野生少女
木々の間を抜けると分かれ道が見える。どちらを選ぼうが意味はない。悩む理由もなく右へ進むとそこは公道、つまり公園の出口だ。敢えて嫌な言い方をすれば現実世界の入り口とも言える。引き返す道もあったが、これ以上散歩を続ける時間もないようだ。
『野生動物、野生少女に注意!』
公園の街灯の真下では、意味不明で不吉な看板が明かりに照らされている。野生動物はわかる。が、野生少女というのが謎である。そもそも野生少女とは何のことなのだろうか?本当に野生の少女が出没するとでも言うのであろうか?そんな少女がいるのであればすぐにでも警察に電話をするか、あるいは連行し、保護者へと連絡をするべきであろう。第一、看板に注意書きすることが謎である。冗談にしても大して面白くない。
もうひとつ気になることがある。それはゴミ箱にしっかりと空き缶を捨てない不貞の輩がいることだ。毎回僕が公園に立ち寄る度に捨てているのだが、まったく迷惑な話である。彼のお気に入りはおしるこのようで、そればかりが捨てられている。
僕以外の貴重な利用者だが、マナーの悪さが残念でならない。
それらの点を除けば、この松迫公園は普通の公園である。いや、むしろ自動販売機やベンチが充実していることを考慮すれば、並みの公園よりは優れているとも言える。さらに言えば、ここにはほとんど人が来ることがないため、一人でこの空間を占領できるというのも魅力のひとつでもある。ここでの時間は僕にとっての何よりの安らぎなのだ。
誰もが現実逃避の方法をひとつは持っている、というのが僕の持論だ。
この公園で森林浴をすることが、僕の場合の現実逃避に当たる。もしも誰かが僕に対して、「例えば才能のある人間は日々が恵まれているから、「誰もが」というのは語弊があるのでは?」と野暮な揚げ足を取ってきたとしよう。しかし、人として生きている以上、悩みは尽きないものであり、その質問は見当違いであると反論したい。悩みというのは必ず現実的であり、長く、しつこく僕たちを苦しめる。その上解決の糸口もすぐに見つからない。そんな時の時間稼ぎ、それが現実逃避である。好きなことや趣味がある人ならば、それにのめり込む事が現実逃避の一つにでもなり得るのだろう。しかし僕のように好きなことや趣味がない人もいる。その人達はどうすれば良いのだろうか。モヤモヤした気持ちを抱えながら時間を過ごすしかないのだろうか。そんな人達は、今度は現実逃避の方法に悩み、悩みのループに陥ってしまいそうだ。幸い、僕はそんな目に合わずに済んだわけだが。
沈みかけた夕日を横目に、足早に家へと向かう。公園に残ったところで何かが変わるわけではない。頭では分かっているのだが、残りたい気持ちは強まる一方だ。体を無理やり家へと向かわせ、帰路につく。一日が終わる。
「ケンちゃん、おはよう!」
「ん…おはよ」
僕の名前はケンちゃんこと穴吹健。挨拶を交わした彼の名前は山本隆盛。僕のことをケンちゃんと呼ぶのは隆盛くらいだ。彼とはいつも僕との通学路の合流地点で毎朝見合わせたように出会う。おそらく僕の出発する時間に合わせて彼も家を出ているのだろう。かれこれ学校へ通って一ヶ月近くが経とうとしている。意外と家を出る時間は変わらないもので、彼のとの通学は日常化してしまっているのだ。
「お、ケンにリュウ!おはよッス!」
「あ、ダイちゃん!おはよ!」
ダイちゃんこと九重雄大は校門にたどり着く頃に出会う。
今年の春から無事に進学することができた僕たちの通う高校「県立竹城高校」は自然に囲まれた緑豊かな学び舎である。校門は山のふもとにあり、校門をくぐると5分少々の登山をした後に教室へとたどり着くのだ。全く、健康に気を使いすぎだ。というか本当に健康に気を使うことがこの高校の立地の目的であるのならば、教師陣も一緒に5分少々の登山に付き合うべきなのだ。が、彼らは愛車を使って悠々と山を登っていく。許すまじ、公務員。安定した給料、生活。社会の勝ち組め。先生という名目にあやかり、子ども達と共に何度も青春時代を謳歌する不貞の輩め!あわよくば教え子とゴールインなど、けしからん!全くもってけしからん!
