わたしはここにいる!
直後、わたしはナギに抱えられて飛んでいた。
だけどすぐに姉が一足飛びで肉薄してくる。
姉の口が裂けたような笑顔が見え、腕が振りかぶられる。
体がひねられた拍子に黒い袖が破けていくのが見え、同時に鈍い振動を感じた。
ナギが姉を蹴り飛ばしたのだ、と気づいたときには姉は広間の端まで飛んでいっていた。
距離をとったとたん、ナギが扉に向けて手をかざすと、勢いよく扉が開く。
その先の廊下を一気に走り始めたナギに向けて、わたしは訴えた。
「ナギ下ろして! わたしが浄衣を使うから!」
「だめだ」
「なんで!?」
にべもなく却下されて、それこそ訳が分からなくて鈴を取りだそうとしたら、額にナギの指がふれる。
素早く文字を書かれたと思った瞬間、体が動かなくなった。
目を見開くわたしに、走る足を止めないままナギは言った。
「今、ぬしをあやつに神薙少女と悟られるわけにはいかぬ。姉の覚悟を無駄にするな」
「それって……!」
ぞぶりと瘴気の気配を感じ、ナギが身をひねった。
瞬間、先までいた場所を、瘴気の固まりが貫いていく。
じゅう、と溶け崩れるような音とともにその場が目に見えるほど穢れてゆくのを目のはしに捕らえる間もなく、鬼が迫ってくるのが見えた。
ナギが腕をかざす。
鬼の爪が流れた瞬間、はたはたとわたしの顔に何かが飛び散った。
ナギの腕は瘴気によって焼けただれ、赤々とした血が滴っていた。
ナギの血って、赤いんだ、と、場違いに思った。
「ひっ……」
悲鳴を上げる間もなく、ナギが傷ついた腕を無造作に横薙ぎにふるう。
飛び散った血が、無数の槍となって姉に襲いかかった。
あり得ない身体能力でよけていくのに、恐ろしいのか安堵しているのかよくわからなかった。
距離をとられた隙に、またナギが扉を開ける。
だけど、さっきと違う扉だったはずなのに、そこをくぐれば茨の玉座がある元の広間に戻っていた。
「やはり、だめか」
「ナギ、血がっ……」
「大事ない」
初めてナギが傷つくのを見て、血の気が引いているのが自分でもわかった。
自分でも震えているとわかる声で訴えれば、ナギは流れる血で床へ無造作に呪陣を書きあげて、わたしをそこへ下ろした。
ナギの手が離れて体が自由になったわたしだけど、詰め寄ろうとしたら、呪陣によって形作られた結界にはばままれた。
「ナギっ! 出してよ!!」
「そこでおとなしくしておれ。すぐ、とは行かないまでも、わしは負けはせんでの」
「お姉ちゃんをどうするの!?」
一瞬だけ、ナギは言葉を詰まらせた。
「それが、あの娘の望みだ。良いかぬしよ、今回だけは使うでないぞ」
ナギが念を押した瞬間、どんっと、扉が乱暴に開かれる。
『無駄ですよ。ここは私の領域、私が許可しない限り道は開けません』
奇妙に重なった声で、無貌がそう言うのが聞こえた。
今やその顔に姉の面影はない。
般若のごとく目は見開かれ、口からは唇が裂けんばかりに牙がのぞき、風もないのにゆらゆらと髪がうごめいている。
『おや、妹さんは隠されてしまわれたのですね。まあいい。我が主の材料にはならないかもしれませんが、あなたのような強いものは私のコレクションに入れたいくらいです』
「かように他の者の姿を借りてしかわしに相対できぬ者に、わしを扱えるかの?」
ナギの軽い挑発に、鬼の周囲の空気が一度二度下がった気がした。
『ふふ、その言葉、後悔なさらないように』
「御託はよい。おぬしには聞きたいことが山ほどあるでな。くるがいい」
袖を切られ、腕から赤々と血を垂らしながらも悠然とするナギに、鬼は一気に瘴気を操り解き放つ。
それにナギが応じ、たちまち激しい術と体技の応酬になるのを、わたしは結界の中で見ているしかなかった。
黒い瘴気と、赤い血が混じったナギの霊気が激しく交錯していることしかわからないけど、この結界は瘴気も、衝撃波も通さなくて、まるで一枚ガラスを隔てた世界を見ているようだった。
でも違う。これは今現実に起こっていて、ナギと姉が本気で命の取り合いをしているのだ。
結界の壁を何度も叩いて叫びなら、頭の中では必死にナギの言葉の意味を考えていた。
ナギが神薙少女になっちゃだめって言ったのはたぶん、無貌がいるからだろう。
無貌にわたしが神薙少女ってばれたらいけないから。
でも何で、姉が身代わりになっているの?
