水守のお役目
ナギが水守の神だと明かした祖母は、わたしの動揺なんて見向きもせずに、淡々と続けた。
「初代が実際に、どのような約定を交わしたかは残っていません。ですが、かの神は古き神です。恐ろしく強大な霊力は、たやすく死を遠ざけたことでしょう。それが、初代との約定につながったのだと推察できます」
自分で死ねないのなら、殺してもらおう。
と、そう言うことだろうか。
「水守の役割はいくつかありますが、一つはかの神をこの地に封印しておくこと。一つは、いつか神が衰えた際、確実に滅するために技を磨き、伝え続けること。すべてかの神と同意の上です」
祖母はそこでひとつ息を付いた。
「すでに、香夜さんは、水守に伝わる神殺しの秘奥を継承しました」
教えられて、ようやく一連のことがつながった。
いままで祖母と姉が居なかったのは、それを伝えるため。
神を確実に屠るための手だてを準備していたのだ。
だけど、こんなところでもわたしは蚊帳の外におかれているのだと思い知らされて、心がきしんだ。
「本来は何ヶ月もかけて伝承するものですが、香夜さんはよく耐えてくれました。鬼灯を滅することができるのは、兄弟を断つために磨かれたあの術のみでしょう」
祖母が続けた言葉が頭にじんわりと染み渡るにつれて、指の先が冷たくなっていった。
「かの神が姉と称したのであれば、鬼灯も八岐大蛇の一柱です。この水守に、無貌を含めて二柱を相手にすることはできません。私がかの神を封じることに専念し、香夜が鬼灯を討つ。それが生き残る確率の高い方法でしょう」
ナギが八岐大蛇――正直、それは未だに信じられないけど、であれば、必然的に鬼灯も八岐大蛇の一柱と言うことになる。
しかも、ナギとは違い、ほぼ完全な力を持った。
「要注意怪異である無貌の記録から類推して、報復は時間の問題です。さらに鬼灯がかの神の施された呪に気づけば、水守へ乗り込んでくる可能性も十分に考えられます。最悪の事態は想定しておくべきです」
わたしはようやく、どれだけ水守が危うい状況にいるのか、痛いほど理解した。
震えそうになる。ううん震えている。たぶん、顔色は真っ青だ。
「あなたに願うのは、この地にとどまっていることです。たとえ水守の誰が倒れようと、血と知は次代へつなげなくてはいけません」
淡々と告げられて、はっと我に返った。
祖母の表情は変わらない。
なのに自分が終わることまで考えていることにぞっとした。
水守の存亡が、祖母の双肩にかかっているのだ。
これほどの重圧を引き受けていたのかと気づいた私は、急に自分が恥ずかしくなってきた。
祖母はすべてを引き受け、自分すら駒の一つにしてこの局面を乗り切ろうと努力している。
だというのに、わたしはそんな覚悟にいらない横やりを入れていたのだ。
なにもできないのに、なにをぐちゃぐちゃ言っていたのだろう。
もう、やめよう。
これ以上望むことをあきらめたわたしは、最後にふと、思い出す。
衝撃的なことを明かされて忘れていたけど、わたしがここに来た理由があった。
きっと、祖母たちは迎撃のために、さらに忙しくなる。
……これが、最後の機会になるかも知れないのだ。
「最後に、一つだけ良いですか」
ぽつりと問えば、祖母は先を促すような素振りを見せた。
「なんで、ナギと出会ったわたしの記憶を封じたんですか」
きっと、ナギが秘された神なら、子供でも忘れておいてもらったほうが良かったとか、そういうことだろうと思った。
だけど、祖母の変化は劇的だった。
あれだけ動じなかった祖母は、表情をこわばらせてはっきりと青ざめたのだ。
「どこまで思い出したのですか」
焦ったような声音に戸惑いながらも、わたしは言った。
「全部じゃありません。小さい頃にナギに助けてもらったことと、お祭りで遊んだことと、花火の中でお婆さまがやってくる情景で……そのときに、お婆さまはわたしの記憶を封じたのでしょう?」
「そう、ですか」
ほっとしたように息をついた祖母に、なりを潜めていた違和がふくらんだ。
なぜ、そこでほっとするの?
