わたしの結論
鬼灯が落ちたのは、水守の屋敷の裏手と山裾の境にある草原だった。
いつの間にか、夜明け前のひそやかな空気で満たされていて、あたりには薄日が差している。
開けた土地の中心に倒れていた鬼灯は、わたしたちがそばにおり立ったときには、すでに目を開けていた。
もう瘴気の気配はなくて、起きあがれないのか、起きあがるのがおっくうなのか、鬼灯は仰向けに倒れたまま、視線だけでわたしたちを見上げた。
「何で、妾を戻したのよ」
ナギに似た美しい顔には、屈辱と、いらだちと、少しの困惑が混じっていた。
そんな鬼灯に、正気に戻っていることを確認したわたしは、天羽々斬を傍らに置いて、膝をついた。
「言いたいことが山ほどあったからです」
「妾を、咎めるとで、も!?」
顔を背ける鬼灯の頬を挟んで、わたしはきっちり目を合わせた。
「あなたは悪いことをしたんです。罪もない女の子たちを殺して、壊して、水守をめちゃくちゃにしようとして、あなたはひどい妖です!」
「はん、それがなに? 妾がその程度でひるむとで……」
「でも!」
鼻白む鬼灯の言葉を遮って、わたしは言った。
「でも、あなたの弟であるナギを、ずっと閉じこめていたことは謝ります。ごめんなさい!!」
思ってみなかったのだろう、鬼灯の赤の瞳がまん丸に見開かれた。
「お姉さんなら、怒って当然だし、安全な場所へ連れて行こうとするのもわかります。だけど、ナギにも意志があるんです。ナギがしたいことを無理矢理曲げるのは違うと思います!」
鬼灯の考え方も、行動も、理解できないし、受け入れられないし、災厄しか生まなかった。
怒りもある。
だけど、ゆがんでいようと弟を思う気持ちだけは本物だったのだ。
許すわけじゃない。
でも、そこだけは認めて、けじめを付けるのだ。
「妾に、謝るというの……?」
わたしが手を離せば、鬼灯は腕を支えにゆっくりと上半身を起こした。
理解ができないとばかりに困惑する彼女は、けどあざけりも拒絶もしない。
ふいに、ナギを振り仰ぐ。
そこに、以前の激しさはなかったけれど、痛みと悲しみとあきらめがあるような気がした。
「ナギ、だめ、なのね」
「ああ。わしはここがいい」
穏やかに、でも断固として言い切ったナギに、鬼灯は力なく首を横に振る。
「いやよ……いや。だって妾のほうが絶対ナギを好きなのに。ナギが妾の物にならないんなら、こんな醜い感情を掘り出されるなら、なにもわからないうちにいっそ殺して欲しかったのに!」
「どうやらなあ。わしは姉者を手に掛けたくないと思うくらいには、兄弟の情という奴があるようなのだよ」
困ったように苦笑するナギに、鬼灯はひどく傷ついたようにくしゃりと顔をゆがめた。
「やっぱり、ナギはナギだわ。ほんとうに、ひどいことばかり言うんだから」
つぶやいた鬼灯は、傍若無人だった頃や禍神のような力強さはなく、ただただ弱々しく見えた。
彼女が今までやったことを考えれば、無罪放免というわけにはいかないし、わたしも許せない気持ちは変わらない。
でも、と思ってしまうわたしは、おかしいのだろうか。
地面に置いていた天羽々斬の柄を再び手に取り握りしめていると、不意にナギが顔を上げた。
黒い袖にかばわれたと思ったら妖気の気配がする。
「鬼灯様!!」
瞬間、鬼灯のまわりに闇よりも濃い影が出現し、そこから黒い人影――無貌が現れた。
無貌のぴしりとしていたスーツは見るも無惨にぼろぼろになっていて、その張り付けられた顔も、見ている間も揺らいで、安定しない。
お姉ちゃんとの対決がどうなったか、というのはその様子だけで分かった。
それでも必死の形相で無貌は鬼灯をさらったとたん、影の中に沈み込む。
無貌がこちらをにらみつける視線を最後に、二人の姿は消えてしまった。
「あっ……!」
残るのは、夜明け前の森閑とした空気と、ささやかにざわめく草の揺れる音だけ。
行ってしまった。逃げられてしまった。
「逃げられて、しもうたの」
「うん」
「わしもとっさのことで、止めるまでは手がまわらんかった」
そう言ったナギの袖を見れば、ざっくりと裂けていた。
かばってくれなきゃ、傷ついていたのはわたしだ。
でも、よけられなかったわけじゃない、と思う。
ナギのもったいぶった言い回しはなんだか、無貌の動きを止めきれなかったからしょうがない、という言い訳をたてたいように思えた。
けれど、あれだけ傷ついていた無貌だから、水守の敷地からそう遠ざかってないはず。
今のわたしなら、追いかけることはできる、かもしれない。
と、思ったとき。
手に持っていた天羽々斬がぽんっと音を立てて白いハリセンに戻ってしまった。
