響く声はあたたかく
そうして、水守に来てはじめて禊の部屋から自分の部屋に戻ったけど、そこにはほとんどなにもなかった。
もともと、ここにいたのなんて小学校までだったし、必要なものは今の家に引っ越すときに、向こうへ運び出していたから当然だ。
最低限の家具は残っていたけど、客間よりもずっと他人の部屋のような気分がした。
わたしは巫女服から着替えることすらおっくうで、運び込まれていた布団の上に倒れ込んだ。
めまぐるしい忙しさから解放されて、考えられる時間が出来てしまって、いろんな感情が体中をぐるぐる巡って気持ちが悪かった。
姉にひどいことをした無貌への怒りとか、ナギの姉だという鬼灯を前にしたときの恐ろしさとか……さめた視線だけを残して鬼灯と行ってしまったナギの表情だとか。
あの言葉と表情が脳裏に浮かぶたびに、苦いものを飲み込んだようむかつきと、ずきずきとした痛みが胸をはしる。
なぜこんなに痛むのかすらわからなくて、わたしはぎゅっと衿もとを握って丸まった。
「だって、あんなに、楽しそうだったのに」
ナギははじめて会ったとき退屈していたって、言っていた。
わたしに憑いて紛らわすのだって、はじめから明言していたのだ。
いまさら言葉にされたからって、ショックを受ける必要なんてないのに、わたしはこうしてうずくまっている。
だけど、鬼灯のこともある。
無貌と彼女が神隠し事件の首謀者だ、とわかった水守は、すでに彼らの行方を探す傍ら、討伐隊の編成を始めているらしい。
わたしは知らなかったのだけど、無貌は退魔機関の間ではかなり有名な要注意怪異だったようだ。
そう遠くないうちに水守の総力を挙げて、討伐に乗り出すことになるだろう。
次期当主が深手を負わされた、というのは水守の威信に関わり、それが外に広まれば、水守に恨みを持つ妖達が報復にやってくる危険もあるからだ。
だけどわたしは、無貌よりも鬼灯のほうが怖いと思った。
様々な妖を見てきて、最近になって禍霊と戦ってきて、少し磨かれた感覚で思うのだ。
ナギが姉と言った鬼灯は、別格だと。
あの言葉が本当なら、鬼灯は多くの少女を殺していて、何より姉を傷つけた妖だ。
許せない、と思う。
くすぶるような怒りも、ある。
だけどそれよりも、あんなに強いナギの姉で、なおかつ人を傷つけることを何とも思わない、禍霊よりも禍々しい妖力を間近で感じたわたしは恐ろしさを感じていた。
「でも。そういえばなんで、鬼灯は名前を、知ってたんだろう」
ふと、呟いてみる。
あの時、鬼灯は、ナギのことを「ナギ」と呼んでいた。
でもそれは、わたしが、その場の思い付きで考えた名前のはず。
誰も知らないはずの、それをなぜ彼女が知っていたのか。
わたしがしらないなにかが、あるのだろうか?
……いや、それももう関係ない。
あのヒトの目的は、ナギだけだったのだ。
そのナギも進んで鬼灯のもとへいったのだし、お互いの退屈が紛れるだろう。
さんざん振り回しておいて、あんな言葉一つでわたしから離れてしまったくらいだ。
姉弟の仲はいいのだろうから、帰ってこないやつのことを考えるなんて無意味だ。
そう思うのに、胸の奥が泥のようにもやもやと濁る。
「約束、したのに、破ってるんじゃないわよ」
ぼそりとつぶやいてみたけれど、濁りははれない。
ナギのことを考えるからいけないのだ。
そう思うのに、なかなか頭から離れてくれなかった。
「あーもうっだめだ! 別のことしよう!」
鬱々とした思考も、答えのでない問いかけもなしだ無し!
というか、あんな薄情者の変態式神と縁が切れたってことを喜ばなきゃ!
