黄昏の誓い
涙が収まってふっと冷静になったら、目がはれぼったくて、持っていた手鏡で見れば、明らかに泣いた後だとわかる顔になってしまっていた。
こんな顔で凛ちゃんと真由花ちゃんに会ったら、心配させてしまうのは明白だし、何よりかなり恥ずかしい。
どうしようと思っていたら、弓子がてきぱきと二人に連絡してくれて、わたしは先に帰ることになった。
弓子は、わたしのアパートまでついてきてくれるって言ってくれたけど断った。
もちろん、その気持ちは嬉しかったけど、弓子の家はわたしのアパートと正反対だ。
お祭りの会場から、わたしのアパートによって、その後自分の家に帰るとなると、とても遠回りになってしまう。
だから、感謝の気持ちだけぎゅっと伝えて、心配そうな弓子と別れて、一人でアパートへの帰り道を歩いた。
どこからか運ばれてくる夏草のにおいと、薄く日が陰っても減らない熱気の中、からん、ころんとわたしの下駄が鳴った。
帰ったら、浴衣を着替えて、すぐに電車に乗るか、日向に送ってもらわなければいけない。
冷静にこれからのことを考える自分もいたけれど、頭が透き通ったように冴えていて、だけど鳩尾あたりが熱を持っている気がした。
下駄がかろんと、鳴った瞬間、わたしは隠世の気配を感じた。
『ネ、え』
耳に滑り込んできたのは、べっとりと張り付くような呼びかけだった。
ふと見れば、道の脇の暗がりに、長い髪で顔が隠れた女性が立ち尽くしている。
その女性はわたしが振り向くと、人形のように妙に不自然な動きで、一歩暗がりから出てきた。
『あなた、きレい、ね』
その女性は長い髪の影で嬉しげ笑うと、一歩、一歩、近づいてくる。
『そのカオなら、キッと、あのヒトもアい、シテ、くれル、わ』
かくり、と女性が首を曲げた拍子に露わになったのは、焼けただれ、切り刻まれ、無惨に腫れ上がった顔だった。
ぞぶり、と全身から瘴気があふれ出す。
女性の姿をした禍霊はバネ仕掛けのおもちゃのように飛び上がって、わたしに襲いかかってきた。
『そノ顔、ちょウだいぃイいいぃぃぃっぃ!!!!』
「っ……!」
とっさに避けようと体を動かしたとき、脇から視界を遮るように大きな山犬が現れる。
それは本性に戻った日向で、通り過ぎる一瞬、口元には女の幽霊がくわえ込まれているのが見えた。
日向が無造作に首を振り回せば、禍霊は悲鳴を上げて弾き飛ばされていく。
グルルル……と唸った日向は、いらだたしげにわたしを向いた。
「日向、ありが」
お礼を言いかければ、とたん、日向に怒鳴られる。
『なにやってんだ無能! 受け入れようとしてじゃねえよ! 禍霊だぞ、あんたを食い殺そうとしてんだぞ、何で逃げる素振りすら見せねえんだよっ』
「ごめん、でも」
わたしが口を開こうとすれば、日向の姿が視界から消えて、どっと衝撃が体を貫いた。
地面に転がって、とっさに起きあがろうとしたけれど、体が全く動かない。
獣臭と生臭い息に顔を上げれば、牙をむき出しにして唸る日向の獣面があって、のしかかられているのだとわかった。
『俺が居るのはわかってただろ!? とっとと呼べよ、どうせ香夜にあんたを守れっていわれてんだ! 香夜じゃなく、あんたを!!』
かろうじて頭は打たなかったものの、無遠慮に食い込む爪の痛みにひるむ。
だけど、怖いと思わなかった。
日向の獣面は怒りに満ちているのに、泣きそうに見えたからかもしれない。
『何で香夜はあんたばっかり気にするんだよ! あんたみてえなよわっちいやつ放っておけばいいじゃねえか! あんたなんかいなけりゃ、香夜は自分のことだけ考えられんのに、命じてくれさえすれば、俺が守ってやれるのに……』
燐光に包まれた日向が、少年の姿に変わる。
そうしてわたしの胸に振り下ろされた拳は、いつもの日向から想像も出来ないほど弱々しかった。
「自分を大事にしろよ、香夜っ……!」
日向の言葉はわたしにではなく、ここにはいない姉に対するものだった。
血を吐くようなかすれた懇願と、悔しさともどかしさにゆがんだ表情は、わたしの胸に突き刺さる。
その気持ちが、痛い程良くわかったから。
ほとんど同じことを、わたしもずっと考えていた。
姉はわたしを優先してくれる。
なにがあっても味方でいようとしてくれる。
守ってくれる。
でも、お姉ちゃん自身は誰が守るのだろう?
