隠世の館
思わずつむっていた目を開けると、そこはもう屋上の踊り場じゃなかった。
広々とした室内ではあったけど、上につられたシャンデリアといい、壁際を飾る時代がかかった調度品といい、どこかの洋館の大広間のようだった。
パーティができそうなほど広いけど、テーブルのたぐいが綺麗に片づけれているからよけいに広く思えて、奥には舞台でもあるのか、一面の壁は豪奢なカーテンが下ろされて見えない。
だけど、あたりに満ちる背筋がぞわりとするような生ぬるい空気が、ここが隠世だと教えてくれる。
それに加え、ひたひたとかすかな瘴気が漂っていた。
「ぬしは妙に度胸があるの。わしを呼ばずに妖と対峙するとは」
頭上から落ちてきた、あきれたようなナギの声に、わたしは憤然と言い返した。
「だ、だってわかんなかったんだもん。ほんとに人間みたいな気配してたし」
でも、弓子たちの付き添いを断ったのは、我ながらほんとにいい判断だったと思う。
でなければどんなことになってたかわからなかった。
いまさらながらぶるりと震えていれば、ナギは少し、後悔でもしているように眉を寄せた。
「それは否定できぬな。あのようなものが入り込んでおったと気付かんかったのは、わしの失態だ」
「でも呼んだらちゃんと来てくれた!」
それで十分だ、と思いを込めて言えば、怖い顔をしていたナギの表情がゆるむ。
なんかもうしょうがないと言った感じで、なんか微妙に不本意だ。
さらに言い募ろうとしたとき、すっと、ナギに腕で庇われた。
「少々予定が狂いましたが、一度にこちらへご招待できたのは僥倖だったかも知れません」
目の前でゆらりと立ち上がったのは、長谷川先輩ではなく、一部の隙もない燕尾服に身を包んだ男性だった。
ナギと並んでも見劣りしない長身に、髪を丁寧に撫でつけ上品とすらいえる物腰だったけど、わたしはその顔を見て息をのむ。
「ふふふ、私の顔がわからないのが、そんなに驚きですか?」
にんやりと笑ったその男の顔は、のっぺりとした黒に塗りつぶされていたのだ。
目も鼻も口も眉も、いっさいなく、それなのに笑っている、ということだけが伝わってくる。
「私の特技というよりも、呪いのようなものでしてね。少々痛手を食いましたので、とっさに顔を張り付けることができなかったのですよ。失礼」
さっと白い手袋で包まれた手で顔をなでたとたん、若い青年の顔があらわれる。
まるで丹誠込めて作った人形のように綺麗で繊細な面立ちは、なぜかどことなくナギに似ている気がした。
「さて、このたびは私どもの屋敷へいらしていただき、まことにありがとうございます。私はこの屋敷を管理しております、無貌と申します」
「急につれてきてなにを言うの! 真由花ちゃんを返して!」
いっそ優雅なまでに丁寧に頭を下げた無貌に、わたしは声を荒げたけど、ぽんと、頭に大きな手が乗せられた。
「真由花は無事だ。少々怖い思いをして衰弱しておるが、家に送り届けてある」
「……やはりあなたでしたか」
やれやれといった様子で無貌はつづけた。
「せっかく私が時間をかけて配置した駒を壊してしまわれたただけでなく、集めた資材まで根こそぎ強奪して行かれるとは、やはりあなたはやっかいだ」
口振りの割には、肩をすくめるだけの無貌の言葉に驚いたわたしが顔を上げれば、ナギはちらりとこちらを見下ろしていた。
「ぬしに心配をかけたくなかったでな、黙っておいてすまぬの」
抗議の言葉を飲み込んだわたしは、こみ上げてくるふわふわとした安堵にほっと息をつく。
やっぱり、ナギはわたしのために動いてくれていた。
「真由花のほかに捕まっておった娘ごが予想外に多くての。ちいと手間取って、ぬしの危難に遅れた」
「別にいい。でも今度はちゃんと言ってよ」
そこまで言ったところで、わたしはナギの言葉の意味に気がついた。
「女の子が多かったって、まさか」
「あやつが、ぬしの姉が追っておった『神隠し事件』の実行犯だ」
はっと前を見れば、無貌は困ったような表情をしつつもうろたえる風もなく、それが本当であると知る。
「適格な娘の目星はサイト上でつけておりましたし、慎重を期して、定期的に調達の場は変えていたのですがねえ。まさか人の術者に見つかるのは誤算でした。ですが、不測の事態をどうにかするのも執事の腕の見せ所ですし、今では僥倖でしたよ」
無貌がこつん、と革靴の踵をならしながら部屋奥のカーテンの方へ向いたとたん、足下から闇よりも黒い影があふれ出す。
