過ぎていったもの
五章はじまります。
とてもおいしそうな匂いが、暗闇の中に漂っていた。
こってりとまとわりつくようなそれは、なにかと特定することは難しい。
だけど確かなのは、嗅いでいるとすっごくおなかが空くってことだ。
その匂いにつられるように歩けば、見えてきたのはぎらぎらとした金文字の赤い看板を掲げたお店だった。
いかにも中華料理屋です!という店構えの中は煌々と光がともっていて、匂いのほかにも、鍋を振り回す金属音や、油のはねる音、お皿同士が当たる音がにぎやかに響いてくる。
なのにお客さんはおろか、店の人の声すら聞こえない。
「ここのようだぞ、ぬしよ」
そんな怪しさ満点のお店の前でナギは立ち止まると、遅れているわたしを振り返った。
「商店街でうまい匂いにつられると、いつの間にか暗闇の中を歩いておって、煌々と灯りのともるいかにもな中華料理店があるという話だったからの。この隠世の中にあるのなら間違いなかろう」
「……入って出される料理はすっごいまずいのに、それを食べきれないと味覚を奪われてしまうのよね。料理を残しちゃったうちのクラスの男子が味覚を取られて、なにを食べても味が感じられないってすごく悩んでた」
そのせいでその男子はたった一週間なのに目に見えてやつれてしまったのだ。
ただ、彼は元々割と太めで、結果的に標準体型になった彼の変わりようにクラスメイトは驚くだけだったのだけど。
なにを食べてもゴムをかんでいるようだと言うのは、食べている実感もわかないと言うことだ。
それがどれだけつらいかは想像もつかない。
病院で検査をしても異常は見つからないというのと、彼が味覚を失った直前の話をあわせれば、わたしが人在らざるものの仕業だと思い至るのは簡単だった。
ふくふくとおいしそうにお弁当を食べる彼が消沈してやつれてしまっているのがつらかったわたしは、こうしてその中華料理屋を調べに来ていたのだった。
で、「隠世に入り込めば生身では難儀であろう?」と例のごとくのたまわったナギに、隠世へはいると同時に浄衣へ着替えさせられたんだけど。
ひゅるりとどこからともなく風が吹くと、すうすうと脚が涼しくなる。
同時にはためく裾をわたしは慌てて押さえた。
そうして見えるのは艶のある布で仕立てられた今回の浄衣だった。
勝手にこみ上げてくる羞恥心に耐えて、わたしは赤らんでいるであろう顔でナギをにらみあげる。
案の定、ナギはひどく上機嫌に目を細めてわたしを……正確には深々と開いたスリットからのぞく脚を眺めていた。
意味がないと知りつつも、深々と開いている脇のスリットを押さえれば、ナギはますます笑みを深めた。
「うむ、やはり良いものだのう。詰め襟に長い丈という禁欲的な要素があるにも関わらず、大胆に開くスリットによって妖しいまでの色香を放つ。いつもと違う大人の色香という奴だな、ぬしよ」
「それにしたって大胆すぎるわよ! スリット深すぎるし服もぴったりし過ぎてるし、運動に適しているとは思えないんだけど!」
「中華と言えばチャイナドレスであろう」
「やっぱりか!」
そう、ナギの言うとおり、今回の浄衣は濃い赤を使ったチャイナドレスだったのだ。
頭は左右のお団子が作られていて、平たいカンフーシューズ?みたいなもので、ドレスには大蛇が体をくねらせた刺繍が縫い取られている。
こう、華やかさとけばけばしさの間をいくような絶妙な趣味の良さには毎回感心するけれど!
チャイナドレスというだけあって、きっちり仕立てられているから体の線が丸わかりになっている上、深々と開いたスリットのせいで裾は長いのに太ももまで露わになってしまっているのだ。
ちゃんと丈はあるぞって言葉を素直に信用したわたしが馬鹿だった!