ナギはいつから姉が気づいてるって知ってたの?
わからないことだらけでも、これだけはわかる。
姉はどこかでわたしが神薙少女と知って、わたしに危険が及びかけてると知ったから、代わりに解決しようとしていたんだ。
わたしが何もいわなかったから。
わたしが不用意に退魔業なんてやり始めたからだ。
こうなったのは、全部、わたしのせいだ。
届かない声に、喉が痛い。
破れない結界で、拳が痛い。
でもお姉ちゃんとナギはもっと痛い。
姉はたぶん、鬼になった上で、無貌に憑かれて潜在能力を限界まで引き出されている。
無貌は姉の知識で穢れた呪力を使って術を繰り、さらに人間離れした体術でナギを防戦一方に追いやっていた。
どんな妖や禍神に相対したときでさえ、ほぼ無傷でいたナギが、みている間にもどんどん傷ついていく。
このままじゃナギが消滅する?
いや、違う。
鬼になっていたとしても、なったばかりじゃまだ姉の体は慣れていない。
こんな人間離れした動きをしながら、術をいくつも繰り出し続けるなんて体が持たないはずだ。
ナギは姉の自滅をねらってる?
こうして見ていると、ナギは致命傷になるような攻撃をしていないように思えた。
迷ってる? それとも何か別の理由?
……そんなのどうでもいい。
わたしは勝手に流れていた涙を乱暴に袖で拭った。
このままじゃ、ナギも姉もどちらかが倒れるまで争い続ける。
「……ふざけんじゃないわよ」
なんで、決定的なところを言わないのよ。勝手に解決しようとするのよ。巻き込んだんなら、最後まで巻き込みなさいよ。
わたしが原因なら責任くらいとらせてよ!
赤く腫れ上がった両手に目を落とす。
ナギが何を考えてやるなと言ったかはわからない。
もしかしたら悪化させるだけかもしれない。もっと悪いことになるかもしれない。
言いしれぬ不穏な恐怖は、わたしの胸にもひたひたと押し寄せている。
でも、それでも。
どちらかを失うなんて考えられないのだ!
わたしは胸に広がる恐怖を全力でねじ伏せて、勢いよく柏手を打った。
「力を貸してっ」
手のひらの熱い感触とともに空中からにじみ出たハリセンを、握るや否や袈裟懸けに振り下ろした。
ガキンッと鉄にでも当たったかのような音と感触がして弾かれたけど、初めてひびが入った。
「壊れろおおぉお!!!」
かまわずわたしがもう一度振り下ろせば、ガラス細工が壊れるような繊細な音と共に結界が崩れ去った。
その音にナギと鬼が手を止めて、ばっとこちらを振り向いた。
こちらを向いたナギは、私を責めるような、しょうがないとでも言うようなあきらめの表情をしていた。
『おや、そのようなところに隠れていらっしゃったので。自ら出てきてくださるとはありがたいばかりですね』
まだまだ余裕のある無貌に返事をする代わりに、わたしはポケットから鈴を取り出して目の前に突き出した。
鬼が戸惑う気配がする。
これを振ったらすべてが台無しになる。
こんな時でも羞恥心とためらいが頭をもたげる。
それでも、後悔はしない。
「よく見てなさいよ、無貌」
わたしは鬼に見せつけるように、手首をしならせた。
ろん。
あふれる光は清涼だ。
重だるく感じられていた瘴気が一気に払われ、全身を温かい感覚が包み込んでいく。
そうして光が静まれば、わたしは淡い炭酸水のような甘ロリ服に変わっていた。
こつり、と青いエナメルパンプスの踵を鳴らしたわたしは、ハリセンの先を驚いた表情をする鬼へ――無貌へ突きつけた。
「わたしが、神薙少女よ」
絶対、お姉ちゃんを取り戻す。