まるで無理するなと言われているみたいだ。
なんだか、悔しさと、おかしさと、安堵が入り交じって複雑な気分になったわたしは、それでもナギをまねして言ってみた。
「時間切れみたいね。ハリセンじゃあ、きっと追いかけられないわ」
「すまぬの。ぬしよ」
すこし申し訳なさそうなナギに、わたしは眉を上げて見せた。
「なんのこと? だって、追いかけられないんでしょ? いつか、また鬼灯が同じようなまねをしたら、今度こそ滅するわ」
神薙は、人に徒なす妖を滅するのが使命だ。
だけど、式神の心を一つ守れなくて、どうして神薙でいられるだろう。
それに鬼灯は、これ以上ナギに執着はしない気がした。
だから、今はこれでいい。これでいいんだ。
「うむ、それでよい。……ありがとうの」
ナギは、ほっとしたように柔らかく微笑んでいた。
けど、墨染の衣はきれいになっていたけれど、露出している首筋や手首に見える痛々しい傷はそのままだ。
「ナギ、大丈夫?」
「ああ、忘れておった。傷なら大事ない。ほれ、この通り」
さっと手を首筋に滑らせたとたん、傷は消えたけど、秀麗な顔には隠しようのない疲れがにじんでいた。
それも当然だ、ナギは水守の土地を維持しながら、わたしに力を貸した上で傷を肩代わりしていたのだから。
わたしのほうはいつもの浄衣を着たあとより疲れたかな、くらいで済んでいるのが申し訳ないくらいだった。
「なにかできることある? 浄衣を脱いだらちょっとは楽になるかな」
でも、今、浄衣を脱げば寝込んでしまうだろうから、せめて姉や水守の人たちの無事を確認するまでは、着ていたかった。
ああそうだ、お姉ちゃんに連絡も取らなきゃ。
今どこにいるのかな。
そんな風に気遣いつつも、別のことを考えていたから、ナギが不穏に目を光らせたことに気づかなかった。
「うむ、ならば……」
カシャッと、シャッターを切る音が聞こえた。
はっと見れば例の一眼レフを構えたナギが、喜々として連写をし始めていたのだ。
「ぜひこのまま撮影会を頼む! まじかる☆巫女姫最終バージョンは是非撮りたかったのだ! そのままくるっと回って見せてくれ!」
「なに急に元気になってるのよ!? というかカメラどこから取り出したの!?」
「ぬしが何でもしてくれるというのなら、これを逃す機会はなし! その後はひみこちゃんの決めポーズも頼むぞ!」
この式神に、いや神さまだったか! 自重という言葉はないのか!?
「何でもするなんて言ってないし! それにっ……!?」
連写を止めないナギに言い返しかけたとき、屋敷の方角から走ってくる山犬の姿が見えた。
その背に乗っているのはこちらに大きく手を振るお姉ちゃんだ。
「依夜――っ!!」
「お姉ちゃん!!」
あっという間にわたしの前まで走ってきた日向の背から、姉が降りてきた。
わたしも矢も楯もたまらずに駆け寄れば、ぎゅっと抱きすくめられたけど。
開口一番怒鳴られた。
「なにしてるの! あんなでっかい禍神に一人でつっこんでいくなんて!」
その剣幕にはひるんだけれど、姉の怒りに満ちた顔は直ぐに泣き顔に変わって、もう一度強く抱きしめられた。
「無事で良かった……!」
「お姉ちゃんこそ、無貌とは」
予想はついていたけど、本人の口から聞きたくて問いかける。
すると姉は、ちょっぴり悔しそうな表情をしながらも、にっかりと笑って親指を立ててくれた。
「あとちょっとのところで取り逃がしたけど、雪辱戦は果たしたわよ」
「そっか」
「ただ、無貌はこっちのほうに来たはずなんだけど、依夜、鬼灯は?」
「とり、逃がしちゃった」
そう答えるのはすこし、後ろめたくはあったけど、姉は少し眉を上げただけで納得してくれたみたいだった。
「一応、神薙に声をかけてみるけど、みんな疲れ切っているし、今から追撃しても間に合わないわね」
姉は少しの間、悔しそうに遠くを見つめていたけど、直ぐにわたしに視線を戻した。
けど。なんだかそのまなざしが不穏な気がして、わたしはほんの少したじろいだ。
「ねえ依夜、もしかしなくても、それが例の浄衣よね?」
「え、あ、う、うん」
そういえば、お姉ちゃんが正気の時に浄衣を着て顔を合わせるのは初めてだ。
急に気恥ずかしくなってきて、そろそろと離れたのだけど、それが失敗だったことは直ぐにわかった。
「遠くから眺めていたけど、すっごくかわいい! 超かわいいじゃない!! あーもう無貌ぶっ飛ばせた上にこんなにすてきなご褒美もらえるなんて幸せだなー!」
姉の白い小袖は土と血で汚れ、赤い袴は裂けているのに、それすら意識の外といった感じではしゃいでいた。
しかもおもむろに懐からスマホなんて取り出してる!?