日向とわたしは少し似ていて、でも決定的に違う。
一人で決めて抱え込んで進んでいくお姉ちゃんを、日向は少しでも守りたくて助けたくて、式神として側にいて戦っていた。
でも、わたしはただ守られてばかりだった。
だから、日向はわたしに怒りといらだちを覚えていたのだろう。
大好きな人が、危険にさらされるばかりのお荷物を、どうしたって受け入れられるわけがない。
それなのに、お姉ちゃんの意志を尊重して、わたしについてきてくれたのはほめてしかるべきことだ。
そうだ。そうなのだ。
やっと、自分の気持ちがわかった。
手を差し上げて日向の顔に触れれば、勢いよく振り払われた。
それでももう一度差し上げれば、はらわれなかったけど、射殺さんばかりに睨まれる。
だけどわたしはその視線から、目を逸らさなかった。
「弱くて、ごめんね。お姉ちゃんの足手まといで、ごめんね」
「……うるせえ、あやまんな。俺が惨めになる」
「でも、もうならないから」
目の前の日向が虚を突かれたように目を見開く。
わたしは、かっこよくて、いつだってヒーローで、でも一人で抱え込んじゃう、そんなお姉ちゃんの力になりたかった。
でも、ただ、妖を滅するんじゃない。
日向のように、人との間に壁を感じて伝えられない思いに苦しむ妖も、想いに捕らわれてゆがんでしまった妖もできるならば助けたい。
わたしは、そんな人も妖も癒せるような神薙になりたかったのだ。
とんと、日向の肩を優しく押せば、今度は簡単に起きあがれた。
そのまましりもちをつく日向の下から抜け出すと、瘴気が漂ってくるのを感じた。
『ィ……た、い……』
見れば、日向に吹き飛ばされた禍霊が、のろのろと身を起こそうとしていた。
「ちっ仕留めきれてなかったか」
「まって」
舌打ちをした日向が、鋭い爪で止めを刺しに行こうとするのを遮って、代わりにわたしが歩いていく。
「なにするんだよ!? そいつはあんたを食おうとした奴だぞ。もう瘴気にのまれてるんだから、消滅させるしかねえんだ」
「いいの」
背中にぶつかる声は、わたしがずっと言い聞かせてきたこと。
そして、とても正しいことだ。
横たわる禍霊の前まで来れば、瘴気の靄のせいで、全体像すらつかめなくなっている彼女は、それでもわたしに手を伸ばそうとしてくる。
届くか届かないかのところで立ち止まったわたしは、彼女の心に届くように願いながら、問いかけた。
「あなたの、ほんとうの望みは、なんだったんですか」
瘴気がざわめくのが、まるで戸惑っているようだった。
悩んでいるのか。
恐れているのか。
あらがっているのか。
わたしがじっと見つめていれば。
不意に瘴気が薄れて、彼女の本来の悲痛な顔がかいま見えた。
『好きに、ナッテ、欲しかった……っ!』
それも一瞬で、たちまち顔はより濃い瘴気に呑まれ、ムカデのような形容しがたい化け物に変わり、わたしに牙を剥く。
「おいっ妹っ!」
日向が走ってくるのを感じながら、わたしは彼女の想いを受け止めて、ひとつ、息をはいて覚悟を決めた。
「うん、わかった。今楽にしてあげるから」
救えるのであれば、たとえ、自分の力じゃなくても利用しよう。
本当は怖い。
それでもわたしは、祈りを込めて柏手を打った。
ぱんっと、高らかに鳴った両手の間から、この数ヶ月で慣れ親しんだ暖かい光がこぼれて形を取る。
当然のように手に収まったのは、真っ白い大きなハリセンだ。
出てきてくれたことに安堵しつつ。
やっぱりしまらないけど、それはしょうがない。
「祓い賜え、清め賜え」
ハリセンを振り上げたわたしは、襲いかかってくる禍霊に向けてやさしく下ろした。
冴えた浄化の光があふれ出し、禍霊を包む瘴気が祓いおとされていく。
ごうっと風が吹き荒れ、浴衣の袖と裾がはためいた。
浄化の光の中、瘴気がはらわれて元の姿を取り戻した女性の霊に、そっとつぶやいた。
「どうぞ、安らかに」
光のなかで女性はふんわりと笑った瞬間、ぱっと散っていった。
瘴気は消えて、浄化の残り香が花弁のように降ってくる。
隠世の気配が過ぎ去った道の中わたしが立ち尽くしていると、日向が隣に立った。
「なに、したんだ。それにそのハリセン」
驚きに呆然としている日向の問いには答えず、わたしは苦笑してみた。
「消滅、しちゃったね。やっぱり」
彼女の願いが叶えられないのも、わかっていて聞いた。
でもきっと、彼女ははじめから誰かを傷付けたいわけじゃなかったと、思ったから。
せめて、彼女に本当の願いを思いだして欲しかったのだ。
「……あたりまえだ。完全に禍霊になっちまってたんだからな」
「ありがとう。日向」
ぶっきらぼうに言う日向に、礼を言って胸に手を当ててみる。
