お婆さまが願ったこと
鬼灯の来襲をしのぎきった水守は、連日事後処理に追われていた。
重軽傷者は数多く出たものの、あれだけの数の禍霊や妖怪に襲われて、死者が一人も出なかったのは奇跡だ。
身内でも、応援に来た他の術者達の間でも密かにささやかれている。
無貌と鬼灯は、結局見つからなかった。
妖に、亡骸が見つかることはまれだし、あの深手で逃げ延びられるわけはないだろう。
もし逃げ延びたとしても、すぐに傷が癒えることはあるまい。
ということで、捜索は縮小された。
浄衣を脱いだ後、丸一日眠り込んで目覚めたわたしが、祖母に会いに行けば、そう教えてくれた。
だけど、いつもの通り、ぴんと背筋を伸ばし座っていても、祖母の顔には今だに色濃い疲労が残っているのがわかる。
祖母も、あの後、儀式の間で倒れているところ発見されたのだという。
原因はもちろん、結界を維持し続けたせいで、一時は命も危ぶまれたと聞いていたのに、祖母は本家の被害の把握や復旧の采配に注力していた。
お婆さまが休んでくれないと、碓氷さんが嘆いているのを知っているし、わたしも部下のひとがちゃんと働いているんだから、少しは休んだって大丈夫なのに、と思う。
そんな中で話をしたいと申し出るのは引け目を感じたけれど、祖母はすぐに時間を作ってくれたのだった。
ちなみに、この場にナギはいない。
万一のことを考えて、鈴も持ってきていない。
どうしても祖母と二人だけで話がしたかったし、ナギに聞かれるのが気恥ずかしかったからだ。
わたしの話を聞いた祖母は、かみしめるように沈黙をしたあと、まっすぐわたしを見返す。
やっぱり、この視線は少し苦手だ。
体がひるみかけるけれど、でも目だけは逸らさなかった。
「決心は変わらないのですね」
「はい。今なら期末試験が受けられるので、明日には家に帰りたいです」
今回願ったのは、家に帰る許可だった。
陽南高校は、期末試験まっただ中。
さらにわたしは何日も休んでいて進級も危ういから、受けられる試験は受けておきたい。
「体は、問題ないのですか」
「いつもなら、寝込んだあとは筋肉痛みたいなものでしんどいですけど、今回はそれもなかったので、大丈夫です」
言ってから、祖母に心配されていることに気がついて驚いたけれど、祖母の驚きと、あきらめの表情に戸惑った。
「あれだけの力を行使して……そう、ですか」
ふうと、一つため息をついた祖母は机の引き出しから呪符を取り出した。
呪符は、霊力が込められたとたん、部屋全体を包み込み、結界となる。
万が一にでも誰かに聞こえないようにするものだろうか。
「依夜さん」
「はい」
唐突な作業に面食らっていたわたしは、名を呼ばれて、反射的に背筋を伸ばした。
祖母のひどく真剣な瞳に、心が身構える。
「水守のお役目は神を殺すこと。その技を伝えること。そう言いましたね」
「……はい」
「水守の初代があなたがナギと呼ぶ神と交わしたのは確かにそれです。ですが、初代は子孫へ向けて、水守の神も知らないもう一つのお役目を伝えました」
「それは、何ですか」
「あの神が一人を望んだ場合。それを遮らず捧げること」
祖母が苦々しげに口にしたその言葉に、わたしはこくりと、つばを飲み込んだ。
「水守の当主は、それを受け継ぐ際、同時に水守の神の世話係を拝命します。私は先代よりお役目を受け継いだ時にはじめて神と見えましたが、かの神のあまりの覇気のなさに、もう一つのお役目が果たされるわけがないと思ったものです。
その印象の通り、かの神は時折、単純な娯楽を求める以外は淡々と日々を消費されていました。もう一つのお役目など、何時しか忘れるほどに」
過去へ想いを馳せるようにまなざしを虚空に投げていた祖母は、不意に痛ましさと悔恨にみちた表情をわたしに向けた。
「だというのに、あの日、かの神は、わずか四歳のあなたを選んでしまったのですよ。次代の当主として契約の移譲までして、あなたを逃がさぬように。かの神がそこまでしたのは、驚いたなどと言うものではありませんでした」
