第二章3『森に吹かれる怒りの風』
闇の存在しかない森に入り、どれくらい経ったことかわからない。森の中に漂う恐怖感は時間と命を忘れさせた。
目を細くさせ、神経を尖らせていた木葉に冷やかすような口調で、少女の声が耳を塞ぐ。
ずっと集中し、静寂を守っていた木葉はレイの声が耳栓となり、自然の音が低くなってしまった。
「んだよ。今集中してんだ」
「僕はただ、そこまで集中する必要はないって言いたいだけだったんだけどね」
「この近くに司教がいるかもしれないからな。首がいつ吹っ飛ぶかわかるもんか」
いつもの余裕は木葉には無かった。
相手は騎士王の力を凌ぐものである。それなのに木葉一人で敵うはずがない。
木葉が一人で森まで来たのは理由がある。もし連れてきた人が死に、木葉だけ生き残るような事があれば、正気が保てるのかギリギリの線を行く。それに人が付いてくると邪魔で仕方ない。今回木葉は死ぬ為に来たに過ぎない。
木葉がしようとしている作戦は、敵の顔を覚え、次の世界で一気に叩き潰す。そんな幼稚な考えだった。
「人生って言うゲームは難しいからやりがいがある。そんな簡単に敵を倒せるゲームがあると思うかい?」
「スライムくらいなら倒せるだろ」
「最初からラスボスレベルだったけどね」
木葉の幼稚な作戦を心を読んだレイが鼻で笑いながら話しかける。
木葉も薄々分かっている。そんな簡単に事が進むわけが無い。ミナセの時もそうだったのだ。
だが今の木葉にそれ以外を考えられる脳はなかった。
焦りもそうだが、戦ったことのない木葉に聞くからに凄い作戦が考えられるわけがない。
「なんなら最強の魔法使いのお前に考えてもらおうか?」
「別にいいけど、テオ・アンガーの能力が分からないといくら僕でも思いつかないよ」
「……だから俺は死にに行くんだろ」
レイの言葉に木葉は失望を隠せない。
それも仕方ない。戦闘経験豊富であろうレイが頼りないのだ。貰った魔法だが分からないものも使えず、木葉に出来ることは情報を集めるだけだった。
森の中の景色が徐々に変わってくるのが分かる。
その奇妙な光景に木葉は顔を歪めた。
木葉の目に映ったのは大量の死体。ざっと二十人くらいだろうか。その死体には傷はない。
ただその奇妙な臭いに木葉は死体だと決めつけた。
「なんだよこれ……死臭か!」
「呪術だね。それも相当強いもんだね。死んでまもなく死臭が出るなんて普通はありえない」
「多分十四騎士団の奴らだよな?」
「それは僕にも分かりかねるね。なんせ君も僕も見たことないんだし」
木葉は舌打ちをし、死体から目をそらした。
死体を長い間見れるほど木葉は精神的にも強い人間じゃない。
ただ今ここに死体があって良かったと木葉は思い始める。理由は一日前見た奴が殺人鬼で間違いではないと確信できたからだ。
十四騎士団の人達の勇姿は木葉が脳に焼き付け、次の世界でみんなに忘れ去られても、自分だけは覚えておこうと心に誓った。
先を進むと座っていても意識を保っているのが限界になるような空間に出会った。
「空気が不味いな」
「……」
木葉が発した独り言はレイが反応するものかと思って、言ったつもりだったが無言で返され、本当に独り言になってしまった。
いつもなら一文字でも口にすれば秒で反応するのにその時だけは、なんの反応も示さなかった。
レイにしては珍しい無言。
そんな状況に理解したのか木葉は再度、目を細めた。
「……近くにいるよ」
そのレイの発言に反応をした木葉は馬車を止め、降りる。
何を狂ったのか木葉は森の中に、闇の中に走り出した。
目の前は闇、その闇は木葉を吸い込んでいき、木葉は森の外からでは確認出来ない場所まで来た。
周りの状況はわからない。
下を見れば足が見えるくらい。
ただその闇に慣れ、目が見えるようになるにはそう時間はかからない。
目が闇に慣れ始めた頃に木葉は自然以外の音に気づく。
見えない森の外側に小枝を踏む音が聞こえる。
一日前に感じた恐怖感に木葉は足を震わせる。生物の性だろう。
闇に慣れ始めの目を細め、その存在を確認しようとする。