思い出してはいけない理由があるのだろうか。
「お婆さま。あのとき、わたしとナギになにかあったんですか」
「依夜さん、その記憶は思い出してはいけません。少なくとも、この討伐が終わるまでは」
祖母の怖いほどの真剣な眼差しにひるみかけるけど、奇妙としか言いようがない言葉はおかしいにもほどがあった。
「それがあなたを守るためでもあり、ひいては水守を守るためです」
「水守を守る?」
大きくなるばかりの話に戸惑っていると、不意に祖母は腰を浮かせた。
「いえ、今もう一度封印します。動かないでください」
その言葉と動作で、本気だと悟ったわたしは、総毛立った。
「待ってください! なんで!!」
「あなたがそこまで思いだしているのは予想外でした、今の私の力でどこまでできるかわかりませんが、封印しておくほうが安全です」
その怖いくらい冷静な声音で、座ったままにじりよってくる祖母から逃げるために、わたしはすぐさま立ち上がる。
いくら水守のためと言われても、また記憶を封じられるのは嫌だった。
なにがなんだかわからないけど、とにかく、今は逃げるが勝ちだ。
とにかく部屋の外へ行こうと、襖に走っていこうとしたのだけど、途中で羽交い締めにされた。
愕然とふり仰げば、それは白い小袖を着た若い女性だ。
室内には隠れられる場所もないのに、いつの間に!?
と思ったけど、その人の顔はあの日、ナギと出会った倉へ案内してくれた巫女さんだと気づいた。
しかも、この気配は人じゃない。
あのときは疑問にも思わなかったのに、今はなぜかそう感じた。
「甘露、こちらへ」
驚いた風もないお婆さまの声に甘露さんが従い、振り向かされる。
もがいてもびくともしない腕に、この人は式神だと確信した。
立ち上がっていたお婆さまは、睨み上げるわたしに硬質な視線を向ける。
「横暴ですっ! わたしはたしかに役立たずですけど、こんな扱いされて傷つかないと思うんですかっ」
祖母の表情が少しだけ傷ついたようにしかめられた。
だけど動きは止まらない。
「水守の為です。恨むなら、私を」
祖母が言いかけたそのとき、室内にたばこの香りが漂った。
窓は閉められてクーラーが使われているから、外から入り込む余地はないし、そもそも水守の人間に喫煙をする習慣がある人は少ない。
苦いような煙いような薫りはかいだことがない。
なのになぜか、黒髪に彩られた美貌を思い出した。
祖母も気づいたらしく、わたしの額にのばそうとしていた指を止めて虚空に視線をやった。
刹那、祖母の顔から一気に血の気が引いた。
「なん、ですって」
限界まで目を見開いた祖母がなにを感じているのかはわからない。
だけど、なにか胸騒ぎがする。
祖母の劇的な反応もそうだけど、ひどく悪いことが起きそうな、そんな感触がした。
祖母が立ち尽くしていたのはほんの瞬きの間で、けれど、かつてなく焦りを含んだ険しい表情でわたしを見た。
「状況が変わりました」
「なにが」
「甘露、依夜を拘束したまま付いてきなさい」
「はい」
「えちょっと!?」
その声とともに不意に羽交い締めが解かれたと思ったら、今度は俵担ぎにされた。
目を白黒させるわたしにかまわず、祖母は襖を開いて廊下へ出る。
と、そこにはスーツに着替えた碓氷さんが待ちかまえていた。
「当主!? いったいなにを……」
「碓氷、各所に結界の強化と、迎撃の準備を通達なさい。この水守が特定されている前提での行動を。遠からず襲撃がきます」
歩きながら話す祖母に付いてきた碓氷さんは俵担ぎのわたしに驚いていたけど、祖母の厳しい声音に即座に表情を引き締めた。
「これより水守の敷地へ入り込む者は魔除けの術を……いえ、今敷地内にいるものも、一人一人確認を。すでに無貌が入り込んでいるかもしれません」
「そろそろ分家からの応援が到着するはずですが、ただちに調査に入ります。当主様は」
「予定通り結界に専念します。今回、私は動けないものと思いなさい。全体の指揮はあなたと香夜に一任します」
碓氷さんは顔をこわばらせたけど、全権を任された重圧のせいではなく、祖母を案じているがためのように思えた。
だけど碓氷さんは異を唱えずにうなずくだけだった。
「承りました。……依夜様を指揮下に入れることは可能でしょうか」