…僕は何に怒っているのだろう。というか誰に怒っているのだろう。
僕たちの通う竹城高校は、くどいようだが自然に囲まれた緑豊かな学び舎である。そうなると周りには何もなさそうだが、実は山を下ると人の賑わうショッピングモール「まつさこタウン」がある(ネーミングセンスについてはまつさこタウン社長に文句を言っていただきたい)。
そこは高校生たちの帰り道途中に立ち寄る憩いの場であることはもちろん、近隣住民たちの日々の食卓へと貢献する市場でもあるのだ。なんだか妙に都合が良い気もするが、本当にそういう立地なのだから仕方がない。このまつさこタウンで流星も買い物をするつもりだったのだ。本当に大した理由がなければ、少し立ち寄ったところで全く帰る時間は遅くならないし、生活リズムに何の支障もきたさない。帰って宿題をする時間も十分にある。これほど好条件な買い物の付き合いを断るやつは相当に付き合いが悪いやつだろう。…まあ、僕なわけだが。
クラスが違うために雄大とは昼休みになるまでは離れ離れだ。
3人は中学からの付き合いがある。昼休みになると校舎が囲む中庭へと集まり、ベンチに腰掛け、膝の上に乗せた弁当に舌鼓を打っていた。
が、僕とは違って人受けの良い雄大は、自分のクラスの友達から弁当を一緒に食べようと誘われているらしい。雄大はクラス内でのコミュニティも大事にしたいらしく、仲良く3人でご飯が食べられるのもおそらく今週までだと話をしていた。
隆盛も、誰に対してもニコニコ笑う愛想の良さから人受けは良く、女子なんかに弁当を一緒に食べることを誘われることもあるそうなのだが、なぜか僕に付きっきりだ。それどころか僕以外の人と話している所をほとんど見たことがない。さらに言えば、何でも入学式の次の日に先輩の女子から告白を受けたらしいが、断ったという話も聞いた。盛りに盛っている男子高校生が女子からのお誘いを断るなど、あっちの気を疑われそうだが…。隆盛は「性格も何も分からない人は付き合えないよ。」ともっともな主張をしていた。まあ僕でも断るだろう。…たぶん。……相手(の顔)によるかもしれないが。
「また一人で公園に行ってたの?だったら買い物くらい付き合ってくれても良かったじゃん!」
公園で森林浴をしたその日、実のところ僕は隆盛の誘いを断っていたのだ。友人の誘いをわざわざ断り、僕は森林浴という一人の時間を敢えて選んだのだった。
「ちゃんと断っただろ?」
「そういう問題じゃないよ!もー、学校に履いていく靴を一緒に見て欲しかったのにー」
「今履いてるのじゃダメなのか?」
「これ中学から履いてるやつだからもうボロボロなんだよ」
「そういう事ならついていったのに…」
「本当に?じゃあ今日行こうよ!」
失言だった。
「……ん……まあ、そうね。」
「どっちつかずな返事やめてよ!」
内心は昨日断った後ろめたさもあり、行く気は十分にあったのだ。しかし、敢えて曖昧な返事をすることで自分の時間を得られることもまた期待していた。これほど不誠実な対応もないだろう。これで怒らないのだから隆盛の心の広さには頭が下がる。…いや、本当は怒っているのかもしれないが。
ここでふと昨日見た不吉な看板のことを思い出した。二人に野生少女について聞いてみるのもいいかもしれない。
「なあ、隆盛。野生少女って知ってる?」
