⚠FICUMENT1.0「出会いシステム」
小説を読み始める前に、ひとつお伝えしておきたい事があります。
この作品はフィクションであり、実在する、人物・地名・団体とは一切関係ありません。
この事をよくよく心に留めて読み進めて頂きたいのです。何故ってこの作品の主人公はあなた自身だから。嘘だと思いますか?それで結構。嘘は嘘だとわかってこそ楽しめるものなのです。それでは、こころゆくまで嘘の世界をお楽しみください。
それではまず、あなたの名前から決めていきましょう。いえいえ、おっしゃって頂かなくても構いません。あなたの名前なんてどうせ大したものじゃあありません。失礼、どうか気を悪くなさらないで頂きたい。なるほど、あなたはどうやらほんの少しプライドの高い人間のようですね。しかしこの場では名前はありきたりな名前で良いのです。佐藤とか鈴木とか。どこにでもいて忘れられやすい名前がよろしい。下の名前は男でも女でもいいように「真」あたりにしておきますか。そのくらいで良いのです。
「さすがに男でも女でもいいというのは言いすぎではないか・・・。」
とあなたはちょっとこの語り手に愛想を尽かしはじめたかもしれませんね。
それでも一向に問題はありません。何故ってこの作品の主人公は「あなた自身」であればそれで構わないからです。この主人公は「あなたである」という事実をもって他に何も必要としないのです。
あなたは今この文章を読みながら、同時にいろんな事をしているはずです。
電車に乗っている?家でくつろいでいる?なにか飲み物を飲んでいる?それも自由です。
ですがいまからおよそ3分後に、あなたはふとした事をきっかけに『ある事』を思い出します。思い出したあなたは、ひとまずそれまでやっていた事をやめて外に出ます。
家ならば玄関から。電車ならば途中の駅で。喫茶店であればお金を投げ出し、学校で授業を受けているのならばこっそり抜け出して。とにかくあなたは急がなくてはならないのです。のうのうと誰が書いたかもわからない小説を読んでいる場合ではないのです。あなたは向かわねばなりません。夜ならばタクシーに乗ってでも向かうのです。タクシーの運転手にあなたは告げます「渋谷まで」と。
1.1「出会いシステム」
「ふうん」
そこまで読んで僕はスマートフォンを閉じた。ちょっとバカバカしいと思いながら、正直少しだけ怖くなった。この文章は、ある友人から「小説を書いたので読んで感想を聞かせてほしい」と頼まれて渡されたWeb小説のような物だ。はっきり言ってそこそこ文量もあるようだし読む気が起きない。そもそも今はそんな気分ではないのだ。友人とは言っても中学以来会っていない幼なじみで、何処かで僕自身が小説家を目指していると聞きつけたらしい。突然連絡して来たかと思ったら「趣味で書いてみたんだがプロを目指してるお前に率直な意見を聞きたい」ときたものだ。やってられない。おまけに主人公らしき人物の名前は佐藤とか真とか言っている。「佐藤真」は僕の名前だ。勝手に人の名前を使わないで頂きたい。
「まぁ、ただ」
ただ、正直に言えばこのまま読み進めるのが怖くなったというのもある。なんとなく、今まで読んだ事のない気持ち悪さがあり、それが少なからず『自分には無いもの』のような予感がしたからだ。
自分が自分でないような感覚に陥る事がある、誰かが今の自分を上から覗き込んでいるんじゃないかと、今こうして小説を読んでいる自分を、またもう一人の誰かが覗き込んでいるのではないかと。そんな不安感をこの小説は表現しているような気がするのだ。自分にこんな文章が書けるだろうか。嫉妬?焦燥?そうなのかも知れない。けれど、それ以上に僕の心を支配しているのはもっと自分勝手な気持ちだ。この気持ちの名前をなんと言っただろうか。
僕は大きなため息をついて、手にしていたスマホを投げ出しながらベッドに転がった。小さな音でラジオが流れている。落ち着いた低い声の女性が音楽を紹介している。僕の好きなパーソナリティーだ。
”S wave! お届けしたのは、今注目のアイドルユニットキューティーエイティーンで「夢をあきらめないで」でした!
みなさんこんばんわ、Aikaです。今日もShibuyaFM道玄坂スタジオよりお届けしてしております。皆さんからのお便り、ファックス、メール、SNSなどでの声をお待ちしております。さて、本日のテーマは「子供の頃からの夢」ということなんですが、私の子供の頃の夢はですね〜ふふふちょっと恥ずかしいんですが「お嫁さん」になる事でしたね。残念ながらまだその夢は叶えられておりませんけれども、いつの日か叶うといいなぁ。それでは頂いたメールお読みしますね。ラジオネームTomokaさんから『Aikaさん、こんばんは。』こんばんは!『いきなりですが今日は私の兄の話をさせて下さい、実は先日兄が歌手になりたいと言いだして父と大喧嘩になってしまいました。妹の私としては二人の気持ちがよくわかるので、なんと声をかけるべきか迷っています。どうしたら良いでしょう』なるほどねー…”
なかなか気の利いたテーマの番組である。たまたま境遇が似ていて妹の顔と父親の顔が頭をよぎった。ふと、声が聞きたいなと思ったが何を話せば良いのかわからなかった。たくさん迷惑をかけた。今更どのツラ下げて…である。夢を追いかける責任というものは自分だけでなく周囲の大切な人に対しても負わなくてはならない。僕の書いた小説はだれにも読まれる事なくこの情報の渦の中にむなしく埋もれて行くのだろう。だがもし仮にどこかに僕の小説に目を留めてくれる人がいるのであれば、その人に僕は伝えたいことがある。たった一人のあなたがこの文章を読んだ事が、僕という人間にとってどれほど喜ばしく誇らしいことか。あなた一人のその行為がどれだけの幸福を生み出しているのか知ってほしい。そして最後に「ごめんなさい」と伝えなくてはならない。
僕はラジオに手を伸ばしスイッチを切った。この気持ちの名前は多分「罪悪感」だ。
翌日。僕はファーストフード店の店内にいた。
「まーた、やたらとむなしそうな顔してるわねー。どしたん?」
明らかにマニュアルには載っていない言葉遣いで店員が話しかけて来た。
「一応今日は僕、客なんだけどね…」
かつてのバイト仲間であり大学の同期でもあり、さらに言えば中学以来の腐れ縁でもある彼女に僕は愛想笑いを返す。
「聞いたよ!ここ辞めたんだって?言ってよ!!あたし辞めにくくなったじゃんか!」
「フライドスパゲッティーバーガーひとつください。」
「スパワンはいりまーす」
この、幾分か会話をスルーしても気にしない点においてこいつといるのは楽である。
彼女の名前は櫻井ルカ。ポニテが印象的な活発系女子だ。口さえ開かなければそこそこ見た目はかわいいのだが…
「で?なんでそんな落ち込んでるわけ?春休みもうすぐ終わっちゃう的な?つってもあんたどうせ春休みじゃなくても大学来ないじゃん。自宅警備ご苦労様です。」
あくまで口さえ開かなければである。
「接客しとけよ、一応。店長あれで意外と見てるぞ。」
「当店、ただいま人生相談サービス中でございます!」
得意げな笑み。このスマイルは普通の客なら有料かもしれないなと馬鹿なことを思う。
いつも通り客のいない店のレジを挟んで僕たちはとりとめの無い話をしていた。
「そういえば櫻井、中学の頃の本田って覚えてるか?」
「本田…くん?あー、懐かしいねあんま話した事ないけど、わりと一人でいることが多い子だったような…」
「そうだったか」
「んー確かご家庭でなにか問題があった?とかで途中から学校来なくなっちゃった子じゃない?よくわかんないけどいつも本ばっか読んでたイメージあるなぁ」
「だれか仲いいやつとかいなかったのかな」
「えーっ?」
「?」
「いや、それでいうと…まこっちじゃないかな。一番仲良かったの。」
「まこっち?」
まこっちとは、櫻井が主に佐藤真を呼ぶときの名前だったような気がするのだが。
「…えぇっ!? 俺ぇ!?」
驚きのあまり一人称がブレてしまった。たまに「俺」がでてしまう。
「覚えてないってひど…」
「いやぁ、覚えていないわけじゃないけれど、確かに話をしたり家に行ったりもしたけれど、本当に数ヶ月くらいの事だったんだよな。仲良かったの。だからあまり記憶が…」
「まぁすぐ転校して行っちゃったしね。で、本田君がどうかしたん?」
「あぁ、いや、別に、ただなんか突然連絡来てさ。」
「ふーん、はいっフライドスパゲッティーバーガー!コーラとポテトのセットお待たせしましたっ!ご主人様!」
「店のイメージを勝手に変えない!え、てかドリンクセット頼んでないけど」
「おまけだぁい!」
そうか、本田は僕が思っていた以上に友達の少ないやつだったのか。確かに良く本を読んでいる奴だった気がする。思い出してくると何となく本田の期待に応えてやれそうに無い今の自分が申し訳ないという気持ちでいっぱいになる。席について、この不健康な昼食をすませ、おもむろに鞄から重く分厚い教科書を取り出す。開いてみるも全く頭に入ってこない。客のいない静かな店内のBGMを聞きながらぼんやり外を眺める。おまけをもらっておいて言うのもなんだが、コーラよりも無性にコーヒーが飲みたい気分だ。
「ほんとに今日どしたの?元気無さすぎじゃない?あれ?勉強してんだ?珍しい。」
床掃除がてら(という口実を作って)また櫻井が僕の席にちょっかいを出しにきた。
「なぁ櫻井」
コーラのストローを咥えまま僕は話した。
「なんか、わりとさらっと大事なこと言うけどさ…」
「え、なに?え、ど、どしたの?あらたまって」
なぜか少し挙動がおかしくなっている彼女をよそに、少し乱暴に僕は続けた。
「小説家になるの諦めたよ」
あいつの顔は見ずに言った。なんとなく見る事ができなかった。
櫻井なら驚いて、残念がったり励ましてくれるんじゃないかっていう甘えた期待もどこかにあった。でなければ、お前の夢はそんなものかと叱咤される事さえも、このとき僕は望んでいたと思う。それでもその期待は少しはずれ、一瞬の沈黙が彼女の答えだった。時間が止まったようにさえ感じた。だから僕は自分で苦し紛れに話を続けた。
「もともと決めてたんだ。この春休みに何かしら手応えが得られなかったら諦めて公務員試験受けるって、親と約束してはじめたんだ。大学の一年間家賃と学費の半分出してもらってるし。そろそろ現実見ないと心配かけるからさ。」
言い訳をならべながらゆっくり彼女の目を見上げた。見上げてしまった。その悲しそうな目を見てしまった。
僕は知ってる。櫻井ルカもまた、役者になるという子供の頃からの夢を持っている事。
お互いに、どのくらい本気で夢を追いかけて来たか手に取るようにわかる。だからこそ彼女が僕にかける言葉につまるのも痛いほど理解できた。にもかかわらず僕は最後にさらに醜くい言葉を重ねる。
「辞める前に、言ってほしかったってさっき言ったろ?」
その言葉で、櫻井は少しハッとして。自分が今まで何もしゃべっていない事に気づいたようだった。
「そう、なんだ。」
「うん」
「よく考えて決めた事なんだよね」
「うん」
「そっか、ありがとう。話してくれて。」
止まっていた時間がゆっくりと動き出して、店内のBGMがまた耳に届くようになって来た。彼女がまた少しずつもとの明るいトーンで話をしようと気を使い始め、それと同時に「夢を諦めた」という実感がじわじわと自分の中を浸食し始める。
彼女は僕の言い訳に使った言葉にそのまま理解を示しながら。「うん」とか「そうだよね」とか言葉を付け足していた。
あまりこの話題を続けても暗くなると察して、ポジティブなことを言おうと「これを機に彼女でも作った方がいいんじゃないの?」などと軽口を叩きながら僕の机からポテトを一本とって口に入れる。
「あ、そうそう出会いといえばさ・・・」
櫻井はふと思い出したように話をする。
「?」
「フィキュメントっていうWeb小説聞いた事ある?」
再び時間が停止したような気がした。今度は僕一人の時間だけが周囲から取り残されて止まった。本田から渡された小説のタイトルだ。
「え、あ、あぁどうだったかな。覚えてない」
なぜか曖昧に返事をしてしまった。
「そのフィキュメントっていう小説にね『出会いシステム』っていうちょっとおもしろい仕組みが出てくるんだって」
伝聞調…彼女自身はフィキュメントを読んでいないようだった。
「最近、大学の友達の間で噂になってたからさ、まこっち知ってるかなと思ったんだけど」
「いや、出会い系サイトみたいな事?」
「んーって言うより、おまじないに近いかな。」
「おまじない…?」
「そ!まず気になる相手をじっと見つめます!」
「!?」
そう言うと櫻井は僕の向かい側の席に腰掛け前のめりに顔を近づけてきた。
「こうやって、相手と『目が合った!』と思ったら目をつぶって3秒数を数えるの。」
櫻井は僕に顔を向けたまま目を閉じる。長いまつげの瞳が閉ざされたまま僕の方を向いている、こうして見ると端正な顔立ちをしている、幼なじみとはいえ何となく落ち着かない。
「1、2、3!」
「!?」
瞬間彼女の目がぱっと開き再び目があった。すると彼女は気持ち嬉しそうに続ける。
「こんなふうに、目を開けたときにもう一度目が合えば『出会いシステム成立』ってことで声かけても良いですよっていう合図になるの。声をかけるときは合い言葉があって相手の名前を知らなくても『佐藤さんですか?』って聞いて『そうです』って答えてくれたら、まぁokみたいな?」
なるほど、ちょっと説明がヘタでわかりにくいが言ってしまえばナンパ支援のお作法のようだ。シンプルだが意外と良くできている。
普通は、他人と目が合ってしまった際に、さらに3秒以上見続けるという行為はあまりしない。だからこそお互いがこの出会いシステムのルールを知っていればお互いに声かけOKの確認ができるというわけだ。相手が気に入らなければ3秒の間に回避する事もできる。そして、万が一相手が出会いシステムの事を知らずに3秒後も目が合ってしまった場合に備えて、最後の確認を行うためにあらかじめかける言葉も決めておく。
「まあでも、まこっちは本当に『佐藤さん』だから気をつけた方が良いかもね〜。」
などと言って笑っていた。
「でもさ、そのフィキュメントって小説そんなに流行ってるの?その話だと出会いシステムはある程度たくさんの人に認知されていないと機能しないと思うんだけど…」
本田の書いた小説はそんなに噂になるほど人気なのだろうかとなんとなく惨めな気分になりながら僕は確認する。
「さぁ、どうなんだろ。ググっても出てこないからそこまでじゃないのかもね。」
彼女にとってはただの談笑のささいな話題にすぎないのだろう。フィキュメントが本田から渡された小説であるという事は最後まで言い出せなかった。
それからは客の出入りのほとんどないこの店で暗くなるまで教科書とにらめっこして過ごした。正直あまり頭に入ってこず、勉強ははかどらなかったが僕は店を出た。3月も終わりに近づいたと言うのに夜はまだ少し肌寒い。坂道を一人とぼとぼと歩く。坂の上にある小さな公園のベンチに腰掛けた。
自分はこの1年何をしたのだろう。頑張っていただろうか。さっきの櫻井への言い訳を反芻していた。僕は負けたのか?それさえわからない。勝負をしてこなかったのだ。
「ならばいっそ…」
ひとつの考えが浮かんだ。ならばいっそ負けてしまえばいい。このフィキュメントという小説を読めば、諦めがつくのではないか。自分には書けない圧倒的な作品を前にすれば納得もいくのではないか。そんなことを考えた。
ふと、物陰から誰かがこちらを伺っているような気配を感じたのだが。野良猫だろうか?