しみじみ言うナギを精一杯の非難を込めて見れば、ひどく不思議そうな顔になる。
「安心せい。例のごとく浄衣の機能はばっちりだぞ。露出で言えば悪の女幹部とそう変わらぬだろうに、なにが不満なのだ」
「それ、はっ……!」
わたしはおもわず顔を赤らめて、視線を泳がせた。
たしかに、ショートパンツとか、ちょっとおなかが見えるぴったりした上着と比較するなら、悪の女幹部のほうが露出が多くてセクシーだった、と思う。
でもそれでもこれはいやだと、思う理由はわかっている。
わかっているんだけれど、それを言うのも恥ずかしい。
だけど、首を傾げているナギにはその違いが本気でわからないようだ。
さんざん迷ったわたしは、声を絞りだした。
「…………す」
「す?」
「す、素足のままが、恥ずかしい、の!」
左右のスリットを押さえながら、わたしは震えそうになる声で主張した。
長年着物とか、巫女服になじんでいたせいか、正直制服でも足を出すのはちょっと恥ずかしいのだ。
だから普段着も、長ズボンや膝下のスカートが多い。
ナギの目が点になるのに、顔が火が出そうな勢いで熱くなる。
「ぬしよ、足を出すのが恥ずかしいというのであれば、悪の女幹部は足がだいぶ露わだったと思うのだが」
「あれはブーツがあったもん! ぴったりしてても素足じゃなかったもん!」
わたしにとってその差は大きいのだ。
薄くともぴったりしていても一枚あるのとないのでは大違いであると、悲しいかなナギの浄衣シリーズで実感してしまっていたのだった。
言葉に出して明確にしてしまったらもう耐えきれなくなって、後ろの裾を押さえて中腰だ。
すごく情けないことになっている自覚はあるけれど、その場にしゃがめば、スリットが更にきわどいことになってしまうのでしょうがない。
うう、全部ナギのせいだああ!
中腰のまま、涙目でにらみあげれば、ナギは考え込むように手を顎に当てる。
「ううむ、それはぬしの足がいっそう艶めいてみるのだがのう」
「こんな足見ても誰も楽しくないでしょ!」
「わしは非常に楽しいのだが……そうか嫌か」
「絶対いや!」
全力で主張すると、わたしをじっと眺めていたナギは肩をすくめるとぱちんと指を鳴らした。
瞬間、わたしの両足に暖かな霊力が滑っていったかと思うと、光が散った後には、薄いストッキングで覆われていたのだ。
少し透け感があるが、黒く色がついているおかげで素肌は見えない。
まさか本当に折れてくれるとは思わなかったので、思わず足を覆うストッキングをさわった。
「な、なんで?」
「うむ、ちいとばかし褒美ももらったしの。少々路線変更をしたのだ」
「ごほうび?」
そんなもの、あげた覚えがないわたしが頭に疑問符をいっぱい浮かべていると、ナギは曖昧にほほえむ。
「ぬしの艶姿のフルコンボでわしの萌えゲージがたまったからの」
いまいちよくわからないけど、とりあえず、黒のストッキングはちょっと薄いけど、一枚あるだけでさっきより全然ましだ。
……大人っぽくみえるのは、うれしくないわけじゃ、ないし。
「薄い布地から透ける足、というのもまた良きものだからな」
とりあえず、しみじみとよくわからないことを言っているナギはきっちり無視して、気合いを入れ直したわたしは、背筋をのばした。
と、中華料理店の磨り硝子の扉が独りでに開き、料理の匂いがよりいっそう強く漂ってきた。
おいしそうな匂いに揺らぎつつも、まるで誘われているような雰囲気に、ちょっと緊張しながらも、わたしは一歩足を踏み出したのだった。
*
滝の流れる轟音に、わたしは現実に引き戻された。
どうやら、意識が飛んでいたらしい。
頭の上から続々と叩きつけられる水はもはや暴力的で、7月はじめでも、指先の感覚がなくなるほど冷たい。
自覚したとたん、全身に襲いかかる水圧に思わずよろけた。
口にしていた祝詞がのどに絡み、先ほどとは違う意味で意識が飛びそうになる。
その寸前、胸にぽうと霊力を感じる。
『規定時間が過ぎました』
「は、い」
首から下げていた寄代入りの守り袋から聞こえた声に、返事をしたわたしはのろのろと手足を動かして、滝から這い出て岸に上がる。
そうして芯まで冷えた体を抱きしめつつ、脱衣所に駆け込んだ。
ほう、と息をついて自分の体を見下ろせば、張り付く白装束があった。
それで、さっきまで見ていた情景を思い出して、わたしは思わず目を閉じる。
中華料理屋の中にはいると、テーブルには満漢全席かと思うほど料理が所狭しと並べられていた。
明らかに食べろと言う感じだったけど、まず原因である妖を探そうと厨房に入った。
