影を落とすモノ
「他人の瘴気を自分の身に移すとは、無茶なことをするのう」
「うー……」
ナギのあきれ声に言い返す気力もなく、わたしはシーツから半分顔を出しつてうなるだけだった。
西山さんにまとわりついていた瘴気を自分に移したわたしは、真っ青な顔で座っているのを先生に見とがめられて、保健室行きを命じられたのだ。
正直限界だったので助かった。
霊力は操れないくせに、昔から瘴気を吸い寄せやすいたちで、近づいたりふれるだけで自分に移せてしまうのだ。
昔も、討伐から帰ってきた術者たちとはち合わせて、彼らについた瘴気をもらい、目を回して倒れたことがあるほどだ。
それでさらに役立たずという評価が固まったのだと、当時の暗澹たる気分を思いだしたけど、ふと最近は寝込むことも少なかったなと気づく。
あの程度の瘴気で倒れかけたのは、明らかにわたしが日々の修行を怠っていたからだけど、陰の気が多くはびこる都心で暮らしているのに、体調を崩したのは今日が初めてだ。
ちらりと傍らのナギを伺えば、同じタイミングで手が伸びてきてぎょっとする。
思わず目をつぶったわたしは、額にひんやりとした手のひらを感じたとたん、すっと体が軽くなった。
「ふむ、こんなものかの」
目を開ければ、ナギが手のひらに集めた黒い瘴気を握りつぶして消滅させていた。
「あんたは、大丈夫なの」
「わしは超強い式神なのでな。この程度瘴気のうちに入らぬよ」
たぶん、そうやってわたしの知らないところで影響を及ぼす瘴気を祓っていてくれたのだろう。
かなり不本意だけど、ナギのおかげで健康に過ごせていることを認めざるを得なかった。
体を起こしたわたしは、カーテンの外の気配を伺い、他に人がいないことを確認してからナギに小声で話しかけた。
「ねえ、西山さんは……」
「おそらく禍霊に目を付けられておるな」
あっさりと肯定されたわたしは、唇をかみしめてうつむく。
禍霊に変じてしまった霊や妖たちは正気を失い、人々を襲い、その魂魄を食らう。
だけど、どんなモノを好むかはその禍霊によって変わり、強い個性となって現れる。
変質する前に持っていた嗜好や人格が影響されるのだ、とわたしは水守で教えられていた。
「子鬼どもも言うておった。瘴気に呑まれた霊が娘共を襲うておるとな。日は浅いようだが、死人が出るのも時間の問題だのう」
「最近瘴気に呑まれたって、もしかして、前にわたしを襲った奴?」
「おそらくの。どうやら懲りずに歩き回っておるらしい」
ホームルームで、若い女性が路上で倒れているのを発見される事件が続発しているため、夜遅くならないうちに下校するようにときいたのを思い出して真っ青になる。
あれからずっと歩き回っているのだ。どこからか瘴気を取り込んで。
わたしが放置していたばかりに、どんどん被害者が増えている。
「どうしよう……」
「なにがだ」
「だ、だって、禍霊に西山さんがねらわれているのよ。どうにかしなきゃ」
「なぜどうにかするのだ。ぬしに被害は無かろう?」
瞬間的にかっとなりかけたけど、ナギの心底不思議そうな顔を見たわたしは、背筋に氷をつっこまれたような気分になった。
そうだった。所々人間くさいところがあっても、ナギはあくまで式神だ。
ナギが約束したのはわたしの守護で、それ以外のことに手を出す理由はないのだ。
「じゃ、じゃあ西山さん助けてよ、ナギ」
「いやだ」
精一杯の勇気を込めて頼めば、あっさりと拒否された。
「それこそ何で! あんたはわたしの式神でしょ、この間みたいに禍霊を追い払ってよ!」
「わしには関係ないからのう。ぬしが無事であればどうでも良い。それに祓う、となると厳しいの」
「は?」
「今のわしは本来の力を発揮できぬからな。一時的に隠世へ追い払えはするが、禍霊を消滅させるほどの力は振るえぬのだ。禍霊となった今、いったん目を付けた獲物をそう簡単にあきらめるとも思わぬのでな。意味がない」
とんだ役立たずだと白い目を向けたのだが、ナギはどこ吹く風できり返された。
「それほど助けたくば、己でやれば良かろうに」
「それは、だって」
自分には、力がないから。
そうだ、ナギを責めることなんてできないじゃないか。
わたしだって見えるだけで、霊力を操ることも、禍霊を祓うこともできない。
自分の力では西山さんを助けることもできない。
「まあ、騒ぎが大きくなれば、術者共も自然と気づくであろう。やつらがやってくるまで、その娘の無事を祈ることだな」
ナギに淡々と言われたわたしは、自分でもなにがなんだか分からなくなった。
そっか、あきらめるってこともできるんだ。
これは自分の手の及ぶ範疇ではないのだから。
「唯人として生きるのであれば、それが自然だ。不条理がたまたまその娘に当たったと言うだけの話。ぬしが悩む必要はない」
ナギの優しい声を聞きながら、わたしはベッドサイドのかごにおいていたスマホを見つめた。
姉に連絡すれば、ずっと早く術者が来てくれる。
それでも、こちらに派遣されてくるまで2、3日はかかるだろうけど、その間西山さんが襲われないように祈っていよう。
……薄々、それでは間に合わないだろうと思っているのに?