「なにそれ?映画?漫画?」
まあ、妥当な反応だろう。何かしらの固有名詞を指すものだと考えるのが普通だ。
「いや、映画のタイトルとかじゃなくて。例の公園に変な注意書きが書かれた看板があってさ。それに『野生少女に注意』って書かれてるんだよ。」
隆盛も雄大もキョトンとしている。というか半分無関心だ。もう少し人の話に興味を持って欲しいものである。
「イタズラ書きなんじゃない?」
雄大も予想した通りの返事をする。
「公園の看板にいつまでもイタズラ書きを残すとも思えないんだよ。そんなのあったら市の方でさっさと撤去しちゃうだろ?」
僕の反論に雄大は返しに困っているようだ。
「ケンちゃん、とりあえず先生たちに聞いてみたら?何か分かるかもよ?」
昔からこの地域に住んでいる先生なら誰か知っているのかもしれない。今日の放課後にでも聞いてみようか。
「そうだね。」
まあ「野生少女」のことを聞いたことがないのならしょうがない。まだそこまで先生たちとも親しくないこともあり、他に情報も得られなさそうである。
僕のふった話題もそこまで広がることがなく、話は隆盛の買い物の話へと舞い戻る。
「ところでケン、変な話してないでさ。リュウの買い物くらい付き合ってやれよ。わざわざ断る理由もないだろ?」
「…なんかつい断っちゃったんだよ。人混み苦手だし。」
人混みが苦手なのは嘘ではない。
「今日は一緒に行ってくれるんだよね!あ、ダイちゃんも来る?」
雄大を誘うことで僕の逃げ場を奪う作戦のようだ。そこまでしなくても今日は行くつもりだったが、隆盛は何としてでも僕を買い物へと付き添わせたいようだった。
「…ん、そうだな。俺も部活に使うシューズ買わないと」
「え、ダイちゃん部活に入ったの!?何部?」
「バスケ部だよ。俺の身長を気に入ってくれた先輩に誘われたんだ。良い機会だと思ってな。」
確かに雄大の高身長であれば、バスケ部に限らずどの部活動でも引っ張りだこであろう。中学時代にどの部活にも入っていなかったのが不思議なくらいだ。
「へ~。ダイちゃん、かっこいいね!」
雄大の入部を聞き、隆盛は目を輝かせている。
「よせよ、まだ始めてもいないのに。」
「………」
バスケ部か。雄大には嫌いなスポーツもなければ、好きなスポーツもないらしい。だが、今回の勧誘を機に一つのスポーツにのめり込むのも良いだろうと考えたようだ。
「じゃあ今日は3人一緒だね!決まり!」
せっかく放課後に先生に尋ねにいく予定がなくなってしまった。
「おう。………所でさっきから俺たちを覗き込んでるあの人誰なんだろう?」
雄大が窓越しの人の気配に気づいたらしい。
僕は最初から気付いていた。更に言えば3週間前、入学式から一週間経った頃から彼女は僕たちの昼食をほぼ毎日覗きに来ている。先述のとおり、僕たちが弁当を食べに集まる場所はちょうど校舎が囲い込む中庭の木陰だ。そんな僕たちは校舎の中から覗くのには格好の位置にいるらしい。そう、彼女は他でもない、入学式に隆盛に告白した女子の先輩だ。振られた理由に納得がいかないのだろう。入学式に告白するという大胆なことをした割には、影から覗くというコソコソした真似をしているのはいささか謎である。
「あ、マイちゃん先輩だ!」
((マイちゃん先輩!?))
