わたしの今
あの日。
水守本家の門の前に放り出されたわたしと姉は、ただ事ではない霊圧に気づいて出てきた水守の人々によって保護された。
体感では数十分だったにもかかわらず、その時点で現世では数日たっていて、更にわたしが浄衣の影響で意識を失っていた期間を合わせて、目覚めたときには無貌と遭遇してから一週間がたっていた。
目覚めれば、わたしは状況を把握する間もなく、水守の術者達からなにが起きたのかを尋問され、さらに隠世に踏み入れた穢れを落とすために禊行が課せられて、この2日を過ごしていた。
大勢の術者に囲まれての質問攻めは、嫌でもナギのことを思い出してしまうし、それに、自分でもなにをどう説明していいのか、どこまで話したらいいのか判断するのは消耗した。
そう考えたことで、ナギについてまだ隠そうとしている自分に気づいて自己嫌悪に陥って、それでもナギを抜きで説明して押し切るしかなかった。
だって、今更伝えたところで、ナギがそばにいない今、信じてもらえる証拠がなかったからだ。
その聴取の時に、お婆さまが同席していたのには驚いたけど。
わたしのおぼつかない説明を一応は納得して、一通り聞き終えると禊行を課せられてほうっておかれた。
それでも、あれだけつらいと思っていた禊行のほうが、よけいなことを考えないですんで楽だと思った。
何とか着替えて脱衣所を出れば、白衣に浅葱色の袴を身につけた、付き添い役の術者――碓氷さんがいた。
「禊行の全行程が終了しましたので、現在を持ってあなたにかけられている行動制限は解かれます」
「はい。お世話になりました」
わたしが頭を下げつつ、守り袋を差し出せば、碓氷さんは受け取る。
「それと今しばらくこの社にとどまるように」
「え」
淡々と告げられて、わたしは目を見開いた。
そこで無表情だった碓氷さんの眉がひそめられて、ちょっとひるむ。
30代の男の人だから少し怖く思えた。
「当主様からの命令です。不服がありますか」
「いえその、驚いた、だけで。でも、その学校が、あるので。いつまで居ればいいのか。とか」
「学校についてはすでに連絡をしてあります。期間については当主の判断ですので私では解答しかねますので、当主本人に質問してください」
わたしは、こみ上げてくる苦いものを押さえ込んだ。
いつもたくさんの人に囲まれて、多忙なおばあ様を捕まえて質問するのがひどく困難なことをを知っていて言っているのだから、それはきっと黙って聞け、と言うことなのだろう。
わたしは、どんなに承伏しかねていてもただうなずくしかなかった。
「わかり、ました」
すると碓氷さんはふうとため息をついた。
ここでは当主がほぼ絶対の存在だから、わたしが反抗するような態度をとったのが気にくわなかったのだろう。
碓氷さんは祖母が信頼している側近の一人として名があがるような人だから、わたしなんかの面倒を見なきゃいけないのが嫌なのかも知れない。
それでも、この人は水守の中でも断然マシだ。
用件しか言わないけど、面と向かってはわたしの陰口を言ったりしないし、なじったりしないから、この人が今回の禊行の付き添い人で少しほっとしている部分もあった。
まあ、そんなこと思われていても、きっと迷惑だろうけど。
と、思っているうちに、碓氷さんが身を翻して去っていこうとしていて慌てた。
かなり空気は重いけど、断然マシだからこそ、ここで聞かなきゃ機会がなかった。
「あの、碓氷さん」
勇気を振りしぼって呼び止めれば、碓氷さんは足を止めて振り返ってくれたので、急いで言葉を紡ぐ。
「おねえ……姉の治療室には入れますか。せめて、ひとめだけでも」
そらしてしまいたくなるのをこらえて、碓氷さんを見あげていたのだけど、視線を戻されてしまって落胆する。
同じように気を失っていたはずの姉が生きていることだけはわかっていたけど、穢れを持ったわたしを近づかせるわけにはいかないと、どこにいるかは教えてくれなかった。
でもわたしの禊ぎが終わった今、この人ならと思ったのだけど、だめ、なのか。
「ご案内します」
だけどそう聞こえてはっと顔を上げれば、碓氷さんは浅葱色の袴を翻して歩き始めていた。
「ありがとうございます!」
わたしは表情を輝かせて、遠ざかっていく白い背中を追いかけたのだった。
*
碓氷さんに案内されたのは、母屋とは別棟の霊障治療を専門に行う区画だった。
水守はそのお役目の性質上、怪我が多いから、本家近郊の病院と提携し、術者達の治療に当たれるようになっている。
だけど外傷でも、瘴気に当たっていたりするとひどく治りが遅かったり、呪詛が原因の病は科学治療だけでは治せない。
だから、そういう重篤な呪詛や憑き物などが原因の病は、本家の専門の術者達が付きっきりで当たれるように、専門の区画が用意されていた。
瘴気に当てられることが多かったわたしは何度かここでお世話になったことがある。
今まで面会謝絶にされていたことで薄々わかっていたけれど、案内されたのは、病棟区の一番奥、重篤患者用の祭事室だった。