わたしはごちゃごちゃの頭を振り切るために、勢いをつけて布団から飛び起きる。
だけれども勢いがつきすぎて、さらに一回転してしまう。
「うわふっ!?」
そのまま机につっこみかけたけど、ぎりぎりのところで手を付くことで何とか顔面衝突は避けた。
「危ない危ない……」
ほうっと息をついたわたしは、机の上に乗っているものに気づいた。
そこにあったのはあの日わたしが着ていた制服一式だ。
万が一穢れが付いていた場合を考えて祓いと洗濯をしておいてくれたのだろう。
下着一式が別で小風呂敷に包まれていたのにはちょっとほっとしつつ、その脇にあったわたしのスマホに気が付いて思わず苦笑した。
高校に上がってすぐの頃はスマホを家に忘れるくらいだったのに、今では校内でちょっと席を離れるときでもポケットに入れて持つようになっていた。
持ち歩いても時間を見るぐらいなものなのだけど、そのおかげで、こうして手元にあるのだから、なにが幸いするかわからない。
自分の進歩をちょっぴり自画自賛しつつ何気なく電源ボタンを押してみたけど、画面は沈黙したままだった。
不思議に思って長押ししてみたり、ホームボタンを押してみたりを繰り返して思いいたる。
「そっか、充電が切れてるんだ」
わたしは充電のもちがいいほうだけど、さすがに一週間以上も放置していれば自然と切れるのは当然だった。
弓子や真由花ちゃんだったらポータブル充電器を持ち歩いていたりするけど、さすがにわたしにその習慣はない。
「うーん充電器はないしなあ……あ」
考え込んだわたしだったけど、ふと気づく。
これは、姉が同じ会社の新機種に乗り換えたときのお下がりだ。
同じ会社の充電器なら充電できることは、お姉ちゃんがわたしの家に泊まっていたときに知っていた。
それなら、姉の部屋に行けば、充電器があるかもしれない。
わたしはすぐさまスマホを持つと、自分の部屋を後にした。
*
わたしと姉の部屋は母屋から廊下を伝って少し離れたところにある。
時代ごとに増改築を繰り返されてるから、本来ならこっちが母屋のようなものなのだけどそれは置いといて。
当主に連なる家族の私的な区画って感じで、とてもにぎわっていた時期もあったらしいけど、今は祖母しか使っていないから、あたりにはどこかもの寂しさが漂っていた。
そもそもこの棟は、よほど祖母に信頼された術者や用人しか入ってこないから当然なのだけど。
少しひんやりとした誰もいない廊下を歩いて、姉の部屋の引き戸を無造作に開ける。
「香夜っ!!」
いきなり大きな影に飛びかかられて、わたしはその場にしりもちを付いた。
混乱したままふわふわした毛並みに包まれて窒息しかけたけど、喜びでいっぱいに姉の名を呼んだ声で正体を知る。
「日向?」
本性の山犬に戻っていた日向は、そこで自分が人違いをしたことに気づくと、山犬顔でも苦々しげに変わった。
「……あんたか、妹。ここは香夜の部屋だぞ、何のようだよ」
落胆の色を隠さず、少年の姿になった日向は、しかめっ面でわたしを睨みあげる。
「うん。お姉ちゃんのスマホの充電器借りたいと思って」
その変わらない非友好的な雰囲気にちょっとひるみつつ言えば、日向は舌打ちしながらもどいてくれた。
「妙なことをしたら腕を食いちぎるからな」
物騒な日向の声を背中に聞きながら入れば、落ち着いた色合いの統一された姉の部屋は、姉らしく、程良い感じに散らかっていた。
デスクトップパソコンがおかれた机周りがきれいなのはさすがだと思った。
けど、天井まであるようなクローゼットの扉が片方開きっぱなしになっていて、服を選んだのか、ベッドの上にはいくつか服が広げて並べられている。
ほかにも無造作に書庫から持ち出してきたらしい、角がぼろぼろになった和綴じの草紙や巻物が床に無造作に積み上げられていたり、机には呪符を書くための筆ペンと紙の束が出しっぱなしになっていた。
すぐ帰ることを想定して部屋を出ていったことがわかって、また少し胸が締め付けられるような気分になりつつ、部屋を見渡す。
案の定コンセントの近くに充電器が転がっているのを見つけて、自分のスマホとつないだ。
そこでほっと息を付いたのだけど、つないでから自分の部屋に充電器を持ち出せば良かったのではと気づいてしまったと思う。
再起動が出来るまでの充電を待つあいだ、機嫌が底辺を這っている日向と気まずい沈黙が落ちた。
このまま黙り込んでいるのも一つの手だけれど、部屋の隅で膝を抱えてうずくまる日向が少し気になった。
「日向は、今までずっとここにいたの?」
「……まあな」
水守本家の土地は少し特殊だ。
霊脈と霊脈が混ざり合い霊気が強い場所で、ご先祖様がこの土地全体に術をかけて隠世と現世の中間のような性質を保っている。
