むやみに物を拾ってはいけない
そうしてがしがし掃除を続けていけば、中天にあったお日様が西に傾いたけど。
「お、終わったあああ~~~!!」
わたしは勝利の雄叫びをあげて、ちり一つない板張りの床に転がった。
修行の基本で徹底的に仕込まれたはずの掃除技術でも、この蔵の埃と汚れは難敵だったのだ。
よくぞここまで放っておいたと言わんばかりのたまりぶりで、埃を捨てるために何度も外と往復したし、拭き掃除で真っ黒になった雑巾は片手に余るほどになってしまった。
だけどその甲斐あって、蔵の中は隅々まで埃が振り払われ、ピカピカに磨かれた床はもう寝泊まりしたって大丈夫なレベルだ。
一つ一つ拭いた棚には今回最大の敵だった大量の物品群が大まかな分類で整然と並んでいる。
もちろん危険物は一番奥にしまい込んだ。
ふふふ、やればできるのだ。
隅々まで埃が払われた蔵内は、心なしか空気も清浄な感じがする。
「今回も嫌みばかり言われてムカついたけど、最後の最後はなかなかいい気分で帰れそうなことだけは悪くないわね。……まあ、あの巫女さんにはやっぱり文句を言ってやりたいけども!」
実際はそんな度胸もないけれど、思うだけならいいだろう。
さっさとあの巫女さんを見つけて、報告して、日が完全に落ちきる前に帰ろう。
ここから家まで結構時間がかかるし、夜は、人あらざる魑魅魍魎がはびこる全力危険地帯なのだ。
それに、隠世との境界が曖昧になる時間には、妖よりも恐ろしいモノがわき出してくることもある。
おちおちしていられないと、疲労で重い体を起こしたわたしは、ふと手元近くでころころと転がる丸い物に気付いた。
箱に入れられず板張りの床に雑然と積み上げられていた物も、棚にスペースを作って整理したけれども、転がるような小さな物があった覚えがない。
でも、どこかの箱からこぼれ落ちたのなら戻さなきゃいけないと、指を伸ばしてそれを拾った。
「鈴、かな? でも中身がないや」
くすんだ鈍色をしたその鈴は、ちょうどわたしが親指と人差し指をくっつけて作った輪っかぐらいの大きさをしていた。
古いものなのか、全体的に曇っていたし、付いている紐も擦り切れていたけれど、ころんとした丸い鈴の表面には何やらきれいな文様も付いるし、組みひもは赤と黒で編まれていて良い感じに渋い。
これを作った人はなかなかいいセンスをしているようだ。
だけど、ころころ転がっている間も音は鳴らなかったし、今覗いてみても中身はないから鈴としては意味がない。
わたしはそれでもつい、すり切れた組み紐を摘んで、何気なく振ってみた。
後で、この行動を何度後悔するかを知らずに。
ろん。
空間に染み渡るような涼やかな音が、蔵の中に鳴り響いた。
「あれ、鳴った?」
意外に大きな音が響いて戸惑いつつもう一度鈴の中をのぞき込んだけど、やっぱり中には何にも入っているようには見えなかった。
不思議だなあと思っていたのだけど、ふといやな予感がする。
ここは放置されていようが、埃まみれだろうが水守の蔵だ。
危険な魑魅魍魎が封印されているような危険物はさすがにない、と信じたいけど、呪具の中には不用意に取り扱えば術者に危害を及ぼす物も少なくない。
なまじ退魔の水守に居る以上、呪具を下手にいじるのがよくないことは重々承知だし、まだ決まったわけでもない。
でも、かなり怪しいものが今鳴った。
とっさに身構えて、あたりを伺ってみるけど、一拍、二拍とたっても、蔵の中は夕日と橙と影の黒の中、ひんやりとした空気が漂っているだけだ。
考え過ぎだったかなと、自分の行動が気恥ずかしくなったわたしは、ほっと息をつく。
早く戻して帰ろう、そうしよう。
とっとと鈴を納めるべき箱をみつけようと、何ならそこらへ放っておいてもかまわないと棚の方へ歩く。
ふんわりと香の香りがした。
「そちらから呼び出してくれるとは、うれしい限りだの」
「うひゃあああああああ!!!」
耳元に呼気を感じるくらい至近距離でささやかれて、わたしは全力で叫んで飛び退いた。
低く艶やかな声に、全身の鳥肌が立っているのがわかる。
あえて言うのなら、体の芯にまで響くような、ざわざわと落ち着かなくなるような声だった。
不自然に跳ね回る心臓を感じながら耳を押さえて振り向けば、そこで愉快げに微笑んでいたのは、いやと言うほど見とれたくなる美しい男だった。
艶やかな黒髪に彩られた顔は病的なまでに白いのに、唇と瞳は血を含んできたかのように紅い。
眉は美しく弓を描き、すいと通った鼻梁は、成熟した男性特有の力強さがあるというのに、容貌はすごみすら感じられるほどの凄艶な美貌だ。
清浄の体現と言うべき白練りの着物に白袴という出で立ちなのに、それを塗りつぶすような退廃と蠱惑を滴らせていて、いっそ毒になりそうだった。
というか何で急に出てくるの気配無かったよなんで耳元でしゃべったのと言うかあんた誰!?