初めての犠牲者になってしまうだろうと分かっていて、目をふさぎ、耳をふさぎ。
「……でも」
わたしは白くなるほどきつくこぶしを握りしめて、ナギのどこまでも優しい赤の双眸を見上げた。
「西山さんは、わたしに、話しかけてくれたの。見捨てるなんて、できないよ」
わたしは禍霊に襲われた人々の、無惨な最後を知っている。
人が取り込まれてしまえば、その人ごと禍霊を消滅させなくてはならないこともある。
禍霊の恐ろしさをいやと言うほど知っているわたしは、いまでも心臓にぎりぎりとねじをつっこまれているような恐怖を感じている。
でも、それがわたしの偽らざる気持ちだったのだ。
「ねえ、ナギ、何でもするから。何か、できることはないの」
今、少しでも可能性があるとすれば、この式神以外にないのだ。
こぼれそうになる涙を我慢して、わたしは傍らにいるナギに懇願した。
すると、ナギは興味深そうに双眸を瞬かせた後、ゆるゆると含みのある笑みを浮かべたのだ。
「何でもする、と言うたな」
「だったら、なに」
「ならばぬしが己で祓うが良い」
この式神はなにを言っているのか、とわたしは耳を疑った。
「それ、嫌みで言っているんならたちが悪いわ。わたしには祓うための呪符も術式も使えないの知ってるでしょ?」
「呪符も術式も無しに祓えるよう、わしの力の一部を貸そう」
「……それって、あんたの霊力をわたしが使うってこと?」
何でそんなまどろっこしいことを。制限をはずしてナギが祓ってくれればいいのに。
というわたしの考えを見透かしたのか、ナギにあきれた顔をされた。
「ぬしは霊力が無くて、退魔の術が使えぬと言われてきたのだろう? わしの省エネモードを一時的にでも解けば、ぬしの貴重な霊力をわしが食ろうことになるぞ。それに耐えられるのか?」
「うっ」
「だが、わしが貸すだけであれば、ぬしは霊力を使わずに力を使える。それなりに体に負担はかかろうが、わしは超強い式神なのでな。力の一部とは言え、そこらの禍霊など簡単に祓えるぞ」
「本当に、そんなことできるの」
「わしは、うそは言わん」
ナギは涼しい顔で言い放つが、式神の霊力を借りて退魔をするなんて、今まで退魔について学んできたわたしは聞いたことがない。
だけど、今ナギがうそをつく理由も見あたらなかった。
「なんで、急にそんなこと言い出すのよ」
「まあわしも、乙女たちが少なくなるのは憂うところであるからの。ぬしに力を貸すだけというのであれば、やぶさかではない。……まあ、それなりの対価はもらうがの」
本音か方便か……いや、これはおそらく本音も入っているのだろうとわたしはナギの今までの行動と言動から思った。
そのとぼけたような態度は、大いに胡散臭い。
だけど、今のところそれにすがるしかないのだ。
「対価は、なに」
聞いた瞬間のナギは、まるで獲物が勝手に目の前に落ちてきた獣のように愉快気だった。
微妙に嫌な予感がする。
楽しげに唇の端をつり上げるナギは上機嫌に言った。
「なあに、大したことではない。わしの用意する浄衣を着て貰うだけだ」
「浄衣?」
「ぬしは瘴気に弱かろう。そのための対策だよ」
浄衣は、神職が祭事を執り行う際に身につける衣服だ。
男性だったら狩衣や直衣、女子ならば桂衣などふくまれるけど、退魔師たちも大がかりな退魔をする際に、瘴気から身を守るため、特別にあつらえられた衣服を着ることがよくあった。
基本は呪符を携帯しやすいように工夫された小袖に袴だけど、わりと形は自由だったりする。
お姉ちゃんも、水守の用人たちが作った特製の上着を着ていたなあ。
そのたぐいかと思ったわたしはうなずいた。
「わかった。着る」
「よし。では、鈴をふってみよ」
言われるがまま、わたしはポケットから取り出した銀の鈴を振った。
ろん、と涼やかな音色が響くと、濃密な気があふれ出し、虚空からにじむように何かが形作られていく。
そうして現れたその衣装に、わたしは目を点にした。
