恐れたことが起きまして
いつもよりだいぶのんびり歩いて、たどり着いた我が家の扉の前で、わたしは大きく深呼吸する。
すーはーすーはー。落ち着け。落ち着け。大丈夫。
いつも通りにすればいいのだ。
覚悟を決めて、ドアのノブに手をかけようとした矢先。
「ぬしよ、ノブをひねる前に鍵を開けねば入れぬぞ」
「~~~~!!!」
深い寂のある声が耳元で響き、骨ばった大きな手が重なってわたしは硬直した。
声を出さなかったのが奇跡のようだ。
その大きな手が持っていた鍵が鍵穴に差し込まれ、扉が開く。
順番が違った決まり悪さに赤面するよりも、背中に感じる気配に鼓動が早まった。
いつもの香の薫りが鼻腔をくすぐって、ナギが動くのを感じれば勝手に肩が揺れる。
「ほれ、入るがよい」
ナギが鍵を持った手をそのままノブにかけて、ドアを開けると脇をすり抜けて促すように先へ立つ。
そこで、ようやくわたしは声を絞り出した。
「何であんたがここにいるの、本家のほうにいるんじゃなかったの?」
祖母に密かに願われて、ナギは今回の騒動で壊れた結界の修繕に協力していた。
ナギは鈴を通して顕現しているので、水守との行き来は隠世を通じてほぼノータイムでできるらしい。
ちょうど、神社でお願い事をするときに、神様にわかるよう鈴を鳴らすのと一緒で、わたしが呼んだり、鈴を鳴らしたりすれば伝わる。
逆を言えば、ナギは現れようと思えばいつでも現れられるわけで、今まで自由に現れていたのはそれが理由なのだった。
それでも朝の時点で水守へ行くと言われていたから、直ぐには帰ってこないだろうと思っていただけに、不意をつかれた気分だった。
「とは言われてもの、わしはぬしの式神であるし、あれほど深い契りをかわした以上、ぬしから離れるのは最小限にしたほうがよいかと思うてのう」
どことなく得意げなナギに、自分の言ったことを思い出して頬はじんわり熱を帯びる。
「別に、そこまで適用しなくていいのに」
「まあ、わしがぬしを迎えたいだけであるからな」
さらりと言われてしまえば、わたしはなけなしの反発心なんて溶けだしてしまい、いつもの言葉が口に付く。
「た、ただいま」
「おかえりだの、ぬしよ。今日も楽しそうで何よりであった」
穏やかな表情で応じてくれたナギに、不覚にも、いつもの日常に帰ってきたのだと安堵がこみ上げてきてしまった。
「水守から食材をもろうたでな、夕飯の買い出しはせずとも良いぞ」
ナギは妙に所帯臭いかごに満載された食材をひょいと掲げて見せつつ、さっさと部屋に入っていく。
玄関前で立ち尽くしていてもしょうがないので、わたしも中へ入ったけど、鼓動は不自然に跳ね回るし、そわそわと落ちつかない気分はかつてないほどだった。
思い返せば、あの騒動のさなか、わたしはナギに告白まがいのことを言っていたわけで、すっごく大胆な態度とか言葉とか、あ、あまつさえ好きとか言っていた!
一人でいるときは、うああああと叫んで走り回りたくなるような恥ずかしさをこらえているけれど、ナギがそばにいれば、否応なく思い出してしまう。
アパートへ帰れば必然的にナギと二人きりになってしまうわけで、それが何となく家に帰るのをためらっていた理由でもあった。
でも、ナギの態度は全然変わらない。
正直ほっとするのも確かだけど、わたしばかりがどきどき気にしているみたいで、ちょっぴり恨めしくなってしまうのは、しょうがないと思うのだ。
トイレで部屋着に着替えて出てくれば、当然のように三角巾と割烹着を装着したナギが、せっせと台所で作業していた。
相変わらず微妙だけれど、見慣れてしまった光景だ。
ただ、わたしはちょっと気になって聞いてみる。
「ねえ、もしかして、ナギが料理するようになったのって。わたしにそのう……」
「『何にもできないのね』と言われたからだぞ?」
てきぱきと野菜の下処理をしていたナギは、あっけらかんと言った。
やっぱりそうだったのか、と謎が氷解したすっきり感はあるけど、なんてことを言っているんだ小さい頃のわたしー!?という気恥ずかしさで死にそうだ。
「そ、そんなに強い感じじゃなかったわよね!」
あの趣味部屋に招待されたとき、室内はひどく雑然としていて、埃まみれだった。
当時のナギが、それほど身の回りのことを気にするたちではなかったようだからなのだろうけど、びっくりしたわたしは、掃除道具を探し出して、せっせと掃除をして見せたのだ。
今から考えればずいぶん雑な仕事なのだけれど、ナギが不思議そうにするのに首をかしげて聞いたのだ。
『なんにもできないの?』って。
いや、その、自分より大きい人が、わたしができることができないのが本当に不思議で。出来心だったのだ。
こういうことがちゃんとできないと、大好きな人から嫌われてしまうとわたしは、母親に教えられていて。
このままじゃナギが嫌われる人になってしまう!と妙な使命感を感じて、お説教めいたことをした、気が、する……?