室内の壁や天井には黒々とした呪印が描かれ、いっさいの穢れを立ち入らせぬようになされていて、入るだけでぴんと張りつめた空気の清浄さに自然と背が伸びる。
これ以上ないほどに穢れを祓い落とされた部屋の中央には、外界と区切るようにしめ縄を張られた忌竹が立てられ、その内側に敷かれた布団に姉が力なく横たわっていた。
その忌竹としめ縄によって作られた結界は、瘴気によって弱り切った姉を守るためなのだろう。
「一通りの禊ぎと霊的治療は終えています。ですが濃度の高い瘴気に侵され続けていたために衰弱が激しく、香夜様の霊力が元に戻るかはおろか、意識を取り戻すかどうかもわかりません」
案内してくれた碓氷さんに礼を言う間もなく、真っ白な顔で眠る姉の元へふらふらと近づいた。
「わかっているとは思いますが、結界の中に踏みいってはなりません」
強い制止の言葉に、わたしはぎりぎりのところで我に返り、すとりと腰をおろした。
いや、力が抜けてしまった、と言うのが正しいかも知れない。
あらためて姉が生きていてほっとして、けれどこんなに弱々しい姉を見るのがはじめてで呆然としてしまった。
「お姉、ちゃん」
声をかけても、姉はゆるく呼吸をするだけだ。
なんとなく、用人たちからこぼれ聞いた話によると、わたしは姉に対する人質にされて神隠し事件の実行犯をみすみす逃した上で重傷を負わせた足手まとい。
ということになっているらしい。
実際に起きたこととは違うのに、認識がほとんど合っていることには思わず笑ってしまった。
それでもお姉ちゃんだけは救えたと思っていたのに、それは間違いだったのだろうか。
「依夜様、お気を確かに」
「大丈夫です。大変なのはお姉ちゃんですから」
姉の白い顔を見つめてうつむいていると、碓氷さんに声をかけられて、思わず笑ってしまった。
自分でもわかるほど自嘲が混じっていた。
「それにわたし、様をつけられるほど、偉くありません、よ」
いつの間にか傍らに来ていた碓氷さんを見上げれば、彼はかすかに目を見開いていた。
「知ってます。なんでわたしじゃなくてお姉ちゃんが倒れているのかって言われていること。わたしだって、何でだろうと思います」
「それは……」
言いよどむ碓氷さんをおいて、ぼんやりと視線を巡らせてみれば、姉の向こう側には神力を借りるためだろう、水守の神を祭る祭壇がもうけられているのが見えた。
水守の神は姿を現さぬ神だ。
名前も、その正体も当主にだけしか伝わっていない。
水守の記録にはその姿も記されているらしいけど、古文書を読み解けるのは高位の術者だけで、祝詞にすら名が織り込まれないほど、その忌み方は徹底していた。
ただ、水守の家が祀るのだから、きっと水に纏わる神なのだろうと想像することしかできない。
でも、お姉ちゃんを助けてはくれないだろうか、とふと考える。
こんなことを、出来損ないの水守のわたしが願うのはおこがましいかも知れないけど。
でも姉はこれからの水守に必要な人間だし、祀っていくのはわたしでなく姉のはず。
それなら水守の神にだって無関係ではないと思うのだ。
このまま姉が目覚めなかったら祀っていく人が居なくなってしまうのだから。
……いや、そんなの建前だ。
考えたわたしは自然と姿勢を正して、祭壇に向かって、柏手を打っていた。
部屋いっぱいにその柏手の音が反響するなか、わたしは静かに瞼を閉じる。
一度も応じてくれたことはないけれど、姉のために祈った。
足りないというのなら、わたしにも少しはあるはずの霊力をお姉ちゃんに渡せればいい。
それで目覚めてくれるなら、全部あげたってかまわない。
話したいことも、聞きたいこともたくさんあるのだ。
なにより、お姉ちゃんとこれっきりなのは嫌だった。
もっとずっと一緒にいたい。
また、元気なお姉ちゃんの姿が見たかった。
ふと、お腹の底から暖かいものがあふれ出し、自分から流れ出ていくような気がした。
それはナギに浄衣を着せかけられた時と似たような感覚にわたしが没頭していると、身体に軽い衝撃を感じた。
驚いて目を開ければ、碓氷さんがわたしの肩に手をおいていて、軽く叩かれたのだとわかる。
その驚いたような表情が不思議だったけど、わたしは姉を見た。
だけど姉は堅く目をつぶったまま、変化はなにもなくて、わかっていてもほんの少し落胆する。
そう、うまくいくことはないか。
苦笑して、黙したままの水守の祭壇にもう一度頭を下げ、わたしは姉に話しかけた。
「はやく良くなってね、お姉ちゃん。また来る」
それで未練を断ち切って立ち上がると、立ちくらみのような感じがしてふらついた。
何とか踏ん張って倒れることだけは免れたけど、禊行が体に応えたのだろうか?
「すみません、お待たせしました。どうかしましたか?」
「いえ……」
なぜか、あげていた手を降ろす碓氷さんだったけど、気を取り直したらしく無言で背を向ける。
その後について、わたしはじくじく痛む胸を抱えて退出したのだった。