0.2
本田から渡されたフィキュメントというWeb小説について詳しくはここでは割愛させてもらうことにする。どうしても原文を読んでみたいという方は※URLを参照して頂きたい。ここではこれから僕に起こる物語の中で最低限必要な情報を簡単に説明しようと思う。原文を読んでいなくても楽しんでいただけるようにまとめてみたので、少々難解な点があるかも知れないがお付き合いいただければ幸いである。
フィキュメントは大まかに言えばミステリー小説に近い小説だ。”近い”と表現したのは、一般的にミステリー小説に重要とされる部分が欠落しているからだ。「探偵」と「解決編」が存在していないのである。
事件は2018年4月1日、午前0時52分に起こる。渋谷のスクランブル交差点の真ん中でホームレスが銃殺されるというものだ。銃殺されたホームレスには顔全体を覆うように張り紙状の覆面が貼られていて覆面には不可解な魔法陣のような模様が描かれていた。これだけでもかなり奇怪な事件だが、問題はこの事件がとあるSNSアカウントで事前に予告されていた事にある。それも撃たれた時刻『0時52分』というあまりにも精確な時間で予告をしているのだ。そもそもSNSアカウントで犯行声明をするなど犯人にすれば自殺行為も同じ事と思われるであろうが、実はこのSNSアカウントは一風変わっている。
今、高校生などを中心に同一のアカウントを複数のメンバーで共有するという遊びが流行っている。IDとパスワードを特定のメンバー同士で共有することができれば誰でもこれと同じ事ができる。通常はカップルや仲良しグループで行ったり、他の誰かになりすます程度の身内の遊びなのだが、この小説の中で殺人予告がされた「IDiot」(イディオット)と呼ばれるアカウントはこれの化け物級に成長したものと思ってもらえばよい。不特定多数が匿名で集う一種の大規模サークルのような存在になっているのである。IDとパスワードを知っている人間がどのくらいいるのか、数百人なのか数万人なのかそれさえわからない。そういうネットのごく公共的な場に出された犯行声明なのである。
小説の物語の主人公はすべて「あなた」と表記されていて、さも読んでいる人が物語を実際に体験しているかのように感じさせる文体になっている。これはこの作品の最も特徴的なアイデアなのだが、ここに圧倒的欠点がある。それは物語の中で主人公が積極的なアクションを行えないことだ。これがひとつめ「探偵の不在」である。唯一描かれている主人公の情報としては、この主人公「あなた」がIDiotのパスワード保持者であるという事のみ。つまり主人公「あなた」は容疑者の一人になってしまっているという事なのだ。
IDiotは普段、不特定多数の者が投稿したり、削除したり、時にはパスワードを変更したりしながらその人格を少しずつ変化させているわけだが、そのなかに、共通の文化も形成されている。それが先述の「出会いシステム」だ。IDiot上に具体的な時間と場所のみを投稿する。それがパスワード保持者同士の合図となる。それをたよりに現実の場で出会いシステムが行われるというのだ。櫻井の話と少し違うのは、最後の確認の言葉は「佐藤さんですか?」ではなく正確に言えば「現在のパスワード」であるということ。作品のなかで実際に使われているパスワードが「satosan」なのである。
物語の主人公「あなた」は事件後、この出会いシステムをつかって数人のえん罪仲間、もとい容疑者候補達と顔を合わせる事になる。彼らの持つ情報を整理して、状況から犯人を探し出す…というのが想定されうる自然な流れなのだが。ここで小説フィキュメントは終わっているのだ。これがふたつめ「解決編の欠如」である。物語は最後に読者自身が犯行現場に実際に足を運ぶ事を促して終わっている。さも「事件を解決するのはあなた自身だ」と言わんばかりに。
なるほど、書きたい事は大体わかった。正直、そのアイデアには驚かされもした。しかし、はっきり言ってやろう。解決編のない推理小説など愚の骨頂も甚だしい。こんなもの糞の役にも立たないド素人のする事だ。作品は完成させなくては意味が無いのだ。
僕は実は少し腹を立てていた。この怒りという感情はなんともおもしろいもので、今までの陰鬱とした気持ちがなぜかどこかに行き、僕はすこし高揚していた。本田に連絡を取らねばならない。この作品はなんだと罵ってやらねばなるまい。そして僕は、僕はもうこれで最後だから。最後の最後にこんな気持ちにさせてくれてありがとうと言いたい。とそう思っていた。
「なんで出ないんだよ…」
僕は本田からSNSのメッセージ機能を使ってこの小説を渡されたのだが、僕は何度かそこへ返信をして、通話をかけてみたりもしていた。
「感想を聞きたいんじゃなかったのかよ…」
カレンダーに目をやる。今日は2018年3月30日。
ということは、作中でのXデーはまだ来ていない未来の日付なのか。なんとなく、ここに書いてあることが現実になったら…と想像してしまった。
「まさかね」
1.3
朝になっていた。
本田からの連絡はなし。このままでは埒が明かない。
小説家になるのを諦めるために読み始めた小説が完結していない上に、作者と話もできないのでは逆に気になってしまって公務員試験の勉強に全く集中できない。
渋谷に行こう。
勉強ならばどこでもできる。あまりなんども櫻井の店に行くというのも何となく気が引けるし。たまには渋谷の街をぶらぶらするのもわるくないだろう。そういえば欲しいものもあったような気がする。そんなふうに自分に言い訳しながら僕はのそのそと家を出る。
僕の家は渋谷までは比較的近い。歩けなくはない距離。というか、東京の人間は比較的良く歩くのだ。電車もバスもタクシーも充実してはいるが案外歩いてしまった方が速かったりする。大抵の用事は歩ける圏内で済ませられるとも言える。車中心の地方の生活よりも意外と健康的かもしれない。
渋谷の駅に近づくにつれて人が多くなる。平日だというのにこの時間からもう人が多い。
そうか、プレミアムフライデーというやつか?大学生の僕にとってはまだ少し働くという事にリアリティーがない。就職したり結婚して家庭を持ったり。生きて行くという事にまだ実感がない。小説家になりたいなんて言えるほど大した人生経験などもない。この街を歩く一人一人に人生があって、大切な人がいて、悩みがある。その事をあえて意識してみるように、街を歩く人々の顔を見ながら歩く。
JR渋谷駅。宮益坂から鉄橋をくぐるとかの有名なスクランブル交差点だ。最近増えた巨大なデジタルサイネージが新発売の「猫プリン」の広告を流している。横断歩道を渡る人々を眺めた。自撮り棒のついたスマートフォンで交差点を撮影している外国人観光客。地下鉄の入り口には四方八方に監視カメラが設置されている。こんなところで拳銃なんて使おうものなら必ず目撃者がいるはずだ。犯行などそもそも不可能だ。とそう思えた。やはりフィキュメントは本田がただ思いつきで書いただけで、答えなんて用意されてないのではないか?そんなものに振り回されているのはアホらしい。
交差点が青に変わり、うじゃうじゃと人々の塊が車道に溶け出して行く。その波がこちらにもやって来て、後ろから押される。ここに突っ立っていては通行の邪魔になる。駅まえの交番を左に逸れると壁に忠犬ハチ公のレリーフが施された大きなタイルアートがあって、たいていその辺りに待ち合わせの人たちがぼーっと立っている。僕もその中に混ざって少し行き交う人々を見ていた。なんの待ち合わせの予定もないのにそこに立つのはなんだかそわそわするものだ。いろんな人がいる。
そのなかに一人。女子高生がいた。
いや、女子高生という意味ではその場には何人もいたはずである。ただその子だけが違っていた。なぜだか目が離せない。
友達と群れず、ただ一人。
僕と同じように行き交う人々を眺めながら、息を止めているような緊張感がある。なんだかとても抜き差しならない様子で、その子の周りの空気だけ気温が低くなっているのではないかと思うほど張りつめた雰囲気で。大声で叫びたいのに全く声が出ないような、苦しみを必死に押さえつけているような感覚を彼女の表情の奥に見た。
泣くのを我慢している?僕にはそんな風に見えた。
目が合った。
瞬間。彼女の表情は驚きをまとって、それでも
僕が次の瞬きをしたときには確信の表情に変わっていた。
その場でゆっくりと彼女は目を閉じた。
ちょっと待ってくれ!僕の感情は追いつけない!身体が反応せず走り出せない。
3秒と言ったか?それだけの時間があれば回避する事ができるだって?冗談じゃない。
僕にとってそれは永遠のように長く、あまりにも瞬間的な出来事だった。
目が離せない。
彼女はそっと目を開いた。
その目はまっすぐに僕を見ていた。目の中には純水なのではと思えるほど澄んだ涙が含まれていて。透き通るような肌も、髪の揺らぎも彼女の全てが僕に向けられていた。
一歩、彼女は前に踏み出す。彼女の周囲の冷えた空気が、街の少しだけ暖かい空気と混ざる。一歩。間を置かずにさらにもう一歩。彼女は近づいて。僕の目の前にたどり着く。その頃にはもう彼女の目にはたくさんの戸惑いと、恐怖とがおり混ざっていた。ただ、その歩みの勢いのまま彼女はか細い声を発した。
「あの、佐藤さん…ですよね?」
1.4
「えっと、あの、佐藤真さん…ですよね?」
彼女は少し落ち着きを取り戻しながらもう一度言った。
その声は不安に脅かされながらも、透き通るようなキラキラとした旋律で僕に届いた。
僕はといえばその間、身動きひとつできない阿呆の極みのようなもので、状況が理解できず頭の中は大忙しであった。これは明らかに「出会いシステム」の成立に違いない。しかし、彼女は僕の事を「佐藤真」とフルネームで呼んだ。確かに小説フィキュメントを読めばこの名前は知っているはずではあるが、それはあくまで暫定的な例え話として出てくるのみであり、作中にはあれ以降2度は登場していない。この場合、単純に出会いシステムの成立に「真」の名前を使うとは考えにくい。彼女は僕が”ほんとう”に「佐藤真」であるという事を知っているのか?誰かから僕を探すように言われたのだろうか?いや、僕自身がここにいるという事は今日僕が適当に決めた事だ、僕が渋谷にいる事を誰も知らない。では以前何処かで会った事があるだろうか。わからない。この子は誰だ。
そんなことで頭をフル回転させながら
「え?あ、ええっと、あぁ…」
などとみっともない声を出した。
「あの。助けてほしいのです。」
彼女は戸惑う僕をよそに、震えた美しい声で、それでも少しずつ冷静に話し始める。
「あの、お兄ちゃ…あ、兄を捜してるんです!!」
「お、お兄さん?」
「あの。私の事覚えてないですよね!ご、ごめんなさい。私、本田ミサキです。」
本田
「本田スイリの妹のミサキです。」
そうか。何度か本田の家に遊びに行ったとき、会った事がある。目の前の人物が誰かわかると、気持ちが落ち着いていく。少しだけ糸が繋がったような気がした。
「そうか、なんだ!久しぶりだね。よくわかったね僕だって。」
そのとき彼女目に涙を蓄えながら、口をぎゅっと結んだ。
さっきとは少し違うがこっちの顔の方が本当に泣くのを我慢している顔だなと、なんとなく思った。
本田ミサキは極度の恥ずかしがりやだった。いや、あえて言葉を選ばずに言うならば「コミュ障」に含まれるレベルだ。そういう意味では初めて会ったときのこの行動がいかに彼女にとって異常な事か、どれだけ困難な状況だったかということを物語っている。
その後、僕らは場所を変えて少し話をする事にした。
スクランブル交差点が見下ろせるスターバックスコーヒーに適当に入る。今時の女子高生はスタバなんて普通に行くんだろうと思っていたが、どうやら慣れていないらしく店員とのやり取りにものすごく戸惑っている。彼女が注文するのに顔を赤面させてあわあわとしているのを僕は自分のコーヒーを待ちながら見ていた。こんなに戸惑うなら一緒に注文してやれば良かっただろうか。まぁ何事も経験だ、とよくわからないことでいちいちもやもやしながら先に席を探していると伝えて階段を上がる。何を話すんだろう。兄を探してほしいと言っていたが本田がいなくなったのだろうか。僕も本田には会いたい。なにか協力できるのならばしてやりたいが、僕に何ができるのだろう。小さな机を挟んで二人が座れそうな席を見つけて座る。そこに、身の丈にあわないほどの大きなカップの飲み物を恥ずかしそうに持ってミサキはやって来た。スタバのべンティサイズは悪意があるなとさえ思う。おおかた一番大きいのとでも注文してしまったか。
「失敗しちゃったか」
「う・・・」
「僕のと交換する?」
「あう、あの。いいです。」
あの出会いシステムの瞬間以降、彼女は僕と目を合わせようとしない。
「ええっと、それでお兄さん。本田を捜してほしいってさっき言ってたけど。」
「あの。えっと、その。佐藤さん誰かと待ち合わせとかじゃなかったんですか…」
「あー、平気。実は何も予定なかったんだ。フィキュメントって小説を読んでなんとなく来てみただけだったから。」
