閑話:鬼灯の場合
隠世の深淵にしつらえた、鬼灯のための空間、その屋敷内。
鬼灯は己に、何より弟にふさわしく絢爛に整えた一室を訪ねた。
瀟洒な扉を開ければ、とたんに好きな香の薫りに包まれて、鬼灯は満足する。
甘い、あまい、ちょっぴり異国風のうっとりするような薫りだ。
ナギに染み着いていた鼻がすうすうするような、辛気くさい木の薫りよりずっと良い。
室内は、以前は畳敷きだったけれど、和洋折衷というのが面白そうだったから、畳をやめて絨毯を敷いて、天井からは洋風の照明を下げさせてある。
調度品は、全部ナギに似合う華美で気品のあるものにした。
きらきら輝くシャンデリアという照明や洋風の設えは、鬼灯の最近のお気に入りだ。
いつか、外つ国から調度品や装飾ごと屋敷を持ってきてみたいものだ、と思いながら、鬼灯は紅い洋装を翻した。
このドレスというものも、無貌が似合うと持ってきてくれたものだけれど、確かに中々いいものだ。
体にぴったりとして、豊満な鬼灯の肢体の魅力を、余すところなく飾ってくれる。
外の国の人間も良いものを考えるものだとにんまりして、鬼灯はびろうど張りの長いすに寝そべる愛しい愛しい弟へ近づいた。
「ナーギ」
けだるげにこちらを向くナギを見るだけで、鬼灯の胸は甘く高鳴る。
「姉者か」
蠱惑で冷ややかで美しい弟は、鬼灯の何よりの誇りだ。
もちろんほかにも兄弟はいるし、それなりに情はあるけれど、年の近いこの弟は特別だった。
誰にもどんなモノにも無関心で、淡泊でなにを考えているかわからない。
滅多に表情を変えないけれど、そのおかげでその怜悧な美貌がより引き立つのだ。
何より強い。
純粋に妖力だけなら、鬼灯と渡り合えるのは兄弟の中でもナギだけだ。
そんな完璧な弟だから、昔は身の程知らずの妖や人間が、こぞってその美しさと力を我がものにしようと群がった。
なにぶん弟は自分に無頓着だから、ふらりといなくなるのは日常茶飯事で、流されるままにそんな輩の元へ行くこともあったけれど、すぐに鬼灯が救いだしに行ったものだ。
自分がちょっとなでるだけで逃げまどったり、壊れてしまうようなモノがナギにふさわしいわけがない。
だって、ナギに釣り合うのは鬼灯だけだ。
力も、容姿も、ぜんぶが。
鬼灯が自ら選んだ調度品に囲まれているナギはしっくりとなじんで、ほれぼれするほど美しい。
その隣に己がいれば、完璧だ。
鬼灯はうっとりと微笑みながら、ナギのいる長椅子へ座ってしなだれかかった。
弟は眉を上げたけど、それだけだ。
虚ろで空っぽで、だからこそ見入られる。
あんまりにも感情が動かないから、鬼灯でもちょっと心配になるときはあるけれど、だからこそいいのだ。
「居心地はどう? 現世ではずいぶん文化が変わったわねえ。楽しいけど」
「すこし、うるさいの」
特に期待していなかったのだけれど、ナギから返事が返ってきて、鬼灯は目を丸くして驚いて、顔をほころばせた。
「そう? ナギに似合うと思うけど! 妾が好きだし!」
言えば、感情の色のない瞳でふうと息をついた。
こうして話すのは、兄弟だけ、妾だけ。
特別だ、というのを再確認して、鬼灯の心は満たされた。
「ねえ、ナギ。久しぶりなんだから、もっと顔、よくみせて」
すり寄り、ナギの白い頬に手を添えて、血で染められたように赤々とした瞳をのぞき込んだ。
鬼灯はナギの、何でも吸い込んでしまいそうな虚ろな瞳が好きだった。
ほかの兄弟とともに生じたときから、感情も執着も愛も知らない弟は、だがそれゆえに冴えた美しさを放つ。
時折、気まぐれに消えて行ったりもしたが、これからはずっと愛でていられるのだ。
にまにましていたけれど、鬼灯はすこし小首を傾げた。
よくわからないが、鬼灯が知っている瞳と違う気がした。
だが気のせいだろう。
