だいじな日常
背の高い木々が生い茂る中、わたしは息を切らして走っていた。
下駄をはいていた足が木の根にひっかかって転んで、おきものがあっという間にどろだらけになる。
すりむいた膝が痛かったし、ぼろぼろこぼれる涙で目の前が見にくかったけど、止まりたくなかった。
うしろからは、みんなの笑い声が聞こえてくる。
わたしがいないだけで、あんなに楽しそうになった。
胸の奥がぎゅうっとなって、また涙があふれてくる。
あそこにはいられない。でも、おうちにも戻りたくない。
あの大きなおうちがわたしの家だって言われたけど、大きい人たちがたくさんいて、わたしを怖い目で見てくるのだ。
おばあさまはあんまり怖くないけど全然会えなくて、おねえちゃんは”しゅぎょう”で忙しくて、いつも一緒にはいてくれない。
変なモノの気配がたくさんする広い部屋の中で一人でいなきゃいけなかったときを思い出すと、どうしても帰りたくなかった。
でもひとりぼっちはさみしい。
おうちの中だって怖いけど、森の中だって本当はこわい。
ひみこちゃんみたいになりたいけど、木の葉っぱがざわざわしたり、草の影のくらいところからじっと見られているのを感じると、勝手にからだがふるえてしまうのだ。
ひみこちゃんとにてるおきものを着ていなきゃ、動けなくなってしまいそうだった。
でもそれも泥だらけになってしまった。
お膝が痛くてたまらない。
どこかでやすみたいな。
ふと、見つけたのは、石を積み上げて作られたまるいなにかだ。
何だろうと思って近づいてみると、たくさん積みあがった葉っぱの山を上ったら、縁に手をかけられた。
のぞき込んでみると、真っ暗な奥がきらきらと輝いていた。
まるで夜のお空みたいで、ぽうっと見とれた。
そういえば、お父さんとお母さんがいなくなっちゃっちゃったとき、おねえちゃんに聞いたら「二人はお星様になったんだよ」っておしえてくれた。
きらきらとしている粒はお星様みたいだ。
あそこにいるのかな。
ぐっと身を乗り出したら、くるりと体が回る。
あっと思ったときには落ちていた。
落ちたのは今さっきなのにあんなにお空が遠い。
真っ暗だ。
丸くくり抜かれたお空が見える中、おなかがさっと冷えているような感じにふと考えた。
わたし、お母さん達と同じところへ行くのかな。
お姉ちゃんをおいて?
ぼろっと涙がこぼれる。
くんと誰かに服を引っ張られた。
首のうしろのところ。お守りだと縫い込んでもらったひものあたりだ。
いろんな色の糸がきれいに束になっていて、とっても気に入っていたのだけど。
そのまま後ろに引っ張られたと思ったら、とぷんと、水の中にはいる。
すると、急に上へあがっていった。
おかしいな、お水の中にいるのに息ができるし、わたしは落ちていたはずなのに。
そのとき、暗い中からぱっと明るくなった。
目の前にあったのは、赤々とした二つの宝石だった。
吸い込まれそうなほど透き通った赤色はきらきらとしていて、わたしは思わず見とれた。
なんてきれいな色なんだろうと、手を伸ばして、そうしたらひんやりとした頬にふれて。
その色があるのが人の顔だと気づいてびっくりする。
信じられなくてわたしがぴたぴたとさわっても、その人は顔色一つ変えない。
この人はお人形なのかしら、と首を傾げたら。
鼻がむずむずした。
「へくちっ!」
自分がぬれれてしまっていることにいまさら気づいて、気がついたらとてもさむくなった。
それにちょっとくびがくるしくて、宙吊りになったままとふるふるとふるえていると、びっくりするくらいきれいなその人はただ、ゆるくまばたきをした。
きれいな赤が見えなくなるのが残念だな、と思った。
*
わたしは明るい教室の窓から、薄黒い雲からしとしとと降り注ぐ雨をぼんやりと眺めていた。
季節は本格的に梅雨に入り、雨はしっかり降ったりやんだりを繰り返していて、じっとりと湿気を運んでくる。
唯一の救いは、それほど気温が高くないことかと思うけど、それでもじめっとした空気は気分がいいものじゃないから、教室内はちょっと重だるい雰囲気になっていった。
そうだよなあ、服もよく乾かないし。
そういえば、あのときも、服は全然乾かなかったんだよね。
わたしは頭に鈍い重みを感じながら、おぼろげな記憶をたぐった。
たぶん、あれは本家に引き取られてそう時間はたってないときのことだ。
水守本家の広い敷地には丁寧に手入れされた庭園もあれば、訓練にも使われる、森のように草木が生い茂る区画もある。