助けられないこともあるってわかっていても、やっぱりつらい。
でも、このハリセンは、わたしの呼びかけに来てくれた。
ハリセンの柄が温かいのに、何となく励まされている気がして、きゅっと抱えて、顔を上げた。
「わたし、なるよ。神薙に。お姉ちゃんみたいになれなくても、どんなにへっぽこでも。それでも誰かを助けられるなら」
宣言すれば、日向が息を呑むのが聞こえた気がした。
ずっと、ずっと願っていた。
かなわないと追い求めるのをあきらめた。
でも覚悟を決めた。どんな形でも、あり続けるって。
だから、
「ナギに、もう一度会わなきゃいけない」
ナギに対するこの気持ちが、なんなのかまだわからない。
けど、わたしは猛烈に腹が立っているのだ。
「あんた……」
「神薙になるのは無理だってずっとずぅっと言い聞かせてきたのに、やっとあきらめたところで希望を持たせるようなことさせて。結局なりたいって思っちゃったじゃない。なのに言い逃げなんて冗談じゃないのよ! 契約押しつけたくせに、あんな簡単にお別れ? ふざけんじゃないわよバカナギ!!」
「お、おい」
「だから日向、帰ろう!」
なんかむかむかしてきた勢いで振り向けば、日向がびくっとしていた。
あれ、どうしたんだろう。
ハリセンを消しつつ、ちょっと首を傾げたけど、息を詰めてわたしを見ていた日向が、不意に虚空を見上げてびっくりした。
「まさかっ!?」
「え? わっ」
つぶやいた瞬間、日向は本性の山犬に戻って空を駆けて行ってしまった。
あっと言う間に見えなくなる日向の姿にちょっと途方に暮れたけど、まだ電車で帰っても間に合う時間だ。
なにが何だかわからないけど、しょうがないので、一人でアパートに帰る。
だけど、たどり着いたアパートの前には黒塗りの見覚えのある車が止まっていて、その傍らには厳しい表情でたたずむ碓氷さんがいた。
碓氷さんが着ているのは、スーツに水守の紋が染め抜かれた水守で支給されている対禍霊用の羽織で、わかる人にとっては物々しいとさえいえる出で立ちに面食らった。
というか、どうしてここにいるのだろう?
かこん。
と下駄を鳴らして、わたしが思わず足を止めると、碓氷さんはこちらに気づいた。
眉間にぐうっとしわを寄せつつ、碓氷さんはわたしの目の前にやってくる。
「どうして、ここに」
その迫力にひるみつつ、聞いてみたけど、碓氷さんが持っていた札を見て自分で気づいた。
そうか、朝に肩に触れられたときに、目印を付けられていたんだ。
「しばらくとどまるように、と告げたつもりでしたが」
低い声音には、明らかにこちらをとがめる色が混ざっていて、少し後ずさりかけたけど、見返した。
「……着替えをとったら、戻るつもりでした」
「着替え程度でしたら、用人に言いつけていただければ取りに来させました」
その勝手な物言いに、ちょっぴり反省しかけていた気持ちがむかっと感に変わる。
「ここはわたしの家です。知らない誰かに入られるのは嫌ですし、しばらく本家にいなくちゃいけないのなら、勉強道具とか、持ち出したいものがあります。女の子には必要なものがそれなりにあるんです」
頭一つ以上は高い位置にあるその顔を、しっかり見上げて一気に言えば、碓氷さんは虚を突かれたように眉間のしわがゆるんだ。
戸惑いにか、すこし沈黙した後、碓氷さんは息を吐く。
「多少、配慮に欠ける部分があったことは認めましょう。ですが日向がいたとはいえ、一人で出歩くことは危険です。これから用事がある際は必ず私に言ってください」
ずいぶんハードルの高い話だと思いつつも、違和感を持った。
この会話も何だか妙だ。
まるで、わたしを水守に閉じこめておきたいみたいなニュアンスじゃないか。
「どうして、そんなにわたしを外に出したくないんですか? 危険は危険でも四月からは一人で学校に行っていたんですよ。何で今更」
ナギがいたことは知らないんだから、そういう認識で合っているはずだ。
「心配する方がいらっしゃるからです」
「え、誰です?」
思わず聞き返せば、碓氷さんはわたしを見下ろしたまま沈黙した。
その顔がどことなく途方に暮れているように思えて、内心首を傾げる。
だけど、今の水守の中で、わたしを気にしている人に心当たりがないんだからしょうがない。
黙り込んでいた碓氷さんだったけど、深く息をついて切り替えたようだった。
「ともかく、速やかに帰宅の準備をお願いいたします。人を入れるのが嫌でしたら、私はこちらで待っていますので」
「わかりました……」
納得いかないまでも了承したわたしは、アパートの自分の部屋へ向かいながら、ぎゅっと拳を握って、心の中でつぶやく。
待ってろよ、バカナギ。




