水守当主は
少しして姉は体を離すと改まった雰囲気でわたしに向き直った。
「依夜。あいつを追うのなら、知っていなきゃいけないと思う。もう、気づいているかもしれないけど、ナギは普通の式神じゃない」
「うん」
それは、うすうす気づいていた。
たとえ式神でも、自由に出入りしたりはできないし、浄衣を着せることで力を貸し与えるなんてことは普通はやらないのだ。
それに、日向のような強力な力を持った妖は名前が知られていて、姉が使うような器物の式神も、厳重に保管されて管理されている。
つまり、ナギのような強い式神の憑代が、倉の中に無造作に放ってあるほうがおかしいのだ。
「私も全部が把握できている訳じゃないけど。今まで黙っていたけど、あいつを見たことがあるの」
目を見開けば、姉はわたしの驚きを受け入れるように、真剣な顔で一つうなずいた。
「それで……まって」
確信にふれようとした姉は、そこで悔しそうに言葉を止めて、扉をむいた。
すると、それほどたたずに扉が開けられて、白い作務衣を着た水守の用人が現れた。
「香夜様、依夜様、まもなく当主がこちらに来られます」
ぴり、と姉の気配がとがるのを肌で感じた。
「そう、お婆さまが」
その様子に、わたしのほうが少し心配になる。
姉と祖母が話している場面にはあまり居合わせたことがないけれど、祖母の話題になると、毎回態度がすこし堅くなっていたから、やっぱり関係はよそよそしいのだろう。
わたしも、正直、積極的に会いたくはない。
だけど、
「ちょうど良いわ。今頼もう」
「うん」
姉の力強い言葉に、逃げたくなる気持ちを抑えて、その場にとどまった。
やがて、さらりとした香の薫りが鼻腔をくすぐる。
透き通った良い薫りだったけど、ある人を連想させるから、落ち着かなくなる。
そうして碓氷さんを従えて戸口に現れたのは、一人の女性だ。
皆が白の作務衣や、白衣を着る中、水浅葱の単衣に白の帯という普通の和装でいるけれど、それでもこの本殿に誰よりもなじんでいる。
きっちり結い上げた銀色になった白髪や、静謐な面立ちが乱れたところを、わたしいっさい見たことがない。
それが、怖くて、苦手だった。
その人は、当代水守当主、水守豊世……わたしの祖母だった。
祖母が静かに室内へ入ってくるのに、わたしが思わず立ち上がれば、冷えたまなざしがこちらを向いた。
「依夜さん」
祖母の硬質な声に、反射的に体がこわばる。
「家から離れることは禁じていたはずですが」
自己解釈をして禁を破ったのは確かだったから、素直に頭を下げた。
「申し訳、ありません。友人に、いつまでも荷物を預かってもらう訳にはいかなかったので。ほかにも着替えを」
「その友人と遊びに出かけていた、と言うことですね」
浴衣姿のことを揶揄された気がして、かっと頬が熱くなる。
姉は、自分がいけない分楽しかったようで良かったね、とは言ってくれたけど、祖母にしてみれば、家全体が大変なときに、遊ばれていた証拠だ。いい気持ちは、しないだろう。
「よい友人のようですね。お家が大変だからと連れ出してくれるとは。楽しかったようで、なによりです」
祖母の言葉は痛烈な皮肉にしか聞こえなくて、背後で姉が少し気色ばむのを感じた。
わたしも、お腹の底が冷たくなる。
だけど、弓子たちのことまで言及されたら、少しむっとした。
「それは、楽しかった、ですよ。訳もわからず閉じこめられるよりは」
気がつけば、言うつもりのなかった言葉がすべり出ていて、自分でうろたえた。
はっと顔を上げれば、祖母や碓氷さんに注目されていて、頭が真っ白になる。
「お婆さま。いえ、当主」
だけど、姉が声を上げたことで、二人の意識はそちらに移ってほっとした。
わたしも振り向けば、姉は固い床に正座をしていて面食らう。
姉は至極まじめな顔で祖母を見つめると、きっちり背筋を伸ばして頭を下げた。
「このたびは私のふがいなさの為に、多くの人にご迷惑をおかけいたしました。まことに申し訳ありません」
深く深く、頭を下げる姉に絶句したわたしだったけど、祖母はただ姉を見下ろした。
「見通しが甘かったのは事実です。単独で行動し、己の力を過信した代償は身を持って支払いました。それで不問といたします」