「!」
僕たちが気づいたことに反応し、彼女は逃げ出してしまった。
「まだ僕のこと気にかけてくれてたんだねー。申し訳ないことしたのになあ。」
隆盛はマイちゃん先輩を振った件について気にしていたようだ。付き合うというのはお互いが了承して初めて成り立つのだから、そこまで気にやむこともないのではと思った。
「マイちゃん先輩?全然あきらめがついてなさそうだな。まあ付き合うまではしなくても、話しくらいはしても良いんじゃないか?それこそ友達としてさ。」
「…それもそうだね。告白された時にLINEのアカウント教えてもらったから、今度お話ししてみるよ。」
行動力があるのやらないのやら、ちゃっかりした先輩である。
「マイちゃん先輩のせいで話逸れちゃったけど、ケンちゃん、今日は買い物に来るんだよね!?黙って帰ったりしないでよ!」
「ああ。今日は行くよ。」
僕も男だ。約束した以上は守る。
…だが、本音を言ってしまえば一緒に行きたくはなかった。人混みが苦手なのは嘘ではないが、所詮は理由のひとつに過ぎない。3人で一緒に居る時間を堪能したくなかった。一緒にいる時間が長ければ長い程、離れ離れになった時に自分が惨めな気がするからだ。それはエゴイズム、エゴである。今の僕には、そんな気持ちと向き合うほどの器はない。
「…これの23cmあるかなぁ?」
靴を一足手に取った隆盛が独り言のようにぼやく。
「店員さーん。これの23cmありますか?」
店員は「少々お待ち下さい」と答えると棚の奥から箱を取り出した。どうやら隆盛の足に合うサイズはあったようだ。隆盛は支払いを済ませると、満足げな表情で話しかけてくる。
「ケンちゃんは何も買わないの?」
すでに雄大のバスケットシューズは買ってある。何も買っていないのは僕だけだ。
「ん。俺か?…そうだな。」
せっかくモールに来たのだからと隆盛は言うが、今の僕に欲しいと感じるものはなかった。
…いや、実はあるのかもしれない。家に帰ればどことなく寂しい気持ちになるのは何かが足りないからであり、心が満たされないからだ。しかし、その原因が単なる物欲ではないのは僕自身がもっとも分かっている。靴を買おうが、服を買おうが、本を買おうが、寂寞の思いを埋めてはくれないのだ。あえて無理にものを買い、財布を軽くしてしまうのは愚行といえよう。
「あんまり遅くなると悪いし、そろそろ帰るか。」
僕が返答に悩んでいることに気づいた雄大が気を利かせくれた。モールを離れ、隆盛は靴を眺めながら、明日から履いていくのだと表情を朗らかにしている。
「俺、ちょっと寄り道して帰るわ。」
「え、どこに寄るの?一緒に行っていい?」
隆盛は僕の行方が気になるようだ。前回僕が買い物の誘いを断った理由に対して探りを入れているようにも思えた。
「う~ん。出来れば一人で行きたいんだよな。」
僕が困ったような顔をして答えていると、またしても雄大が気を利かせてくれた。
「リュウ、俺たちは先に帰ろう。ケンは家が俺たちより近いから寄り道する時間もあるが、俺たちは真っ直ぐ帰ったほうが良いだろう?」
「…そっか~。うん!わかった!バイバイ、ケンちゃん!今日は付き合ってくれてありがとうね!」
「…ん、どういたしまして。」
名残惜しそうな表情の隆盛を横目に、僕は足早にある場所へと向かった。
わざわざ3人一緒に帰ることを断って僕が向かった先、それは例の公園、松迫公園だ。ただ森林浴をするのではない。この公園の自販機にだけ売ってある50円の激安缶コーヒーを飲みながらの森林浴が至高なのだ。
…落ち着く。
ホットの缶コーヒーを半分ほどすすり終えるとほっと一息つく。周りに人はいない。
冬が明ければ、春の公園にはほんのり冷たく、心地いい風が吹き抜ける。
案外僕が欲しかったものはこの缶コーヒーなのかもしれない。加えて誰もいない殺伐としたこの空間で木々に囲まれながら過ごすことなど、モールで買えるものではない。この時だけは満たされる。
現実と楽園との境目。
ふと周りを見渡せば、野良猫がいた。黒猫、三毛猫、茶トラ…人があまり通らないこの公園では虫やねずみががたくさんいるためか、猫達のたまり場でもあるようだ。…ほら、さらに周りを見渡せば野良女子高生もいるじゃないか。ガサゴソと茂みを4つんばいになって進む姿はさながら野生少女…
(……って、野良女子高生ってなんやねんっ!)
