閑話:西山弓子の場合
西山弓子は人気のない帰り道を歩いていた。
学校から若い女性ばかりをねらった通り魔の話は聞いていたけど、最近感じていた体の重みがなくて、久々に部活動に打ち込んでいたら、あっという間に時間が過ぎていたのだ。
夕闇にかげった黄昏の中、弓子が思い出すのはクラスメイトの水守依夜のことだ。
小柄な体を校則通りの制服で包み、真っ黒な黒髪をいつでも三つ編みにしているけれど、前髪は目元がわからないほど長くて、素顔はよく見えない。
でも、いつも気がつくと教室にいてひっそりと席についている彼女は、まるで昭和から抜け出したかのようだった。
もちろんクラスの中で浮いていた。
クラス委員としては、何となく気にかけてはいたものの、正直弓子もどうしていいか分からず敬遠していた。
当然だろう。
長い前髪で隠れて表情は読みとれず、授業中以外ほとんど声を聞いたことがない。
でも、彼女が背筋をきれいに伸ばして机に向かう姿には不思議な清涼感があって、弓子は密かに見とれていた。
そんなとき、登校途中、偶然彼女が歩いているのを見かけた。
突風でも吹いたのだろう。
ぱっとスカートがひるがえって、ふとももあたりまで……いやぱんつまで見えたのはちょっとかわいそうだと思った。
慌ててスカートを押さえた彼女は、なにもない場所に怒っていたが、見られていたことに気づくと羞恥心にかあっと頬を赤らめ、脱兎のごとく逃げ出した。
意外なほど素早く逃げて行く彼女を呆気にとられて見送った弓子は、同時に教室で見るのとは全く違う、感情豊かな彼女に驚いて、一気に興味がわいたのだ。
すぐ行動が信条の弓子が早速話しかけてみれば、ちょっと変なところはあるけど、普通の女の子だった。
真っ赤になってスカートを摘んできたところなんて、小動物のようでかわいいくて、ひそかににやけそうになってしまったのは気づかれてはないと思う。
驚くほど自信が無くて、一人でいたのも、流行に疎くて話しかけられなかったというだけだった。
弓子が話しかけるようになってからも、自分のことはほとんどはなさないし、積極的に会話に参加はしないけど、絶妙に相づちを打ちながら静かにきいている。
それがとても落ち着いて、なんかいいなあと思うのだ。
でも、そのときの少しだけ口角を上げているのも良いけれど、弓子はあの時のようにぱっと顔を赤らめる……できるなら満面の笑顔を見てみたかった。
それが弓子の目下の目標だ。
けれど、今日の依夜は顔色が悪く、授業の途中で保健室へ行ったほどで、とても気になっていた。
心配なのももちろんあるけど、その顔色の悪さが、体調の悪かった弓子をふんわりとなでてくれた後からのような気がして。
彼女の手が弓子の頭や肩を滑った瞬間、体からだるさが抜けていった気がしたのだ。
十中八九気のせいだろうが、それでも気にかかることには変わりない。
彼女は学校近くのアパートで一人暮らしだと言っていた。
後で電話をかけてみようか。
なんならお見舞いに行ってみるのもいいかもしれない。
よし、と決意したところで、ふと依夜に帰り際言われた言葉を思い出した。
『西山さん、しばらくは日が暮れないうちに、帰ってね』
大丈夫、とその時は明るく返して忘れていたのだけれど、前髪の影からのぞく、思い詰めた瞳がすこし引っかかった。
今更ながら気になって、いつもより外灯が暗い気がする通りを足早に歩く。
すうっと、ぬるい風が吹いて、弓子は背筋がぞわりとした。
おかしい。冷たい風でもなかったのに、妙に寒気がする。
それになぜか、体が重く感じて歩くのさえ億劫だ。
かつり、とコンクリートをひっかくような音がした。
弓子は、はじめそれが何の音か分からなかった。
それは犬がコンクリートを歩く音に似ていたけど、それよりもずっと重量感がある。
弓子が歩くのにあわせて聞こえてきて、何かが後ろからついてきているのだと気がついた。