フィキュメントと聞いて彼女の顔つきが変わった。
「あのっ!それ!ど、どこで?どうやって読んだんですか?」
あまりにも大きな声だったので、周りの客も僕も、本人さえ驚いていたようだった。
恥ずかしそうにする彼女に苦笑いを向けながら僕は状況を説明する。どうやらこれはお互いに情報交換が必要そうだ。
「このSNSアカ佐藤さんだったんですね。」と言いながら、彼女に似合わない黒い合皮のカバーのついたスマートフォンを眺める。
「それ、もしかして」
「あの。兄のです。ケータイを置いたままもう1週間以上家に帰ってなくて…」
「そんなに?」
僕がSNSを介してフィキュメントを受け取ったのは数日前だ。本田は外部からPCか何かで自分のSNSにログインしたということか。
「この小説、どう思いますか?」
さっきまでのおどおどとした感じが少しずつ消え、彼女の余裕の無さが伝わって来た。
「どうかな、アイデアはおもしろいと思うけど、登場人物の心情も描けていないし、何より途中だろ?これじゃあ評価も何もできないよ」
ちょっと負け惜しみというわけではないが、素直に言えなかった。
「あの、この小説って、少なくとも事件が4月1日に起こってから後の事を描いていますよね。つまり、現実の世界ではまだ起こっていない未来の事が描かれている。」
「うん。いやでも…」
「私にはこれ、このフィキュメントという小説自体が犯行予告になっているんじゃないかと思えて仕方ないんです。」
「僕も少し思ったけれど、さすがにそれは考えすぎじゃないかな」
「でも…」
「君のお兄さんが誰かを殺害するかもしれないってこと?本田はそんなことする奴だったかな?僕にはそうは思えないけど。」
「・・・」
彼女は黙り込む。
「私、このフィキュメントという小説。本当はお兄ちゃんが書いてないんじゃないかって思ってるんです。」
「どういうこと?」
「いなくなる直前に、お兄ちゃんなんだか少し変だったんです。おそらく、なにか妙な宗教みたいなものにハマっていたんじゃないかと思えるんです。『フィキュメントはすごい』とか『新しい世界を作る』とかよくわからない事を言っていました。」
「まじ?」
「自分の書く小説をこんな風にすごいとか言わないですよね。むしろ誰かから教えてもらったみたいな言い方で…」
やっぱり最近の彼を知らないと安易な推測はできないかもしれない。
そして自分が思っていたよりもこのフィキュメントという小説は実はかなり厄介なものなんじゃないだろうかという気がしてきた。
「あの、それから、気がつきましたか」
「?」
「この小説のここの部分。縦に読むと『銃をさがせ』になってるんです。」
おどろいた。これは明らかに、この小説の中の世界の謎ではなく読者である我々に向けて書かれているメタなメッセージだ。これは単に作品が小説の中で完結していない事を表している。これを見ると作者が現実の世界に対して何かを起こそうとしているとも思えてくる。確かにこれは、この小説自体が何らかの犯行予告になっていると考えてもおかしくない。
「まだあるんです。」
彼女はいままでで一番深刻な顔をして、自分のスマートフォンを取り出しながら続けた。
「この小説内に出てくる、IDiotっていうSNSアカウント。ツイッター上に…」
ぞわぞわとした寒気が僕を襲った。
「実在してるんです。@Shibuya_IDiot」
スマホを僕に差し出しながら彼女は言った。たしかに存在していた。
「偶然じゃないの?」
「いえ、だれかのいたずらだったとしても明らかにフィキュメントを意識したものになっていますし、かなり手が込んでいます。」
ちょっと不謹慎ではあるが、正直に書かせてもらうとこの時、僕はいままでになく興奮していた。間違いなく何かのっぴきならない事が起きていた。最初にこの小説に出会った時は想像もつかないような物語に、今僕は巻き込まれているのではないか。いままで自分が書いてきた小説の主人公になって、誰かにこの状況を読まれているような感覚に襲われる。それは言い過ぎとしても、確かにこのフィキュメントという不可解な作品と本田の失踪は関係性があるように思える。そう考えるのが自然だ。
「ただ、パスワードは作品とは違っているらしくsatosanでは入れないんです。」
「入ろうとしたのかよ!」
「はぅ、ご、ごめんなさい…でももしここにログインできれば…出会いシステムで関係者と接触できるかも知れないと思って…」
この子のコミュニケーション能力の無さと行動力のギャップは危険な感じがする。一人にさせておくのは危ないかも知れない。
「警察には?」
「行きました。でも事件性は認められないって、本人の意思で失踪した場合は警察も動かないんだそうで、小説の事も取り合ってもらえませんでした。」
「そんなこと言っても、ご両親も心配してるだろう」
ミサキはすこし眉をひそめる
「いつものことだろって、あまり気にしてないんです。」
「前にもよくこういう事が?」
「ええ、まぁ。でも、今回はいつもと違うんです。ケータイだって置いて行くなんて、いままでそんなこと無かったのに。それにこんな小説まで出てきて。私、お兄ちゃんの身になにかあるんじゃないかと不安で…」
「なるほどね。うう〜ん。そうか、参ったね。でも、これ以上どうする事もできないよなぁ。ここでずっと交差点に不審な奴がいないか、本田が現れないか待ち構えているぐらいしか…」
「謎を解くんです…」
彼女は自分に言い聞かせるように、手元のまだたっぷり残ったスターバックスラテを眺めていた。
「…それで、この交差点で一人で考えてたのか」
ミサキはこくりとうなずく。
「危険すぎるよ。」
僕は少し声を大きくして言った。
「殺人なんて正直バカバカしいと思うし、僕はそこまで本気で信じていないけれど、万が一ってこともある。危ない感じがするのは確かだ!君が信じきっているぐらいなんだからわかるだろ。そんな変な宗教が絡んでいるならなおさらだよ。冷静になりなさい。」
彼女は俯いたまま何も言わない。
「会えたのだって僕だったからよかったけど出会いシステムで危険な人に声をかけてたらどうするんだよ」
「…そうですね。ごめんなさい。」
ミサキはそう言ったが下を向いたまま一人、想像もできないほどの不安と闘っていた。重苦しい沈黙が天井から僕たちに降りかかってくる。
「あの、えっと…そうですね。いろいろ、ありがとうございました。参考になりました。」
そう早口で言って俯いたままガタッと席を立ち店を出ようとするミサキ
「待ってよ」
僕はとっさに彼女の肩に手をかけ道を阻む。
僕の横を通らないと帰れない席で良かった。
そのとき僕は彼女の目をちゃんと見た。さっきとは違って、涙が彼女の顔をひどく汚していた。最初に見たほうの「泣くのを我慢している顔」はこれだ、彼女の心が苦しく叫んでいる顔だ。ふと、自分の妹の事を思い出してしまった。ミサキの涙が妹のそれと重なる。妹にたくさん心配をかけ迷惑をかけてきた自分自身と今の本田が重なり、申し訳ないような許せないような感情が押し寄せる。
ミサキの肩にかけた手の力を緩める。僕も腹を決めようと思った。
「わかった。」
「・・・?」
「手に負えないんだろ?ちょっと手伝うよ」
そういって僕は彼女の持っている大きすぎるサイズのラテを受け取った。
まず、状況を整理しよう。
僕は持っていたルーズリーフを一枚取り出して書きはじめた。
僕たちにはわからない事が多すぎる。
【小説の中の謎】
・犯人 誰が何のために? 犯行予告をした意味
・0時52分の意味
・どうやって殺したか
・何故目撃者がいないのか
・どうやって覆面をつけたのか
・メタワード『銃をさがせ』の意味
【現実での謎】
・本田の失踪
・本田とフィキュメントの関係
・フィキュメントは誰が書いたのか?
・宗教?
・リアルに存在するIDiot
「こんなところかな。」
と僕はフリクションボールペンをカチカチさせる。
「あの、えーっと覆面の暗号の意味、もあるんじゃないでしょうか?」
「暗号?」
「え、これってなにかの暗号ですよね。」
「そうなの?これってIDiotのSNSアカウントのプロフィール画でしょ。単純にIDiotのトレードマークみたいなものかなと思ってた。」
「それにしては、なんというか、これだけ手が込んでますしなにか意味があるような気がするんです。この、逆さまの星「逆五芒星」は一般に悪魔崇拝のシンボルとされているそうです。ネットで調べるとたくさんの陰謀論が出てきます。もし、なにか変な宗教のようなものが関わっているのだとすれば、私にはこの暗号の意味する所が最も答えに近いもののような気がします。」
彼女の言う覆面の模様を一応ここに再掲しておこう。
(図1)
「ふむ、たしかに言われればそんな気がする。それにしても謎が多いな。」
僕はさっきのメモに「逆さ星の暗号」を加える。
「それにしても…」
「なにかわかりましたか?」
「ん、いや、書いていて、この『逆さ星の謎』だけが異質な気がしてきた。これだけが、単なる謎じゃなく作者からの積極的な「ヒント」になってる気がする。」
「たしかに!」
「この逆さ星の暗号の意味を考えていくことがまず第一の謎解きになるのかもね。」
そう言ってはみたものの、暗号を解くなんてあまり慣れていない。スマホで画像を拡大したりひっくり返したりしながら考えてみる。
「星が逆で・・・あれ?でもこっちの星は逆じゃない・・・うーん」
スマートフォンを取り出し、逆五芒星の意味を検索してみる。確かにこれとにたような魔法陣のような星の画像がたくさん出てくる。このサイトの情報によると悪魔の山羊「バフォメット」の象徴として紹介されている。何やらアルファベットの暗号文のようなものまで書かれており、アメリカの政府が悪魔崇拝だとかメディアはフリーメイソンに支配されているだとかかなり偏った陰謀論が披露されていた。正直”その手”の話にはあまり興味はないのだが、これらの陰謀論が逆にむやみに反米的ひいては極左的な思想に基づいているようにしか思えず、どっちが陰謀だかわからないなとあきれる。あくまで僕個人の意見だが。
「このサイトに書いてあるアルファベット表に当てはめてみたらなにかわかるかな。例えばIは9、Dは4って感じで」
「94962…ですね。足すとちょうど30になりますがそれどういう意味なのか…語呂合わせでもなさそうですし、この数列で検索をかけても意味のありそうな結果は得られませんでした」
もう既にやっていたか。ちょっと安直すぎたなと反省する。
「この小文字のt。ちょっとおかしくないですか?他と文字の形が違うと言うか…なにか意味があるんじゃないでしょうか。」
「そう?んー…まぁたしかに。言われてみれば線の太さも均一で、知らないとIDiotって読めないかもしれない…」
僕は天井を見上げる。
「もしかして…なんだけど」
「え?」
「ちょっとまって、わかったかもしれない。」
僕は突然ひらめいたそのアイデアを確かめるために、スターバックスの窓からカウンターに座る客を押しのけて渋谷の交差点を見下ろそうとした。しかし交差点はすでにこの時間人通りのピークを迎えており、僕の目当てのものは見えなかった。
「ちょっと、店を出てもいいかな?」
僕は彼女の手をつかんでやや強引に店を出た。
「え!ちょ、ちょっと待って下さい!」
渋谷スクランブル交差点。文化村通り・道玄坂から宮益坂へ続く東西を走る青山通りに続く道と公園通り・井の頭通りと合流し俗にファイヤー通りと呼ばれる南北に走る大通りが交差する巨大な交差点。しかし正確に言えばこの交差点は五叉路になっている。JR渋谷駅からまっすぐ歩行者信号を渡ると、渋谷センター街と呼ばれる細い道へとも続いているのだ。
それでは、この五叉路の交差点の中を、歩行者用の横断歩道帯のペイントはどのように印字されているかお分かりだろうか。4つの大通りに対し垂直に4カ所、大きく四角を描くように施され、さらにその中心には渋谷駅からセンター街方面にむけて斜めに一本。合計5本の横断歩道によって構成されているのである。
ということを僕は、ミサキの手を無理矢理引っぱりながらあっちにこっちにと走りまわり確かめた。冷静に考えてみれば、こんなに走り回らなくても、信号が赤のうちに確認できたはずである。
「やっぱりそうだ。」
「あの、ごめんなさい。つまり、どういう事ですか。」
僕のせいで息を切らせながら彼女は聞いた。いい質問だ。
「うん。簡単なことだよワトソン君。」
僕は少し、いやだいぶ調子に乗っていた。
「この大きな星の図形は、ここ渋谷スクランブル交差点の地図になっているんだ。」
「この五本の星の角がそれぞれの道を表現している…」
「そう、気づいたのはこの小文字のt、これって地図記号で言うと交番だよね。文字が円形に傾いて配置されているからtと読ませていると思っていたけど。普通に考えればこれはただのバツだ。」
「そして、今確認していたのは、この図形の黒い部分が横断歩道の印字されている部分と符合しているかっていうことですね。」
