思い出を探して
水守の書庫は、古い墨と和紙のにおいと、少しひんやりとした空気で満たされていた。
日光の入らない北向きの上、窓は小さく取られているから、室内は朝の早い時間でも明かりが必要なほど薄暗い。
室内には、多くの古い本が天井までぎっしり並べられ、壁際にもうけられた棚には、平積みにされた和綴じの書物や巻物が、丁寧に、だけど隙間なく詰まっていた。
地下へ降りれば、ここよりもずっと広いスペースを埋め尽くすように閉架書架が並んでいる。
この閲覧室も、古風な板張りに漆喰の壁という内装に仕上げられていても、書物を保管するために最適な温度と湿度に管理されているのだ。
そんな中、読書ランプの下で、わたしは閲覧用の机に古い巻物を広げていた。
傍らには、しまう時間すら惜しくて、読み終えた和綴じの書物や巻物が山になっている。
さあ、と部屋の空気が動くのを感じて振り返れば、そこには大いに困惑した様子の碓氷さんが立っていた。
「まだ読んでいるんですか」
「だって、修行もやらせてくれないじゃないですか」
あきれた声音にそう返せば、碓氷さんは少し、気まずそうに視線をそらした。
祖母に討伐隊に加わることを断られて二日になるけど、その間、わたしはゆるく監視されていた。
さすがにお風呂やトイレとか、そういうところにはいない。
けどわたしの部屋の周囲にはひっそりと監視用の札が貼られてあるし、さらには碓氷さん自身がそれなりの頻度で様子を見に来て、行動は全部把握されていた。
四六時中一緒にいたナギよりは控えめで、不愉快とはいえ耐えられないほどじゃないのが良いのか悪いのか微妙なのだけど。
ただ、碓氷さんだって討伐隊の頭数に入れられているのだから忙しいはずなのに、わたしなんかの監視まで任されて大変だ、と少し同情した。
札を書いたりとか、道具の手入れくらいならできるから、討伐隊の準備の手伝いをさせてくれといった申し出も、やんわりと断られてしまっている。
せめて霊力の修行をさせてくれと願ったが、それもだめだと言われてしまい、しかたなく思考を切り替えたわたしは、書庫にこもっていた。
彼はきっと祖母に命じられたことに従っているだけなのだから、碓氷さんに当たったって仕方がない。
それにしても手伝いは邪魔になるからっていうのはわかるけど、修行まで不可というのはなぜなのだろう。
ふてくされつつも、わたしが文章を追う作業に戻ろうとすれば、碓氷さんは深く息をついた。
「すでに昼は過ぎています。食事にしてください」
その言葉にきょとんとして、傍らに置いていたスマホをみれば、確かに12時を大きくすぎていた。というか、もうおやつ時ほうが近い。
朝御飯を食べてからずっとだったから、かなり長くこもっているのは明白だ。
画面には弓子達からのメッセージが並んでいたけど、姉の名前はなかった。
少し落胆したけど、それよりも、急にお腹が空いてきた。わたしでそうなのだから、動いている碓氷さんもそれなりだろう。
「もしかして、碓氷さんご飯、待たれてたんですか」
「そう思うのなら、せめて時間通りに戻ってきてください」
碓氷さんの顔には、また逃げ出したのかと思った、という考えが透けて見えて苦笑した。
「もうやりませんよ。迷惑かけるってわかりましたから」
わたしは読んでいた巻物を巻き直して、ほかの巻物を持って立ち上がった。散らかしっぱなしはよくない。
「午後もここに?」
「いいえ、とりあえずは済んだので、片づけます」
言いつつわたしが緋袴の裾に気をつけながら立ち上がれば、碓氷さんが持ちきれなかった古書を持ってくれた。
片づけるのを手伝ってくれるとは思っていなくて目を丸くしていると、碓氷さんは古書のタイトルを見て眉をひそめた。
「このようなものまで読まれていたのですか」
このようなもの、と言われる理由がわからなくて、首を傾げる。
