もうひとりの赤
お姉ちゃんを抱きしめていると、遠くで何かが動く気配がした。
「まさか……引きはがされるとは、思っておりませんでしたよ……」
その声にはっと顔を上げれば、無貌が身を起こそうとしているところだった。
やはり、先ほどの一撃でよほどダメージを負ったのか、着ている燕尾服も傷だらけで、その秀麗な顔もノイズが走っているみたいに安定しない。
それでも起き上がってくることに警戒して、とっさにハリセンを引き寄せたわたしだけど、その前に無貌の周りに呪陣が走った。
たちまち強力に縛められ、身動きがとれなくなる無貌の眼前に歩いてきたのはナギだった。
「ふふふ、縛術ですか。私をすぐに滅しないので?」
「そなたには少々聞きたいことがあるでな。とどめを刺すのは後だ」
淡々と言ったナギは冷然としたまなざしで、無貌を見下ろす。
ナギが聞きたい事って何だろう。
「そなたの主は誰だ」
あるじ、と言う言葉に、わたしはそう言えばと、戦慄した。
そうだ、無貌は言っていたじゃないか。
「神薙少女を主に献上する」って。
神薙少女をねらっていたのは無貌の独断でも、少女たちをさらったのはその主の命令だったんだ。
元を倒さなくちゃ、神隠し事件は終わらない。
ごくりとつばを飲み込んで、ナギたちのやりとりに注目していれば、見下ろされた無貌は、驚いたように目を見張り、ほんの少し顔が赤らんだ、みたい?
な、なんだろう? なんでかすごくぞわってした。
「ああ、そう、そう言うことでしたか……。それは私がいくら画策しようと無理でございましたね」
無貌は深く納得したようにつぶやいた。
わたしは無貌の言葉遣いが、いっそう丁寧になったことを気味悪く思う。
「ええ、そうですよ。あなた様の思っていらっしゃる通りです。あの方はあなた様を焦がれて、焦がれて、待ち望んでいらっしゃいます。私がどのようなことをしても、同じような想いは向けてくださらなかった」
寂しげに、だけどひどく熱っぽくつぶやく無貌に、ナギはひどく険しい表情になった。
確かに無貌は気味が悪いけど、ナギのは何となくニュアンスが違う気がする。
思いがけないとも違う、まるで焦っているような?
あのナギが?
なにか、すごく嫌な感じがした。
そのとき、大広間全体が激しく揺れた。
埃が舞いとび、空間がきしむ音がけたたましく響くなか、とっさに姉を抱きしめて庇うと、ナギが無貌をおいて一足飛びにやってくる。
たちまち張られた結界に驚く間もなく、ナギの表情が目に入った。
ひどく苦しそうに、ゆがむ顔は、初めて見るものだ。
「ぬしよ……すまぬ」
「えっ」
何で謝るの?
「ああ、お目覚めになられましたか!」
無貌の歓喜の声が響く中、また薔薇の玉座があるあたりの空間が押し広げられた。
さっきナギがやっていた、刃物で切り開くようなのとは正反対の、強引にねじ曲げて引き裂くようなでたらめな開け方だ。
闇よりも暗いその隠世から、あふれ出してきたものに全身が総毛立った。
知らないけどすぐわかった。
あそこの向こうは、ただ人が踏み込んだら一瞬で狂ってしまうような、隠世の深淵の気配だ。
破れていても浄衣と、ナギの結界で守られているはずなのに、寒い、怖い、恐ろしい。
気を抜いてしまえば震えてしまいそうなものなのに、だけど目が離せない。
そこから何がやってくるのか。
意識のない姉を抱きしめて固唾を呑んでいると、さらりと衣擦れの音がした。
同時に軽やかに走る音が聞こえた瞬間、その塗りつぶすような暗黒から出てきたのは、鮮烈な赤だった。
それが髪の色なのだと気づいて、さらにとても美しい女性だと言うことに思い至って目が釘付けになった。
普通だったら奇抜とさえいえる赤い髪ですら、引き立て役でしかない。
成熟した女性の色気と、少女のようなあどけなさが同居した奇跡のような美貌だった。
その身を包むのは絢爛な着物なんだけど、それですら豊満な肢体を隠しようがなく、思わず赤くなってしまいそうなほどの色香を放っている。