「依夜、こっちむいてー! ね、ね! 待ち受け用の画像撮らせてよ! あと保存用とアルバム用!!」
「お、お姉ちゃん落ち着いてっ」
ナギと同じことを言い出したお姉ちゃんにうろたえていると、その背後にナギが現れて同じようにカメラを構えた。
「この際だ、ぬしよ。姉とわしをねぎらうために! きゅるんと一発決めポーズをとってくれ!」
「調子に乗るなー!!!」
「え、決めポーズ!? それなら動画にするわ、ちょっとまって!!」
「お姉ちゃんも聞いてよ!?」
すごい勢いでシャッターを切るナギや、お姉ちゃんがスマホの画面を操作して動画モードにするのから逃げ回ろうとした。
けど、遮るもののない草原じゃ、限度がある。
進退窮まったわたしは、あきれたまなざしの日向を見つけて、助けを求めた。
「ひ、日向ー! 助けてー!!」
「知らねえぞ勝手にやれ!!」
「ふえええ……」
心底いやそうに尻尾で追いやられてしまったわたしは、いつの間にか、ナギとお姉ちゃんに挟まれてしまった。
向けられる視線と、カメラに否応なく羞恥心があおられて涙目になる。
顔が熱いし、逃げたいのに、二人は全然許してくれない。
そ、それに二人をねぎらうためと言われると、全力で拒否するのも悪い気がするしああでもやっぱり恥ずかしいし!
そんな感じでぐるぐるしていれば、姉はによによと笑いながらしみじみと言った。
「ふふふ、お姉ちゃんはうれしいのだよ。長年かわいい系の服を着てくれなかった依夜が、こうして! 堂々と! かわいい服を着てくれるなんて!」
「か、かわいい服を着るのは良いけど、とられるのは別問題なのー!!!」
今もっとも思う魂の叫びだったけど、引っかかる単語があったからさらに付け足す。
「それに、堂々とじゃないからね!? ま、魔法少女形式? とかで浄衣を着ているときわたしは、わたしってわからないんだから!」
そうじゃなかったらこんな格好水守でしない。
なのに、スマホをちょっと降ろした姉は不思議そうにした。
「え、でも、私以外の神薙も、何人か依夜ってわかってたわよ? 碓氷さんとか」
「……え?」
な ん だ っ て ?
凍り付いたわたしが、ぎぎぎっと振り返れば、いつの間にかビデオカメラに持ち替えていたナギはふと思い出したように言った。
「そういえば、力をそがれておったでな、術がちいと甘くなっていたやもしれぬ。高位の術者であれば、ぬしをぬしだと認識できたやもしれぬのう。まことにうっかりであった」
ナギは重々しく言っているけれども、ちょっぴり唇の端がひくひくしているし、なんだかものすごくわざとらしい。
「あっ、えっ、つ、まり……!」
あまりのことにうまく言葉を紡げずにいれば、遠くから呼び声が聞こえた。
はっと振り返れば、碓氷さんをはじめとする神薙や用人たちが、こちらへ走ってきている。
「香夜様ー! 依夜様ー!」
「ご無事ですかー!!」
その呼び声に、脳の機能が全部停止した気がした。
かれらは、しっている。
わたしがここにいるって、わたしが、このかっこうをしていることをわかっている!
