あふれだすのは
わき道に一歩入るだけで喧噪が遠のいて、わたしはほんの少しだけ息をつく。
弓子は目に付いた自動販売機で、冷たい飲み物を買ってきてくれた。
「凛達のほうは割と時間かかりそうな感じだし、ちょっとくらい遅れても大丈夫だよ。あたしも浴衣で少し疲れてたんだあ」
街路樹で日陰になった、往来の邪魔にならなそうな場所に腰を下ろすと、弓子はそういって笑った。
気を使ってくれたんだと、すぐわかった。
「ごめん、ね」
「ん? なにが? ただ依夜と話したりないだけだもん」
なんでもないと風を装う弓子は、缶ジュースをあけていたけど、その目は少し泳いでいる。
もらった缶ジュースの冷たさが心地よくて、何だかそれだけで十分な気がしたけど、わたしも飲み口をあけて、缶に口をつけた。
「最近、まったく神薙少女の目撃情報がなくてさあ。最後のチャイナドレスはすっごい色っぽくてすてきだったけど。もうちょっとかわいいのも見たかったなあ。とか」
弓子が持ち出したのは神薙少女の話で、それはそれで心がざわざわしたけれど、さっきよりはずっとましだ。
居心地の悪いような感じはあるけれど、落ち着いて聞いていられる。
むしろ、落ち着いているからこそ、ずっと感じていた疑問が口に付いた。
「どうしてそんなに神薙少女が好きなの? 一度、助けられたから? それとも、面白いから?」
弓子が主に情報収集しているのは教えてもらったSNSでだったから、弓子がどんな風に神薙少女について話して、ほかのフォロワーさんと交流しているかはちょっとだけ知っている。
正直、恥ずかしすぎて見ていられないことの方が大半なのだけど。
タイムライン上で神薙少女についていろんな人と話す弓子は、とても生き生き楽しそうで、そちらの方が主なのかな、と思ったくらいだ。
「え、あ、うーん? そうだなあ。確かに共通の話題があって、いろんな年齢層の人と話すのは楽しいよ。あたしが高校生って知って妙なからみ方してくる人もいるけど、大半の人が、あたしを必要以上に子供扱いしないから居心地が良い」
弓子はジュースの缶をもてあそびながら、少し首をかしげていたけど。
「だけどね。一番は、やっぱり神薙少女なんだよ」
でも、そう続けた表情に迷いはなかった。
「あの子――あ、もしかしたら年上かもしれないけど。すごく一生懸命っていうのがわかるの。画像でも、目撃情報とか、助けてもらった人たちの話の中の彼女は、いつだって誰かを助けようとがんばっているんだよ。誰も傷付いて欲しくないって思ってるんだろうなって。それがすごく良いなって、応援したくなるの」
「弓子ちゃん……」
そんな風に思っていてくれていたなんてと、少し息をのんでいると、弓子がきらっと表情を輝かせた。
「もちろんかんなぎちゃんの衣装がかわいいからってのは当然ね! 和メイドに女学生さんにクラシカルメイドに衆合姫にチアガールにチャイナドレス! ちょっぴり恥ずかしがっている感じもすっごくぐっとくる!」
「あ、はは……そっかぁ」
ばーっと話し始めるのに顔をひきつらせた私だけれども、思ったよりも平静でいられた。
さらにわざわざスマホで、フォロワーさんの一人が描いたという、神薙少女をイメージしたイラスト(なんかすごくフリルたっぷりの服に埋もれたものすごい美少女だった)を見せてもらって顔が赤くなりはしたけれど。
ナギに言われたときみたいに、逃げ出したくなったり、わーっと叫び出したくなるようなむずむずと落ち着かない気持ちにはならなかった。
「あーなのに、神薙ちゃんのかわいさについて語りたくてもクロナワさんも最近タイムラインに浮上してこないし。それも寂しいんだよなあ。リアルが忙しいのかな」
「そう、かもね」
もう、二度と帰ってこないかもしれないけど。
弓子が心底残念そうに言うのに、心の中だけで返したのだけど、わたしはまたざわざわし始める心にとまどった。
もう、いいって思ってるのに、ナギのハンドルネームを聞いただけで、落ち着かなくなる自分が嫌だった。
「真由花の話、ちょっとつらかった?」
そんな声が降ってきて、わたしは驚いて弓子を見る。
「ど、うして?」
「うーんと、真由花は好きーって思うと一直線みたいな感じじゃない。そういうのを見ると、あてられるみたいなのがある、かなーと」
弓子は案じるような表情で、なにより心を見透かされたような感じがして少し呼吸が浅くなった。
後ろめたさを覚えたわたしは、うろうろと視線をさまよわせて言い訳を口にする。
「ほんとは、あんな言い方、するつもりはなかったの。でも」
「いや、別に悪い言い方じゃなかったと思うよ? たださ、依夜はこの手の話題にあんまり興味がなさそうだったから、あんな風に言うのにちょっとびっくりして。でも前にうちに来たとき、なんかすごくかわいい顔をしてたから」
そこで言葉を止めた弓子は困ったように、どこか照れたように頬を掻きつつ、続けた。
「もしかして、依夜、恋してたのかなあっと思って」
周囲の音が、消えた気がした。
鼓動が大きく波打つのがわかって、思わず胸を押さえる。
どっどっどっどっと心臓の音が耳まで聞こえた。
「こ、い?」
「うん。もちろん、お姉さんのこともあるんだろうけど、落ち込んでるのは失恋もしたからなのかなーってつい、邪推をしてしまったのです」
違っていたらごめんね。とちょっとごまかすように笑う弓子の言葉がうまく頭にはいってこなかった。
ナギの姿が脳裏をちらついて、わたしは、衿合わせが崩れるのもかまわずぎゅっと握りしめる。
恋っていう感情が、どういうものか、わたしにはよくわからない。
でも、こんなどろどろ嫌な気持ちになるものが?