かつ、かつ、かつ、と音は弓子のローファーの堅い足音に合わせるようについてくる。
弓子がゆるめればその通りに、早めればより早く。
しかもだんだんと近づいてくる気がして、弓子は思わずスクールバックを握りしめた。
いつもなら一人や二人は歩いているのに、今日に限って人通りが全くない。
心臓がどくどくと早鐘を打つのが聞こえた。
後ろに、なにがいるのか。
耐えきれなくなった弓子は、ぱっと、後ろを振り返った。
「誰も、いない……」
ぽっかりと闇がわだかまるばかりで、人っ子一人いない。
気のせいだったか。
自分がおかしくて思わずくすくすと笑いながら、弓子はまた歩きだそうとした。
明日の話のタネができたな、と思いながら。
瞬間、生臭い臭いが漂ってきた。
何とも言い難い、腐ったような強い獣臭に弓子が振り向けば、その姿だけがぽっかりと浮かんで見えた。
おそらくは四つ足の獣、なのだと思う。
だが、その姿は弓子が見上げるほど高く、闇よりも暗い胴体には大きな目玉が体中にひしめき合い、その輪郭は、弓子が見ている間も一定せずにうごめいている。
唯一固定されている赤い大きな口からは、ぞろりと牙がのぞいていた。
こんな生き物、弓子は知らない。
あれは、何?
「きゃああああ!!」
弓子は全速力で逃げ出した。
少しでも化け物から遠くに。
だが、その足は鉛のように重く、水の中を泳いでいるかのようにうまく動かせなかった。
それでもあえぐように足を動かして、逃げる。逃げる。逃げる。
……おかしい。この道はこんなに長かっただろうか。
走っても走っても、見覚えのある通りにたどり着かない。
なんで、どうして!? もう明るい道に出てもおかしくないのに!!
パニックになる弓子の上を、大きな影が通り過ぎ、退路を断つように、あの化け物が道の向こう側へ降り立つ。
一気に迫り来る化け物に、弓子は身を翻す間もなく押し倒されて地を転がった。
その赤い口から生臭い息が吐き出されると同時に、だらりと唾液が滴った。
打ち付けた背や頭の痛みすら意識の外で、開けられた口から、無数の鋭い牙が近づいてくるのをがちがちと震えながら眺めることしかできない。
ろん、と鈴の音がした。
清涼な風を引き連れて、弓子のすぐ隣を小柄な何かが通り過ぎた。
「やああああッ!!」
涼やかな声音は少女の物。
どことなく破れかぶれに思えるそのかけ声と共に、編み上げブーツに包まれた足が、化け物にめり込んだ。
驚いたことに、食らった化け物は軽々と闇のしじまへ吹っ飛んでいく。
獣の圧迫から解放された弓子がはっと身を起こせば、少女がかかとを鳴らして地におり立つところだった。
結いあげられた髪と共に、ふわりとスカートが舞い広がって落ち着く。
弓子には、あの化け物と同じように、助けてくれたその子の姿がくっきりと見えた。
その少女は、弓子よりも小柄なその体を、着物を意識した意匠のワンピースに身を包み、膝丈のスカートはパニエでふんわりと膨らんで、ひきしまった足を彩っていた。
細い腰は黒のコルセットで締められ、小柄な割に量感のある胸が、人形のような少女に独特の色香をもたらしている。
揺れるのが気になるのか両手を胸のあたりにやっているが、そのしぐさのせいでかえって強調されていた。
極め付きに清楚なフリルカチューシャと、たっぷりフリルのあしらわれたエプロンを着用したその少女は、ちらりと弓子を振り返ったが、すぐに視線を流して、誰かに二言三言つぶやいた。
かわいらしいその姿に、弓子は呆然と見とれていると、少女はすぐに闇に消えていった化け物を追っていく。
何で、どうして?
と話しかける間もなく、背で結ばれたリボンとスカートが揺らめく後ろ姿に、弓子があわててスマホを構え瞬間。
その姿は闇に消えていた。
重苦しさはいつの間にか消えていた。