「そちらは水守の歴史書でしょう。こちらは神薙の呪術書に、式神に関する概論書。古い討伐歴まで持ち出して。これらは現役の神薙でも読まないたぐいのものですが」
「修行中に使われるテキストでは、術の理論的なところまでは書いてませんから。式神に関しても、禁則事項の理由までは説明しませんし。わからないところは自分で文献にあたれと言われましたけど」
「術式は使えればいいと思う術者は多いのですよ。そう指導しますが、自ら調べるものは少ないんです。内容は高度ですし、何より読むのに時間がかかりますからね」
苦い顔をする碓氷さんに、そういうものか、と意外に思った。
確かに巻物や和綴じ本は昔の文章で、続き文字の達筆で書かれている。
だけど、わたしは続き文字も古文書の読み方もそれこそ小さい頃から読み方を教わってきたのだ。
そのおかげで、古文の単位を落としたことがないほど、今の文字と変わらずに読める。
ほかの神薙の卵達もそうだと持っていたのだけど、違ったのだろうか。
「碓氷さんは読まれないんですか?」
「研究書のたぐいは、それなりに。ですが自分の専門以外はそれほど手を出しません。討伐歴に関しては、そこまで古いものは見たことはありませんよ」
わたしも、昨日までこんなものがあるなんて知らなかった。
偶然たどり着いたものだ。
水守が今まで退治してきた妖を絵巻物だったり、文章だったりでまとめたもので、古いものは江戸時代初期の年号が書かれている。
たぶん、持って行くところに持って行けば文化遺産くらいにはなる資料ではないかと思うものだけど、閉袈書架とはいえほかの本と一緒に並んでいたのだ。
おかげで思う存分調べられたのだけど、さすがにぼろぼろの紙を扱うのはちょっと怖かった。
「いったいなにが知りたかったのです」
どこか感嘆した風にわたしの持つ巻物を眺めていた碓氷さんに問われて、少し困った。
「探したいものが、あるだけです」
うそはついていない。
碓氷さんはまだ聞きたそうにしていたけれど、わたしが緋袴をさばいて、片づけにかかると、黙って手伝ってくれた。
その最中にわたしは朝にも聞いた質問を繰り返す。
「お姉ちゃんは今どこにいるんですか」
「お教えできません」
朝と同じ答えが返ってきて、わたしはため息をついた。
一昨日、病室で別れて以降、姉は行方不明だった。
またなにかが起こったのかと不安になりかけたけれど、碓氷さんを問いつめた結果、祖母と一緒にこの敷地のどこかにいることだけは確かのようだ。
だけどそれ以上のことは、碓氷さんはがんとして口を割らない。
しかも、祖母にわたしをこの件に関わらせないように言明されているらしいことを、行動や言葉の端々から実感していた。
姉がいったいなにをやらされているのか気になるけれど、きっと大丈夫なはずだから。
これ以上困らせても仕方がないので、わたしは問いつめる代わりに聞いた。
「お昼ご飯を食べ終わったら、外に出たいんですけど」
「それは」
渋い顔をする碓氷さんが、先をいう前に続けた。
「水守の敷地内です。逃げるつもりはありません。碓氷さんがついてきてくださればいいですよね? お時間はありますか」
本当は一人で行きたいけど、それでまた行動を制限されてはたまらない。
「問題ありませんが……」
碓氷さんは了承してくれたけど、やっぱり、酢でも飲み込んだような顔になる。
内心首を傾げつつもわたしは少しほっとして、閉袈書架への階段を下りていったのだった。
まだ梅雨が明けない空は曇っていたけど、幸いにも雨は上がっていた。
それでも露が残っていた下草で、緋袴や白い小袖が濡れるけど、長靴を履いてきただけましだった。
着替えてくればよかったかな、とちょっぴり思ったけれど、なるべくあのときと似た感じにしたかった。
「依夜様、どちらへ」
「もうちょっと、だと思います」