頭ではぐるぐる疑問が飛び交うのに動揺し過ぎて言葉がうまく出てこなかった。
「な、なにっす、いき、いきなり、耳にっ!!」
「どんな反応するか楽しみだったが、またずいぶん可愛らしい反応だの」
「か、かわっ!?」
今度こそ絶句するわたしを見て、男はくつくつと笑うと、何気なく一歩踏み出してきた。
とっさに後ずさったわたしだけど、足がもつれてその場にしりもちを付いた。
地味に痛い。
影がさしてはっと顔を上げれば、男のすいと一筆ではかれたような切れ長の瞳にのぞき込まれていた。
その鮮烈なまでの紅に、ぞくりと背筋が泡立つのを感じた。
これは、だめだ。これは違う。
今までさんざん人あらざるものに接してきたわたしだけど、こいつは、いいとか悪いとか、安全とかそういうのを通り越しているのだ。
今すぐ逃げたい。
腹の底から震えがはい上って来さえしているのに、それでも目の前の男から目が離せない。
男の薄い唇が、愉快げに弧を描いた。
何がそんなに楽しいのだろう。
こちらは何をされるかわかったもんじゃないとびくびくしているというのに。
「それにしても……良き眺めだのう」
満足げにうなずく男に、きょとんとしたわたしは思わず視線を追って自分を見てみた。
「白衣に緋袴というのは、俗界から切り離された清純さを作り出すものだ。
だが乱れた裾から緋袴から足袋に包まれた本来見えるはずのない足の肌色がのぞく様は、その面積がわずかでも背徳的なまでの美しさを生み出すな。うむ、巫女服は乱れてこそ美しい」
男の切れ長の瞳が、舐めるようにわたしの足袋に包まれた足と緋袴が翻って見えているふくらはぎを滑っていく。
がっと顔に血が上ったわたしは、高速でひるがえった緋袴を元に戻して足を引っ込めた。
洋服だとそうでもないのに、和服だと足を見られるのは無性に恥ずかしいのだ。
反射的ににらみあげれば、男なぜかますます楽しげに目を細めた。
「幼女のおおらかな戸惑いも、成熟した女の開き直ったそれも趣があるが。恥じらいに涙ぐみながらも観測者の反応もまた気になる、成長途上の少女ならではの愛らしい反応だ。実に良いな」
文句の一つでも言ってやろうと思っていたわたしは引いた。全力でドン引いた。
さっきからこの男が何を言っているか全くわからなかったけど、このまましゃべらせていたらわたしの何かが減る気がした。
「わけわかんなこと言わないでよ! というか、あんたはどうしてここにいるの、むしろ何っ!?」
硬直から抜け出して勇気を奮い起こしてまくし立てたはいいものの、飛び出した乱雑な言葉に真っ青になる。
力の強い妖や神霊は、総じてプライドが高いと相場が決まっている。
怒らせてしまえば、抵抗できる手段のないわたしはよくて祟りをくらい、最悪殺されるしかない。
さっきとは違う理由で鼓動が一気に早くなるのを感じる中、男は気を害した風もなく答えた。
「ぬしは、鈴を鳴らしただろう?」
薄々そうかもしれないと思っていたけどやっぱりか――!!と今も手の中にある鈴を握りつつ、心の中で絶叫した。