心の中で突っ込みつつ、自分の的確な表現に惚れ惚れしていた。4つんばいで茂みを歩き回る女子高生がいるのだ。落し物を探しているのではないかと言われればそれまでだが、猫に混ざる彼女の姿はまさに野生の女子高生であった。なるほど、看板の注意書きは悪い冗談ではなかったのだ。むしろ的書きな注意書きを残していた看板を賛賞すべきとも言える。
(いやいや、それにしたっておかしいだろ!女子高生がこんな所に一人でいるなんて…。どこの高校だ?うちの制服じゃないみたいだけど…)
そもそも女子高生がこの公園にいること自体、状況としては珍しいのだ。なぜならばこの公園に来るような高校生は確認しているだけでも僕一人だけである。人は滅多に来ない。特に平日であれば無人に等しい。なぜそれほどまでに人がいないのか。それは、この公園が猫がたまり場にしているほど虫が多く、とても森林浴などしていられないからなのだ。仮に僕のようにわざわざ虫除けスプレーを身につけているような人でなければ、この公園には立ち寄りもしない。気まぐれで来るような公園ではないのだ。もうひとつ謎があるとすれば、彼女はなぜ一人なのか。わざわざ一人でここに来て、茂みにものを落とし、落とした何かを探している。怪しすぎる。しかも看板に注意書きされるような子なのだ。何度も来ていると考えると不気味さがより際立ってくる。幽霊を見てしまった時のような恐怖心さえ感じてしまう。
(変な人なのかな?…変な人だろうな。…うん、どう見ても変な人だ。)
訝しげに彼女を眺めていると、不意に目が合ってしまった。
「!」
彼女はハッとした表情で見つめ返してきている。どうやらこちらに今まで気づいていなかったようだ。見通しのいいベンチに腰掛けている僕は、この公園の中であれば十分に目立っていたはずだが。
おもむろに彼女がこちらへと歩み寄って来る。逃げようとも思ったが、僕は動けなかった。恐怖で足がすくんでしまったこともあるが、動けなかった理由はそれだけではなかった。
彼女のことを怪しいと思う反面、彼女の儚げながらも、妖艶な雰囲気と、優雅で気品のある風貌に目を奪われていたのだ。彼女の黒く、艶めかしく、細長い髪が、吹き抜ける風にふわりと揺れて動いていた。茂みで4つんばいになっていた彼女の膝や、着ているセーラー服は土でひどく汚れていたが、汚れ越しでも彼女の素肌は透き通るほど白く、きめ細かいことが分かってしまう。凜とし、整った顔立ちに表情はない。よく見ると彼女の手にはおしるこの缶が握りしめられていてた。こいつだったのかと、呆れ顔で見ている僕に彼女は唐突に言い放った。
「見つからなかったわ。」
「…………え?」
落し物が見つからなかった…という事だろうか。まあ、それは当然のことだろう。この公園には街灯が少ない。せいぜいあの奇妙な看板を照らしている街灯くらいのもので、辺りは夕方になるとほとんど見えないのだ。もしも何かものを落としたのであれば、休日の昼間に来るしかない。
というか彼女はなぜ見つからなかったという結果を僕に告げたのだろうか。何を探していたかを変に気にしてしまうではないか。そもそも初対面の僕に対して、彼女は初対面のはずの僕に対して妙に馴れ馴れしくないか。言葉を失う僕に向かって彼女は続ける。
「どこかに落としてしまったのよ。持ってたはずの、欲しかった何かを」
「お前…いったい何の話を…。」
かろうじて返答したが、動揺からか言葉が続かない。彼女の話の意味がまったく意味が分からない。落し物の話をしているかと思ったら、どうやら少し違うようだ。そして彼女の言葉は続く。
「私が探していたのは、あなたが落としてしまった何かよ。でもそれは見つからなかったわ。見つからなかったのはあなたが何を落としたかを理解していないから。」
(僕の落し物を探している?)