「さあ、これで役者も観客もそろいました。幕を開けましょうか」
身構えるわたしをよそに、影が走ったのは部屋奥で、重く垂れ下がるカーテンをぱっとあげた。
タイミングを計ったかのようにぱっと明かりがともった瞬間、わたしは信じられなくて息をのんだ。
舞台の上にしつらえられていたのは、おとぎ話の王様が座っているような立派な椅子で、そこに座らされて茨にからめ取られるように戒められていたのは、水守の家にいるはずの姉だったのだ。
所々血に汚れ、浄衣の羽織も破けてしまってぼろぼろの姉が、力なくぐったりとしている姿に最悪の事態を想像して血の気が引く。
「う……」
だけど、姉はスポットライトを浴びたせいか、まぶしそうに眉をゆがめながら目を開けて、心から安堵の息をつく。
「お加減はいかがですか」
「あんたの、顔は、見飽きたわ……」
吐き捨てるように言った姉に睨まれた無貌は、なぜかうれしそうに表情を緩ませる。
それに弱々しくも、顔を背ける姉がわたしに気付いて目を見開いた。
「お姉ちゃん!」
「依夜、なんでっ」
今すぐ走り寄りたいのに、ナギの腕が私の体を押さえこまれた。
「ナギっなんでで止めるの!? 離してっ」
「だめだ。ぬしを押さえられるわけにはゆかぬ」
固められた腕を何とかはずそうとしている間に、姉は焦りと怒りを露わに無貌を振り向いていた。
「さすがにお姉さまは水守の次期当主だけありますね。今の時代に、あなたのような輝く魂を持った術者に出会えてうれしいですよ。――非常に穢しがいがある」
「何で依夜がいるの!? 用があるのは私だけでしょ!?」
だけど、叫んだとたん姉の顔が苦悶にゆがみ、茨から毒々しいまでに美しい花が咲いて、わたしは絶句する。
無貌は笑みを深めて姉を戒めている茨を愛おしげに撫でた。
「この薔薇、美しいでしょう? あまやかな怨嗟と恐怖を糧に咲く花なのですよ。我が主人が片手間に改良した種でしたが、さすがとても役に立つものを生み出される」
しみじみとおぞましいことを語った無貌は、私たちに視線をやる。
その表情には罪悪感もかけらもなく、おいしそうな食材を見つけた時のような無邪気な喜びがあるだけだ。
本当に妖らしい、傲慢で暴虐的な論法に背筋が震えた。
「ですが、術者の霊力には弱いという弱点がありましてね。用意していた苗をいくつも枯らしてしまいましたが、いちど根付けばほらこの通り。術者は極上の糧となるのです」
うれしそうに語る無貌だったけど、不意にその表情をすべて落とした。
「ですがまだ足りません。私の被った被害の報いは存分に受けてくださらねば。ねえ、覚えがありますでしょう? 神薙少女」
「っ!?」
「神薙少女」の単語に思わず反応してしまったけれど、無貌が見ているのはわたしではなく姉だった。
しかも姉はただ黙って無貌を見上げるだけだ。
まるで、自分が神薙少女だってことを受け入れるみたいに。
その情景に、頭が真っ白になった。
なんで? 神薙少女はわたしなのに。
「ねえ、私の材料調達を何度も邪魔をしたあげく、さらに手塩にかけて堕とそうとしていた神を禊がれてしまわれたのは、かなりの痛手でしたよ? おかげで私、久しぶりに怒られてしまいました」
怒られた、という割にはうっとりとする無貌は不意に腕を払う。
一気に広がった影が、何かをくるみこむと、影の中へ引きずり込んだ。
「無駄ですよ、式神。私は元々弱い妖でしてね、とても慎重なのです。ここは私の領域ですから、そうそうに遅れはとりませんよ? もう少し、私のお話を聞いていただかなければ」
とぷり、とまるで水面のような波紋を残して消えていった影と、頭上でほんの少し気配が変わったことで、ナギが何かをしたけど、阻まれたことが理解できた。
ナギの攻撃をあっさりと受け流した無貌は、役者のように身振り手振りを交えつつとうとうと続けた。
「さて、仕込みを台無しにされて腹立たしくもありましたが、行幸でもありました。そのような強力な術者でしたら、良き玩具としてきっと我が主はお気に召してくださるでしょう。なので私は考えました。その術者、神薙少女を捕らえ、素敵な絶望を味わっていただいた後、主に献上しようと」
「ほんと、どっから見てたのよ。私が神薙少女だって」
吐き捨てるように言った姉に、わたしはますます訳が分からなくなる。
どうして、お姉ちゃんも口裏を合わせるの。
「ちょっと待って、何で! 神薙少女は……」
わたしなのに!