どんどん、森のほうへ突き進んでいくわたしに、後ろをついてくる碓氷さんが不安を覚えているのがわかる。
もしかしたら、なにかやらかす気か、とでも思っているのかもしれない。
碓氷さんに強制的に止められる前に、たどり着ければ良いのだけど。
歩きながらも掘り起こすのは、幼い頃の記憶だ。
あの日、あの時、だいたいどのあたりで遊んでいたか、は覚えている。
幸い、森の木々は多少成長しているものの、植生自体は変わっていないから、なんとか特定できた。
仲間外れにされたのはこのあたりの広場、そこから逃げ出して森の中に入っていった。
記憶にあるよりも狭い気がする木々の間をすり抜けて、わたしは幼いわたしの歩いた道をなぞっていった。
子供の足だから、きっとそれほど遠くじゃない。
碓氷さんが少し大変そうだったけど、わたしはかまわず歩いていけば、少し開けた場所に出た。
年を経て古びた鳥居が四方に立ち、その間を細い縄が張り巡らされ、紙垂が垂れ下がっている。
そしてその中央には、記憶の通り苔むした石で組まれた井戸があった。
「本当にあった……」
思わずつぶやいたわたしは、はやる気持ちもそのままに、井戸へ駆け寄った。
落ち葉や朽ち木で地面が柔らかく、ひどく歩き辛い。
そのせいで、井戸が実際に作られたときよりも埋もれていて、幼いわたしでものぞき込めたのだろう。
井戸から漂ってくる湿った水のにおいに、あのときの感覚を思い出す。
わたしは、ここに落ちたんだ。
つきりつきりと頭が痛む。
それでも、心臓がうるさいくらいに脈打っていた。
ふるえる手を井戸の枠に添えて、そっと中をのぞき込む。
井戸は変わらず、底に水をたたえていたけど、星のようにきらめいてはいなかった。
当たり前だ、今日は曇りなのだから。
なんだか気が抜けてしまって、わたしはその場にぺたんと腰を下ろした。
ナギと出会った場所に行けば、なにか新しいことがわかる気がしたのだ。
だけど、結果はこの通り、なにも思い出せない。
ただただ、頭が痛む。
昨日一日で、それなりのことがわかった。
まず、この地域でやっている催し物を調べてみれば、花火大会が実際にあった。いろんな出店が出て盛大なお祭りになることも。
それから、書庫に引きこもってまじない関係に当たったことで当時のわたしが着ていた着物の背中縫い込まれていたひも――背守りについてもわかった。
あれは、小さな子供が危ない目にあったときに、神々や人あらざる者が助けてくれるよう、恐ろしい者に目を付けられないように魔除けとして縫い込まれたものだった。
水守の子供の着物には必ず縫い込まれていたものだ。
それがあったから、たぶんナギはわたしを引き上げられた、のだと思う。
井戸もあったのだから、ナギと昔出会っていたのは確信できた。
だけど、わたしが一番知りたい記憶にはたどり着けなかった。
読みふけった書物でもそうだ。
ナギがあれだけ強い式神で、水守の倉の中にあったのなら、必ず討伐で従えられたか、それとも作られたという記録が残っていてもおかしくない。そう思って、討伐歴から、倉の目録までを目を通した。
新しい目録から、古い目録まで、全部だ。
でも、黒い蛇の式神の名も、銀色の鈴に関しても手がかり一つ見つからなかった。
探り始めて二日目だ。まだ、焦るほどじゃない。
それでも思いつく限りで探りきってもなにもつかめなくて、改めて自分が雲をつかむようなことをしているのを実感した。
じっとりと湿った空気が吹きすさび、雨のにおいを運んでくる。
記憶は、自分の中にあるはずなのに。それが取り出せないのがもどかしい。
痛みがひときわひどくなってくるのに、わたしは思わず頭に手を当てた。
後ろから強い力でひっぱられた。
「依夜様!」
「え、碓氷さん?」
呆気にとられて振り仰げば、必死の形相でわたしを抱える碓氷さんが居て、同時に体勢を崩して濡れた落ち葉の上に転がった。