思いっきり墓穴を掘る形になったわたしが、決まりの悪さに目を泳がせていれば、ナギはおかしそうに笑う。
「気にせずとも良い。かように身近なところに暇つぶしの種が転がっておったかと、目から鱗が落ちたようであったからな。豊世に頼んで一室用意してもろうて試行錯誤するのは楽しかったぞ」
ナギの口からお婆さまの名前が出てくるのがちょっと不思議な気分だったけど、こうして、昔のことを話せるようになったのが、気恥ずかしくも嬉しいような、こそばゆいような。
「そう言えばぬしよ。あちらはやはりさわがしいぞ」
不意にまじめなトーンになったナギに、勉強をしようとしていたわたしは肩を震わせてナギを見上げる。
「どんなかんじ?」
「とりあえず、香夜が正式に当主の座を継ぐことは納得させられた。まだ若すぎる、という意見もあったが、豊世が後見として残ることで決着が付いたようだぞ」
「そっか」
お姉ちゃんは水守の神殺しの呪具「水断」を継承した。
その時点で姉は水守の当主となる条件を満たしていたわけだから、そんなに驚く流れじゃない。
「さわがしいっていうのは、ナギのこと?」
「わしか? わしはぬしの超強い式神ということになっておるで、問題なし。ぬしの最高にかわゆき姿を存分に語り合えてのう。なかなか話の分かる奴らであった」
「はなしの、わかる奴らって」
わたしがかたかたと震え始めるのにも素知らぬ風で、ナギは神妙な顔をして続けた。
「ただ神薙や用人どものほうがぬしの良き姿を納めていて、少々悔しかったのう。だがまあぬしのかわゆき姿の布教となっただけ、十分であろう」
「や、やっぱり広まっちゃってるの!?」
悲鳴をあげるわたしに、なにを今更とナギが眉を上げた。
「あの夜、ぬしは助力のために方々を駆け回っていたでな。ぬしだとわからなんだ者もわかるものからおしえられたで、瞬く間に神薙少女であると広まったのは、ぬしも知っておったであろうに」
いやあああああと!もはや声も上げられずにわたしは机へ突っ伏して頭を抱えた。
そう。やっぱり奇跡は起こらないもので。
あの夜のあと、案の定浄衣を脱いだ瞬間気絶したわたしが、丸一日眠り込んで目覚めた時には、本家中に「わたし=神薙少女」という事実が周知されていた。
そうして、廊下ですれ違うたびに声をかけられるようになっていたのだ。
「早々恥ずかしがることでもなかろう? 感謝されておったではないか」
「そのたびに、あの衣装のデザインはどういう意味なんですか。深遠な意味があるんですよね? 他の浄衣も素敵でしたねって言及されてみなさいよ、恥ずかしさで死にたくなるから!」
「ふむ、他の浄衣も良きものだとな。それは嬉しいの」
「よろこぶな! それがいたたまれなくて逃げてきたってわかってよ!」
「わしの趣味だと言えばよかろうに」
「式神の行動は主の意思ってことになっちゃうからむしろ悪化するわ!」
ナギが水守の神である、というのは明るみにはならなかった。
わたしもナギも望まなかったから、というのあるけど、祖母や姉の意見で、このまま水守直系の秘密のままにすると話し合われたからだ。
ナギが神だとわかれば、式神として使役していることになっているわたしに、不必要な騒動が起きる可能性があるから、と。
好奇と興味の渦に巻き込まれるのは嫌だったし、もしかしたら姉の当主就任の障害になる可能性もある。
それならわたしは影のままでいい。かろうじて退魔ができるだけのへっぽこ神薙で良い。
神薙少女については、わたしが水守本家の倉に所蔵されていた式神と呪具――つまりナギと天羽々斬に選ばれたから、地域を一つ任せて、神薙になれるかどうかの最終試験をしていた、ということになった。
と、いうか祖母がそういう風につじつまを合わせたのだ。
そうして、わたしは合格し、正式に神薙として仕事を任されることになる。