どうしようもなく苦しくて仕方がないものが?
体が反転したように混乱して、とっさに首を横に振っていた。
「ちがう、だって、恋って真由花ちゃんはあんなに幸せそうだもの。わたしのは絶対違うよ! それにっ」
出会いが最悪で、あんな変態で、隙あらばフェチについて語ってくるし、からかわれてばかりだし、わたしにはずかしい浄衣着せたがるし、いつまでもなに考えてるかわかんないようなやつに?
なにより、ナギは、
「あいつは、もう、いないもん……」
口にすれば、反射的に眉がゆがむ。
唇をかみしめて、うつむいていると、弓子が不思議そうに言った。
「恋は、その人がいるかいないかは問題じゃないと思うよ? だって自分の気持ちだけだから」
思わず顔を上げれば、弓子は困ったような表情で、一つ一つ言葉を選ぶように続けた。
「あたしもそんなに恋愛とかよくわからないんだけど。でも、その人ことばかり考えて、その人の言葉が特別に嬉しかったり、想いが通じ合わなくて苦しかったりして。別れて切なくなったり、会えなくなって悲しくなったりするっていうから。依夜は、その人が側にいなくて、つらいんでしょ」
「それなら、お姉ちゃんだって、弓子ちゃんだってそうだよ。嬉しかったりしても特別なわけじゃないもん」
「あはは、それは嬉しいけど」
照れた様にはにかんだ弓子だったけど、それもすぐ消えて。
「本当に?」
弓子の吸い込まれそうな瞳と目があって、一気に記憶があふれ出す。
ほめてくれた。似合っているって。わたしのままが良いんだって、かわいいって。
はじめはなに言ってるんだこいつって思った。
ナギがからかい混じりではあっても、冗談にはしなかった。
だから、だんだん、本気で言っているんだってわかって。気恥ずかしくて、落ち着かなくて怒ってみてもすごく照れくさくて。
お姉ちゃんに言われるのも、弓子に言われるのも、本当は、嬉しかったけれど。
ナギの言葉は、わたしの心の奥深く、お姉ちゃん達に言われるのとは違うところに響いていた。
驚いたように息を飲む弓子が、にじんでゆがむ。
はたり、はたりと、手の甲に何かが落ちた。
下を向いて、そこに落ちている雫を見つけて、自分が泣いていることに気づく。
そうしたら、こみ上げる涙をおさえられなかった。
「わ、わか、んない、っよう……っ」
顔を勝手に流れる涙を手でぬぐって、でもとまらなくて、しゃくりあげて、滑り出したのはそんな言葉だった。
「でも、つらくて、さび、寂しくてっ」
「うん、依夜、思い出させてごめん。もういいから」
弓子に抱き寄せられて、あやすように背中をなでられて、またぼろぼろ涙がこぼれてきたけど、わたしは何が何だか分からなくなって首を横に振った。
「わたしのままでいいんだって、いわれてっすごく、っう、すごく嬉し、かったっ」
「うん」
「でも、全然、しらない、かお、でっ、さめて、いてっ。ぜんぶ、うそだったんじゃないかって! こわい……っ」
「うん」
「でも、でもっ! そうじゃないんじゃないかって。わたしを、守るため、だったんじゃないかって、おもい、たくてっ。っ……だからっ」
心の底にしまいこんで、しまいこんで、見なかったふりをしていた想いがあふれ出した。
「会い、たい、よぉ……っナギ……!」
せっかくの弓子の浴衣を濡らしてしまうとか、こんなところで泣くなんて、迷惑だとか。
そんなことが脳裏をよぎったけれど、背中に回された弓子の腕に力がこもって。
その腕が、ただただ優しくて。
その後はなんにも考えられなくて、わたしは弓子にすがりついて、子供みたいにわあわあ声を上げて泣き続けたのだった。