後者は水守の子達にとって遊び場になっていて、人数が集まればよく鬼ごっこやかくれんぼをしていた。
修行をする姉とよく離れることが多くなっていたわたしも、その子供達に混ざるように言われてつれてこられていたんだ。
けれど、新参者のわたしはなじめずによく仲間はずれにされていた。
今思えば、水守の子達の間で主流だった霊力や札を使った遊びができなかったせいもあったと思う。
だからうまく遊べないわたしは、いたたまれなくなって一人で森に入って歩き回ることが多かったのだ。
あの情景は、そのときのだと思うのだけど、詳しく思い出そうとしても、つきりと頭痛がしたとたん記憶はぼんやりと霧のようにおぼろげになってしまう。
それでも数日前のナギの会話以降、断片的に思い出してはいるけれど、決定的な記憶は未だに闇の中だったりした。
もどかしい、と思う。
だってナギのあんな表情は初めてで、もう数日たつのにあの表情が頭から離れないのだ。
なのにナギの様子は意外なほど変わらない。
わたしに早く思い出せとも言わず、姉が去ったことで解禁になったパソコンでいろいろ堪能していたり、時々ふらりと姿を消したり、いつも通りわたしをからかって遊んだり。
禍霊や妖がぱったりと出現しなくなったから浄衣の出番もなく、それはちょっと残念そうにしているけど、わたしにとっても平和な日々が続いていた。
願い続けた理想的な毎日で、わたしだって楽しい。
だけどなんとなく落ち着かず、胸の奥がざわざわとするような感じが続いていて、なんだか釈然としないのだった。
「あーもう、頭がぐるぐるする……」
「どうかしたの? 依夜」
「ふぁっ!」
机に突っ伏していると、後ろから声をかけられた。
思わず背筋を伸ばせば、お弁当の包みをもった弓子達が不思議そうに見ている。
そうだもうお昼休みだった。
慌てて机を動かすのを手伝ってお弁当を広げれば、いつも通りのお昼ご飯だ。
わいわいご飯を食べながらおしゃべりするのにも、だいぶ慣れた気がする。
やっぱり、楽しいなあ。
「相変わらず依夜の作るお弁当はかわいいわ……梅雨に入ってきて痛みやすいのに」
「うん、だから梅とかショウガとかしそとか、抗菌作用のあるものを使ってるんだ」
「しっかり夏に向けて準備しているなんて、さすが依夜クオリティね。安定しているわ」
戦慄顔でぱくりとしそ巻きを食べる凛ちゃんに、わたしはちょっと照れる。
いそいそとしそご飯を口に運んでいると、弓子が小首を傾げて聞いてきた。
「で、依夜はなにが気になっていたの」
「えっと大したことじゃないの。ちっちゃい頃なにをしていたか全然覚えてないなあって気づいて。思いだそうとしていただけだから」
「ちっちゃい頃って、どれくらい?」
「うーんと、4、5歳くらい、かなあ」
確か水守本家に引き取られたのがそれくらいだったから、間違ってないはず。
すると真由花ちゃんと凛ちゃんがそれぞれ考えを巡らすような表情になった。
「ちっちゃい頃かぁ。わたしもあんまり覚えてないなぁ」
「そういうものじゃないかしら。よっぽど強烈な記憶でもなければ、それくらいの年齢で覚えていることって少ない気がするわ」
二人がそれぞれ言うのにそういうものか、と気が抜けた。
ナギと会ったことがそれほど強烈ではなかったから、記憶に残らなかったっていうこともあり得るんだ。
でもそうなると、ちっちゃい頃のわたしってずいぶん薄情ってことになるなあ。
若干落ち込んでいると、弓子がふと思いついたように口を開いた。
「あ、でも小さい頃って何でこんなに好きだったんだろうって思うものない?」
「あるある! やたらこだわったりするよね! わたし、髪の毛いじるのがすっごく好きで、お母さんにねだって何度も三つ編みにしてたなあ」
真由花ちゃんがきらきら言うのに、凛ちゃんもそういえばと思い出す風だった。
「私はブドウを食べるのが好きだったみたいよ。おなかを壊してるのに食べたがって大変だったって以前母が言っていたわ」
今ではそうでもないんだけど、と首を傾げる凛ちゃんはわたしのほうをむいた。
「水守さんは? 何か小さい頃に好きだったものあった?」
「たぶん、あったと思うんだけど……」
「なになに、しりたい!!」
真由花ちゃんに身を乗り出されたわたしは、迷いながら言った。
「それが、覚えているのが『ひみこちゃん』っていう単語だけでね。それが何のことか全然わからないの」