「これで地図の方向がはっきりした。そして、この模様の中で特に恣意的なモチーフであるこの小さい星。これの指し示す場所がここだ。」
ハチ公像の前に僕たちはやってきていた。
「もしかして、ここに銃があるんでしょうか?」
「だといいけれどね」
しかし、人目を偲びながらもハチ公周辺を調べて僕たちが見つけたのは小さな封筒ひとつだった。
おそるおそる開いてみる。
そこには逆さの星の暗号を思わせる手描きの図形が描かれていた。
ここに掲載しておく。
(図2)
まだ不安だが、僕たちはどうやら前に進んでいるようだ。
そしてここまで来ると、このフィキュメントを書いたヤツはかなり意図的にゲームを作り込んでいるという事がはっきりした。もしこれがゲームなら、僕たちが勝つ道も用意されているはずだ。何の保証もないがそんな気がした。
1.5
ハチ公像に隠されていたメモの内容は予想外に簡単なものだった。
大きくpass word:とタイトルづけられその下には
覆面の暗号を思わせる逆さまの星に123456と順に番号が振られている。
「こ、この、パスワードってもしかして…現実に存在するIDiotのログインパスワードでしょうか」
「それにしてもなんだか簡単すぎるようなきもするけどね。」
「この順番通りに、元の暗号にあるアルファベットをあてはめて行くとiDI…★?それからoが2回という意味でしょうか?」
「★はハチ公の事を表しているから8とかかな」
などとかなり曖昧な推測をする。
そんなことを 話しているうちに、ミサキは手元のスマホで素早く入力していた。
「おい、ちょっと。少しは後先考えて…!」
「えっ」
ミサキの手元のスマホには「ログインエラー」の文字が出ていた。
パスワードが間違っている。
「あれ…?」
「あ、あの違うみたいです…ね」
気がつくともう辺りは暗くなりかけていた。
完全に万策尽きた。もうお手あげだ。手も足も出ない。何がワトソン君だ!何が予想外に簡単なものだだ!全然話にならないじゃないか!調子に乗るとすぐこれだ!まったくクソゲーもいい所だこんなもの!と、ちょっと上手く行かなくなるとすぐ不機嫌になるのは僕の悪い所で、声には出さないがやけくそになりながらフライドスパゲッティーバーガーの2個目に手を伸ばしていた。
「あー、まったくもってわからんな。なんなんだこれは。」
「い、いところまで来てると思うんですけどね…やっぱり小説の方の殺人事件の謎解きをしないといけないのでしょうか。」
「それにしても、大体この小説がスカスカすぎるんだよ、大事な事が何も書いてないじゃないか。わからない事だらけでどうやって謎を解くんだよ。」
僕たちは櫻井の店に来ていた。
「へー、まさかこんな早々に彼女を作ってくるとはねぇ!びっくりしたわー!」
櫻井がヘラヘラと僕たちに絡んでくる。
「うるさいな!ちょっと思考の邪魔だからおまえは仕事してなさいよ」
「あの、え、えっと!彼女とかじゃ!全然!ちがくて!その!」
「あーあ、私もやってみよっかなー出会いシステム…」
櫻井はなにかと面倒見のいい所があるからミサキとはすぐにうちとけたようだった。というか、櫻井が一方的に「うちとかした」という日本語の方が正しいかもしれない。
それにしても、問題は謎解きが完全に停止してしまった事だ。おそらくこのパスワードを解読してログイン後IDiotのアカウント上でこちらから具体的な時間を指定する投稿をすれば、犯人もしくはそれに近い関係者をおびき出す事ができるだろう。ここまで明確な指示がありながらどうしてパスワードが違うのか。もう既に何者かが、ログインに成功してパスワードを書き換えてしまったのだろうか。いや、ハチ公像前にあったヒントは未開封のうえ、一通しか設置されていなかった。定期的にだれかがヒントを置き直しているのならば話は別だが、普通に考えてここまでたどり着けているのは僕たちだけということになる。
「難しい顔して考えちゃってるけど、まこっちって『探偵』って柄じゃないのよねー」
櫻井の僕に対する異様な評価の低さはなんなんだろうか。
「またそうやって茶化すなよ。店長!この店員サービスわるいよ!」
「こらこら!」
流石の櫻井にもここまでやると効果があるらしく、店長にヘラヘラ取り繕っていた。
「まぁでも、昨日より元気になってるみたいでよかった。」
そんな僕たちの話を少し怪訝そうな顔でミサキは伺っていた。
それに気づいて櫻井は少し優しい声で話し始める。
「まこっちってね、小説家になるのが夢だったんだよね。それがさ、昨日は世界の終わりみたいな顔してうちの店来てさ『夢諦める』って言うからさ。もう、びっくりしたんだよー?バイトだって急に辞めちゃうしさぁ」
「あの、私…」
櫻井の流れるような言葉を、蚊の鳴くようなか細い声が、必死に押し止めた。
「私、知ってましたよ。真さんが、小説家になるのが夢だってこと。」
気がつくと呼び方が真さんになっていたのが正直わりと嬉しかった。
「え?」
「こ、子供のときですけど、私がまだ小学生でお兄ちゃんの友達っていう人が初めて家にやってきて、そのとき真さん話していたんです『俺、絶対小説家になる』って。子供ながらに、中学生ってすごいなって思ったんです。私。」
一人称が「俺」だった。中学生のときの僕だ。なんだか嬉しいような恥ずかしいような気持ちでいっぱいになる。櫻井もその頃の僕を良く知ってるからわかるのだろうか、なんだか懐かしいような悔しいような顔でミサキの声に耳を傾けていた。
「だから私、渋谷で真さんを見かけたとき、思ったんです。これは運命だって。」
そ、それはちょっとさすがに恥ずかしすぎないだろうか!言ってからミサキも気づいたらしく完全に顔を真っ赤にしてやや気まずくなる3人。
「う、運命っていうのは、そ、そういう意味じゃなくてですね!と、とにかく私が言いたいのは!」
ミサキの声がすっと立ち上がったような存在感を放つ。
「私が助けを求めたのは、探偵としての真さんではなく、小説家としての真さんです。」
不覚にも目の前が滲んだ。なんだか知らないが、勝手な話だ。人がどんな夢を持とうと、どんな夢を諦めようとそいつの自由じゃないか。他人がとやかく言うような話ではない。それなのにどうしてこうもみんな簡単に諦めさせてくれないのか、どうして僕の心の中を見透かして邪魔ばかりするんだ。
「かなわないなぁ。」
僕はこぼした。
「ふーん。なにそれ。なーんか。ちょっと悔しい。」
と櫻井はふてくされたような嬉しいような変な顔をする。
「何がだよ。」
「べつに〜。」
ミサキは少しだけ、自分の言った事が変なことじゃないかと気にしてそわそわしているようだった。
そうだ。僕は探偵じゃない。だからこそ僕には僕なりの見えるものがあるかもしれない。もう一度ちゃんとフィキュメントを読み返してみよう。なにかヒントがあるはずだ。もう一度だけ小説家を目指してきた自分の力を信じてみよう。僕はフリクションボールペンをカチッと一押しした。
時間は刻一刻と過ぎて行った。ヒントを捜そうとすると全ての情報がヒントに見えてきて、混乱に混乱を重ねる。なにか違和感を感じるような事はないだろうか。登場人物達の会話の中に犯人しか知り得ないキーワードが飛び出してはいないだろうか。書き手の気持ちになって全ての言葉の理由を突き詰めてみる。僕は何度も読み返していた。
書き手の気持ちになる。それは、僕自身が書き手だったら?ということではない。この作品特有のこの作者の大切にしている僕にはないものがどこかにあるはずだ。
「ミサキちゃん、このフィキュメントの作者ってどんな人だと思う?」
「どうでしょう、「嘘」にすごくこだわっている人…ですかね。」
「嘘?」この答えはちょっと意外だ、僕は「リアル」とか「現実」にこだわっているような気がしていたのだ。本来、小説というものは嘘である。僕らにはその前提があるからこういう突飛な表現をされると小説がより「現実」に近づいているような錯覚を起こす。だからこの作者は「嘘の世界を本当のことにしたいのだ」と僕は思い込んでいた。しかし、確かに「嘘は嘘だとわかってこそ楽しめるものなのです。」とか「嘘の世界をお楽しみ下さい」と冒頭執拗に「嘘」に対する強いこだわりを見せている。
「そうか。」
「な、なにかわかったんですか?」
「勘違いしてたかもしれない。もう一度読んでみる。」
「…はい」
ゆっくりと一読して、僕はペンをカチッと引っ込めた。
「少しわかったよ。」
「えっ本当ですか?」
もうかなり遅い時間になっていた。ミサキの実家は横浜にあるらしい。渋谷からの終電は早い。「高校生の女の子をこんな時間まで連れ回しているんじゃない」と櫻井に小言をわれながら、僕たちは店を出て駅に向かって歩き始めた。
「教えて下さい!」
「うん。まず、ヒントになったのはこの小説の冒頭なんだ。この小説の世界はあくまでも嘘だという認識を持たなくてはいけないという事。」
僕に少し歩調をあわせながらミサキは静かにうなずく。
「この作品の中には、あえて現実とは異なる表現をしている箇所がいくつかある。登場人物達の台詞に注目してみると気づく。僕が一番最初に気になったのはここだ。スクランブル交差点の大型ビジョンのあるビルの名前『 i FRONT』」
「i…ですか。」
「現実の世界ではこれはQFRONTと呼ばれているよね。」
「そっか」
「もうわかったと思うけど、このIDiotの暗号は全て『嘘の世界』に実在する施設の名称が対応しているんだ。IoQビルと表現されているのは、誰もが知ってるShibuya109のこと。これでiはQに、大文字のIは数字の1に置き換わる。ついでに小文字のoの方も現実にはShibuya109のメンズ館があるだろ。IoQビルの二つめのoが小文字なのはここと繋げるためだ。だからここは数字の0に置き換わる。ちょっとおもしろいのは、Dだね。ここにある書店の名前は小説の中でも現実に存在する書店の名前がそのまま使われている。しかし、この嘘の世界ではDが頭文字ということになると推測でき「ダイセイドウ」と読ませているのだという事がわかる。これ、本当はなんて読むかわかる?」
「おおもりどう…ですか?」
振っておいて申し訳ないが、笑いをこらえる事ができなかった。ミサキは顔を真っ赤にしている。
「現実の世界では「タイセイドウ」と読むんだ。」
「すると、ここはT!」
「それからハチ公に関しては8で間違いない。誤植かと思っていたが小説内でイチ公と表現されている箇所がある。これを現実に照らし合わせると1ではなく8という数字の入れ替えが想像できる。」
「なるほど…」
「だからパスワードは
QT1800じゃないかな。
意味がよくわからないから不安なんだけどね。」
「入れた…」
「え?」
振り返ると、案の定スマホを持ったミサキが立っていた。
画面にはIDiotのタイムラインが表示されていた。
「だから、もう少し慎重にだな!」
「やったぁ!!」
嬉しそうに喜ぶミサキの顔を僕はその時、初めて見た。
1.6
「...じゃ、じゃあ、行くよ。」
「はい。」
僕とミサキはお互いにひとつのスマートフォンを見つめていた。IDiotのアカウントでは具体的な日付けと時間を投稿すれば、それが出会いシステムの合図になる。覆面の暗号はこのアカウントのパスワードに繋がっていた。ということはこれを解いた僕らが次にすべきアクションはこのアカウントを使ってなにがしかの投稿をするということだ。もしかしたらこのタイムライン上で直接本田の奴を名指しで探したほうが早いのかもしれない。しかし相手はどんな奴が出てくるかわからない。僕たちは小説フィキュメントの主人公さながら「出会いシステム」を使う事にした。
僕はミサキと目を合わせて投稿ボタンを押す。指定した時刻は明日4月1日の午後3時。日中人通りの最も多い時間帯にしておけば、危険な目にあう事も少ないだろう。
「なんだか不安ですね、こちらが任意で時間を設定してもいいのかどうか。」
「いや、大丈夫。この方法が相手の意図にそぐわなかったとしても、そもそもアカウントの主導権をこちらに握らせている以上ある程度こちらの自由度が認められているって事だ。やつのゲームの進行上これがマイナスに働くことはないよ。」
「なるほど」
「それにしても、全部の謎を解け切れなかったね。あまり力になれなくてごめん。」
「それは謙遜です。」
「かな?」
僕たちは気持ちゆっくりと駅の改札に向かっていた。
「今日はちゃんと帰るんだよ。親御さん心配するから。」
「はい。」
「明日また15時にここに来よう。14時30分にはこの場所にいるよ。」
「はい。」
「解けなかった残りの謎は僕も考えてみるから。」
「はい。」
彼女の返事は少しずつ小さくなっていった。
「あのっありがとうございました。ここで大丈夫です。」
そう言って彼女はぱたぱたと改札の方へ走り去っていった。
この時間はまだ渋谷には人が大勢いる。その中でひとり、ぼくはとぼとぼと帰路につく。てくてくと歩く。頭の中がぐるぐるとしている。まだわからないことがたくさんある。いくつかの謎を解いた気になってはみたが、何も問題は解決していない。もう春だっていうのに今日はいやに寒い。
