閑話:ナギの場合
深夜、誰しもが寝静まった夜。
水守のコマーシャル動画に気づいて赤くなったり青くなったりしていた依夜も、久々の登校で疲れていたのだろう、布団に横になった瞬間眠りについていた。
なかなかに楽しい反応で、愛らしかった。
ナギは、ほんの少し窓を開けて、夏の夜風を楽しみながら、依夜が持ち込んだ酒をもう一度傾けていた。
久々の酒精は心地よく喉を焼き、胃の腑へ滑り落ちてゆく。
視線の先にあるのは、依夜の寝顔だった。
先ほどまで頬を赤らめ、涙目になり、目まぐるしく表情を変えていたが、目を閉じて、健やかに呼吸を繰り返す彼女は静謐であどけない。
閉じられた瞳があの時どんな色を見せていたかを思い出したナギは、思わず手を伸ばす。
ほどけた髪をさらりとよけ、指で起こさぬよう静かに髪を梳く。
その柔らかい感触によってこみ上げてくる鮮やかな感情に、深く息をついた。
「先は、あぶなかったのう……」
あまりにかわいいことを言うものだから、つい、手を出しかけた。
寸前で、ごまかすことができたから良いもの、すでに柔らかいその唇の感触を知ってしまっている今、どれほど理性が持つか。
彼女は、知らないだろう。
己が、彼女が幼い頃より、どのような想いを抱いているか。
あの日、井戸から落ちてきた幼い依夜は、無邪気にナギの領域を浸食した。
人の子供、というのはナギの神気となった気配を感じただけで、泣き出す。
ゆえに、まじまじとナギと視線を合わせるだけでなく、寒そうにくしゃみをするなど、”普通”の反応をすることはついぞなかった。
奇妙な感覚を覚えたものの、すぐに水守の屋敷へ放り出すつもりだったのだ。
だが、寒い、とこちらに訴えることはせずとも、その様子がうっとうしく、仕方なく濡れた服の代わりを作って着せかけた。
瞬間、依夜はこちらが驚くほど目を輝かせた。
それが、さざ波のような波紋を広げていったのだ。
その感情に明確な形などはなかった。ただ、もう少しだけ見ていたくなった。
今まで、求められたことしかしたことのなかった己が、気がつけば、彼女がなにを喜ぶかを考え、問いかけていた。
それでも、ただの気まぐれのつもりだった。
時折わき起こる、衝動のようなものだ。
いずれ、この水守の娘も、以前かまった人間達と同じような道をたどる。
与えられるものが当然と考え、ナギの力に溺れすがりつく。
そうなった瞬間、一気に興味が薄れ色あせるのが常道であった。
いつまでも変わらず無味乾燥とした時に飽きて、死を望むナギを、初代の水守は「哀れだ」と言ったものだ。
『死は、生きようとした者たちの特権なの。あんたが言うにはまだ早いわ』
傲然と言った彼女は、当時随一の術者であったが、天羽々斬に好かれてもナギを殺すには足りなかった。
『ただ、あんたの覇気のなさは、自覚がないっていうせいもあるのかもね。わかったわ。何百年かけてでも、私が殺してあげる。だから付き合いなさい』
そうして、彼女は水守という仕組みを作り、ナギを据えた。
特にすることもなかったナギは承諾して囚われたが、なぜそこまでするのか不思議に思っていると、彼女は笑った。
『あんたが”生きて”いるところをせいぜい笑ってやりたいからよ。ああ、私に惚れないでよ? 私には大事な人がもういるんだから。生きているあんたが、どれだけ無様になるか見たいのよ。楽しみにしているわ』
長年その意味はわからなかった。
なぜなら、彼女以外の水守は、ほかの人間と変わりなかったからだ。
時を重ねていくごとに、洗練されていく神殺しの術が完成するのが先か、己が朽ちるのが先だろうかと思っていた。
だが、それは。
依夜の、あどけない笑顔で、突き崩された。
『なぎはなにがしたいの?』
その言葉に、どれだけ衝撃を受けたか、幼い彼女にはわからないだろう。