まさにそれが手がかりなのだけど悩みの種のひとつだった。
断片的に思い出した記憶から、それがとても好きだったことは何となく感じるのだけど、それがどういうものかという決定的なところはわからなかったのだ。
慣れないスマホの検索機能を使って調べてみても、これだけだと歴史に出てくる卑弥呼がヒットするばかりだった。
今でこそ、水守や退魔師に伝わる資料で世間よりも深く知っているけれど、当時それを知っていたかと言えば疑問なわけで、さらに言えばページを読んでも全くぴんとこなくて、完全に行き詰まっていた。
「ひみこってあの卑弥呼?」
「それもちょっと違う、みたいなんだけど」
「とすると人名かもしれないわね。その当時仲良くしていたお友達とか」
「うーんそうなのかなあ」
あの当時同年代の女の子のお友達なんていなかったから、凛ちゃんの推測も何となく違う気がした。
やっぱり収穫なしか、とちょっぴり落胆していると、弓子が妙な顔で固まっているのに気がついた。
「弓子ちゃん、どうかした?」
「あ、いや、何でもない。ご飯食べよ」
珍しく言葉を濁した弓子はそういってぱくぱくと私のお弁当のおかずを食べ始めた。
今日の弓子はお肉の気分なんだなあ。
なんだか変な様子の弓子は気になるけど、真由花ちゃんがぽんと手を打ってスマホを操作し始めたことでそっちに気を取られた。
「そうだ、依夜ちゃん悩んでいるなら『オカゲサマ』に相談してみたらいいよ!」
「真由花、まだあのアプリ使ってたの?」
「いいじゃんいいじゃん、凛ちゃんこそオカゲサマダウンロードすればいいのに」
凛ちゃんがあきれた声を漏らすのにもかまわず、真由花ちゃんは操作した画面を見せてくれた。
トップページに並んだ大量のアイコンから示されたのは、燕尾服にシルクハットをかぶった紳士のシルエットで、アイコンの名前は「OKAGE」と表示されている。
タップするとすぐに画面が変わり、柔らかな色使いの背景とともに、いろんな文章と書き込み欄が出てきた。
「お悩み相談コミュニティ、みたいな感じなんだけどね。ページから相談をすると管理人のオカゲサマとか、住人さんが何でも応えてくれて、しかも回答が的確なんだよ! 特に恋の悩みはすっごく為になるんだ。わたしの知ってる子はオカゲサマのアドバイスで恋人ゲットしちゃったんだから!」
「こい、びと」
ええと、恋愛ってあんまりよくわからないし、今回悩んでいる事とは違うんだけど。
真由花ちゃんに力説されたわたしはちょっと戸惑いながらも、真由花ちゃんのスマホを借りて、いろんな人がオカゲサマに相談しているものを見た。
全部じゃないけれど、一人一人に回答して、為になったとお礼の返信をしているのが多く目に付いた。
「もーオカゲサマってすごいんだからー! 基本的にはこの相談欄でしか応じてくれないんだけど、特別な子には個別にメッセージアドレスを教えてくれて、相談に乗ってくれるんだよ! わたしもいつかオカゲサマと直接はなしてみたいなあ」
うっとりと言う真由花ちゃんを凛ちゃんはとがめるような視線を向けた。
「特別にってそれ大丈夫なの?」
「だいじょうぶだよお。オカゲサマだし。ほんと親身に応じてくれるだけだもん」
「ネット上で急に距離を積めてくる相手ほど危ないものはないわ。会おうって言われても気軽に応じちゃだめよ?」
「凛ちゃんに言われなくてもそれくらいわかってますしい……ねっ依夜ちゃんもどう?」
唇をとがらせた真由花ちゃんがぱっとこちらを向いてきて、わたしはすこしうろたえた。
わたしの悩み事は相談して変わるものでもないと思うし、全く知らない人と顔も会わせず交流するというのは抵抗がある。
でも真由花ちゃんはわたしのためを思って勧めてくれているのだろうし……
「ちょ、ちょっと考えてみる、ね?」
「ん、そっか!」
スマホを返しながら内心恐る恐る言えば、真由花ちゃんは満足そうに笑ってくれてほっとした。
そうしてお昼休みが終わり、特に変わったこともなく下校時刻になる。
帰り支度を済ませた下駄箱で靴を替えていると、弓子が近づいてきた。
「弓子ちゃん、きょう部活は?」
「今日はない日なんだ。それよりもお昼休みの話なんだけどさ」
ちょっとためらうような雰囲気で不思議に思っていると。
「『ひみこちゃん』だけど、あたし知ってると思うんだ」
「えっ!」
まさかの言葉にわたしは眼をまん丸にして、ちょっと決まりの悪そうな弓子を見返したのだった。