帰る直前に、祖母とそのことについて話したけれど、すこし壁が薄くなった気がして、肩の力が抜けたような心地になったものだ。
「だってかわいいではないか。ほれ」
「だから忘れてたのにいいいい!!!」
ほのぼの浸っていたというのに、調理の手を止めたナギがどこからともなく取り出したタブレットを見せられて、わたしは声も出せずに真っ赤になった。
何枚も表示されるあの日の巫女姫コスプレは、大半は姉とナギがとったものだったけど、どう見たって戦闘中のも混じっている。
一番起きて欲しくなかった顔ばれ身ばれは。想像を絶した。
かろうじて顔を覚えているような人たちに、あのこっぱずかしい衣装を着たわたしを認識されているという事実に、恥ずかしさと落ちつかなさが次から次へと襲いかかってくるのだ。
要するに穴がなくとも掘って埋まりたい。そのまま放っておいてほしい。
今回の件は内々に処理されたから、ウェブ上に拡散されることはないものの、今のわたしにあの空気は耐えきれなかった。
というか、巫女服が制服として着られている環境で、あの改造巫女服コスプレをさらすってどうなのよ?
ひみこちゃんは一応神社の子という設定だけど、それは二次元の話だし!
場違いハンパないし、それだけでもう気を失いたい。
そして気づいた神薙や用人たちは、「神薙少女」でWEB検索して和メイドとか悪の女幹部とかチャイナまで知るわけでうわあああああ!!!
だから、祖母の引き留める声を振り切って、学業は全うするという名目を盾にかざし、ナギの鈴と身の回りの物だけを持ってアパートへ帰ってきたのだ。
かっかと頬を火照らせながらぶるぶる震えるわたしを、ナギは楽しそうに眺めていたのだけど、ふいにその赤の視線が和む。
「だが、増えたであろう。ぬしへの良き目が」
「っ!」
「声をかけてきた者はみな、ぬしに助けられられたものだ。ぬしを認め、感謝を示しておるのだよ」
「……それは、知っているもの」
言葉を詰まらせつつ、わたしはかろうじて言う。
わかっているのだ。
ありがとうっていわれて。
かけられる言葉が、好意的で。
こそばゆくて、落ち着かなくて、でも、すごく嬉しくて。
もちろん変わらない人もいたし、少し嫌な目で見てくる人もいたけれど。
空気が明るくなって、あれだけよそよそしかった屋敷の中が前よりもずっと居やすい場所になったのだ。
ただ、急に見られる目が変わって、戸惑う部分もあった。
「ぬしが、神薙の一員として迎え入れられる素地はできあがっておろう。それは素直に喜んで良いと思うぞ」
「うん、そうなんだけど」
「ま、よからぬ輩も吹き出してこようが、それは適宜つぶしておけば良かろうて」
「?」
「さ、ぬしよ、食事だぞ? ひさかたぶりだからの。腕によりをかけてみた」
ぽそ、と言ったナギの声はよく聞こえなくて首を傾げたけど、ナギがわたしの好物ばかりを並べ始めたのに気を取られて、聞き返すタイミングを逸してしまった。
とはいえ、気になることは、まだ、ある。
名実ともに、ナギはわたしの式神として認知された。
ただ、水守とナギの間でかわされた契約は、わたしに完全に移行しているけれど、水守の契約を書き換えることはできない。
だから、受けている呪いのような契約もそのままだ。
なのに、ナギはそのままで良いって、言っている。
あれはナギを殺すための呪いなのに、よくわからない。
まだ、死にたいと思っているってことなのだろうかと疑う気持ちもあった。
だけど、祖母と話し合いがもたれたあと、真っ先にわたしの疑念のまなざしに気づいたナギは、あやすような調子で言ったのだ。
『いいや、ほんにもうよいのだよ。なにせ、すでに役割を終えているからのう』
まだ続いているのに、終わっているとはどういうことか。
でもそう言うナギの表情はひどく穏やかで、それ以上追求する気は失せてしまったのだけど、実は、まだ少し不安だった。