男だろうか女だろうか分からないが、もうすぐそこに来ていることは嫌でもわかった。
「まさかまた戻ってくるとは思ってもみなかったのう」
老人のような口調をした人物の声は明らかに若い人の物だった。
闇に慣れきった目に見えた者は若い男、それ以外にはなんの特徴もない、何の変哲もない、ただの男だった。
「馬車の時、一瞬だけ傲慢の奴と似ている魔力を持っておったから攻撃せずに見ておいたが、今こうして目の前にして魔力を確認してみれば全く違うものじゃな」
「俺を傲慢とか化け物じみた奴と同じにしないでくれるか? 俺は何も出来ないただの一般人だぜ」
「次期王候補といたのだから、一般人とは少し違うのじゃろ?」
男の一言一言は木葉を一突きするような物だ。
この男には恐ろしいだけでは表せられない何かがある。瞳に映すにも躊躇いが感じられる。
足が耐えられなくなり、地面に尻を付いてしまう。
木葉は歯をガチガチ鳴らし、男を睨みつける。睨みつけられている男は案の定余裕の表情、それもそうかもしれない。
無力な動物を前にして、ライオンがビビる必要もない。
「さて、俺は拷問が下手だからやめておくが、出来ることなら情報が欲しいのう。何かいい情報をくれば命を助けてやらんこともないぞ?」
「いい情報ならあるぜ。あんたが俺にいい情報をくれたら教えてやる」
「君は失うものが多いのに、ワシは得るものが多いのう? 良いのか?」
男は木葉を見下す。木葉は男を見上げ、会話をする。
この取引は第三者からして見れば、何も得ることのない、下手をすれば殺される確率を上げてるだけの馬鹿のように見えるが、木葉は違う。
ここで得た情報は失わない。
殺されてもそれが最初から目的だから悔いはない。
「無言って事は良いと言う事じゃな?」
「あぁ俺はただ死ぬ前に謎に思ってる事を無くして、スッキリしたいだけだ」
「……まあ良い。ワシは今ハーフエルフを殺して回ってる。これ以上は個人の問題じゃ済まなくなるから答えん。さぁ君のいい情報とやらを教えてくれんかのう?」
「快く教えてくれたあんたには悪いんだが、俺はいい情報なんて持ってねぇよ」
「知っておったわい。どうしようも無く哀れだったもんじゃから教えてやったに過ぎん」
木葉はやってやったと言う顔をしながらその場から立ち始める。
そして木葉は男に背中を向き、走り出す。なるべく遠くへ森の外でもノアニールの中でもいい、どこでもいいからなるべく奴から離れようとする。
後ろを振り返ったが男は少し不満げな顔をしているだけで追ってくる様子は全くなかった。
木葉にとって生き残るも死ぬも結局意味は無い。死ねば予定通り、生き残れば予定より早く、ただそれだけなのだ。
木葉は今ある体力を全部使い切り、男が見えないところまで来た。
木葉は男の顔をしっかり見ていなかった事を思い出して失敗したと思った。
急に風が強くなり、木々が騒がしくなる。
「追いかけっこはここまでかのう?」
後ろから男の声がする。
先程より何センチを近い、木葉の首に息がかかるほど近く。
木葉は唾を飲み込み、後ろを振り向こうとするがそれより先に膝を地面に付けることになる。
「はぁ……はぁ……てめぇこれってまさかッ!」
「君はワシが憤怒のテオと知ってあんな事をしたのじゃろう? だとするのならいい度胸じゃ。数年前だったらその度胸、いろんな奴が買っておったわい」
苦しみで悶えている木葉を見下し、男はニンマリと表情を変え、そう言った。
男の表情は奇妙な物だった。
人間である木葉にも、誰にも出来ないような表情だった。
木葉は呪いによる苦しみより、男の表情に抱く恐怖の方が上回ってしまう。
木葉の苦しみは体が冷たくなるのと同じように、ゆっくり速度を変えず消えていく。
「――覚えとけよ、クソジジイ」
「……死に行く者の顔を覚えていてもいい事は無いのじゃがな」
「に、人間完全にやめてやがるな!」
「――貴い存在を貴様と同じ尺度で測るな。これだから人間は嫌いなんじゃ」
男が放つ冷たい一言で木葉の体は限界を告げる。
拒否反応を示している体とは裏腹に木葉は無理を引き出し、一言だけ男に告げる。