「ありがとう存じます」
「体は問題ありませんか」
「体力は多少衰えていますが、霊力は問題なく使えます」
間髪入れずに応じた姉に、祖母は少し眉を動かしただけだった。
「今は有事です。あなたの失態は行動で挽回しなさい。鬼灯討伐へ加わることを当主として命じます」
「拝命いたします」
とても事務的な応酬に、わかってはいてもわたしは息をのんだ。
たぶん祖母と姉の関係は上司と部下に近い。
姉は仕事の失態を謝罪する必要があって、祖母はそれを受けた。
責任感の強い姉は、祖母の気遣う言葉なんて望んでいないのだろう。
でも、すこしは配慮や優しさがあってもいいんじゃないかと、祖母の割り切ったような対応に、密かに唇をかんだ。
当然とばかりに受け入れた姉は、ようやく頭を上げる。
ちら、と姉がわたしのほうへ視線を向けてくれたことで、なにを言い出すのか悟った。
「討伐へ加わる際、一つお願いがあります」
「なんでしょう」
「依夜を、私のサポート役として付けてください」
「お願いいたします」
姉の隣に正座したわたしは、姉の言葉が終わると同時に、頭を下げた。
まずは第一歩だ。
もしだめでも、末席でも手伝いができればいい。
そう思ったのだけど。
「なりません」
予想以上のかたくなな声音に、わたしと姉はそろって顔を上げた。
祖母の表情は厳しく引き締まり、確固たる意志を感じさせた。
姉は柳眉をひそめながら言い募る。
「なぜでしょう。前々から用人を付けることを打診されて、ようやく付けようという気になったのですが」
「あなたが、そういった変化を受け入れることには賛成します。後ほど名簿を渡しますからその中で選出してください」
祖母が、話を切り上げようとする気配を感じたわたしは、身を乗り出した。
「まって、待ってください! わたしも水守です。お姉ちゃんにつくのがだめでしたら、討伐のほかの任につかせてください」
「なりません」
理由も言わずに、一刀のもとに切り捨てられて、ただ祖母のかたくなな表情を見上げることしかできなかった。
「依夜さん。あなたはこの討伐が終わるまで、水守の敷地から一歩たりとも出ることを禁じます。水守の一員でしたら、聞き分けなさい」
「……っそれは、わたしが、役立たずだからですか」
ふるえそうになる声で聞けば、祖母の眉がわずかにひそめられる。
「あなたを守るためです」
守られなければいけないほど、弱い。ということか。
わたしは、どれだけ思い上がっていたのだろう。
「依夜っ」
耐えきれなくなったわたしは姉が呼ぶ声にも立ち止まらず、祖母の隣をすり抜けて、部屋を逃げ出した。
思い出してしまった。自分がどうして水守から逃げたのか。
それは役立たずだったからだ。
札も使えない、退魔もできない。ただ、妖が見えるだけ。
だから、神薙はおろか、用人にすらなれなかった。
そんなわたしが、討伐に加えられるわけがなかった。
あのころの絶望とあきらめが襲いかかってくる。
「おい、依夜……泣いてんのか」
病棟から出ると、山犬の日向がそばにいた。
その声がどこか遠慮がちで、少しおかしかった。
「泣かないよ」
こみ上げかける涙を、全力でこらえた。
今は、自分に出来ることをやるって決めた、こんなことで泣いてなんかいられない。
「日向は、お姉ちゃんに言われてきたの?」
「……おう、香夜からの伝言だ。何とか説得してみるから、待ってろだと」
式神と術者は近くにいれば、声に出さずとも意志の疎通ができるらしいから、姉はそれで日向に伝えたのだろう。
姉は、まだあきらめていないらしい。
その思いが嬉しかったが、祖母のあの態度では、たぶん無理だろう。
討伐についていけないのなら、別の方法を考えればいい。
「ありがとう、日向。わたしはわたしで何とかやってみるから、無理しないでって伝えてくれる?」
「あんたは大丈夫なのかよ」
「うん。大丈夫」
珍しく心配そうな日向に笑ってみせれば、虚を突かれた様子でも、姉の元へ走っていった。
見送ったわたしは自分を奮い立たせて、次の行動を考えながら、部屋に戻ったのだけど。
姉は、朝になっても、部屋には戻ってこなかったのだった。