「……」
「あなたに、神薙としての素養は確かにありませんでした。ですが巫女としての才能はずば抜けていました。ひとあらざる者の力をそのまま受け入れ、行使する、霊媒としての能力です。
いずれ、そちらの修行をさせようと算段をつけていたのを、台無しにされてしまった。あなたを神に縛らなくてはならなくなったのです」
その激しさにわたしは息をのむ。
祖母の表情は硬質だったけど、それがかえって、そのとき祖母が感じていた理不尽を表しているような気がした。
「あなたが、行方不明だった三日間で、どのような言葉を交わし、なにをしていたのかは存じません。ですがなにもわからぬまま、かの神のひとときの気まぐれであなたの行く末を定めるのは酷です。ですから、猶予をもうけたのですよ」
「猶予って……あのとき言っていた、取引のことですか」
「ええ、私はかの神にあなたが無事にお役目を果たせる年齢になるまでに、その間に十分な修行をさせるとの約定で。かの君も、ご自分の衰えていようと強すぎる力が、あなたに負担をかけることを目の当たりにして、了承されました」
記憶の中の呼吸もままならない重だるさはそれだったのか、と腑に落ちた。
祖母の話は、淡々と続く。
悔恨と、後悔と、少しの悲しみを混ぜて。
「ですが、私は、侮っていたのです。数百年間、何者にも興味を示さなかったのであれば、今回もまた、気まぐれであろうと。時があけば忘れてしまうであろうと思っていたのですよ。
ですが、一年たち、五年がすぎ、十年を間近にしても、かの神はあなたのことを忘れなかった。あなたを目の届かない場所へ遠ざけてもです。それは、私の甘さでしょう」
祖母は、疲れたような様子で首を横に振った。
その姿に、言葉に、じんわりと胸の奥底から、熱がこみ上げてくる。
「じゃあ、今までの修行、は。神薙に、こだわっていたのは」
「水守の神は秘する神です。ですが水守も一枚板というわけではありません。水守の正体を暴こうとするものもいる。その中であなたが、水守の神を降ろせる器であると、公表するわけにはいきませんでした。かといって、用人の修行程度ではとても足りない。隠れ蓑にはそれが最善だったというだけですよ」
そこには、謝罪の意思も、後悔の念も混ざってはいない。
なのに祖母の印象が、今まで冷遇だと思っていた事柄が、塗り変わっていく。
「そして、私は、かの神が”変わらない”のを目の当たりにして、あきらめるしかなかった。かの神はあなたに関してだけは、ひどく辛抱強かった。
それに、あなたのその巫女としての器は悪霊や妖にしてみれば、垂涎のものです。意志が固いのであれば、護衛を用意しなければならなかった。しかたなく、あなたの進学を期に算段をつけました」
それが、あの倉の大掃除につながったのか。
と謎がほどけたところで、祖母の表情がすこし、影を帯びる。
「必要だったとはいえ、あなたに説明もないまま押しつける形になったのは、少し申し訳なかったと思います」
もしかしたら、お婆さまは期待していたんじゃないだろうか。
ナギがなにも覚えていないわたしを見て、幻滅するか、拒絶されてあきらめることを。
でもそうはならなかった。
それに、それしかやりようがなかったのかも、しれない。
わたしに適当な事情を話してナギをつけようとしても、当時のわたしは拒絶するだけだっただろう。
祖母が間に入っていたらよけいにこじれるだけだっただろう。
いろんな想いがわたしの胸にうずまいた。
ナギがずっと待っていたこと。
お婆さまの、当主としての選択。
喜びと、切なさと、寂しさと、納得と。
胸の内が熱くなり、こみ上げてくるような想いが体中に広がっていく。
「ひどいと思います」
素直にこの苦さを吐き出せば、祖母の唇がわずかに引き締められた。
もしかして、傷ついているのだろうか?