小説フィキュメントの犯人は一体誰なのか。どうやって殺したのか。目的はなんなのか。
どうやって殺害時に覆面を貼付けたのか。なぜ誰も見ていないのか。中途半端な予告時間の意味するものは一体なんなのか。
本田は何故いなくなったのか。「銃をさがせ」というメッセージの意図は。そもそも誰が何のためにこんな小説を書いたのか。
暗号やパスワードは、言ってみればクイズやパズルと同じだ。ひらめきや、計算がある程度必要だったとしてもそれはちょっとしたアクセントで本質ではない。なぞなぞが好きならなぞなぞ屋にでもなればいい(そんな商売があるのかはしらない。)ミサキが言っていた作者の「嘘」に対する異様なこだわりというのが引っかかる。
「嘘…そういえば、明日は4月1日だな。」
そうつぶやいて僕は足をとめた。ふと嫌な予感がした。
踵を返すとはまさにこういう事を言うのだろう。僕はそのまま身体の向きを180°回転させる。来た道をもどるのだ。足取りは、さっきよりも力強く、踏み出すごとに僕はその不安にとらわれていく。
「バカだなぁ俺」
今さっきぐるぐると頭を悩ませながら歩いた道を全力で駆け戻った。急げば急ぐほど不安は確信に変わっていった。
不安は的中した。
さっきよりほんの少し喧噪が遠ざかった渋谷のスクランブル交差点を眺めるように本田ミサキは立っていた。いま考えるとまだたくさんの人がいる交差点でよく見つけられたなと思う。その後ろ姿は恐怖に震えているようにも勇ましく立ち向かっているようにも見えた。近づくとなんだか耳に心地よい少し悲しそうなメロディが聞こえてきた。聞き覚えのある透き通るような美しい声。ミサキの歌声だった。彼女が歌を歌うのは少し意外だ。多分、誰かにではなく自分のためだけに歌っている歌なのだろう、僕は声をかけるのをその歌が終わるまで待つことにした。なんという曲なのだろう、歌詞はよく聞き取れなかった。彼女の歌は彼女の中で少しずつ小さく、途切れた。信号が青に変わりざわざわと周囲の人が歩き出す。終わったのかと思い僕は彼女に声をかける。
「君、こんな時間に何してるの」
驚いて肩をすくめながら彼女は振り返った。
「…ま、真さん!…か、帰ったんじゃ」
「それはこっちの台詞だよ。エイプリルフールにはまだ早いよ」
「ご、ごめんなさ…」
「いや、こっちも気づかなくてごめん。」
彼女の顔はよく見るとやっぱり涙で汚れていた。歌が途切れたのは涙のせいだろうか。
4月1日 午前 0時52分がフィキュメントの中での事件が起こる時間だ。できるだけの事はしたつもりだが。決定的な手がかりは得られていない。僕たちが失敗しているとして、なにか見落としているとして、この時間になにか起こってもおかしくないのだ。
「ごめんなさい。私やっぱり怖いんです。お兄ちゃんに何かあったらって考えると。」
「お兄さん思いだな。」
彼女はぎゅっと眉をひそめて黙った。こんな時間でもまだスタバは営業しているようだった。
「とにかく、まだ少し時間があるし冷えるから中に入ろうよ。」
「いえ、あの、ここにいます。」
「あと1時間くらいあるぞ?」
「いいんです。」
「ん、じゃあちょっと待ってて」
僕は小走りにショートサイズのラテを買って来て彼女に差し出した。
「まったく終電逃しちゃってどうするんだよ何かあてはあるの?。」
「あはぁ、いえ...」
「うち来る?」
「彼女さんに怒られますよ」
「いないよそんなの、ってそういう問題じゃないよ」
「そういう問題ですよ。」
「僕は大学の研究室のソファで寝るよ。」
「あの、別にいいですよ、一緒でも。」
「そ、そういう問題じゃないよ」
「そういう問題ですよ。」
「あ、あのなぁ、もうちょっとこう、いろいろ気をつけた方がいいぞ。」
「まぁ、真さんが嫌なら仕方ないですけど…」
「え!え?い、いや、だからそういう問題じゃ」
「ふふ、そういう問題ですよ。」
その最後のひとことは冗談めいていて、
とてもあのコミュ障のミサキとは思えないほど自然に微笑んでいた。
長いような、短いような不思議な時間だった。人が少しずつまばらになる。みんな家に帰る。明日は休みだとばかりに羽目を外す人、別れを惜しむ人、一緒に帰る人。その中で僕たちはスクランブル交差点を眺めながらその時を待った。
「…私」
また少し辛そうな声色でミサキは話し出した。
「私、ほんとはお兄ちゃん思いなんかじゃないんですよ。」
「え?」
「お兄ちゃんに心配かけてばっかりで、たくさん迷惑かけて」
「妹なんだからそれはあたりまえなんじゃないの?」
「お兄ちゃんがいなくなる前の晩、私帰りが遅くなって、お兄ちゃん私のことを怒ったんです。でも私、子供扱いされてるような気がして、そのときお兄ちゃんに『うるさい』って言っちゃった。いままでそんな事言った事ないのに、私お兄ちゃんに『うるさい』って言ったの…このままお兄ちゃんに会えなかったらどうしよう。」
また声が涙でぐらぐらになっていた。
「まぁ、それだけ泣き虫なら兄貴も心配するだろうね。」
彼女は少しのびた制服のセーターの袖で涙を拭いながら、ぐすっと息を吸って呼吸を整えた。
「ひとつ。ただ君を慰めるためだけのための、僕の拙い推理を聞いてくれるかな。」
少し気障すぎただろうか。
「犯人は本田なんじゃないかな。フィキュメントの小説も、怪しげな宗教も全部あいつの自作自演さ。まさか自分がいなくなる事でこんなに君を悲しませるとは思っていなかったんだろうよ。きっともっとこの謎解きを楽しんでくれると思ったんじゃないかな。こんな暗号や、設定にこだわったSNSアカウントまで作ってさ。驚かせようとしてるのさ。ついでに昔の友達の僕も巻き込んでさ、いい迷惑だよ全く。」
「…やさしいんですね。知ってましたけど。」
「なんだよそれ。」
「でも、ふふ、そうですね。それにしてもこれで本当に何も起こらなかったら、私たちバカみたいですね。」
彼女の涙声と笑い声がまざる。
「それでいいんだよ。なにもないことが大切なんだ。何も起こらなかったという事も大切な情報だ。情報がないという情報もまた情報だからね。」
時計に目をやる。
0時50分。もう、まもなく時間だ。
「真さん。」
気づくとなにかが起こったのではないかと思うほど街を行く人の姿が減っていた。
僕たちは交差点の中に駆け出す。だが、それだけで特別異変は起きていない。
その後ろの鉄橋をがたんがたんと電車が走り出して行く。
交差点の真ん中で僕たちは振りかえりながらその電車を見上げた。
電車の車内灯が流れるのが僕たち二人の目の中に写る。
「あの、真さん!私、ちょっとわかったかもです!」
「え」
「犯行予告の時間の意味ですよ!」
「そうか」
「多分これって」
「終電の時間だ」
たしかにその通りだった。渋谷駅を最後に出る山手線外回りの出発時刻は0時52分
「でもどうしてそれが犯行時刻になるのかがわからないんです。まさか電車の中から撃ったわけじゃないですし。」
「いや、そうか...自作自演だ。」
「え?」
「そうか、情報がないという情報なんだ。」
「どういうことですか?」
「ちょっと来て!」
結論から言えば、現実の2018年4月1日0時52分に渋谷のスクランブル交差点では何も起こらなかった。ただ、これまで僕らの前に広がっていた謎の多くは一筋の光に集約するようにこの時に繋がったような気がした。
「一体どういうことですか?」
「フィキュメントという小説には詳しく書かれていないことが多すぎると思っていたんだけれど。この小説自体が叙述トリックという手法で描かれているんだ。」
「じょじゅつ…トリック…ですか?」
「そう、登場人物達にとっては明らかな事実であってもそれを文章に表現しなければ読者にはわからない。読者に対する表現方法自体がトリックになっている、というミステリー小説の手法だよ。本来ならば、どんな人がどんなふうに殺されたのかという詳細な情報は調べればわかるはずだし、警察だって捜査をしているはずだろう?でもこの小説の中ではそれが描かれていない。という事は逆に言えばそれが読者にわかってしまうとある程度ネタバレになってしまう可能性があるという事なんだよ。」
「どんな人が、どんな風に殺されたのか、ですか。」
「そう。僕らはこの殺害された人物について何も知らない。あえて容疑者が登場人物の中にいるかのように文章は描かれている。そこから逆に疑ってみた。人ごみの中で目撃者のいないように銃で殺害しさらに顔に覆面を付ける方法がひとつだけあるとしたら、それは『自作自演』つまり自分で覆面を付けて自殺するという方法だ。」
「でもそれだと、他に協力者がいて銃を撃ってもらうか、自分で撃った銃を処分してもらわないとすぐに自殺だという事がバレてしまいますよ。」
「そうなんだよ。そこで『どんな風に』のところが大事になってくる。僕たち読者にはただ渋谷のスクランブル交差点の「真ん中で」殺されたとしか表現されてない。これで僕らは何となく、QFRONTに背を向けて撃たれたようなイメージを勝手に作り上げていたわけなんだけれども。ねぇ、あのIDiotの逆さ星の覆面なんだけどさ。なんでこの向きなんだろうってちょっと思ってたんだよね。」
「え、逆さ星の向きですか?」
「うん、ちょっと想像してみて。これを顔につけて、もしも身体の向きが実際にこの暗号の表す地図通りに向いていたとしたら」
「あ!横向きです!」
「その方向から銃で撃たれる事を知っていた。ということ。そしてその方向は渋谷交差点の中で唯一電車の走行が確認できる鉄橋の方を向いている。」
「予告時間は終電の時間です!やっぱり発砲には電車の走行が関係しているんですね?」
僕らが向かったのは交差点から唯一電車が見えるその鉄橋の下だ。小説に書かれていた「銃をさがせ」のメッセージがこの射撃地点を明確にせよという事なのであればこの辺りになにかヒントが隠されているかもしれない。
鉄橋下は車道と歩道の間にかなりのギャップがあり、そこに巨大な排水溝がある。すり鉢状の渋谷の地形から集まる雨水がここに集中するためだ。この巨大な排水溝の脇に僕たちは拳銃が隠されているのを発見した。
「こ、これって、まさか本物??ですか?嘘ですよね。」
この拳銃の存在はさすがに僕たちを深刻にさせた。
「…さすがに偽物だとは思うけど。暴力団とかが持ってるって言われてる物と同じ型の銃だな。」
僕らの仮説はどうやら間違ってはいないようだ。仮に自殺という線に絞って考えて行くと「銃の処分」が大きな課題となる。この大きな排水溝を改めて見るとここに落下させたのではないかという想像が膨らむ。鉄橋部分に何らかのタイマーのような仕掛けを設置する事で電車の走行の振動を合図に発砲したのち落下させたのであろうか。
それにしてもこうして謎の多くが解かれたいまとなっても、
現実世界の僕らの置かれている状況は依然として不可解且つ困難である事には変わらなかった。本田の行方の見当もつかず。このフィキュメントという怪しげなゲームが、何者かの悪意によって作られた危険なものではないという保証などどこにもなかった。
ゲーム。そう、やつにとってこれは「ゲーム」なのだ。
拳銃と一緒にさっきと同じ封筒でメッセージが書かれていた。
『あなた自身が時計となりゲームは終わる』
1.7
昨日は少しいろんなことがあったせいで眠りに落ちるのに時間はかからなかった。あっという間だったような気もするしとても長く眠っていたような気もする。目覚ましをかけていなかっただろうか、自分が今眠っているという感覚が徐々に自覚されはじめる。そしていつもより固い寝心地に違和感を覚える。
誤解の無いようにはじめに言っておくと僕とミサキはたしかに僕の部屋で眠ったけれど、やましいことはなにひとつなかった。彼女はベッドで、僕は寝袋で床に寝た。
その事を少しずつ思い出す。4月1日の朝だ。
なんだろう。雨の音がする。
いま何時頃だろうかと自分のスマホを手探りで探す。10時を少し回っていた。その時、僕は冷静に、重大な異変に気付いた。
ミサキがいない。
飛び起きて部屋を見回す。
「ミサキちゃん!」
1人でどこかに行ったのか!?あの拳銃を持って単身渋谷に乗り込んだんじゃ、いや、出会いシステムの指定した時刻は15時だ!でも待て!僕の知らないうちにもっと早い時間に彼女が書き換えたとしたら?あの子ならやりかねない!
「ちくしょう、バカか」
「ミサキ!」
僕は無我夢中でユニットバスのドアを開ける。
「きゃあああ!」
「あ」
繰り返しになるが誤解の無いように言っておくと、僕とミサキにやましいことは無い。無いと思う。
「ご、ごめん!」
大丈夫!カーテンがあるからあんまり見えてない!あんまり?いや、細かいことはあんまり気にしないでいただきたい。
「み、見ました...よね?」
「いや、ごめん悪気はなくて!起きたらいなかったからびっくりして!メガネしてなかったからよく見えなかったし!」
「うー!もう真さんはまだ寝ててくださいっ!」
まったくこんな少年漫画よろしくな嬉し恥ずかし展開は誰も望んでないぞ。主に僕以外は...