思いがけない言葉に、わたしは目を丸くしておどろいた。
祖母も歩く足は止めないものの、意外そうな顔で碓氷さんをみる。
「なぜ」
「彼女は一度無貌に会っていますから、見分けられる可能性があります。一人でも多くの人員が欲しい状況ですので」
その表情はひどくまじめで、碓氷さんは本気で言っているのがわかる。
それが、無性に嬉しかったけど、祖母は考える間もなく否定した。
「この子には別の役目があります」
「……わかりました。ご武運を」
「あなたも」
短いやりとりで碓氷さんは静かに走っていく。
そうしている間にも、祖母とわたしを抱えた式神は屋敷の奥へと進んでいく。
今のやりとりでも、気になることが山のようにある。
「おばあさま、わたしの役目って何ですか! 結界って……!?」
「これから敷地全体に、大蛇の力をそぐ結界を張ります。水守の神を滅する為に練り込まれたものですが、鬼灯にも効果はあるはず。ですが、そのためには隠世と現世の混じり合ったこの特殊な場を維持しなければなりません。香夜さんが使うはずの術に関しても同様です」
よほど急いでいるのか、祖母は焦りをにじませた声音で矢継ぎ早に語る。
全く話が見えてこなかったけど、その鬼気迫る様子に呑まれて黙って聞いた。
「水守の特殊な場を維持しているのはかの神の力ですが、今この場にその神はいない。それでもこの地がそのままであるのは、水守の神と直接契約を交わした水守の直系を通して力が供給されているからなのです」
そこで、祖母は狂おしげな眼差しをわたしに向けた。
「現在その契約は、私とあなたで維持しています」
「わた、し?」
目を見開いたわたしに、祖母は悔恨とも自責ともとれるような複雑な表情で続ける。
「11年前のあの日、あなたは水守の神と出会い、神はあなたを選び、契約を交わした。ですが水守のすべてを背負わせるには、あなたは幼すぎました。ゆえに前任者である私の契約を有効のままにし、あなたの記憶を封じることで、私が契約の主導を握っています」
一番知りたかった核心に触れていても、嫌な予感しかしない。
いつの間にか、祖母がやってきたのは水守の本殿だった。
舞や祝詞を奏上する場で、普段は誰も出入りしない。
その広々とした室内を突っ切り、祖母はいつもなら絶対にしないであろう無遠慮さで奥の祭壇に近づくと、かかっていた御簾をまくって内側へ足を踏み入れる。
「ですが、あなたが記憶を思い出しつつある今、その契約は五分と五分ほどになっているでしょう。つまり、私にもしものことがあっても、あなたがいればこの水守の結界は維持され、香夜さんの勝機は消えません」
「それって、つまり!」
わたしがが言いかけた瞬間、地鳴りのような振動とともに一瞬空間が揺らいだ。
とたん、がつんっと殴られたような衝撃と、ぞわぞわと背筋が冷えるような怖気に体を震わせる。
なにがなんだかわからなくて、祖母を見れば、祖母は九の字に体を丸めると、口元に手をやって一つせき込んでいた。
離した手には赤々とした血がべったりと付いていて、わたしは青ざめた。
「おばあさま、血がっ!」
「今ので隠匿がほどけましたか」
焦燥を露わな祖母のつぶやきで、敵襲だと知った。
祖母は血濡れた手のまま、ご神体としておかれている鏡の後ろにある両開き扉を開けた。
中は真っ暗だったが、濃い力の気配がすることだけは感じられた。
「ここは、水守の神域につながっています。すべてが崩れない限り、今の状況で一番安全な場所です」
「い、いやです」
「あなたの役目は、最後まで生き延びて、この場に神力を供給することです」
わたしの拒否を無視して祖母は言い切った。
理屈は嫌と言うほどわかる。
自分にしかできないって言うのも理解できた。
でもそれは、祖母も、お姉ちゃんも水守の人々が戦っている間も、なにがあっても閉じこもっていろということだ。
足をばたつかせても、式神の力にはかなわない。
身振りで祖母が指示すれば、甘露さんはわたしの体を扉の内側へ押し込む。
中は別の空間につながっているようで、足がかりなるものは一つもない。
ふりあおげばほんの少しだけ、祖母の表情がゆるんだ。
「いきなさい、依夜さん」
「お婆さまっ」
わたしの呼びかけもむなしく、甘露さんの手が離れ、体は暗闇に投げ出されたのだった。