がっと顔に熱が上って爆発した。
羞恥と怒りと、その他諸々形容しがたい感情が一気にあふれだし、めまいがしたわたしがよろけると、すっと、ナギに支えられた。
「なんか、すまぬ?」
半笑いのナギに見下ろされたわたしは、理性の緒がぷつっと切れる音を聞いた。
「あんた絶対わざとでしょおおおぉおおおお!!!」
きたる羞恥プレイから目を逸らすために、わたしはナギの胸倉をつかんで揺さぶることで現実逃避をはかったのだった。
*
無貌が再び影を通じて出てきたのは、水守の敷地が見えない、隠世の空間であった。
だが、見えないだけで、それほど離れた距離ではないだろう。
鬼灯を降ろした瞬間、その場で体を揺らがせて、苦しげに呼吸をくりかえす無貌を、鬼灯は困惑の面持ちでみつめた。
「むぼう……なんで」
名を呼ばれた無貌は、歓喜の表情に変わる。
「鬼灯様よくぞご無事で! 禍神に落ちた時にはこの無貌、恐ろしさに震え上がりました。ですが、さすが何よりもお強い鬼灯様です、あれだけの攻撃を身に受けてもなお健在でへぶっ!?」
「御託がうるさいわ」
だが、鬼灯は無貌の顎を容赦なく殴りつけた。
舌をかんだらしい無貌が微妙に恍惚とした表情で悶絶する姿を、黙って眺めていた鬼灯だったが、ぽつりと言った。
「妾、負けたのよ。小娘風情に」
あの娘に、完膚なきまでに屈した。
殺すわけでもなく、ただ生かされた。
この妖が自分につき従う理由は、自分が最強であるからだと知っている。
ならば、負けた己を助ける理由などないのでは、と思ったのだが。
「いいえ負けておりません」
だが、その思考は断固とした無貌の声音に断絶させられた。
「鬼灯様は尊きお方、その強さも美貌も気品も、あの小娘に勝ることはあれ、劣るところなどないのです。おそばにいた私が一番存じております」
一点の曇りもなく言い切った無貌は鬼灯の手を取り、その手のひらに口づけた。
「傲慢で、残酷で、なお美しき、我が主。あなたにあきらめるという言葉は似合いません。どうかこれから先ものぞむがままに。
あなたが落ちるというのであれば、私も禍霊へと落ちましょう、あなたが望むのであれば、この命も捧げましょう。どうか私が果てる理由を、あなたにさせてくださいませ」
そこにあるのは、哀願と、盲目的なまでの信頼だった。
溢れるほどの熱と、ほの暗い執着心。
わかっていた、つもりであるのに、鬼灯は初めて無貌という妖を目の当たりにした気がした。
――……だが、それとこれとは別だ。
「勝手に口づけていいって、誰が許可したの?」
鬼灯はとられた手を取り返し、返す手で無貌の頬を打つ。
ぱし、と軽い音が響くが、ただ衝撃だけのそれに、無貌は呆然とする。
その様子に、鬼灯はあきれて肩をすくめた。
「ご褒美を上げる訳ないでしょ。まったく。よけいなお世話にもほどがあるわ」
「そうで、ございますか」
あからさまにしょんぼりする無貌に、鬼灯は枯れ葉のように朽ち果てていた心に、淡く熱が戻ってくるのを感じていた。
「それに。妾はあきらめたつもりはないもの。だって人の子なんて百年もたたないで死ぬのよ? それなら、待てばいいわ。ナギが飽きるまで」
禍神に落ちた鬼灯は、あの娘の剣に貫かれた。
ずっと昔、兄弟たちが分かたれることになるきっかけの、忌々しい剣でだ。
だというのにその剣は鬼灯自身を傷つけず、代わりに小娘と、ナギの想いを直接伝えてきた。
娘が知っていることも、知らないことも。
余すところなく、すべてだ。
否応なく理解させられた鬼灯だったが、だがと思う。
それは娘がいる間だけだ。
鬼灯は焦ることはない。
なぜなら人と人あらざるものは生きる時が違うのだから。
娘が死んだそのときに、またチャンスが巡ってくるのだ。
くすりくすりと笑みがこぼれる。
待とう。たかが百年だ。待つのは嫌いではない。
今の世の中、暇つぶしになる楽しいことは、山のようにあるのだから。
「疲れたわ、無貌。運んでちょうだい」
伸びをして手を差し出せば、無貌は表情を明るくさせた。
「鬼灯様……!」
「なに、無貌。文句でもあるの?」
惚けたように見られた鬼灯が、少々のいらだちを込めてにらみつければ、無貌は勢いよく首を横に振った。
「いえ、いえそのようなことは!」
すぐさま無貌は影を広げ、鬼灯をくるみ込んでまた隠世へ沈みこむ。
「無貌、妾を退屈させないように、せいぜい楽しませてちょうだい」
「おおせのままに」
いうつもりもないが、己を主と仰ぐこの妖は鬼灯を退屈させないことに関しては随一だ。
きっと百年なんてすぐ過ぎるだろう。
恭しく返事をする無貌の影の感触に体を預けて、鬼灯はこれからどんな暇つぶしをしようか考えつつ、忍び笑いを漏らしたのだった。