鬼灯と同じ、赤の瞳は相変わらず空虚で美しい。
どんなにほかの兄弟と居ても、鬼灯がかまい倒しても、変わらなかった弟だ。
たかが、数百年で変わるわけがない。
「姉者、血の匂いがするの」
ふと、ナギの平坦な声に指摘されてぱちぱちと瞳を瞬かせた。
「あら、ちょっと匂ったかしら? さっきまでお人形を作っていたから。でもしょうがないのよ。今の現世は色んな楽しいモノがあるでしょう? それを調達するには無貌だけじゃ手が足りないのよ。ナギだって妾が綺麗に装っていた方が、嬉しいでしょう? ああ、でも今までずっと外にいたのだものね、案内してもらうのも良いかしら。ねえ、ナギはなにが楽しかった? やってみたいことある?」
「……そろそろ、ゲームとアニメが恋しいの」
「ん?」
何かつぶやいた気がして、鬼灯はナギを見た。
「何か言った?」
「いや」
淡々とした答えに鬼灯はうんうんとうなずいて、さらにすり寄った。
大好きな甘い香りと、ナギの硬質で冴え冴えとした妖力を感じながら、鬼灯は言う。
「妾が居るからには、ナギはもう何にもしなくて良いわ。このままあと100年くらいは一緒にいましょう。飽きたら現世で遊べばいいわ。ナギは妾の言うことを聞いているだけで良いからね」
すべらかな頬をなでて、昔のようにその薄い唇に己の唇を合わせようとした。
寸前、骨ばった手が、鬼灯の手に添えられた。
結果的に止められる形になった鬼灯が目を見開けば、弟の赤い瞳がまっすぐこちらを見ていた。
弟が、自発的に鬼灯を見ることなんてごくわずかで、そのことに鬼灯は驚愕する。
「姉者、このままではいかぬのか」
「ナ、ギ?」
だが、それ以上に鬼灯は信じられない気分でナギの顔から手を離し、着物の衿をぐっと押し広げる。
そこにあるモノを見て、己の感じたモノが正しいと知った鬼灯は、あふれ出す怒りのまま、ナギをみた。
ナギのせいではなかったけれど、そうしないと手当たり次第に暴れ出してしまいそうだった。
「なにが、あったの?」
だが押さえきれない感情で声が震えた。
「姉者……」
「妾の弟が呪われるなんて!」
押し開いた衿の下の素肌には、黒々とした入れ墨のような呪詛が幾重にも絡みつくようにうねっていたのだ。
おそらく、上半身から背中までを覆っていることだろう。
「ナギをむしばむなんて許せない妾が殺してきてやるわ! いいえ殺すだけじゃ気がすまない。八つ裂きにして、すりつぶして、魂のいっぺんたりとも残さない。言いなさい、ナギ、誰にやられたの!?」
ぐっと衿を握って引き寄せれば、ナギはふう、とため息をつく。
見つかってしまってはしょうがないとでも言わんばかりのその吐息に、鬼灯はとまどう。
こんなに、情動をみせる弟だっただろうか。
もちろん、うれしい。けれど、おかしい。
まっすぐこちらを見返す赤い紅玉が、見たこともない不思議な色を宿している気がして、なぜかひるんだ。
「姉者、それはわしが望んだことだ」
「なん、で、すって?」
考えたくもなかった可能性を肯定されて、鬼灯は絶句した。
みただけでわかる、ナギを逃がさぬようにまとわりつくこの呪は、一日や二日でかけられたものではない。
何十年、それこそ何百年とかけて執拗なまでに編み込まれた呪詛だ。
鬼灯をはじめとする兄弟たちをとらえるほどの術を編むには、それくらいは必要だ。
事実、すぐには気づかなかったほどなじんでしまったそれは、細かい術が苦手な鬼灯では解くことができない。
だけど、弟がそんな悠長な呪詛をかけられて放っておくわけがないし、その気があれば解く機会はいくらでもあったはずだ。
ナギが、自ら選んだのでなければ。
こんなこと、今までなかった。自発的に望むなんて。
ましてや己の力をそぐようなまねを?
しかも鬼灯ではない誰かを望んだ?