なのでこんな風にわざわざ自分から文章にして、誰かが読めるような形にしてしまうのは大変不本意であるのだが、これには正直、はっきりとは書けないが大人の事情というものがあるのだ。まぁ、それについてはまたの機会に改めて触れる事になるかもしれない。
外を見ると気持ちいいくらいの晴れた日の光がさしていた。
雨だと思ったのは彼女のシャワーの水音だったらしい。
それにしても、よく考えると僕はミサキの連絡先を知らない。
昨日の夜の交差点でも思ったが、LINEくらい交換しておかないと今後何かと不安だなと改めて思いながら普段の生活を少しでも取り戻そうといつものラジオをつける。
S wave! こんにちは、今日もShibuyaFM道玄坂スタジオよりお届けしてしておりますよ。
今日はほんとにいいお天気ですね。4月1日今日から暦の上では新年度です。皆さん、もう誰かに嘘はつきましたか?一説ではエイプリルフールは午前中のうちに嘘をつかないとダメらしいですよ。それでは今日最初にお届けするナンバーはこちら「きみのらいむのせんりつ」で「Be Lie」
1.8
2018年4月1日日曜日。時刻は14時30分を回っていた。
気持ちよく晴れた空の下で、行き交う人々はいつもにまして活気づいているように見えた。
僕たちは渋谷駅側の異様に綺麗に刈り込まれた大きな木の下のスクランブル交差点がよく見える場所に立っていた。バックパックをもって写真を撮っている外国人観光客が少し迷惑そうに僕たちの周りでうろうろしていたが今日は少し僕たちは強気でいなければならない。
僕はいつもリュックサックを背負っているが今日は肩掛けの鞄を選んだ。例の拳銃をそこに忍ばせていた。
「あの、そもそもなんですけど、出会いシステムを正式に現実で実践するのはこれが初めてですよね。向こうは私たちの事を知らないですし、どうやってこの人ごみの中で成立させられるのでしょうか。」
「出会いシステムはあくまでフィキュメントという物語の中でのひとつのエッセンスに過ぎないよ。このゲームの仕掛人にとって重要なのは全ての鍵を集めてこの場所にたどり着く事。」
「なるほど」
「だと思うよ。」
「な、なんかしまらないですね。」
「探偵は本職じゃないからね」
「向いてると思いますけどね」
「試験とかあるのかな」
「探偵検定5級とかはとれるんじゃないかと。」
「なんかしまらないね。」
「ぇ…?」
次の瞬間、ミサキは急に息を飲み込んだ。
「ぁ…」
「?どうし……っ!?」
そして、その理由を僕が理解する頃には僕も全身の血が凍り付くような感覚に襲われていた。視界の端から現れたそれを僕たちはただ、目で追う事しかできなかった。
鉄橋の下から交差点に向かって歩道ではなく車道側の路側帯を歩く猫背の人物。丈の長い濃い緑色のジャンパーのフードを目深に被っている。狼の毛のような荒いファーのついたそのフードから垣間見えるのは、あのIDiotの逆さ星そのものだ。本当に現れやがった。この気味の悪い存在感は言葉にし難い。奴は僕たちの目と鼻の先をかすめてそのまま、歩道の淵伝いに赤信号を待つ群衆を嘲るようにゆっくりと歩いて行く。
「本田…じゃないよな?」
「はい、身長から言って別人です。」
奴はそのまま信号待ちをする群衆の前方中央に堂々と立ち止まり、あろう事か交差点に背を向ける、つまり群衆に対し面と向かう形でたちはだかる。明らかに異様だ。ハローウィンでもないのに渋谷の交差点の真ん中に覆面をつけた人物が立っているのだから。
「あの、私、いきます!」
「えっ!ちょっと!」
ミサキは飛び出して覆面の後を追いかけた。
仁王立ちする覆面の前に駆けつける一人の女子高生。
「あの!すみません!」
その異様な光景に群衆達は戸惑いを露にした。
「あの、教えて下さい!謎なら全部解きました!兄は、兄はどこにいるんですかっ!」
覆面のジャンパーを掴みながらミサキは詰め寄った。
しかし覆面は沈黙を続ける。一度、ミサキから目を逸らしゆっくりと周囲を見回すが、再びミサキの顔を見遣り、おもむろに首をかしげる様な素振りをして見せる。
想像してほしい。顔の見えない人間が目の前に立ちただ沈黙を続けている事の恐ろしさを。
「ミサキ!」
僕は鞄から銃を取り出し奴に向けていた。
誤解のないように先に言っておくが、このとき僕たちはある程度小説に仕組まれた謎を解いていた。僕が今構えている銃も結論から言えば本物の銃などではない。銃と共に添えられていたメッセージ『あなた自身が時計となりゲームは終わる』とはつまり「その覆面男を銃で撃てばゲームは終わる」という意味をさしている。しかし、彼を撃ったとして一体なにが起きるのかは皆目見当がついていなかった。果たして本当に撃ってよいのか、僕にはまだ迷いがあった。
銃を構える僕の姿を見て覆面は笑った。声は聞こえないがその肩を小刻みに振るわせてケラケラと喜んだ。次の瞬間
「青になりました。〜〜」
と無機質なアナウンスとともに信号が変わり群衆が移動し始める。
覆面は傍らのミサキの腕を無理矢理掴み突然群衆を押し分け走り出した。
ミサキの悲鳴が喧噪に揉み消されて行く。
「な、やろぉ!!」
47秒だ。渋谷のスクランブル交差点の歩行者信号は47秒しか継続しない。
交差点の中央に走り出した覆面はミサキを人質のように小脇に抱え僕に振り返る、声のない笑い声でケラケラと笑っている。ミサキの恐怖に歪んだ顔が見える。
「てめぇ、悪趣味がすぎるぞ。」
迷いは消えた。僕はその憎らしい逆さ星に向けて引き金を引いた。
パン
乾いた音が小さく響いた。
パンパンパンパパパン
「!?」
一瞬何が起きたのか理解が追いつかなかった。
僕の手ものと銃は全く作動している様子はなく。僕の周りを囲むようにして、10人いや、20人、もっといるだろうか。大勢の人が僕に向けてパーティー用のクラッカーを向けていた。
『くぁーんぐらっちぇれぇーいしょん!!!!ひぎゃwwwwwwぎゃぎゃぎゃぎゃ!!!!』
覆面をバリっと剥がし、ジャンパーの前を開きながらそいつは高らかに大声をあげた!!!
信号は赤に変わり、徐々に交差点の人はまばらに、クラッカーで僕を囲んでいた人間はいつの間にかほとんど街中にまぎれていなくなって行った。QFRONT前の地下鉄入り口付近に僕たちは立ち尽くしていた。
「ひぎゃwwwぎゃぎゃぎゃ!!!傑作だよてめぇマジぱねぇ最高っすわぁ!!ゆぅーうぃんっ!!だよ!!あぁw?あぁwww?楽しんでもらえたかなぁwww?あ、クラッカーはあれな!散らからないタイプの奴なw!良い子のみんなは迷惑にならないように使用方法をよく見て人のいない所に向けて使ってねw!ひぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃwwww!!!!」
僕たちはあっけに取られていた。
ぼさぼさの髪の毛に独特の引き笑い。くちゃくちゃとガムを噛みながら大声で話す男。
なによりその顔だ。出てくる漫画を間違えたのではないかと思えるほどいかれたディフォルメが施されたような個性的な顔。巨大な三白眼のギョロ目はひどい隈のなかで歪に動き回る。たまに舌を出して人を食ったような挑発的な顔をするのは彼の癖なのか。肩が見えるほどのダルダルのTシャツにはシュールなモザイクのかかった熊のキャラクターがプリントされている。
一度見たら絶対に忘れないこの男との出会いが、今後の僕の人生を180°変えてしまうことになるとは、このとき想像もしていなかった。
「あんたは一体…」
「あの!」
彼の引き笑いと僕の疑問を押し切ってミサキが声をあげた。
「あの!!本田スイリを知りませんか!?兄がどこにいるのか!!知ってたら教えて下さい。」
「あぁwww?本田ぁ??」
男は気味悪いほど眉を歪めて引き笑いを止め静かに僕ら二人を見遣った。
「だれだ?それ…」
また空気が重く凍り付いた。
「そんな。」
「まだ…終わってないのか…?」
僕たちは確かにフィキュメントの謎からこの場所に、この男にたどり着いた。だが、この謎解きと本田の失踪は直接の因果関係はないというのだろうか。
「くっ……くく」
「!?」
「ひぃいwwwwwぎゃぎゃぎゃ!!!」
男は吹き出した。
「『ま、まだ、終わってないのかっ!?』だって!!!きぎゃああwwwwwマジわろwwwこの男!かっけぇえよぉwwwかっこ良くて死ぬっ!!かっこよ死する!!ひいぃい息がっ息がっ」
冷静に確認したいのだがこれは怒っていいんだよな。
「うっそらぁ〜い!」
さっきから僕らはこの男のテンションに振り回されっぱなしだった。
嘘?今嘘と言ったのか?
「あぁ?さっきからてめぇらの後ろにつったってんだろぉがこの無駄にでけぇあんぽんたんがぁ」
「!?」
僕たちは振り返る。そこに、昔に比べるとずっと身長の伸びた、少し気の弱そうな男がまだ手にクラッカーを持ったまま立っていた。
「よ、まこと。久しぶり。」
「お兄ちゃ…ん」
「ミサキもなんかいろいろ巻込んじゃっ…」
「!?」
そのときの事は、あえて彼女の尊厳を守るために”ひかえめ”に表現させて頂く事にしようと思う。そのときあった事実を実にささやかな言葉で表現するならば「大泣き」だった。大衆の行き交う往来であれほどまでに気持ちよく声をあげて泣くという事はそうそうできない体験であろう。ここは、ここにいた4人と通りかかった不特定多数の幸運なみなさまの胸の中だけにそっと収めて置く事にしてあげてほしい。
さて、ここまでが題して「名探偵 佐藤真の大冒険」とも言うべき冒険活劇の全貌である。お楽しみ頂けただろうか。そしてここからが、残るいくつかの謎の真相と名探偵佐藤真のエピローグ的叙述をもって、物語は収束へと向かう…と思われよう。そのように理解して頂くのも一向に構わない。あー、まぁまぁの作品じゃないかな、でも登場人物の心情が描けてないかな、などと適当な感想を抱きながらスマートフォンなり、PCなり、タブレットなりを閉じてもらえばそれもひとつの正解である。しかしながら探偵ではなく「小説家 佐藤真」の物語、もとい『FICUMENT』と呼ばれるこの作品ははここから始まると言っても相違ないのだ。もし、多少ともおつきあい頂ける猶予が残されているのであれば、あなた方読者の皆様。そう、今この文章を読んでいるあなたを特別待遇させて頂こうと思う。ここからはこの世界を楽しむためのひとつのルールブックのようなセクションとなっていくと思ってほしい。この嘘の世界を存分に楽しんで頂くために、もう少しだけおつきあい頂ければ幸いである。
1.9
さて、まずは答え合わせの時間だ。
現実の世界。つまり僕、佐藤真が生きているこの世界における謎から整理しよう。
犯人。つまり全ての仕掛人であるこの覆面男、名前は『磯丸哲太』という。僕と同じ渋谷大山学院大学に通う3年生だ。はっきり言って真犯人が初登場の人物とは誰も予想し得ない展開であり読者の皆様に置かれましてはそれはもう不服きわまりない所なのではないかと推察する。申し訳ない。しかし僕は最初からミステリー小説などを書くつもりはなかったのでその辺りはあしからずご理解いただきたい。
この男、見てもらった通りの相当偏屈な変わり者で大学じゃあ知らない人はいないというほどの有名人だったらしい。(僕はあまり大学に行っていないからその辺は全く疎かった)
あとで櫻井に確認した所、大学(おおがくと読む)であの変人を知らない奴はモグリだそうだ。僕はモグリだったらしい。「イカれた大嘘つき」という事に定評(?)があり、何度か学院内ででかい事件を起こしては注意されている危険人物だ。そのため他の学生からは「うそまる」と呼ばれ疎まれているそうだが、思いのほか当の本人はこのニックネームがお気に召しているらしい。
そして、お騒がせの当事者たる本田スイリという名の僕の幼なじみもまた、大学(しつこいがおおがくと読む)に僕の同級生として通っていた!全くびっくりである。早く言ってくれ。まぁ一学年2000人を超える巨大なキャンパスの中で気づかないのも無理はない話だとおもうのだが。櫻井に言わせればただ僕が怠惰だっただけだろうとの事だ。それはお互いさまだろうが、まったく。
まぁそのおかげというか、そんな狭い世の中ゆえの今回の事件だとも言える。
本田は磯丸氏もとい、うそまる先輩に出会い、妙なサークル活動へ勧誘されたらしい。そしてこの「フィキュメント」という作品及びそれに関わる謎の多くをこしらえた後、被験者第一号として小説家志望のこの僕、佐藤真をターゲットに設定した。という事のようだ。本田失踪の真相は、このうそまる先輩のやや一方的かつ理不尽な命令によって「フィキュメントの執筆」と「佐藤真の尾行・身辺調査」に明け暮れていたたというのがオチらしい。
「いやぁ、数日缶詰にされてフィキュメント執筆を強要されるわ、ほとんど寝る暇もないくらい真の監視をさせられるわで大変だったんだよ。おかげでミサキにはものすごい心配をかける事になっちゃったみたいだし。」
と笑っていたが笑い事ではない。おかげでこちらはどれだけ大騒ぎしたと思っているのか。確かにここのところ誰かの視線を感じるような事がよくあったような気がする。
それにこの磯丸という男は一体何故ここまで大掛かりな事をしているのか。本田もよくこんな男に付き合っているものだ。佐藤真一人に対してこの謎解きイベントを体験させるために、わざわざ僕の親しい友人にまで根回しして噂を広めていたのだと言う。そういえば、先ほどのスクランブル交差点での一件にてクラッカーを浴びせてくれた数十人の人々は”エキストラ”として磯丸氏に雇われていたそうだ。よくもまぁそこまでやるものだ。うん、これだけ聞いてもはっきり言ってまだ良くわからない。
僕達はなぜか大学のサークル棟に案内されていた。僕は入学当時に見学で来て以来だがミサキに関しては初めての大学構内である。あたりに目をきょろきょろさせていた。たしかに、ここサークル棟は煉瓦造りの本校舎に比べて趣きがまったく異なる。アスファルトの打ちっぱなしの建物と聞くと現代的な印象を受けるかもしれないが、その実態はゴミだめ。よく言ってスラム街の体を成している。どこかのサークルがバーベキューをした残骸がまだ残り火をくすませ、ジャズ研究会の男が外のボロいソファで1人テナーサックスを好きに鳴らしている。壁は所々下手くそなグラフィーティーで汚され、二階の廊下からは壊れかけたバスケットゴールがぶら下がり、破壊されたギターやスケボーがそこいらへんに転がっている。謎の吹き抜け構造の二階建ての建物に団地のような重い鉄のドアがついた猫の額ほどの部屋が連なっている。これが我が学院の誇る文化の魔窟「サークル棟」だ。その二階の角から二つ目の部屋に僕たちは案内された。この部屋。長机といくつかのパイプ椅子以外何もない。僕らがここに来る前から1人大きなヘッドホンをしてゲームに興じているショートヘアの眼鏡女子がいたが、適当に挨拶をしてからはずっと黙ってゲームに打ち込んでいる。この部屋にはこの子を含めた5人だけがいた。
「さぁってぇ!そいじゃぁまぁ、お聞かせ願おうか。名探偵、佐藤氏の推理ショーはぁじまりぃwww」
これはもう誰のセリフか言わなくてもわかるだろう。正直、気は乗らなかったがここまで来たら乗りかかった船である。僕は話し始めた。
「まず、この小説フィキュメントは典型的な「叙述トリック」によるミステリーです。
叙述トリックとは、文書の書き方を工夫することによって、登場人物たちにとっては当たり前の事実を隠し、読者に対してのみ謎を提示するという一種のレトリックで…」
「御託ぁーいいっつーのよ。んで?」
磯丸氏は退屈そうに言った。
「そうですね。それでは結論から。答えは「犯人による自殺」ですよね?」
「アーハン?」となぜか英語風の返答をしてみせる磯丸氏。
犯人の目的は「いかに誰かに殺されているかのように見せながら自殺するか」だった。そのため、銃を予め遠方に設置しておき自動で射撃、自分から射程となる場所へ身を置いたのである。自分で犯行予告をした上で、無差別殺人のようにみせるため自分からホームレスを装い、且つ自分で覆面をつけて撃たれたのだ。
僕は昨晩ミサキと考えた小説の真相について語った。
あとは、銃のメッセージ「あなた自身が時計となり…」は、さっきの装置になりかわれということをさしていると考えられる。IDiotで予告した時刻に現れる「犯人」つまり、「磯丸哲太」を撃つことで、ゲームは終わるということを意味してる。
そうそう、そういえば、僕はなにもはじめから覆面の男を射殺するつもりで銃を向けていたわけではない。銃が本物ではないという事をあの時点で少なくとも僕は把握していた。この銃にはよく見ると底部分に注意書きが書かれている。大きな三角のコーションマークをつけ『⚠FICUMENT』という謎の警告サインの中に※この銃、及びそれに付随する制作物はフィクションとしての小道具であり、実物としての危険性は一切ありません。とのことが明記されている。僕がこの警告文に気づいたのは昨日の夜のことだ。
そしてこの銃、外側はかなりリアルなトカレフだが(もしかすると本物を改造した物なのではという疑念も拭えないのだが)内部構造は赤外線銃になっていて引き金を引くと目には見えない赤外線のレーザーが一直線に射出される。この銃には対になる専用の受動装置があって、これがレーザーを感知する。磯丸氏はこのセンサーを覆面部分に取り付けて僕が銃を撃ったという事を察知したらしい。
少々話がずれたが、僕らの身に起こった一連の謎の真相は以上だ。
「てめー話がなげぇなwww」
「...はぁ」
「頭のイカれた奴がテメーで勝手に騒いで勝手に死んだって言やぁそれでいいだろ。」
最初にそう言ったつもりなんだが...