自分で、考えたこともないことだったのだから。
我ながら途方に暮れていたと思う。
『わからない』
そう、答えた。
現在の、思い出した彼女は大して気にとめていないようだったが、その次の言葉にナギは世界を変えられたのだ。
『じゃあね、わたしがいっしょにさがしてあげる!』
夜の闇にも負けぬ、満面の明るい笑顔で。
この少女を、離したくないと、そう思った。
『共にいたい』
初めて心の底から願った。
この、時間が、ずっと続けばいいと。
すると、幼い依夜はきょとりと目を丸くした後、身を乗り出して、ナギの手を小さな両手で包んだのだ。
『なら、いっしょにいようね。わたし、なぎのことすきだものっ』
世界が色であふれた。
その温もりが、熱となり、今までないと思っていたナギの心を浮き彫りにし。
わき上がる衝動のまま、ナギは、彼女を縛り付けた。
気が付けば、半死半生となった彼女を腕に抱いていて、意識が黒に塗りつぶされる。
豊世がこなければ、禍神に落ちていた。
いまでも、あの時の彼女の負担になったことは、後悔している。
だが、それ以上に、彼女を逃がさないですんだそのことに、ほの暗い喜びを得ていたのだ。
ならば、己は、彼女の願いを叶えるために、できる限りのことをしなければならない。
その副産物として、思わぬ楽しみを見つけられたことすら、彼女の影響であった。
依夜は、自分ばかりが願いを叶えられていると気にしているようだが、すでに、ナギの願いは叶えられているのだ。
彼女の生がある限り、己の世界は鮮やかに染まる。
確かに、この鮮やかな世界のまま、彼女に殺されたら、どれほど幸福かと一時期は思っていた。
だが、真正面から彼女にぶつかられたとき、ナギは、欲を覚えてしまった。
そこで、ようやく、初代の契約の意味が、腑に落ちたのだ。
死ぬだけであるのなら、ナギは水守にすべての霊力を明け渡して、すぐにでも消えられる。
だというのに、今の今まで永らえた理由は、己も自覚していなかった欲求に端を発していた。
それを浮き彫りにしたのは、まぎれもなくこの少女が原因で。
ナギは、何よりも倦んだ退屈な己を、とうに殺されていたのだ。
これからも、きっと。何度も殺されるのだろう。
初代の高笑いが聞こえるようであったが、悪くない、と思ってしまう己は、すでに元には戻れない。
少なくとも、彼女が生きている間は、死ぬことなどもったいない。
ころころと変わる感情を、鮮やかにしなやかに生きる彼女の生を、間近でつぶさに味わなければ気がすまない。
そして、その鮮やかな生に己が関わりたいと思ってしまったのだから。
そう、だから。
ナギの予想を遙かに越えた依夜の甘やかな変化にどれほど、驚いたか。
彼女が向けてくる淡い、だが確かな想いを感じ取れぬほど、幸か不幸か己は色恋の機微に疎くはなかった。
どれほど、この胸に、歓喜が満ちたか。
「だが、約束だからの」
現当主……いや、すでに先代である豊世と交わした約束だ。
『あなたが、どのような感情を抱いているかは存じ上げません。ですが、彼女が成人するまで、せめて十六になるまでは、お待ちになってください』
これは、ただの口約束だ。
だが、少なくとも、親族である。
利害関係で結ばれているとはいえ、世話になったとは言えなくもない。
それに、未だに、幼い想いを育てる依夜に、この胸の奥にくすぶる熱をさらすには、まだ早いだろう。
彼女が、ゆっくりと美しく羽化していくさまを、つぶさに楽しめるのはナギの特権でもあるのだ。
己の今の望みは、ただ一つ。
「はやく、成長しておくれ、依夜」
ひそやかにつぶやく声音に熱をはらませ。
ナギはずっと己を捕らえて離さない愛おしい少女の額に、唇を落としたのだった。
次回で最終話です。