いつもよりずっと祖母の感情がわかる気がするのは、なぜだろうと思って、表情が見えているからだと気がついた。
いままで顔を合わせても、祖母をまっすぐ見たことがなかったから、わからなかったのだ。
「けど、いいです。それが、当主の判断だった。そう言うことでしょう? お婆さま」
呼べば、祖母の、お婆さまのまなざしがどことなく驚いたように見開かれた。
けれど、それは一瞬で、再び厳格な表情に戻される。
「あなたは、かの神の、参頭遠呂智凪伎の巫女であることから逃れられません。ですが、それは水守の秘中の秘。あなたは不適格とそしられようと、隠すために神薙であらねばなりません。その覚悟は、ありますか」
もしかしたら、お婆さまは、優しいのかもしれない。
ごまかして、甘い言葉で誘導しようとせず、事実をのべて覚悟を決めなさいと諭してくる。
まだ、祖母に対するわだかまりが完全に消えたわけではないのだけれど、その問いにだけはまっすぐ答えた。
「大丈夫です。わたしは、ひとも、妖も、神も守る。神薙でいます」
以前のわたしは、言われるがままやるばかりで、自分でもなにをしたいのか、わからなかった。
だけど、全部を投げ出して逃げたのに、本当に願っていた夢を、ナギに引き出されて、わたしはあきらめることをあきらめた。
それを、なって良いといわれているのだから、願ってもない。
今は、わたしの夢を助けてくれるヒトがいる。
だから、苦しくても、つらくても、前よりはきっとつらくない。
「それに、ナギが妙なことをしないように、わたしが見張っていれば、お姉ちゃんの役にも立ちますよね」
そう、付け足せば、祖母は少しの間、瞑目したあと、ゆっくりと目を開けた。
そのまなざしは、どこか優しくて。
「あなたに、期待していますよ。依夜さん」
わたしは、覚えているかぎりではじめて、祖母の前で笑みを浮かべられたのだった。
*
水守豊世は、静かに座布団の上に座したまま、今は空になっている眼前の座布団を見つめていた。
正確には、つい先ほどまでいた己の孫の、まっすぐな瞳をだ。
うつむいているか、おびえたようなまなざし以外見たことのなかった豊世にとって、こちらをまっすぐに見つめ返す瞳は新鮮だった。
長年、後回しにし続けた事実を告げたそのあとであるから、なおさら。
酷なことを話したと思う。
あまり、よい保護者ではなかったと、自覚もある。
ゆえに自分の対応に関する申し訳なさも覚えるが、孫は、予想以上につよく、しなやかに成長を遂げていた。
その喜びも少なからず含まれている。
「それをもう少し表情に出していただければ、お二人とこじれずにすんだのでは」
と、碓氷に言われたことはあるものの、昔からの性分がこの年になっても続いているのだから、もう直ることはないだろうと思っていた。
依夜が求めてきたのは、今後についての説明と、自宅へ帰る許可だ。
一昼夜の昏睡から目覚めたばかりなのだから、もう少しゆっくりしていてもよいと思うのだが、いまだに、この実家が居心地が悪い物なのだろう。しかたがない、と思う。
水守の直系は、己と二人の孫だけだ。
そう遠くない未来には、香夜と依夜が水守を背負わなければならなくなる。そのときに、少しでも、憂いがないようにと思い、多くのことを課してきた。
理解されがたいことでもあっただろう。
許されなくてかまわない。
確かに豊世は、水守の家の存続を優先しているのだから。
それでも依夜に関しては、もう少し何とかできなかったか、と後悔があった。
当主は、まだいい。次代へと継承させれば解放される。
だが、かの神に選ばれてしまった依夜は生涯、水守にとらわれ続けることが定められてしまった。
せめてと思った抵抗も、あっけなく崩され、一番酷な形での伝え方になった。
だというのに、依夜は、すべてを受け入れて、笑ったのだ。
気負いもなく、軽やかに、親しみすら込めてかの神を語った。
それで、悟ったのだ。
もしかしたら、依夜の目に映るかの神は、己とは違うのではないか、と。
そして、思い出した。
豊世は、立ち上がると、文机に近づきその引き出しの一つを開けた。
入っているのは、豊世のスマートフォンである。
ここ数ヶ月で格段に上達した指使いで、保管してある画像を呼び寄せれば、そこに並んでいるのは、様々な衣装で着飾った、神薙少女――依夜の写真だ。
時に愛らしく、時に大人び、時に凛としたその姿は、どれもかの神、依夜がナギと呼ぶ者の手による撮影だ。
豊世は写真に造詣は深くないが、これほどまでに彼女という被写体を魅力的に撮るには、努力がなければかなわぬことだろう。
つまり、強い想いが存在する。
その一点ですら、豊世の知る神とは違う。
もしかしたら、豊世が思うほど、過酷な道ではないのかもしれないと思うのだ。
「とはいうものの、しばらくはこのままでいて欲しいものです」
そのあたりは、かの神が最後まで交わした約束を守ってくれることを祈るしかないが。
豊世は願う。
二人の孫娘の幸福を。
そして、
「今回の巫女風も素敵でしたが、猫耳、でしたかしら。ほかのかわいらしい衣装も見てみたいものですね」
ほんのりと表情をほころばせつつ、豊世は、かの神へ念押しと、要望を送るために、画面へ指を滑らせたのだった。