磯丸氏のくちゃくちゃというガムを噛む音が耳につく。
「まぁ、でもさぁw冷静に考えて、そんなことしますかねぇ?なんでそんなことしたんだろぅねぇw?なぁ?その辺はどうなんすか名探偵?」
この男は自分の書いた筋書きにいちゃもんをつけているのだろうか?それとも何か別の真相が用意されてたのだろうか?
「さぁ、そのあたりは流石にフィキュメントの後半を読まないとわからないことじゃないですかね?」
相手の物言いにちょっと気になりながら僕は答えた。
「んなーるほどザ・ワールド!!」
古いな。知ってる人いるのか?
「大正解!」
磯丸は素早く僕の眼球寸前を指差し、僕は驚き後ろにおののく。とはいえ、悪い気はしない。
「と言うには、もうちょwwwいってとこかなぁ名探偵」
ひどい思わせぶりだ。ぬかよろこびした自分がバカみたいだ。僕はあからさまにムスッとして言葉を返す。
「ぼかぁ別に探偵じゃあないんで...」
「へぇwwwwwwwwwwww」
この男は意味深に目をギラつかせる
「なんですか?」
「んにゃあ?wwwwんーまぁじゃあ逆に聞こうかぁ?んじゃテメーは一体何なんだよ?ぁ?」
「え」
心が停止する。彼は僕に顔を近づけ耳元で囁く。
「小・説・家?ぁん?」
そう言って顔を歪めながらヒキキキャと独特の引き笑いでパイプ椅子に腰掛け直す。
世の中性格の歪んだ人間というものはいるものだ。いや、歪んでいるという意味では自分も大概である。
「諦めてコームインになるんだっけぇ?かぁっこいいねー?現実見てる俺超クール!とか思ってんのwwww」
「違っ...」
「先輩、そんくらいでやめて下さい。」
横で聞いていた本田が割って入り取りなす。おかげで少し冷静さを取り戻す。
「ごめん真、この人、他人を怒らせて楽しむとこがあるんだ。だいたい本心じゃないから気にしないで!」
「んぁあ、そゆことなんで!わぁりぃな!ひぎゃwwww」
ミサキは終始黙ってそのやりとりを聞いていた。
基本的に初対面の人と、それもこういうタイプの人とうちとけて話せる子ではない。たまに眉をひそめ辛そうな顔をしたりしながら、それでもこの場に座っているのは、彼女なりの思うところがあってのことだろう。この破天荒な男が登場してからというもの、僕らのペースは狂いっぱなしだった、だがはっきりさせておかなくてはならない事が僕らにはまだある。
僕はあえて冷静に話し始めた。
「僕から話せる内容はこれで全てです。次は僕たちが話を聞く番だ。磯丸先輩、あなたがどうしてこんな事をしたのか。何をしようとしているのか。あなたには説明する義務がある。」
「ぉーいいねぇ〜。聞いちゃう?それ聞いちゃう?悪くないねぇwww」
そう焦らしながら彼はゆっくり立ち上がり僕らに背を向ける
「俺ぁなぁw本当の事とか本心とかを他人に話すのは大嫌いだ。それを理解した上で、俺が話す事は全て嘘だと思って聞けぁ。と、とりあえず注告しておくwww。嘘は嘘だとわかってこそ楽しめんだよ。信じるのは好きにすりゃいいが信用はするな。」
どこかで聞いたようなセリフだなと思う。
「『人類を嘘の力でアップデートさせる』それが俺の野望だ!ひぎゃぎゃぎゃwww」
両手を広げて高らかに宣言する姿は、悪者そのものである。よくわからないが随分とでかく出たものだと思う。
「佐藤真君。ぶっちゃけた話どうだったよ?小説フィキュメントの謎に迫ってみた感想は?あ?君の身に起こった体験はどんなものだったぁ?」
「確かに、ここ数日僕の身に起きた体験は今までに感じた事のないものだった気がします。しかしそれに伴う不安や恐怖や裏切りのような感覚を僕は見過ごす事はできない。安易に楽しいイベントでしたなどとは正直言えませんね。」
「wwwとか言いながらぁ。キミかなり興奮してたけどねwww。ゾクゾクしたんじゃねーの?嘘と本当の境目でさぁwww」
「…」
「なぁwお前、ARGって聞いた事あるかぁ?」
「...?いや、最近流行ってるARみたいなやつか何かですか?」
「あぁ?バァカwwwそれはAugmented Reality(拡張現実)だwww、俺が話してんのはAlternate Reality Game。日本語では代替現実ゲームと訳されてる。」
「代替?ゲーム?」
「そうだ、簡単にいえばフィクションの世界と現実の体験を交互に体験する事で、あたかもそれが現実の世界で起こっている事柄であるような錯覚を起こし。それを楽しむという考え方。参加を楽しむフィクションコンテンツだ」
彼は急に早口になった。
「リアル脱出ゲーム…みたいな事ですか?」
「まぁ近いが!全然違う!」
どっちだ。
「俺が重要だと考えているのはフィクション、もっと言えばストーリーコンテンツによる質的理解を伴う体験だ。ただのなぞなぞイベントじゃねんだよ。」
わりと話し出すと普通のしゃべり方もできるのだなと思う。
「2001年に公開されたスピルバーグ監督のSF映画『A.I.』って覚えてっか?」
それを聞いて本田は「はじまった…」と少し笑う。2001年公開と言えば僕は4歳かそこらだ、僕はともかくミサキは全く知らないだろう。僕らは少し困惑する。
「あぁ、まああれだっ!あのー、心を持ったロボットの少年の話なw」
とすごく雑な説明をする。
問題は映画の内容ではない。彼の話では、この映画A.I.のプロモーションとして先述のARG的な手法が用いられた。それが最初のARGと言われているそうだ。まず、この映画の制作スタッフのテロップの中に「心を持つロボットのセラピスト」という肩書きの人物が存在する。映画公開当時はもちろん、そんな職業は2017年の現在でも存在していない。このテロップの中にあるわずかな異変に気付きネットで検索したものだけがとある大学教授の論文にたどり着くという仕組みになっているのだ。そしてその論文、よく見ると2140年という100年以上も未来に書かれるはずの「存在するはずのない論文」だという事がわかる。さらにユーザーはそこに記載されている電話番号などを駆使しながら徐々に物語の世界に入り込んでゆく。最終的に体験者はとある殺人事件の真相を探るという映画のスピンオフストーリーへと参加して行く事になるのだ。僕たちがフィキュメントで体験したものととても良く似ている。
アメリカでは当時300万人以上がこれに参加したと言われている。その後ARGは特に映画コンテンツを中心としたプロモーション活動で頻繁に実施されてきたそうだ。
「現在でもARGのファンというのは世界中に一定数存在する。日本ではあまり定着しなかったがなぁ。このARGファンの界隈ではゲームへの入り口となるほんの些細な違和感をこう呼ぶんだ『ラビット・ホール』ってなぁ…」
不思議の国のアリスから連想されるその呼び名はARGの魅力的な世界観を端的に表しているように思えた。この話にはちょっとゾクゾクするような高揚感を感じた。
「ほら、ゾクゾクしてんだろ?」
「!?」
「キミ素質あると思うよwwwあ、それからそこの妹ちゃん」
「ぇ?私?デス…か?」
「あんたはラビット・ホールに気づく天才だぁ。自分に向けられてない情報にまで気づいちまうんだからなぁ。はっきり言って、キミの存在は俺たちにとって想定外だった。まさかターゲットとしていた佐藤真にこんな救世主が現れるとは思ってもみなかった。ゆえに、キミに対しての情報設計はかなり甘かった。キミを不安にさせ、恐怖をあたえてしまったのはこっちの落ち度だ。謝らせてもらう。」
こんな偉そうな謝罪があるだろうかとも思いながら、意外にもそういう最低限の常識的な感覚はあるのかとも思い直す。
「後半結構ノリノリで怖がらせてたの先輩じゃないっすか」
と本田がすかさず突っ込む。前言撤回だ。
「ひぎゃぎゃぎゃぎゃwwwwいんやぁwwwマジ傑作だったんだもんよwwwぜってぇあれはクライマックスっしょwww佐藤真すかさずヒロインを助ける為に銃を持ちって展開っしょ絶対www」
「で、そのARGを体験させるために今回の事を企てたっていう事ですか。」
少々不快な笑い声を止める為に、少し強引に僕は話を進めた。
「いやぁ、まぁそれはそうなんだがぁ…ただARGを作ってもしょうがねぇんだよな。もう一度言うが『人類を嘘の力でアップデートさせる』それが俺の野望だ!今回の小説を読んでなにか感じなかったか?あえて意図的に表現したこのレトリックをテメーはどう考える?」
確かに。小説フィキュメントは読者の存在を意識した「メタフィクション」と呼ばれる視点からの叙述がかなり印象的な小説だ。だがメタフィクションの手法それ自体は決して新しくない。ポストモダンの文学には比較的多くその手法が用いられはじめているし、1970年以降の論文や言論の場ではとうに議論されていることだ。
「俺はなぁ!ARGより更に進化した体験としての『FICUMENT』という概念を掲げる、フィクションとドキュメントをあわせた造語だ!俺が作った!」
「うーん、それってモキュメント…みたいな事ですか?」
「あのなぁ、佐藤。てめーのその『〜みたいな事ですか?』っていう自分の持ってる知識だけで物事を理解しようとする癖マジで辞めた方がいいぞぉ?モキュメントってのはなぁ、ただの表現手法の名前だ!映画の撮り方や、レトリックと同じ。ARGだって手法でしかない。俺の掲げる『FICUMENT』構想はもっとでかい概念なんだよ。」
磯丸氏は部屋の中を歩き回りながら話し始めた。
「情報化社会・WEB2.0・ネットリテラシー・ビッグデータ・SNS・バズ拡散まぁ言葉は何だっていいが俺たちの生活の至る所で加速度的に情報爆発が起きている事、それが収束と拡散を繰り返しながらあるべき姿を模索していることはご周知の通りだぁな」
堰を切ったようにどんどん早口になっていく。
「いま、多くの人間が興味を持っている事それは「目の前の情報の正確さ」だ。これはデマではないか?情報ソースはどこか?それが昨今もっぱら求められている価値だ。だぁが!冷静に考えてみろ真実にどれほどの価値がある?これぁ漠然としたイメージでしかねぇんだよ!真実の方が良いに決まってると思い込んでるだけさ!嘘は悪いものだと何も考えず決めつけているだけさ!例えてみれば『人類は皆、平等であるべきだ』と平等の意味もしらねぇでイメージで話す事と同じだ。いいかぁ?真実なんてのはなぁ!ある種の妄想だ!虚像だ!幻想だ!実在しないのだ!与えられた目の前の情報を真実だと思い込む事こそ危険なんだよ」
かなり抽象的な話になり僕たちはやや困惑する。
「もはやそういう次元じゃないんだっつーんだよ。人類はもっと嘘と親密になる必要がある。嘘か本当かなど気にする事なく信じたいものを信じて疑いたいものを疑う!その方が楽しいって思う方に進めばいい!!」
確かに一理あるかもしれないが、極端すぎて社会性を逸脱しているし、狂気…というか危なげな感じを拭えない。
「そこで俺ぁ提唱する。この嘘に未開拓のクソ社会にFICUMENTという概念をな!」
「フィキュメント…」
これが磯丸哲太のすべての原動力となっている考え方らしい。
「あのもう少し、具体的に話してもらえます?」
何となくわかるような気もするが、やはりよくわからない。
「あぁ?んだよ、ったく」
といって、彼は机に寄りかかりながらこちらを見遣る。
「たとえばだなぁ、日本国憲法には言論・表現の自由が認められている。ってのは社会の授業でならったぁなぁ?そこに但し書きがついているが、なんだったかわかるかぁ?」
「公共の福祉に…反しない限り…」
ここでまさかのミサキが口を開いた。とても小さな声で、それでもしっかりと。
「その通〜り!妹ちゃん優秀じゃぁん!まぁつまりこういう事だ。
たとえそれがフィクションの作品であっても、不当に誰がか不利益を被るような誤解の生じる情報は訴えられる危険性がある。俺がここでマクドナルドは美味いとかフライドスパゲッティーモンスターは不味いとか言った発言が作品として世に出る事で不利益を被る連中がいる可能性がある。仮にこの小説がアニメ化される際にはそりゃぁ、局はどこだとかスポンサーはどこだとか、競合排除やら大人の事情が絡んできて今の台詞はカットされることになるだろう。そういう面倒ごとを少しでも回避するため、俺ら作り手は※この作品はフィクションであり…という注意書きを付けて身を守るんだ。まぁそもそも俺に言わせりゃこんなことマジでクソどうでもいいことなんだけどよぉ?」