襟の合わせ方や、袖の形からして基本は着物なのだろう。
だけど、その下はなぜかふんわりと広がったスカートで、裾には柔らかなフリルが波打っていた。
帯も、普通の帯ではなくコルセットのようなもので、隣にはフリルのたっぷりあしらわれた真っ白いエプロンと、同じくフリルカチューシャが一緒に浮かんでいる。
ご丁寧に編み上げブーツまで用意されているその衣装が理解できず、呆然と問いかけた。
「なに、これ?」
「和メイド服、と言うやつだな」
「わ、和メイド……?」
「メイド服に和の要素を取り入れた衣装の総称だ。メイドの清純さと、大和撫子の奥ゆかしさによって相乗的な魅力を引き出すすばらしき衣装でな、コアなファンがおる」
「そうじゃなくて、これが、浄衣!?」
得々と語るナギにたまらず声を張り上げれば、ナギはなぜか自慢げに胸を張った。
「わしの力の一部で作った力作だ。瘴気など寄せ付けず、禍霊を祓えるぞ」
「力の一部なら自由に変えられるのに何でこんな特殊な服なのよ! 浄衣なら巫女服とか狩衣とか、もっとふさわしい形があるでしょう?」
「なにを言うか、世の男にとってメイド服は神聖な仕事着だぞ。あまたの娘たちがこれに似たモノを着て日々奉職しておるのだ。浮き世のしがらみを健全に忘れさせてくれる! ああすばらしきかなメイドさん!」
ぐっとこぶしを握って主張するナギに、だめだこいつ……!と、わたしは頭を抱えた。
わたしだってモノ知らずではない。
そう言う文化があることぐらいはテレビとかで見知っているし、ちょっとおおとか思うけどそういう仕事を否定する気もない。
だけど、それは一部の選ばれたかわいい女の子だけの、特別な空間の中での話だ。
なにより、
「これを着て、外に出るなんて、恥ずかしいじゃない!」
それが、わたしの切実な魂の叫びだった。
こんな特殊な衣装を着て、何の変哲もない町中を歩けば恐ろしく目立つ。もしかしたら高校の顔見知りに会うかもしれない。
目立たず平穏に過ごしたいわたしにとって、それは身の破滅に等しい。
「着ておれば、ぬしをぬしと認識できなくなるよう呪はかけておるから安心せい」
「そう言う問題じゃないの! それにこんなふりふりした服着たことないし、そもそもわたしなんかに似合う訳ないし!」
「何を言うか、ぬしの愛らしくそのまろい肢体に似合わぬわけがない!」
「背が低くてぽっちゃりしてて悪かったわね! もっと普通のにしてよ!」
「い、や、だ」
わざわざ言葉を区切ったナギは、にやにやと笑いながら着物の袖に手を入れて腕組みした。
「それが対価であるから譲りはせんぞ。目の保養をしたいのでな。わしはかような方法があると提示したまで、ぬしが着たくないというのであれば、それでもよいのだ」
「無理強いしないんじゃなかったの!? 似合わないって言ってるのに着せようとするなんて悪趣味よ!」
「わしの趣味の良さは折り紙付きだぞ。似合わぬ物などだしはせん」
ナギに意外なほど心外そうにされて、ちょっと面食らった。
でもナギの偏った見方が一般的なわけがないし、嫌がるわたしを前に喜んでいるなんてやっぱり趣味が悪い。
だけど、わたしはそれ以上言い返すことができなかった。
なぜならこれはわたしが頼んで、ナギが譲歩をしてくれているのだから。
今すぐにでもナギは前言を撤回して、力を貸さないと言うかもしれない。それはまずい。
でもこれを着る? ありえないほどふりっとひらっとしたこの服を?
「でも、でも……」
「ぬしよ、悩むのは自由だが、あまり時間はないぞ」
さあどうする。とナギはにんやりと笑う。
わたしにはその笑顔が、闇へ引きずり込む鬼や夜叉の笑みに見えた。
嫌なのは理屈ではないのだ。
着るのは恥ずかしいし、ナギの思い通りになるのも嫌だ。
やめたい、やめたい。こんなの着たくない。
けれども。
わたしはぎゅうっと拳を握りしめ、ふんわりと形よく虚空に浮かぶ和メイド服を涙目で睨み付けたのだった。