「――よく見てよく覚えろ。この顔がてめぇを殺す男の顔だ」
狂気の笑みを浮かべ、木葉の事を見下げている男を睨みつける。
この一言一つ一つに殺意を込め、今までにない殺気を男にぶつけた。その木葉の顔は無理やり体を動かした為、赤くなっている。
ただ男は木葉が発した狂気じみた言葉の意味を理解したのか、目を見開き焦った顔をした。
木葉は薄れゆく意識の中、男がその顔をしたのが何よりも嬉しかった。
木葉はニヤリと笑い、男を見上げたまま世界を後にした。
「にしても君も無理するようになってきたね?」
「エリスの敵なら騎士である俺が命を削りながら戦うのは仕方ないだろうが」
「まあ君は逃げただけだけどね」
「確実に殺してもらう為だ。生き残るっていう選択肢もあったが、お前とこの世界で話したくてな」
薄暗い森の中から視点は変わり、今度は真っ暗な世界が木葉の視覚を覆っていた。
その世界はいつもより霧が薄くなっている。
風がない、音がない。
現実じゃありえない世界ももう何度来たことか、少し前の木葉なら正気が保てずにこの世界で朽ちていたことだろう。
霧が少し薄くなったがいつも通りレイがいるはずの場所は霧がカーテンの役割をきちんと果たしている為、どれだけ真剣に見てもレイの姿は見えない。
ただ木葉が発した言葉に動揺しているのは霧の外からでもわかる。
「僕と話したいなんて少し照れるな〜何でも聞いていいよ。バストが聞きたいかい?」
「見えない女のバストなんて覚えたって意味ねぇだろ」
「いつか見えるようになるかもしれないだろう? 霧だって少しづつ薄くなってる事だし」
「歴史上最強の女のバストは覚えたくねぇな」
「冷たい視線を送らないでくれよ」
レイの思い上がった発言に木葉は冷たい返答し、レイがいるであろう霧の奥に冷たい視線を送った。
流石のレイもそれは嫌なのか止めるように言ったが木葉は冷たい視線のまま言葉を続けた。
「あいつの能力なんか分かったか?」
「正確には分からないけど少し疑問に思うことはある」
「どういう事だ?」
木葉の疑問にレイは答えず、逆に木葉に疑問を投げかける。
「テオは一体いつ君に触れた?」
「は? それどういう事だ?」
「呪術は触れなければ、呪いを植え付けることは出来ない、ならテオは一体いつ君に触れた?」
レイは考えている口調でそう木葉に言った。
木葉はその発言の意味が理解できない。
呪術は触れなければ出来ない。
もしそれが本当だったらテオはどうやって木葉を殺した。
触れられた者だけならテオは一体いつ木葉に触れたのだろうか。
触れられたはずの木葉も触れられた記憶は全くない。
敵に高速で動ける能力があったとしてもレイは気づけるはずだ。
歴史に名を残したレイに見えないくらい高速に動く奴だったとしたら、一体誰がそいつを倒せる。
「君が一回かかった呪いの時もそうだよ、犯人は君に触れて呪いをかけた。もし仮にこの手順を踏まずに呪えるのだとしたら、誰を味方にしても勝ち目はない」
「……無理ゲーかよ」
「僕の予想だけど君に最初呪いをかけた奴もテオに殺されたんじゃないかな?」
「どういう意味だ? 全然わかんねぇぞ」
レイが閃いたような口調で木葉にそう言った。木葉はその言葉の意味が理解できない。
もし仮に最初に呪いをかけた奴がテオに殺されたのならなんだと言うのだ。
「テオが殺した奴の呪いを引き継げるのなら君が殺されたのも説明がつく」
「つまり、殺された奴の中にたまたま俺を呪った奴がいて、テオがそれを引き継いで俺を殺したってことか?」
「多分ね。だけど引き継げる能力なんて僕は聞いたことがない、別の呪う方法があったと考えるべきだろうね」
「ミナセの時よりもすげぇ難関ですな!」
テオの能力も結局分からないまま、何も無いこの世界でなんの情報もないとなると、精神がおかしくなりそうだ。
木葉を急がせる風も生きた心地をさせてくれる音もない。この何も無い世界で長く生きてきたレイはともかく、元の世界の時間の方が長い木葉は、体が朽ちるより前に心が朽ちてしまう。
「僕は今回どうする事も出来ないと思う」