その叫びは、ナギの手のひらと姉の射抜くような視線に遮られた。
その弱っていても強い視線は、紛れもなく制止の意味を含んでいて、いやが上にも悟った。
お姉ちゃんは、わかっていて言っているんだ。
わたしが神薙少女と知って庇っている!
それにと、わたしが勢いよくふり仰げば、ナギはまっすぐ前を向いていたけれど目の端でちらりとわたしと視線を合わせる。
明らかに黙っていろという意味のそれに、ナギも姉が気付いていることが知れて、ますます訳が分からなかった。
いつ話したの? どうして言っちゃだめなの!? お姉ちゃんは間違って捕まってるのに!!
「ふふ、私にも特技というものがありましてね。こうして、」
無貌は、私たちの無言のやり取りには気づかなかったらしい。
楽しげにほほえむ無貌が姉の頬にふれた瞬間、姉は茨を引きちぎる勢いで立ち上がる。
一瞬、自分で拘束をほどいたのかと思ったけれど、姉の表情が忌々しさと痛みにしかめられていることで、そうでないと気付いた。
「相手の顔に触れることで、自在に相手を操ることができるのです。まあ、意志まで乗っ取るには影に同化しなければならないという難点がありますが。自由に操るだけでしたらこれで十分です」
「ようやく、わかった……わよ。この間のっ……牛鬼は、あんただったって、訳ねっ」
「ほんとうに、あの牛鬼は強さといい、ネームバリューといい、良い宿主でしたのに、あなたに壊されたのはかなりの痛手でした」
体を小刻みに震わせながら言う姉に、無貌はやれやれといった風にため息をついた無貌はわたしを見た。
「ですが、神薙少女を見つけた上にあなたという弱点も見つけられた。さらに妙案も浮かんだのです」
楽しげに笑う無貌は、懐から何かを取り出した。
その指先に摘まれた小さくて黒い玉を見た瞬間、全身の肌が粟立った。
「それっ……!」
「ええ、これは禍玉と言いましてね。簡単に妖の力を増幅することができるのです。 ……まあ、身に余ればあっさり呑まれて禍霊化してしまうのが難点なのですが、それでも欲しがる妖は多い。大きさにも寄りますが、これを身に含めば神ですら堕ちる。我が主の玩具の一つですよ」
「まって、何するの」
猛烈に嫌な予感がした。
「さて、問題です。これを人が含めばどうなるでしょうか?」
ほほえんだ無貌は無造作に姉の顎をとると、止める間もなく、その黒い玉を姉の口へ落とした。
体の自由を奪われている姉があっさりとその玉を飲み込むのを、わたしはナギの腕に阻まれてみることしかできない。
「ぐっ……!!」
体を揺らめかせる姉は一瞬、わたしを見てほほえむと、ナギを射抜くように睨む。
「わかって、るわね……!」
ナギがうなずくのが気配で分かった。
そんな姉がとうとう膝をつくのを、無貌が感嘆と哀れみのこもったまなざしで眺める。
「さすがに修行を積んだ術者です。普通でしたら即死の瘴気も耐えられてしまう。――それが、逆効果ですのにね」
「あぁっぁぁああああ!!!!」
瞬間、姉が身をよじる勢いで悶え苦しみはじめ、のどを焼き尽くすような悲鳴が上がった。
その全身からぞぶりと瘴気があふれ出す。
禍々しい瘴気はみる間に姉の体を覆い尽くしたとたん、ばさりと髪が伸び、額からはにゅうっと何かが生えてくる。
それは、黒く、鋭く、禍々しい、二対の角だった。
「あなたならご存じでしょう? 人は怨念によって瘴気を呼び、瘴気に乗まれた人は妖に……鬼になる。元が霊的に強い人間であればあるほど妖としても深く堕ちる」
だらりと垂れ下がる両手の先には刃のように鋭い爪が並ぶその、姉だった何かの背を、無貌は優しく撫でながら、わたしを見てほほえんだ。
「はじめはあなたにこの役を任せようと思っていたのですが、彼女自身でもかまわないことに気づきましてね。神薙少女が、最愛のものを殺す。それは甘美な絶望だと思いませんか? そして最愛のものをその手に掛けた瞬間、私は最高の人形を手に入れるのですよ」
心底楽しげに笑った無貌がその体を、姉だったものの影に沈ませる。
『さあ、楽しい舞台の幕開けです』
無貌と姉が重なったその奇妙な声が響くと、ぞぶりと瘴気が広がった。