彼女の話の謎は深まる一方だ。しかも僕が何を落としたというのだ。勝手に僕がものを失くしたことにされても困る。彼女は続けた。
「あなたはここへ来るたびに何かを落とし続けているのよ。その度に私がこうして探さなきゃいけない。それが私の仕事だから。それが私の役目だから。」
…僕は気づいてしまった。何気ない彼女の一言だが、僕は聞き漏らさなかった。そう、彼女は僕が頻繁にこの公園に来ていることを知っている。それも僕に気付かれることなく、僕が公園にいる様子をどこからか伺っていたのだ。そうでなければ「ここへ来るたび」などという言い回しはしないのだ。それが分かってしまった瞬間に全身が凍りつくような寒気と恐怖に襲われた。
……帰ろう。深く関わる前に帰ろう。
草食動物が肉食動物と対面した時のよう反射的な逃走本能が沸き起こった。この人と関わるのはまずい、危険だと体が僕に告げている。
彼女がまた何かをいう前に帰ろうと立ち上がったその時だった。
「何をそんに劣等感を感じる必要があるの?」
「………え?」
彼女の顔が目の前にあった。その視線はどこを見つめているのだろうか、息を感じるほどの至近距離にいるのにも関わらず、彼女が僕を見ていないことは明らかだった。
「あなたはここへ来ては駄目よ。金輪際。ここに来るのはあなたのためにもならないし、私のためにもならない。お互いのためにもあなたは真っ直ぐと家へ帰るなりすべきなのよ。」
「…なっ」
何を言っているのだ、こいつは。恐怖心が怒りへと変わっていくのに時間はかからなかった。そう、僕は怒ったのだ。彼女の無責任で無思慮な発言に対して怒りを覚えたのだ。彼女が僕の趣味を奪う権利などない…彼女が僕の現実逃避を奪う権利などない…彼女が僕の心の拠り所を奪う権利などないのだ。
指図されるいわれもない。
この場所を何だと思っている?
どんな思いで僕がこの場所を見つけたと思っているんだ?
ここを何だと…
…許せない…
彼女を睨みつけようと視線を上に上げると、さきほどまで目の前にいたはずの彼女は音もなく消え去っていた。
怒りはすぐさま恐怖へと変わった。
頭にのぼった血が全身へ向かって引いていくのが分かる。彼女は影も形もなく消え去っていたのだ。それも僕が怒りで俯いていたわずか数秒の内にだ。訳も分からず唖然と立ちすくむ僕は、飲みかけのコーヒーを地面にこぼし、いつものように最後まで飲むことができなかった。
帰ってからの僕はというと、まずは家中の戸締まりを確認した。寝る直前には部屋中のカーテンを閉め、部屋の電気もいつもより早めに消し、就寝についたのだった。
見た目だけ言えば、彼女の美しさは目を奪われる程であった。
もしも同級生にいたならば、学年中、いや学校中で一目置かれていたことだろう。しかしそんな彼女の美貌などどうでもよくなってしまうほど、彼女の不気味さと薄気味悪さの方が印象に残っている。
彼女は僕のことを監視でもしていたのだろうか?確かに森林浴をしている間は僕しかいなかったはずだ。周囲に人などいない。もしも居たなら、僕はあの場を現実逃避の場として選ぶことはなかったからだ。それゆえ、僕が頻繁に松迫公園に通っていることは僕しか知らないはずだ。それなのに…。
いや、本当に恐ろしいのは彼女がストーカーだとかそんな些細な話ではない。
目の前にいた人間が、いたはずの人間が、音もなく消えることなど…できるのだろうか?それとも彼女の足音にも気がつかないほど、僕は頭に血が上っていたのだろうか?
…彼女は幽霊か?
学校に向かうことが少々はばかられるが、体調については一切問題がないため、行かざるを得ない。不幸中の幸い、彼女の制服が自分の学校のものと違うことが確認できている。学校で会うことはないのだ。むしろ家にいるよりも、学校に行く方が安全かも知れない。
僕は無理やりベッドから体を起こした。