そう言って磯丸は寄りかかっていた机の上にどすんと深く座り足をブラブラとさせる。くちゃくちゃとまたガムを噛みながら少しだけゆっくり話し始める。
「じゃあ例えばだ。ある作品の中で、「来るべき未来の時間に大勢で自殺をしましょう」と呼びかけるような事が起こったらどうだ?あ?その自殺が物語の中でとても美しく描かれていたとしたらどうだぁ?なぁ?多くの人が作り話と取り合わないだろう。だがしかし、この時間に本当に一人も自殺をしないと言い切れるか?なぁおい?これは日本の法律では立派な自殺幇助にあたる可能性がある。仮に作者がどれだけ注意を喚起していたとしても!その『嘘』は死んだ者にとって『真実』だったんだよ!」
徐々に彼の口調はまた速く、独り言のようになっていった。
これはあくまでたとえの話であって、もしもの話である。が「その嘘は死んだ者にとって真実”だった”」と彼がなぜか過去形で表現したのが妙に気になった。
「…っけ!ったく、俺ぁそーいう、頭の固てぇ連中が大っ嫌いだ。死ぬやつも!死なないやつも!マジ胸糞わりぃんだよ!どっちが悪い?どっちが正しい?知るか!その考え方が間違ってるんだ!人類の次のステップは『真実バイアス』から解き放たれることだ。だから俺はここに掲げる!『FICUMENT』という構想を。」
ちょっと熱くなりすぎた事にはっとしながら、磯丸氏は机から下り、僕らに正面をむく。
「FICUMENTは独自のルール体系と、それを活用する文化の創出だ!そうだなぁ、著作権フリーみてぇな考え方に近いか。この『⚠︎FICUMENT』マークを掲げている限りにおいてその著作物の「真・偽」についての責任を書き手も読み手も一切負わないという取り決めだ。誰もが『嘘を嘘として楽しめる』世界を作る!そしてここ!渋谷大山学院大学サークル『うそぶ』はFICUMENTを世に広めるための活動をする創作集団っつーわけだぁ!」
なるほど、かなり説明にページを割いてしまったが、なんとなくこの男がなにをしたいのかは大体わかった。正直あまりに壮大なビジョンすぎてついて行けないが、『うそぶ』というネーミングは思ったより可愛らしいなと思った。
「そこで、以上の事を踏まえ、佐藤真君…あーついでに本田妹。我々は君らを正式に『うそぶ』へ勧誘したい。誰でもいいわけじゃないってことはもうわかんだろ?」
「な!」
ここへ来てまさかの勧誘とは、民事訴訟の場が一転してプロポーズの場になったようなどんでん返しである。
「メンバーはそいつとこいつ。あともう一人いるが、あいつは忙しくてたまにしか顔をださねぇ。ちょっとした有名人だからなぁ。」
「ちょっと待って、まだ入るとは言ってない!僕は、もう小説は書かないって決めたんだ。」
「あぁ、一応読んだけどなお前の小説、はっきり言ってぜんぜんつまんねぇと思うよ。登場人物の心情が全然描けてねぇ!アイデアに新規性がまるでねぇ!高校生のケータイ小説と全然変わんねぇよぉマジやる気あんのかテメェwwwって感じだよ。舐めてんのかテメェあ?発想力が貧困なんだよ!お前には1から物語を作る力なんてものははねぇんだよ!」
さすがにそれは言い過ぎではないか...とも言いたいが言い切れないところが悔しい。
「はっきり言ってやる。俺らの活動を小説にしろ。もっと世の中を巻込んで遊んでやれ!Web小説なんて枠の中で収まってんじゃねぇよ。今これを読んでる奴らにゾクゾクするような体験を描いてやれ!それ以外にテメェが小説家として生きる道はねぇよ。」
気づくと僕は磯丸先輩に胸ぐらを掴まれていた。先輩は言い捨てると掴んだ胸ぐらを放してまたパイプ椅子に腰掛ける。
「フィキュメントを読んでなんか感じたんだろぉが?俺らとなら、なんかできそうとか思わねぇか?書いてみたくねーか?俺らだけのストーリーを。」
悔しい。
悔しいが…
書きたい。書いてみたい。もう一度チャンスがあるのなら。あがいてみたい。僕は今まで勝負をしてこなかったのだ。勝負をしてるつもりになっていただけで肝心なところで動かなかったのだ。櫻井に夢を諦めると告げたときも、ミサキに助けを求められた時も、交差点で覆面男に対峙したときも、僕はどこかで誰かが「自分の進むべき道」を示してくれることを期待していた。自分で考えて動いた事には、いつもなにかしら言い訳を繰り返していた。自分でどんどん突き進んで行くミサキがいなければ、僕はずっと停滞したままこの場所にたどり着けなかったのだ。変わらなくてはいけない。自分の意思で選択するのだ。
「どうする?かけるのか?Do you want to place a bet?」
磯丸先輩はそう言いながらガムを一枚差し出す。
「俺たちはさ、真、お前にフィキュメントの後半を書いて欲しいと思ってるんだよ。」
本田が僕の肩を叩きながら言った。
答えは決まっていた。僕は差し出されたガムを一枚受け取る。
バチン!
強烈な激痛が右手親指を襲う。
「痛ってええええええ!!!!!!」
「ひぎゃあああwwwwwマジわろwwwwwざまぁああああwwwwひぎゃぎゃぎゃ」
「いぃそぉまぁるてぇつたぁあああ(殺)(殺)(殺)」
「言ったろぉが!バァwwwカ『信じてもいいが信用はすんな』ってよぉ?あぁ?」
「私…」
ミサキが、小さな声でこの騒がしさを打ち砕く。もう見る事はないと思っていた泣き出しそうな顔をしながら、彼女は精一杯の声で言った。ハッとした。僕はやはりバカだ。彼女の気持ちにもっと早く気づくべきだった。
「私は、やっぱり、その考え方は、間違ってると思います!誰かを傷つけるかも知れない凶器を、ただ使いたくて理由を付けてるようにしか聞こえません!とても恐ろしくて、不安で、悲しくて、そういう気持ちを知らないからそんなことが言えるんです。嘘なんて大っ嫌い!」
そう言うとミサキは重いドアを開けて一人飛び出して行った。
「待って!!」
僕は椅子を投げ出して後を追う。
「先輩。僕の入部に関して、あとでいくつか条件を出させて下さい。」
去り際に磯丸先輩にそう一言残し僕は走り出す。
桜の咲くキャンパスを、ひたすらに走って、僕は彼女を追いかける。
彼女だって僕から逃げるために走っているわけじゃない。ただ、自分の中に起こる葛藤と、それが周囲の人間と折り合わないという不和がどうしようもなくやるせなくなって走り出してしまっただけだ。泣きながら走るのは苦しい。彼女の足取りは次第に穏やかになり、僕の追いつくのを背中で待ってくれているようにも見えた。
「ミサキちゃん。ごめん。」
「何がですか。」
「君の気持ちを、もっと、考えるべきだった。」
「そんなことしなくていいです。真さんはちゃんと私の事を助けてくれましたよ。」
「でも」
「でも、私はやっぱりあのフィキュメントという考え方は危険だと思います。」
「うん、そうだね。」
「真さんは、真さんの信じた方に進めばいいんですよ。私もそうするだけです。」
「ミサキちゃん、僕はさ。君にとても助けられていたんだ。君の本田を助けたいっていう思いと、そのためにどんどん一人で困難に立ち向かっていく姿に。僕は突き動かされて、そのおかげでここにたどり着く事ができたんだ。」
彼女は振り返って。泣きながら僕の目を見てくれた。
「うそまる先輩の言ってる事が全くその通りだとは僕も思ってないよ。嘘がどんなに危険なものか、それは体験した僕たちだからこそわかる事だ。だからこそ、あの人たちを野放しにはできないと思うんだ。都合よく聞こえるかもしれないけど、僕はあの頭のおかしい人たちにブレーキをかけれるひとが必要だと思ってる。」
「…」
「…ごめん。っていうのは嘘だ。本当は僕自身が君を必要としてる。」
彼女の目から涙が一粒こぼれて、風が吹き抜ける。花びらが風に舞い上がる。
「助けてほしいのです。」
初めて会ったとき彼女に言われた言葉を、僕は口にしていた。彼女はそれを聞くと微笑んで、そして僕の目をまっすぐに見つめた。
目があった。
僕はゆっくりと目を閉じる。
1・2・3
心の中で数を数える。そして、まっすぐ、そのまま目を開く。そこには…
「え?」
目を開いた先には、あろうことか僕に背を向け、歩き始めているミサキの姿があった。
「ちょ、ミサキちゃ…」
僕が追いかけると彼女は背を向けたまま立ち止まり言った。
「佐藤さん、私と絶交してください。」
なんで。
なんでだ!?どうしてこうなった?
僕は途方に暮れ目の前が真っ暗になった。
フィキュメント 完
1.10
いや、嘘だろ!?
今のは完全にハッピーエンドになって終わる流れだろう!最後の最後でこんな展開は物語としておかしいだろう。そう思っているのは僕だけではないと願いたい。いままで長々とこの文章におつきあい頂いている皆様に申し訳が立たないではないか!何が特別待遇だ!金を返せ!いや待てこの文章は無料のWeb小説なのである。つまりタダなのである。あれか!まさか課金か!課金ビジネスなのか!?金額によってエンディングが変わるとかいうそういうセコい商売なのか。
いや、万が一そのようなビジネスだったならば、僕はその場で有り金を全部つぎ込んでやったに違いない。物語の別エンディング作成の商談についてはまた別途改めて場を設けさせて頂くという事にして、この場ではひとまず僕の身に起こったことをありのままにレリゴーさせていただく。事実は小説より奇なりという言葉はこの場合正しいのだろうか。
物語の最後と表現したが、はっきり言ってこれは最後ではない。始まりなのである。
さらに言えば、もう既に次の話は始まりかけているのだ。もちろん僕としてはこのまま話し続けるのもやぶさかではない。しかし、物事には順序というものがある。次の話をする前に、いくつかお伝えしておきたいことがある。
「小説 フィキュメント」はこの作品の中に登場する作中小説のタイトルとして扱われていたものだが、皆様がお読み頂いているこの文章もまた『FICUMENT』であるわけで、混乱を回避するため以降の表現では作中の作品を「フィキュメント オリジナル」とか単に「オリジナル」と書かせて頂くこととしたい。そして、もうお気づきのこととは思うが、この文章は僕、佐藤真によって記述された「うそぶ」の活動内容を表した物語であり、今後は『FICUMENT〜うそぶ活動記録〜ファイル1』として改めて題名を掲げ、次の話、また時には”次の書き手”に委ねていこうと思う。しばしの間お待ち頂きたい。
最後になったが、ここまでお読み頂いた読者のみなさまに深く感謝を申し上げたい。
そして、ここからは単なる読者という今のあなたの立ち位置を諦めて頂きたい。もちろんただの傍観者としてこの文字面を追うだけで満足頂けるのであればそれも一興である。
しかし、時々思い出してほしい。
①我々「うそぶ」は嘘をつく。
②あなたは嘘の世界を嘘の世界として楽しむ権利を持っている。
そして忘れないで頂きたい。
③この作品はフィクションであり、実在する、人物・地名・団体とは一切関係ない。
ということを。なぜならこの作品の主人公はあなた自身だから。
さぁ、今すぐに読者をやめて、手始めに嘘をついてみてはいかがだろうか。今日はエイプリルフールだ。
この小説を「自分が書いた小説なので感想を聞かせて欲しい」と言ってあなたの友人に渡して下さい。
そして、実際にあなただけの小説フィキュメントを書き始めてはいかがだろう。「うそぶ」は常にあなたの参加を待っています。小説だけでなくイラスト、漫画、音楽、写真、ボイスラジオどんな形でも構いません、我々と共にフィキュメントの世界を広げてくれる仲間を探しています。ご連絡はうそぶの運営する怪しいTwitterアカウントを探してみて下さい。
それでは、あなたが良い嘘に巡りあえますよう「うそぶ」一同よりお祈り申し上げます。
2018.4.1 佐藤 真