逃げるが勝ちというけれど
仕事を押し付けてきた巫女さんの姿が見えなかったので、わたしはさっさと掃除道具を専用の倉庫へ片づけると、急いで本家を後にした。
徒歩三十分の山道を下り、そこから電車に乗って1時間半。
ようやく我が家の最寄り駅にたどり着いた。
都会とは言い難い地方都市だけれど、割と都心に近いという好立地で、何より通う高校が徒歩圏内だ。
そのころにはとっぷり日が暮れていたけど、わたしは疲れた体を叱咤して、明るく照らされていた駅前広場を歩き始めた。
途中のスーパーで夕飯代わりの弁当を買い、駅前広場から離れれば一気に人通りが絶え、ぽつりぽつりと街灯だけが頼りなくともる夜道になる。
家を借りるときにあまり姉に迷惑をかけたくなくて、家賃と学校までの距離だけでさっさと決めてしまった。
でも、夜道の暗さを事前にリサーチしなかったのは、少しだけまずかったなと思う。
警戒は怠っていなかったつもりだったけど、四つ辻にさしかかった瞬間、ぞくりと背筋を這う悪寒を感じた。
同時に春の澄んだ風に異質な、枯れたような重く息苦しい空気――隠世の気配が混じる。
間を置かず、かつり、とコンクリートをひっかいて後を付いてくる足音に、わたしは全力で平静を保った。
かつり……かつり……
獣のような、爪の音が妙に耳に響いて、こちらにまで獣臭さがただよってくる。
傍にいないはずなのに、荒い息づかいさえ聞こえてきた。
それでも、振り返ってはいけない。
立ち止まってはいけない。
気づいていると、気づかれてはいけない。
まだ、隠世と現世が混じっているだけだ、完全に隠世へ迷い込んだ訳じゃない。
一人暮らしのために借りたアパートには、あと五分ほどでたどりつく。そこまでの辛抱だ。
そうして密かに自分を奮い立たせ、わたしはずり落ちかける重たいボストンバックの肩紐を直そうとした。
その時、手に持っていた弁当のレジ袋が汗で滑って取り落としかけ、思わず立ち止まった。
立ち止まって、しまった。
まずい。
生臭い気配がぞふりと近づいた。
思わず顔を上げた先に居たのは、闇夜よりも黒い何か。
辛うじて四つ足の獣に見えるけど、大きさは一定せず、煙のように揺らめき形を変えている。
なのに、目玉が虚のように空き、口に当たる部分はくっきりと血ぬれのように赤かった。
その身から溢れる腐臭のようなよどんだ瘴気に、わたしは思わず口を覆う。
闇に潜む妖によく目を付けられ、そのたびにさんざんな目に遭ってきたから、出会えばそれがどういう性質のモノか、わかる。
これは、穢れをため込んで禍霊となりかけている妖だ。
禍霊は目があった瞬間、大きく跳躍して飛びかかってきた。
「……っ!!」
わたしはとっさにポケットから包みを取り出して、禍霊に向けて腕を振るった。
いつも持ち歩いている神前で祓い清められた塩が、ぱっと広がりきらきらと散っていくのを確認する間もなく、わたしは荷物を全部投げ捨てて走り始める。
後ろでギャンッと悲鳴が聞こえた。
怒り、憎しみ、悲しみ、恐怖、不安など負の感情から生まれる陰の気が土地によどむと、妖の領域である隠世と人の世界である現世との境界を曖昧にする。
そうして陰の気に惹かれて現世にやってきた妖は、現世の穢れをため込み、破壊の権化となる禍霊へと変じるのだ。
人々に危害を及ぼすそれらを祓い、隠世へ送り返すために水守の技があるのだが、へっぽこなわたしには使えない。ひたすら逃げるだけだ。
霊力も乗せてない清め塩など、気休めにしかならない。
だけど、時間稼ぎをしている間にアパートまでたどり着けば、そこは姉が張り巡らせてくれた結界内だ。
当代一とうたわれる、姉の結界をやぶれる妖などそうはいない。
足に力を込めたわたしだったが、荒い獣の息づかいがすぐそばから聞こえ、もう禍霊に追いつかれたのだと知った。
スカートが引っ張られてたたら踏む。
そのまま首を振られて道路に投げ出された。
痛みに耐えつつ振り仰げば、ゆらゆらと揺らめく獣の赤い口が、スカートをくわえ込んでいた。
現世では実体を持たない妖だけど、隠世の境界が曖昧になっていること、こいつが禍霊になりかけていることで、現世のものにも触れるのだろう。
「やっ……」
赤い口の間から瘴気と生臭い臭いと共に、たらりと唾液が垂れるのがみえて、わたしはひゅっと息をのむ。
陰の気に惹かれて現世へやってきた妖は勿論、禍霊と変じたモノは残虐なものを好む。
水守によって長年教えられた、禍霊におそわれたモノの陰惨な最期が脳裏をよぎった。
せっかく、新しい生活が始まるのに。
生まれ変われるかもしれないって思えたのに。
喰われるのか、こんなところで。
またスカートが引っ張られて、にじむ涙に目をつぶる。
ふんわりとした香の香りがしたかと思うと、誰かの腕にさらわれた。
はっと仰ぎ見れば、闇よりも黒い髪をした自称式神の男が、炯々と光る赤色で冷然と禍霊を見下ろしていた。
「依夜に触れるな」
低く、はうような声音に、全身が粟立った。
だけどその威圧は、妖にとってはわたしが感じた以上の物だったらしい。
哀れっぽい鳴き声と共に、闇の中へ消えていった妖を、わたしは呆気にとられて見送った。
いつの間にか、隠世の気配も消えていた。
「に、逃げられた?」
「隠世とのつながりを断ったでな。自ら現世に出てこられるだけの力はないのだろう。もうぬしを狙うこともあるまい」
思わず息を吐いたわたしだったけど、はっと我に返って、すぐに蔵に閉じこめたはずの自称式神から逃げだそうともがいた。
「お、おろしてっ! ていうか隠世でもないのに何でさわれるのよ!?」
水守は半分異界に通じていて霊力に満ちているから不思議に思わなかったけど、ここは現世だ。
それなのに人一人を平然と持ち上げられるなんて一体どういうからくりなのだ。
「わしは超強い式神だからの。現世でも自在なのだ。落とすことはないから安心せい」
「そういう意味じゃないからっ」
「ならおろす必要があるかの」
心底不思議そうな式神に、わたしは顔から火が出そうだった。
さして親しくもない男に抱き抱えられていると言うのもそうだけど、何より、最近増えた気がする体重とか大きいお尻とかが気になるなんて口がさけても言えるか!
「とにかくおろしてよっ!」
まだ深夜にはかからぬ時刻とは言え、近所迷惑にならぬよう声を潜めて抵抗すれば、なぜか式神は納得したようにうなずいた。
「ああ、体型を気にしておるのか。ふむ、健康的だと思うがのう。すっぽりと収まる大きさといい、ぎすぎすに痩せてしもうておるより、こちらの方がわしは好みだ」
「ッッ……!!」
支えている腕で器用に太股をなでられたわたしは、式神の秀麗な顔に平手を見舞った。
かなり良い音がした。