気がつけば、ナギを長いすに押さえ込んでその首に爪を食い込ませていた。
つぷり、と皮膚が切れる感触がして、ナギの白い首を赤い血潮が流れていく。
鬼灯になにをされても顔色一つ変えない弟は、いつも通りのはずだ。
鬼灯だって、そんな弟がいとおしかった。
なのに、今だけはいらだちをおぼえた。
動揺?そんなものしていない。
「ナギ、答えなさい。誰にやられたの。何のために、こんなこと……」
感情が嵐のように荒れ狂うなかにらみつければ、ナギはかすかに微笑した。
本当に久々に、ナギが笑っているところを見て、鬼灯は一瞬見惚れた。
「理由を、聞きたいかの」
ささやかれたその言葉に含まれた、虚ろでさめた色に、鬼灯はわき上がる感情が何なのかわからないまま、もう片方の爪を振り下ろした。
振り下ろした爪は、ナギのその白い顔の脇にずぶりとめり込み、中の詰め物どころか、肘掛け部分が壊れる。
頬に一筋傷が走り、黒髪が数本切れて舞い散るなかでも、静かに見上げるナギに、ぐっとこみ上げてくる衝動を抑えながら鬼灯は長いすから降りた。
「長椅子が壊れちゃったわね。取り替えなきゃ」
ナギに壊れたモノはふさわしくない。
それだけを念じて離れた鬼灯は、身を起こしたナギに、にっこり笑ってみせた。
ひきつっている? 気のせいだ。
「ナギは、きっと外界にいたせいで、色んなこと知ったのね。でも思い出してちょうだい、ナギにふさわしいのは妾で、妾にふさわしいのはナギなんだから」
そうして、扉を閉めた鬼灯は、その部屋に封じの術をかけた。
部屋ごと外界を切り離すような、強固なものだ。
室内には山ほど暇つぶしになるものを入れてある。
鬼灯の知るナギならば、数年は部屋から出ようとしないだろう。
本当にそうだろうか、と疑いかける自分を振り切って、鬼灯は自室に戻った。
お気に入りの長椅子に身を預ければ、すぐさま音もなく現れた無貌が差し出す果実酒を受け取って、ついでに頼んだ。
「無貌、妾の大事な弟に呪詛をかけた身の程しらずを殺しに行くわ。特定なさい」
「それでしたら、水守でしょう」
「みなもり?」
「退魔師一族です。鬼灯様が引きこもられている間に生まれた家ですが、神薙と名乗っているだけあって、それなりの隆盛を誇っておりますよ」
「そう、じゃあ、全部壊さなきゃね。一族郎党、ぜーんぶ」
「おおせのままに」
栄えているものを壊すのは、とても楽しい。
間髪入れずに返ってきた無貌の答えに満足しつつ、酒器の果実酒を一気に飲み干した。
きれいな赤色のそれは、強い酒精とも相まって鬼灯のお気に入りだったが、楽しみを見つけたというのに未だにざわざわと胸がざわめく。
たかだか数百年のはずだった。
弟が初めて贈ってくれたゆりかごは居心地が良かったし、それでいくらか会わない日が続けば、ナギも鬼灯の良さを改めて認識してくれると画策して、まどろんでいた。
なのに。
考えるほど主張してくるひりひりとあぶられているような感覚が不愉快で、グラスをもてあそんで紛らわす。
「なんでよ。前は妾に口答えしなかったのに……そりゃあそれも寂しかったけれど、あんなに表情を変えるなんて。そもそも良いとか好みとか表に出さなかったのに、この数百年いったいなにがあったのよ」
ふと顔を上げると、いつものように傍らでたたずむ無貌が、不思議そうな顔をしているのが見えて、いらだち混じりにねめつける。
「なあに?」
「ご兄弟様のお話は以前からうかがっておりましたが、本当にあの方で間違いないのですか」
「あたり前よ! 無機質で無感動で妾達兄弟の前でしか表情を変えない、何者にも執着しない、かわいくて愛おしい妾の弟よ! 見間違える訳ないじゃない」
どんなものを見せても全然興味がなくて、そりゃあ大変だったのだから。
放っておいたらそれこそ、何にもせずに消滅してしまうんじゃないかと思うくらい。
「かなり、印象が違うもので。今のあの方は、かなり……その、遊んでらっしゃいますから」
「……なんですって?」
無貌が無言で見せてきた絵の映った板は、確かたぶれっとと言ったか。
鬼灯も様々な服をみられて、画面にふれるだけで服が届くからよく使っていた。
そこに映っていたのは、不思議な意匠のドレスや、着物や、艶やかな服を着た娘の画像だった。
実物ではなく、画面の上ではあったが、鬼灯にはその服がすべて弟の術によって形作られたものだと直感的にわかった。
「あの方が側に置いていた娘の画像です。これも水守の娘ですが、こうして力を分け与えて、方々で退魔をさせていたようです。私も邪魔をされました」
そして、それを着ているのが、ナギとの再会の場にいた、小娘だ、と言うことも。
そうだ、なぜ忘れていたのだろう。
あの娘はあのときも、ナギの術を、……服を身にまとって、術で巧妙に隠されていた。
まるで真綿にくるむように、大事に、大事に。