その蠱惑的な美貌がある一点で止まると、まるで花がほころぶような喜色に彩られた。
黒地に曼珠沙華柄の打ち掛けが翻ると、どこかでぐえっと踏みつぶされたかえるみたいな声がする。
「ナギッ――――!」
目尻が少しつり上がった瞳は髪とはまた違った深い赤だ、と気づいた瞬間。
その打ち掛け姿の美女は、わたしの傍らにいるナギに飛びついていた。
紅の髪が羽衣のように舞い踊る。
「わーいわーい会いたかったわ――! 本物のナギだー!」
全身で無邪気に喜びを表しながら、美女はナギの首に手を回してすり寄った。
その仕草がものすごく自然と言うか親しげで、びっくりするんだけど、更に驚いたのが、ナギがいっさい抵抗しないことだ。
彼女の背中に手は回さないものの、されるがままになっている。
呆気にとられていたわたしだったけど、まるで一対のようにしっくりくるナギとその美女の顔がひどく似ていることに気づいた。
「ナギ、だれなの?」
呆然と問いかければ、ナギはすり寄る美女をそのままに深いため息を付いて言った。
「わしの姉だ。名を鬼灯という」
「おねえ、さん」
ひどくしっくりくるその答えに、それでも言葉を失うほど驚くわたしだったけど。
それよりもナギの表情が晴れないことに、不安を覚えたのだった。
「ふふふ、久しぶりのナギだあ。元気だった? おなか空いてない? 退屈してなかった? 怖い目にはあってないだろうけど、イヤな目にあってなかった?」
そのナギのお姉さん、鬼灯さんは矢継ぎ早に質問しながら、ナギの全身をぺたぺたさわりはじめた。
「いったい何年ぶりかしらねえ。ほんと退屈で退屈で仕方なかったわ!」
退屈だったという割にはそんな色はみじんもない鬼灯さんに、ようやくナギが口を開いた。
「だいたい400年ぶりではないか」
「うんうんそれくらい。戦乱って感じだったもんねえ。あのころはほんと楽しかったけど、今はずいぶん様変わりしてるみたいじゃない! びっくりしたわよ」
「姉者、いつから外に出てきておったのだ」
「たった今よ。と言ってもちょっと前からナギが作ってくれた結界が綻びちゃってさあ。ナギからの初めての贈り物だったからそれ以上壊れないように大事にしてたんだけど、ナギの術の気配がするから思わず飛び出して来ちゃったのよ。ごめんね?」
「そうか」
矢継ぎ早に話す鬼灯さんに、わたしは口も挟めずに見つめているしかない。
「でも、結界がたかだか400年で綻びちゃうなんてどうかしたの? もうちょっとえげつない組み方してたと思ったけど。まあ、そこから外を見たり、暇つぶしにお人形作ったりもできたから割と暇つぶしができたんだけど。……と、そうだ」
そこで鬼灯さんはぱっと見をひるがえすと、つかつかと床に転がる無貌のそばへ近づいた。
「ほ、鬼灯様……」
「無貌、弁明があるなら聞いてあげる」
ナギに向けるのとは全然違う平坦な声音に、無貌は震える声で言った。
「わ、私は鬼灯様に献上する材料を探している最中にそれよりも良き者をみつけまして……」
「この駄犬。顔がないだけじゃなく脳味噌もないのかしら?」
わたしは自分の目を疑った。
鬼灯さんは冷然と吐き捨てた瞬間、その厚底の草履で容赦なく無貌の背中を踏みつけはじめたのだ。
「なんで! 妾より! 先に! ナギに! 会っているのよ!!」
その手加減などまったくしているようには見えない、踵でえぐるような蹴り方にも唖然としたけど。
「ああ、いいっ! もっと! 踏んでっ、鬼灯様あぁ!」
それよりも何よりも、無貌がその大振りな蹴りをよける素振りも見せないどころか自ら蹴られに行っていることに。
その上赤らむ頬に、ゆるむ表情……まるで喜んでいるとしか思えない様子に全部の思考が停止した。
そ、そう言えば、わたしに睨まれたときとか、お姉ちゃんに蛇蝎のごとく吐き捨てられたときも微妙に喜んで、いたよう、な?