「頼る味方も殺される可能性の方が高い今、頼れる奴はいないってことだな」
「テオの事を他って置くっていう選択肢もあるけど?」
「テオの目的はハーフエルフの虐殺、次期王候補のエリスが狙われないわけがない。狙われるより前にテオを殺しておかなきゃまずい」
「……そうだね」
何も無い空間は、何かがある空間よりも木葉を急がせる何かがあった。
集中が出来ない。死を恐れず死んだ木葉に怖いものはないと思っていたがそんな事は無かった。
対策のしようもない、どうしようもない壁を目の前にして木葉が出来ることは腰を抜かして見ていることしかない。
テオを倒せる情報を手に入れられると信じて死んだ木葉にとって、何も得られなかったという結果は精神に相当来るものだった。
この後戻れば無意味な激痛。
死ぬ必要が無かったのに死んでしまった木葉に与えられる罰。
「あまりいい気はしないけど、今回の死を役に立たせる方法がある」
「無いよりあった方がマシだ。とりあえず教えてくれ」
瞼を開け、世界の始まりを見る。
窓から照らされる光は木葉の瞼を無理やり閉じさせるが、元々瞼を閉じるつもりだった。
残り何秒だろうか、瞼を強く閉じ、拳に力を入れる。唇を噛み、大声を出さないようにする。
そんな努力は無に等しい、神に与えられた能力がそんな簡単に攻略できるはずがない。
「ぁあああああが!」
胸が裂ける痛みいや内蔵を抉り取られるような痛み。
例えようがない、人類初めてこんな激痛を味わったかもしれない。
時間で言えば、一秒もないだろう、だが木葉にとっての一秒はとても遅く、激痛を骨の芯まで伝えるには十分すぎるものだ。
――助けて欲しい
そんな儚い願いは神には届かない
――辛い、死にたい
神はそれすらも許さない。木葉が死ぬ事も生きる事も。
胸をずっと押さえていた木葉は痛みが終わった事に気が付いた。ただ押さえていた胸に再度痛みが襲う。
さっきと比べればそう痛くはなかったが痛い事には変わらない。
服を脱ぎ木葉は自分の胸を見た。
爪が刺さっていたのか胸からは血が流れ、真っ赤に染まっていた。
「――ここまで痛いとかまじで次がやばいんじゃねぇのか?」
苦笑いをし、独り言を言った。
部屋の中には木葉一人、窓は開いていて苦しむ声は多分、外にも聞こえた事だろう。
木葉は安堵のため息をする。
死ぬ事の無い激痛は終わらない罰、激痛を味わいながら生きるのはこれほどまでに辛い。
「もう少し静かに出来ませんの?」
後ろからお嬢様口調の女が話しかける。
鏡に映った女は金髪の長い髪の女だった。肌はエリスみたいに白くはなく、一般的と言うのだろうか、薄いオレンジ色を少し薄くしたような肌の色。
木葉は美しい姿をした女が後ろにいる事にビックリして焦って後ろを向き、会釈した。
「あなたその傷どうなさったの?」
「あー少し爪で切っちまっただけだ」
「あらそう? わたくしはてっきりハーフの娘が治療に失敗したと思ったのだけど」
「それで胸から血が出てる変質者から質問だ。あんた誰だ? その高級そうな服装をしてるから騎士でも一般人でもないんだろ?」
女は首を傾げた後、哀れみな目をして木葉を見た。
「次期王候補の一人、最近有名になってきたのに知らない人がいましたのね」
「あんまりそう言うのは詳しくなくてな」
「わたくしはカーミラ・アルドリッジですわ」
名前まで聞く気がなかった木葉はつまんなそうな表情を見せる。
カーミラはその表情にイラついたのか顔をしかめる。
「わたくしが名乗ったと言うのにあなたは名乗らないのね」
「あー俺はエリスの騎士の水瀬木葉だ」
「あのハーフの娘の騎士?」
「えぇそうです、ですからお離れ頂けないでしょうか? 彼はエリス様の大事な騎士です」
カーミラの後ろから少女が怒った声でそう言った。
メアに気づいた木葉は何かいけない事をしでかして怒ってるんじゃないかと体を震わす。
カーミラはメアをしかめっ面で見た後、口の端をつりあげ、部屋を後にしようとする。
「またゆっくりお話しましょうね」
「へ?」
カーミラが木葉の方を見てそう言った。
メアがいい加減切れたのかカーミラの名を発しながら後ろを振り向く。