確かに弟は、手慰みに色々な物を作り出すのが得意だった。
鬼灯がねだれば服を作ってくれたし、ほかの兄弟だって、ほしい物があれば弟に頼んで様々な物を作ってもらったものだ。
それでも、鬼灯達が作ってもらった物達とこの服は何かが違う気がした。
どす黒いものが腹の底から膨れ上がる。
ぱきり、と手の中に空になった酒器が割れた。
「鬼灯様、お手が……!」
「……無貌、水守の本拠地を早急に見つけなさい。禍玉もお人形も、必要ならいくらでも使っていいから」
動揺する無貌に、鬼灯は手からしたたり落ちる赤いものにもかまわず、冷然と命じた。
無機質で、冷徹で、無関心で、空虚でだからこそ美しい。
そんな、弟が大好きだった。
いとおしかった。
でも己がいない間に変わり果ててしまった。
鬼灯が間違っていたのだ。
弟の美しさを一番よくわかっているのは鬼灯なのだから、手元に置いて愛してあげなきゃいけなかった。
気づいてくれるのを待つだけではいけなかった。
鬼灯が一番だと、鬼灯が唯一だと、たっぷり時間をかけて思い知らせてやらなきゃいけなかった。
それに気づかず数百年も無駄にしてしまったあげく、またくだらない虫をつけてしまった。
反省して、やり直そう。
そのために、まず必要なのは。
「見つけたらいかがいたしますか」
「水守と名のつくものはすべて蹂躙するわ。この小娘はとくに、恐怖と後悔と絶望を徹底的に刷り込んだ後に、ナギの目の前で首を落とすの」
酒器を握りつぶした指先で、画面をすいとなぞれば、首と体の間に赤い線が走る。
娘の卑しく無様に、血と涙と恐怖でぐちゃぐちゃになった首が切り落とされる様を想像して、鬼灯は艶やかにほほえむ。
「大したことがないってわかったら、きっとナギも目を覚ますはずだわ」
そう、そうすれば、このいらだちも収まるはずだ。
「我が主の御心のままに」
無貌がうっとりとした表情で、頭を垂れて消えて行くのも我感せず鬼灯は、次はどんな衣装で身を飾ろうか考え始めたのだった。
鬼灯が去った室内で、ナギは息をついて、長椅子から立ち上がった。
壊れた椅子に、いつまでも座り込む趣味はないからだ。
鬼灯がこの部屋を外界から切り離したことは感じていた。
何者も入り込めぬよう、室内にいるナギも出られないようにだ。
姉の己に対する執着心は数百年前から知っていたが、これほどのものだったのか、と少々驚いた。
驚く、と言うのも今さらな気がするが、仕方がない。
それが事実なのだから。
赤い格子がはめ込まれた欄干に腰を下ろし、煙草盆を引き寄せ、煙管に葉を詰める。
火をつけてひと吸いすれば、ずいぶん懐かしい紫煙があたりに漂った。
姉に抜かりはなく、刻まれた煙草は自分が好んだ味だったが、久しぶりに吸ってみても大して感慨は湧かなかった。
それは、煙草よりも楽しいものを見定めてしまったからだろう。
気を紛らわすために外を眺めてみれば、月だけが浮かぶ、荒涼とした夜の景色が広がっている。
昔の自分は確かに好んだ。
好んだと言うより、消去法で残った、と言うのが正しいだろうが。
「アニメはリアルタイムで見たかったのだが、持ち込むことは無理そうだのう。パソコンもスマホも……だめだろうの。ゲームのログインボーナスを逃したのは惜しいが仕方あるまい」
らしくなく独り言などが口をつくのは、身のうちにくすぶる焦燥を紛らわせるためだと、自覚していた。
界を隔てられていても、身のうちに響く声は、今も鮮明に反響している。
あの瞬間、断ち切ったはずだったのだが、思ったよりも強固だったようだ。
流れてくる感情は、混乱と、悲痛。
涙の気配がする。そうし向けたのは己だ。
だが予想以上の動揺が不思議だった。
しかも次に感じたときには怒りと、強い決意に変わっていたのだ。
その鮮烈さは理解を超えていた。
「バカナギ、は酷いのう」
なのに、ひそやかにつぶやけば、自然と頬がゆるむ。
紫煙も、満ち足りた檻も、これの前では色あせる。
空虚な己でも昂揚するのは、アニメと二次元ともう一つ、だけだ。
「忘れてくれれば、と思うたのだがのう。どうやらそうもいかぬようだ」
姉には己にかけられた術に気づかれてしまった。
姉の性格と実績からして、そう遠くないうちに水守へ仕掛けるだろう。
猶予はそれほどない。
水守の中にいる彼女へ、手を出すということだ。
ナギは、まずくはないがつまらない煙草をもう一度くゆらせた。
すういと立ち上る煙が、細く伸びて窓の外へ逃げていく。
それにかすかに宿された呪に、気づくものはいないだろう。
「間に合うかの……」
胸を焼かれるような不快感が何なのか、ナギはすでに知っている。
願うものに手が届かない、歯がゆさ、もどかしさだ。
ナギは、ひどくゆっくりと立ち上っていく煙が消えていくまで、その場から動かず、じっと見守り続けた。
引き続き六章をお楽しみください。




