え、目の前にいる者は簡単に信用できるような奴ではないのは確かだ。
時期王候補のカーミラとエリスはどこからどう見ても敵同士、メアにも他の候補者には気をつけろと言われている。
「なんでそんな事をカーミラさんが知っているんですか?」
「……わたくしは『魔人』ですわ」
エリスの問いにカーミラは少しだけ顔を顰め、無言だった。
一秒や二秒の筈なのに時間を刻むはずの針は異常なまでに遅く、どこまでも闇が存在する廊下には、エリスとカーミラの他に何かが存在しているのではないかと、錯覚してしまう物があった。
そんな無言を作り、消し去った本人、カーミラはたった一つの単語でこの場を冷えさせた。
『魔人』と呼ばれる存在はこの世界では二つしかいない。
魔法使いレイと魔女や悪魔と契約した者。
おとぎ話だけでの存在だと思っていたエリスは今初めて魔人をその瞳で映し出した。
「そ……んな、だって契約するには代償が必要だって!」
「……わたくしが魔女に代償を払って失ったものは――自分の父親ですわ」
闇に覆われている廊下でもわかる。カーミラは泣いている。
大粒の涙を瞳から流しているカーミラの姿はいつもの威勢はない。
「――得られた物は魔女と対話する権利だけですわ。その魔女に教えてもらいましたわ」
涙を何粒も流すカーミラの喉は震え、所々聞づらいところはあったがはっきり聞こえた事はエリスが聞きたかった一番大事な所だった。
『魔女と対話する権利』それだけでカーミラは父親を持ってかれてしまった残酷な話。
「知っている理由は話しましたわ。手伝ってくださいまし」
弱々しい声でカーミラはエリスの表情を伺っている。
いつも傲慢なカーミラしか見た事のなかったエリスは返答に困ってしまう。
エリスには母親も父親も物心つく前から居なかったのだ。両親がいないという事はカーミラと同じなのだ。
「……あなたにとって木葉さんはその程度なのですの?」
心に深く刺さる言葉をカーミラはいとも容易くエリスに向かって言い放った。
「それも仕方ありませんわね。まだあって数日程度ですもの。でも何故木葉さんはその程度の関係のあなたに仕えるのかしら?」
「それは……」
「――ハーフエルフのあなたに仕えてもいい事は何一つない。むしろ嫌な事しかないのに何故そこまであなたに固執するのかしら?」
カーミラはエリスの言葉を遮りながら冷たい表情で何かを見透かしたような目でエリスを見やっていた。
エリスも薄々不思議に思っていた。
ハーフエルフの自分に仕えてくれる者はメア以外に誰一人絶対にいないと思っていた。それなのに会って数日の木葉は仕えてくれる事になったのだ。
下を向き、木葉の事を考える。
――下を向くな。
木葉ならそう言うと思った。
自分に木葉の何がわかるのか、どれだけ考えても思いつかない。なのに木葉の事を知ったような口をしている自分はいったい何なのだろうか。
木葉を死ぬよりメアに叱られてしまう事に恐れてしまっていた。
「あなた、大罪教の傲慢にあった事があるのでしたのよね? その時に傲慢に何か言われたりでもしたのですの?」
「――私は!」
「エリス様、それ以上は言わないでください」
拳を強く握った。カーミラの言葉を間違っていると否定したかった。
拳には焦りか、汗が滲み出ている。強く握っているせいだが、手のひらは赤くなっている。
ただでさえ寒い廊下がたった一言を聞いた瞬間、先程より冷たくなった。
「――これはどういう事ですか? 説明してもらいますよ。カーミラ・アルドリッジ」
怒りの混じったその言葉は心底恐ろしい物を思い浮かばせる。
顔を赤くしたメアがエリスの後ろからカーミラを睨みつけていた。今までで一度も見たことの無いメアの怒りにエリスは恐怖した。
カーミラはそんなメアを見て、目をそらしてしまう。
「死にたくないのなら答えてもらいましょう」
「殺人は立派な罪ですわ。それにわたくしは次期王候補、殺せば国を敵に回すことになりますわ」
カーミラは強気にメアに言葉を返す。ただメアは表情を少しも変えず、カーミラの言葉をじっと聞いている。
そんなメアの表情を見て『もう一度言いますわ! 国を敵に回すことなりますのよ!?』ただそんな事を聞いてもメアの表情は少しも変わらない。
そんなメアが口を開き、ドスの効いた声で一言。
「構いませんよ」
そんな言葉を聞いたカーミラは目を大きく見開き、メアの恐ろしさを再度実感したのかもしれない。
「国を敵に回したって、剣聖が敵になろうと、傲慢が襲いに来たって、この身全てを使い、エリス様をお守りします」
「……正気の沙汰ではありませんわ!」
そのカーミラの言葉にはエリスも共感できる。
剣聖や国を敵にしたとしてもまだ勝機はある。でも傲慢を敵に回すのは大きな間違いだ。
エリスは紅色の瞳で見ている。
傲慢の力の次元は全くの別物、別次元のものだ。
「ダメ……傲慢は……」
その身で体験している。傲慢の恐ろしさ。
生きている者で傲慢の恐ろしさを知っているのは自分だけだろう。
それだから言える。あれは絶対に生き物なんかじゃ無い。例えるなら『死神』いやそれで言い表せるものではないのかもしれない。
「メア……ダメ…………傲慢は……」
「――エリス様!」
闇に覆われていく世界の中でメアの声が耳に響く。
瞼がゆっくり閉じられ、メアの姿を消していき、最後には闇の空間だけが存在していた。
闇の空間で一人のエリスは行き場に困ってしまった。
どこに行っても続くのは闇だけ。
それももう終わりなのか、闇の中に一つだけ扉だけがあった。
開けばこの闇の空間から出られる。そう思っていた。
「ここは……?」
――目の前に広がっていたのは、獄炎の炎に囲まれていた『地獄』そんな獄炎の中に一人の男が立っている。
「――よぉ」