「ごめんあそばせ」
と言いながら今度こそ部屋から去っていった。
メアはため息を吐きながら木葉の方を向き直る。
「他の王候補の方と話はあまりしないで下さい。酷い話ですが周りは敵だらけ何ですから」
メアが木葉に近づきながら言った。
メアが近づいてきたことにより木葉は少し覚悟をした。かなりの確率でメアは怒っている。
「早く座ってください。胸の傷がいつまで経っても治りませんよ」
「もう大丈夫なんだが」
「騎士たる者、いつでも戦えるようにするのは義務です」
メアが心配してくれたのかと期待したが、そんな期待も一瞬で砕かられた。この女に心配のしの字もない。
木葉はベッドに座り、メアが包帯をポケットから出した。
「お前もしかしていつも包帯持ってたりすんの?」
「メイドたる者、主が怪我をした時に迅速な対応しなければならない」
胸に包帯が巻かれる。
優しさがないのか、巻かれる包帯はめちゃくちゃきつく絞められた。
気がつけば木葉は唇からも血が出ていた。痛みに耐えてる時に噛みちぎってしまったのだろう。
「どうやったら王城でこんな怪我できるんですか」
「色々あってな」
メアが包帯を巻く手を止め、木葉の背中に手を当てた。
木葉はびっくりして立ち上がり、メアを見た。メアの表情は驚いた以外では例えようがない。
そんなメアの表情を見た木葉は自分の背中を見ようとグルグル回り始めた。
「血の蛇の刺青……」
「はぁ? なんだよ。俺刺青なんて入れたことねぇぞ!」
「大罪教の王である傲慢に気に入られた証拠です。何故あなたにこんな物が……」
メアの意味のわからない発言に返事をせずに、ずっと背中を見るために回っている木葉は傲慢と言う言葉を聞いて動きを止めた。
木葉は落ち着いて鏡の場所まで行き、鏡で自分の背中を見た。
そこには赤く書かれた蛇の刺青の様なものがあった。木葉は一瞬龍じゃないのか疑問に思ったがそれはどうでもいい、一体いつからこんな物が現れたのかが問題なのだ。
「血の蛇の刺青は傲慢に気に入られれば知らないうちに体に出来ます」
「大罪教の王に気に入られるとか俺マジで不運だな!」
冗談交じりで木葉は言ったが部屋の雰囲気はそんな物じゃなかった。
急に現れた謎の刺青、これが一体何を意味するのか木葉には理解できない。傲慢が木葉の事を気に入る理由もだ。
レイが木葉を気に入った理由は『巻き戻り』だった。もし傲慢がその存在に気づいているのなら、敵になった場合、対処のしようが本当に無くなる。
最難関候補が一人増えた。
「傲慢に気に入られるのはなんかいけないことなのか?」
「いえ、別にいけない事ではありません。仮にいけない事であっても傲慢に勝てない私達にどうする事も出来ません」
メアのその発言により木葉は安堵のため息をした。メアが『ただ』と言うまでは安心が出来たが、軽い休憩もくれないようだった。
「カーミラ様の母国は傲慢により滅ぼされました。復讐の対象内に入る確率は相当高いです」
「ほんと四面楚歌だな」
「はい?」
四面楚歌という言葉が異世界に無いことを木葉はわかり、少しため息をした。その言葉の意味はとりあえずメアに教えず、話を続ける。
「急で悪いんだけど馬車貸してくんない?」
「はい? その傷で遠出でもするつもりですか?」
「傷って言っても大したことないし大丈夫だ」
「……そうですか。ならせめて短刀くらいは持っていってください。貴方がエリス様を襲おうとしていた時用に準備しておいたのですが」
「なら俺はこれに殺されかけてたってことだな。ちょっと複雑な気分だな」
「紙を渡せば騎士が勝手に馬車を貸してくれます。変な真似をしないようにお願いします」
「ご心配ありがとうございますメイド長様」
メアの気遣いに木葉は嬉しいのか、軽い会釈をしたが顔を上げた時に面倒くさそうなメアの表情を見て、やっぱりこいつは何回巻き戻っても変わらねぇな、と心の中で思いながら部屋を後にする。
なるべく誰とも会わずに馬車の場所に行きたい。理由は特にない、気分だ。
「――やあ」
そんな願いは騎士王の前では叶いっこなかった。