瞬間、中華鍋やら寸胴鍋やらお玉やら料理器具が寄り集まって人型をとり、私たちに襲いかかってきたのだ。
合体ロボだと面白がるナギにだいぶ意気をそがれつつ、ハリセンを振り回して応戦して、制圧したんだけど。
おとなしくなったので話を聞いてみれば、彼らは、この店そのものの付喪神だった。
中華料理屋を開くと言う矢先に店主が亡くなったせいで一度も使われないまま放置され、その未練が自分達で料理を作って提供する、という方向になったらしい。
一度も使われたことがないから、おいしい料理がわからなくて、招いた人の味覚を奪って改善しようとしていたという。
ちょっと禍霊になりかけていて、やり方もめちゃくちゃだったけど、お客さんに喜んでもらいたいと言う気持ちは本当で。
どうしようと悩んでいると、顎に手を当てて考えていたナギが言い出した。
「ふむ、ならばうまい料理ができれば満足なのだな?」
すると、かっぽう着姿になったナギは、厨房にあった材料をつかって料理を作り始めたのだ。
着物にかっぽう着姿で中華鍋を振るうナギは、いつにもましてシュールだった。
だけど、できあがっていく料理はどれもおいしそうで、皿に盛られた料理をせっせと客席のテーブルに運んでいくわたしも、思わずつばを飲み込んだ位だ。
続々と料理が並べられていくにつれて、お皿も、鍋も、包丁もまな板も店の備品全部がきらきらと輝き出す。
「ではぬしよ。お客様役を任せるぞ」
ナギに促されるまま食べた、麻婆豆腐や肉団子や卵スープや点心や八宝菜や青菜炒めや炒飯は本当においしくて、こんなに食べれないと思ったのに全部完食してしまったほどだ。
そうしたら、その匂いにつられて迷い込んだのか、お店にお客さんが続々と入ってきて、わたしがにわかウエイトレスをやることになってしまったのだ。
そりゃあ中華料理屋でチャイナ服着ていたらウエイトレスに見えるよね……。
途中からナギは店の妖達に料理を任せて、高みの見物だったのを恨めしく思いながら、必死に注文を取って料理をはこんでお金をもらって……なんか普通に禍霊退治のほうが楽なんじゃないかと思ったくらいだけど。
最後のお客さんが帰ったときには、妙な達成感があって、鍋やらお玉やらお盆やらな妖達とハイタッチして喜んだ。
すると妖は素直に消えていき、翌朝の学校では、例の男子が幸せそうに早弁をしていたのだった。
こうして中華料理店の怪は解決したものの、ナギがどうして素直にストッキングを追加してくれたのかは疑問がのこったのだけど。
それは、後日弓子のメッセージで氷解した。
『今回の神薙少女はチャイナ服だったらしいんだけど、画像がね、すっごくエロかわなの! 見て!!』
と、興奮した弓子からSNS経由で送られてきたのは、アングルからして中華料理屋に来ていたお客さんが撮ったらしい画像だった。
ナギの術が効いているおかげか、顔はほとんど映っていなかった。
だけど、そこに映っているチャイナ服とスリットから見える黒ストに包まれた足は、素足よりも妙に色めかしいというか、なまめかしく思えた。
弓子がエロかわいいって言うのは的をいている。
確かにこれはなんか、自分だってわかるだけにめちゃくちゃ恥ずかしい。
と、いうか黒ストッキングがあればマシだと思っていたんだけど、あれだけ深くスリットが開いてるんだから五十歩百歩だったと今更気づいてしまったらおしまいだ。
そんな感じで羞恥心と、ナギの思惑にはまりこんでしまった行き場のないもやもやをナギにぶつけたのは余談だ。
それでもあれだけ協力的で頼もしいナギも珍しかった。
はじめてのウエイトレスは大変だったけど、ナギも何となく楽しげな感じだったりして……ちょっと大人っぽい格好みたいなのもできて、なにより、なんか一緒に解決できたと言う感じがうれしい事件だった。
体も心もへとへとになったけど「頑張ったの」ってナギが微笑んでくれたのは認めるのはちょっとムカつくけど嬉しくて。
『それはわしの暇つぶしだよ』
あのときの無機質な声音が耳の中で反響して、わたしの心はさっと冷え込んだ。
目をつぶったままだと、あのときのことを鮮明に思い出してしまうから、板の目をぼんやり眺めてみたけど、やっぱりあの冷えた表情が脳裏をちらついてしまう。
「どうしてよ、ナギ」
あのときだって、あんなに楽しそうだったのに。
声に出して呼んでみても、応えてくれた黒い式神の気配はどこにもない。
この数日で何度も思い知ったはずなのに、耐えきれずに吐き出してしまったことに泣きたくなって、わたしは濡れた白装束のまま、ずるずると膝を抱えて座り込んだ。




