プロローグ : どうしてこうなった。
尋常ならざる可畏き者たち。
鳥獣木草のたぐい、海山など、その他何にまれ、尋常ならずすぐれたることのありて、可畏き者を神と伝う。
尊きこと、良きこと、功しきことなどすぐれたるのみを云うにあらず、悪しきもの、奇しきものなども世にすぐれて可畏きをば、神というなり。
ゆえに、古来より荒ぶる神魔魍魎を、時に封じ、時に鎮め、時に癒し、時に祓う者あり。
人の身でありながら神威を畏れず、神々と渡り合いたるその者達を、唯人達は畏れと敬意を以て神薙と呼ぶ。
☆
ああ、なんて最悪だ。
暗闇に包まれる人っ子一人居ない公園の、これまた人気のない物陰で、わたし、水守依夜は深く長くため息をついた。
春の宵だというのに、空気はいやにぬるく感じられて、なのに背筋がぞわりとするような冷気を帯びている。
極め付きは、生臭いような、肺まで腐りそうな瘴気があたり一体に漂っているのだ。
普段のわたしなら、即座に回れ右で脱兎のごとく逃げ帰っている環境だった。
唯一の救いは月が綺麗なことか、と、夜空にぽっかりと浮かぶ月を見上げた。
満月には少し欠けていて、でもオムレツみたいにふっくらとしたその月は、居待ち月とも言ったっけ。
まさに今の自分にふさわしいな、と冴えた光をぼんやり眺めていれば、後ろから話しかけられた。
「ぬしよ、まだ踏ん切りがつかぬか」
「……当たり前じゃない」
低く深い、寂のような美しい声に、現実逃避から戻ったわたしが振り返れば、そこにいるのは今回の事態の元凶だった。
宵闇の中でもくっきりと見える奴は、その声を裏切らない綺麗な男の姿をしていたけれど、それすら恨めしさが増すばかりだ。
長身を墨色の着物に包み、悠然と袖に手を入れているのも、艶やかな闇のような黒髪を無造作に遊ばせているのも実に様になる。
その蠱惑的な凄まじい美貌も人じゃないから当たり前かと思いつつも、こっちの胸中を知った上で愉快げに口角をあげているのが憎々しかった。
恨めしくにらめば、奴はその赤い瞳をゆるりと瞬かせた。
「別にわしはかまわぬが、あまり猶予はないぞ」
「わかってるっ。やればいいんでしょやれば!」
わたしは腹いせに持っていたスクールバックを奴に押しつけて、手のひらに握っていた赤と黒の組み紐を下げ持った。
その先にはクルミくらいの大きさの、銀色の鈴がついている。
これをやったら、もう後戻りは出来ないだろう。
泣きたい。ほんとに泣きたい。
それでもわたしは、手首をしならせ、鈴を振った。
ろん。
どれだけ乱暴に扱われても鳴らなかった鈴が、染み渡るように鳴り響く。
瞬間、鈴から強烈な光があふれ出してぎょっとした。
月の光よりも冴えたそれに思わず目をつぶると、清涼でいて暖かい空気に体が包み込まれ、周辺の穢れによって感じていた重だるさが一気に押し流されていく。
そうして、光が収まったのを感じて、おそるおそる瞼を開ければ、満足げに笑む奴がいた。
「うむ、やはりわしの目に狂いはないのう」
奴の赤の双眸が、わたしの頭のてっぺんから足先までをなめるように動くのが見えて、かあっと顔が熱くなるのが自分でもわかった。
心臓はどくどくと跳ね回るし、むずがゆさと居心地の悪さは極め付きで、覚悟していたとはいえ恥ずかしさで死にそうだ。
少しでも気を紛らわすためにぎゅっと握りしめたのは、さっきまで着ていた紺色のブレザーではなく、たっぷりフリルがあしらわれた真っ白なエプロンだ。
制服だったはずのわたしの服は、赤を基調とした着物のようなワンピースになっていた。
襟や袖なんかはしっかり着物なのに、膝まであるスカートはふんわりと広がっていて、腰は帯ではなく黒いコルセットできゅっと締められている。
この上なく不思議な意匠なのだけど、生地はかなり良いものを使っているようで、肌触りのよさが生意気だった。
スカート周りには白いエプロンがゆらめき、頭にはフリルカチューシャが乗っかっているはずで、足下はどこかレトロ感ただようブーツで固められているはずだ。
要する15年という人生の中で全く縁もなければ脈絡もない服装なのだが、名前だけは事前に聞かされていた。
そう、確か……
「うむ立派な和メイドさんだ。どこに出しても恥ずかしくないな」
「十分恥ずかしいわよ、こんなふりふりひらひらな服!」
「なにを言うておる。ほれこの通り、ふりふりがよう似合っておるではないか」
「みゃっ!?」
ナギが腕を振ったとたん、にじみ出るように現れた姿鏡にわたしの惨状が余すところなく映り込んでいて、変な悲鳴しか上げられなかった。
さっきまで三つ編みだったはずの髪は、高い位置でポニーテールになっていて、フリルカチューシャと共に大きなリボンで飾られていた。
そのうえ長いはずの前髪まで目元が見えるように整えられていて、化粧まで施された自分の顔とばっちり目が合い、みるみるうちに涙目になった。
改めて見てしまえば、自分が身に着けている和メイド服はよく出来ていた。
深い色合いのワンピースとそれに栄えるような真っ白いエプロンのコントラストは鮮烈だし、さらにふんわりと広がった裾が身じろぎするたびにふわりふわりと揺れるのは可憐ですらある。
人形や10歳くらいの女の子が着るならきっと普通にかわいいと思う。それは認めよう。
だからこそ、高校に上がったわたしにとって心情的にかなりきついのだ。
そんな可愛らしい仮装が似合っているって、つまりわたしが小学生に間違われる童顔だって言われているようなもので、手放しで喜べるわけがない!
「やっぱり他にないの!? これ以外に何かっ」
鏡に映る情けない自分を見ていられなくて、鏡を支えている奴に訴えれば、赤い瞳を不思議そうに瞬かせた。
「だが、着ると言ったのはぬしだぞ」
「それはっ……」
あんたが着ないと力を貸してくれないって言うから!と文句が出かけるのをぐっと我慢した。
たしかに着るといったのはわたしだった。でもこれはあんまりだ。
「と言うかあんなに光が出るなんて知らなかった! ほ、他の人に気づかれたらどうするの!?」
「見える者にしか見えん光だ、安心せい。それに変身時の発光はお約束なのだ。本当は音楽も入れたかったのだがのう」
「そんなの入れなくていい!」
「ところでぬしよ、試しに「お帰りなさいませ、旦那様」と言うてみぬか?」
わたしの抗議も無視し、奴は赤の瞳を輝かせてのたまわる。
ああ本当にこいつはひどい。いろいろとひどい。
わたしは盛大に顔をひきつらせながら、どうしてこうなったのかと、現実逃避に今までのことに思いを馳せた。