そのおかげで、この水守本家の土地の中でなら、式神たちは比較的自由に姿を現すことが出来るのだ。
だから式神として術者と契約した妖達が、敷地内の野山でくつろいでいることもよくあった。
日向もそうやって姿を現しているのだろう。
姉を待つために。
そう思い至り、いたたまれなくなったわたしが視線をさまよわせていると、日向が話しかけてきた。
「香夜に、会ったか」
「うん。いつ目覚めるかはわからないけど、とりあえずは大丈夫って」
「そう、か」
日向があからさまにほっとした顔をした。
姉が眠っている治療棟には、原則式神は入ることはおろか近づくことも出来ない。
それだけ強い、穢れを遮断する結界が張られているからだ。
姉の様子を知るすべがない日向は、この部屋で待つことしか出来ず、どれだけ不安だったことだろう。
弱り切った日向にかける言葉が見つからず、わたしは手元のスマホに目を落とすことで紛らわせた。
充電がある程度たまったらしく、電源を入れれば画面が復活してパスコードを要求された。
そうしてホーム画面にきたとたん、今まで見たことのない桁の通知数に目を丸くした。
「え、え、え?」
うろたえつつアイコンを選択すれば、大半は弓子たちからで、グループと個人、両方にわたしを案じるメッセージと着信が沢山入っていた。
とっさに一番上にある弓子との個人画面に飛ぶ。
まず並んでいたのは、無貌と邂逅した日の、授業開始を知らせる気楽なメッセージだった。
それがだんだん不安を感じさせる言葉に変わり、数分ごとに音声通話が並んでいるのには、弓子の不安と心配が痛いほど伝わってきて胸が締め付けられる。
日が経つにつれてメッセージの数は少なくなったけど、なくなることはなくて、わたしへ学校で起こった出来事を知らせる内容に変わっていた。
一つ、一つを大事に読む。
あのときのナギの話は本当だったようで、真由花はわたしが無貌と対峙していたほぼ同時刻に保護されていたらしい。
全国各地で同じように行方不明になっていた少女数人とも一緒で、騒ぎが新聞に掲載されたのだと、新聞社のURL付きのメッセージもあった。
長谷川先輩は、あの屋上の踊り場で意識を失っているのを発見され、運ばれた病院で目覚めたらしいけど、特に一月ほどの記憶がなくなっているのだという。
だから、付き合っていたことはおろか、存在自体を覚えていなくて、真由花はショックを受けたらしい。
真由花自身も誘拐直後の記憶は曖昧で、長谷川先輩に誘拐されたという認識はなかったみたいだ。
だから誘拐されたことよりも、長谷川先輩になし崩し的に振られてしまったことのほうが堪えているようだ。
真由花に限れば、犯人として一番怪しい長谷川先輩が事情聴取だけで解放されているのは、もしかしたら水守が手を回したのかもしれない。
思ったよりも真由花が元気そうでほっとしつつ、心の中はざわざわと落ち着かない。
とにかく何か返信しなきゃ、と思うんだけど、長い間連絡を取れなかった申し訳なさがこみあげてくる。
そもそもお婆さまが、わたしが忽然といなくなったことを学校になんて説明したのかわたしは知らないし、愛想を尽かされてしまっているんじゃないかとも考えてしまい、指がいつまでたっても動かない。
でも無事を伝えたい。何より弓子の言葉が、声が聞きたかった。
「……なにしてんだあんた」
こちらを完全に無視していた日向に、いぶかしげに聞かれるくらいには悩んだ後、まずは謝ることにした。
「返信できなくてごめんなさい、と……え!?」
短い文面を打ち込んで送信し、さてどう説明しようかと考えているとすぐに既読が付いた。
はっや!?
と驚く間もなく、スマホから着信を知らせる音楽と振動が鳴り響く。
相手はもちろん弓子だ。
急すぎて追いつかないけどともかく!
「えと、電話をとるにはっ」
「緑のマークを押すんだよ、おまえほんとに人間かよ」
完全に呆れた風の日向に顔を赤らめつつ、緑のマークをタップしてスマホを耳に当てる。
「もし――」
『もしもし依夜無事っ!? 元気にしてる!? こんなに連絡取れないと思わなくてすごく怖くて心配してたんだよ! 声聴かせて、ねえ依夜、ちゃんと依夜だよね!?』
弓子の心配と不安が入り交じった声が一気に聞こえて、どっと安堵が押し寄せてきた。
力が抜けて思わずスマホを取り落としかけるけど、両手で握って、深く息をつく。
「弓子、ちゃん。ごめんね」
『っ……ほんとうに、心配したんだからああああ!!』
息をのむのが伝わった瞬間、そんな声が耳を貫いて、わたしはこみ上げてくるものを押さえながらしばらく謝り続けたのだった。