「妾のおつかいもろくにできなかった駄犬が反省もせずに、あまつさえ妾に蹴られて喜ぶなんて最低ね?」
「申し訳ありませんん!」
恍惚とした顔で嬉嬉として鬼灯さんの足下に這い蹲る無貌に、わたしがどん引きしていると、いつの間にかそばにいたナギが、こそりとつぶやいた。
「ぬしはことあるごとにわしを変態だと申すが、あやつのような者が真の変態だと思うぞ」
あんたもどっこいどっこいだと思ったけれど、蹴られ続けているのにすごくつやつやしている無貌を目の前にすると黙り込むしかない。
ものすごくうれしそうな声が混じった足蹴の音は、たっぷり五分くらい続いてようやくやんだ。
「ま、ナギをつれてきてくれたから、お仕置きはこれくらいにしといてあげる」
「あ、ありがとうございます……」
そう言って草履を引っかけた足を下ろした鬼灯さんだったけど、無貌がものすごく残念そうなのは、たぶん気のせいじゃないと思う。
だけどそんな無貌なんてもはや眼中がないように、鬼灯さんは着物の裾を整えると、うずうずといった風にナギに近づいてきた。
「ねえ、ナギ、これからどうしようか!」
「どう、とは」
「ふふふ、だって無貌が持ち込んでくれた現世の草紙とかだとあのころよりもずいぶんいろんなものが増えているみたいじゃない! 今の着物も欲しいし、いろんな物食べてみたいし、何より思いっきり遊んでみたいわ! ね、ナギはずっと現世にいたんでしょ? 案内してちょうだいね。」
きらきらと赤い瞳を輝かせる鬼灯さんはたいそう魅力的だった。
無邪気で、明るくて、なんかナギのお姉さんと言われてもあんまりぴんとこなかったけれど、大丈夫かも知れない。
ナギの片腕に腕を絡めた鬼灯さんは弾んだ声で続けた。
「ふふふ、おもしろそうな物がたくさんありそうだけど、あの町並みはちょっとごちゃごちゃしててきれいじゃないわ。妾達が住む場所はきれいに更地にしてから立て直しましょ」
うっとりとほほえむ鬼灯さんが言ったことが、一瞬理解できなかった。
いま、このヒトは何を言ったの?
「あ、必要な下僕はだいぶそろえられたから安心してちょうだい? 無貌を使って、まあまあかわいい人間の子を拾ってきてもらって、きれいで可愛くて役に立つお人形さんを創ったのよ。あのころみたいに楽しく暮らしましょ」
あっけらかんと言った鬼灯さんの表情には罪悪感のかけらもなかったけど、わたしは背筋が冷たくなった。
人を使ってお人形を作ったと言った。
その意味はそれなりに妖の性格や思考を知っているわたしには、嫌でもわかる。
「ころ、したの?」
わたしの声が妙に広間に響いて、鬼灯さんが初めてこちらを向いた。
ぱちぱちと赤の瞳を瞬いて、こてりと首を傾げる。
「あれ、あなた、だあれ?」
その無機質な目に、わたしはからめ取られたように動けなくなった。
わたしは甘かった。馬鹿みたいに甘かった。
今更気づいたのだ。
このヒトが、いっさいわたしを見ていなかったのは、ナギにばかり気を取られていただけじゃない。
本気でわたしが視界に入ってなかったんだ。
まるで人が道ばたを歩く小さな虫に関心を払わないように、彼女にとってわたしが強いて取りざたするほどの人格のある物だと認識されていなかったからだ。
勝手に体がこわばって、からからにのどが渇いているのに、なぜか言葉だけは滑り出た。
「さらった、女の子を人形にって」
「ああ、そりゃあただの人だったらすぐ壊れちゃうもの。だから、妾がちょっと遊んでも壊れないように、妖と混ぜて形を作り直して、妾好みのきれいなお人形に仕立てたのよ」
あっけらかんと言う鬼灯さんに、わたしはぞうっとした。
それは、人あらざる物に姿を変えられてしまったという事だ。
どこまでも傲慢に、彼女たちの人としての生をねじ曲げて粉々に破壊尽くしたそれは、死よりも残酷だ。
それなのに自慢げに胸を張る鬼灯さんには、罪悪感のかけらもない。