歯を鳴らしながら自分より身長の長いアイザックの顔を見る。
アイザックは機嫌の悪そうな木葉を見て苦笑いをした。騎士王にそんな顔を出来るのは木葉くらいだろう。
すぐ近くにいたメイドに睨みつけられた事に気づき木葉は肩をすくめる。
「やっぱり一番会いたくなかったのはお前だな」
「急にそんな事言わないでほしいな」
「メイドから睨みつけられるから仕方ねぇだろうが」
アイザックの権力は木葉とは比べ物にはならないものだろう。メイド達からの信用も相当高いものだ。
アイザックには欠点は多分ないだろう。その優しすぎるアイザックがうざく感じてくる。
作り笑いをした木葉の表情を見たアイザックは苦笑いしかしなかった。
「なんかごめんね」
「分かればいいんだよ。ちくしょう」
アイザックは何も間違っていないのに謝るのにも少しイラッと来るが、木葉は自分はどんだけ心の狭い奴なんだと思い、それ以上何も言わなかった。
その代わりアイザックが木葉に疑問の答えを問いかける。
「どこに行くんだい?」
「別にお前には関係ないだろ」
その瞬間にメイドの視線が冷たい物になった。言葉遣いを間違えた訳では無い。あえて言葉遣いを悪くしたのだ。
木葉がアイザックのような立場なら敬語よりこういう話し方の方がいいと思った木葉の善意だ。
「悪いね、僕のせいで時間が取らせてしまったね」
「悪いと思ってるんなら手を話せよ!」
「それはダメだよ。どこに行くかくらいは言ってくれないと騎士王として見逃す訳にはいかない」
「お前は俺の母親か!」
廊下では木葉とアイザックの声が響く。
メアの心の無い行動より、心配性のアイザックの方が厄介に感じてきた。
アイザックの握力は木葉の全体重をかけても離されることは無かった。
「てめぇ! どんな鍛え方したらそんな握力になるんだよ」
木葉が全ての力を使っても剥がれないアイザックの握力は、木葉の腕を握り潰せるくらいあるだろう。
木葉は引きこもってる間、筋トレしてる時間がほとんどだったが、それを凌ぐ力がアイザックにはあった。
「てめぇ! 早く離しやがれ」
「君がどこに行くのか教えてくれたらすぐにでも離すよ」
「だから! なんで俺がお前に言わなきゃならねぇんだよ!」
「……分かった。もう離すよ」
「え?」
全体重をかけて、アイザックの握力に対抗していた木葉の体は一瞬で軽くなり、自由が聞かなくなった体は床の方へ倒れ込み、後頭部をぶつける結果になってしまった。
「痛てぇじゃねぇか!」
「悪気があってやった訳では無いよ。ただ僕は確認したかったんだ、君が血の蛇を持っているかね」
「最初からそう言えば良かっただろうが、血の蛇を持ってる! これでいいか?」
「用事が終わったら少しだけ話したいことがある。決して君の立場が悪くなるような事じゃないよ」
木葉は話を無視して馬車のある場所まで走った。
時間制限は無いが善は急げ、木葉の頭の中ではそれだけが回っている。
無駄な時間を過ごしている暇は全部、憤怒を殺す為に使いたい。
そんな木葉の中には時間制限はある。心の問題だ。
木葉の体力は前の世界より成長したのか、息切れする事も無く、馬車がある場所まで着いた。
「馬車出してもらえますか?」
木葉は前の世界と同じように騎士に紙を出し、その騎士がその紙確認した後、馬車を出してくれた。
少し違うがここまでは前の世界と同じだ。大きく違いか見られるのはここからだ。
「僕の言った作戦は危険だ。ほんとにやるのかい?」
「危険って言っても俺は不死身だから変わらなくね?」
「でもね?」
「それに大丈夫だ。傲慢さんは俺が作戦を実行しやすいようにしてくれたようだしな」
「敵の裏を付くのは悪い気はしないけど、相手は傲慢だ。君の裏の裏も取れることを忘れないでね?」
「今回の相手は傲慢じゃねぇよ。憤怒だ」
馬車に乗り、森に入る。
森の中は闇に覆われている。外からやってきた木葉を飲み込み、森はその牙を仕舞う。
「――さぁてと、司教様に目に物見せてやる」
木葉がそう発したと同時に森の中に肌寒い風が吹いてくる。
木葉にこれ以上、足を踏み入れるなと言いたいかの様な風だった。