絶望的なまでに価値観が違う。どうあってもきっと話が通じることがない。
ぞわぞわと目の前の存在に対して、不気味な恐怖がわき上がってくる。
その理不尽なまでの圧倒的な気配は、初めてナギに会ったときに似ていた。
でも決定的に違うのは、彼女が人に歩み寄ることすら考えない、自分の価値観だけに従う、人有らざる者ということだ。
身を固くするわたしを鬼灯さんは不思議そうに眺めたかと思うと、不意に顔をしかめた。
それだけで濃密な妖気が立ち上ってわたしを襲い、そこに含まれるいらだちと怒りの気配に体が勝手に震えた。
「その服。ナギのにおいがするわ。それに、あなた本当の姿をしてないわねえ。隠されてるの?」
ナギと同じ色彩の赤の瞳が、ほの暗く光る。
一気にあたりの空気が一二度下がって、わたしは姉を抱く腕に力がこもった。
姉を早く水守の呪医へ見せなければいけない。守らなきゃいけないと思いつつも、すがりついているような気分だった。
「人の子でしょう? どうしてここにいるの? ナギとなにしてたの? どんな言葉を交わしたの? 何でナギの術をそれだけかけられてるの?」
すっぱりと表情を落とした鬼灯さんが一歩近づいてくるごとに禍々しい妖気がわたしにからみつく。
向けられる悪意と敵意といらだちに体中が悲鳴を上げているのに、一歩も動けなかった。
ずい、と顔をのぞき込まれて、そのたおやかとさえ言える手がわたしの首に掛かる。
「ねえ、あなた、ナギの何?」
わたしは、ナギの――……
「姉者」
ナギの声が聞こえた瞬間、場を支配していた妖気が一気に霧散した。
締め付けられていた首から手が放れていき、わたしは息苦しさから解放されてせき込む。
「なあに?」
「それはわしの暇つぶしだよ」
その冷えた、ともちがう無機質な声音がナギの物だととっさにわからなかった。
はっと顔を上げれば、ナギの秀麗な顔から感情らしい感情がすべて抜け落ちていて、赤の瞳はひどく無関心にわたしを映している。
これは、だれ?
「姉者がいるのであればもう用はない」
「妾がいるから? んふふ、そっか!」
とたん、興味をなくした鬼灯さんが、黒の打ち掛けと赤い髪をひるがえすのを呆然と見送る。
何が起きているのか理解できなかった。
「さっ、早く行きましょ! 話は山ほどあるんだから!」
そうして鬼灯さんが腕を絡めるのをごく自然に受け入れるナギに、なぜか足下がなくなったかのような衝撃を感じる。
と、ナギが一瞬だけわたしの方を向いて片手をかざしたとたん、周囲の空間が溶け崩れだした。
隠世からはじき出されようとしてるんだ。
姉を抱きしめながらも、わたしはとっさに遠のいていく赤と黒の人影に手を伸ばす。
「ナギ――――!!」
届くはずがないとわかっているのに、そうせずにはいられなかった。
案の定、赤と黒の人影は、隠世の波に消えていき、わたしは突き飛ばされるように離れていく。
投げ出されたそこは、鬱蒼と生い茂る木立に囲まれた、石畳の上だった。
姉の体をかばって転がったわたしがのろのろと顔を上げれば、それほど遠くない場所に、見覚えのある瓦葺きの門がある。
水守本家の門だ。
空からは止めどなく雨がそそぎ、たちまち水色のスカートも髪も重く張り付く。
ぱしゃんっと、はかない音とともに甘ロリ服が光の粒に変わったとたん、どっと体が重くなった。
元の制服に戻った端から雨に打たれてずぶぬれになったけど、どこか遠かった。
だけど今見たことが、聞いたことが、起きたことがよくわからなくて、体中を様々な感情が荒れ狂って頭がくらくらした。
だけど、一つだけわかるのは、ナギがそばにいないことだ。
ずぶぬれにする雨とは違う、熱い滴が一筋だけ頬をつたった。
「な、ぎ……」
遠くで複数の人影がこちらに近づいてくるのを、ぼんやりと感じながら、わたしの意識は真っ暗な闇に落ちていった。




