少なくとも不思議と犬と蓄音機をつなぐ物語
1 43歳で夭逝
「あんたは43で死ぬよ」。占い師が水晶玉をながめながら、しれっと言う。「どうしてだ?」とカワイは聞き返す。声には少し怒気が混じっていた。「ちょっと待ちなよ、おにいさん。いま、『見ている』ところなんだからよ」。占い師は目を瞑り、両手で水晶玉をさする。雌牛の乳を搾るような動きをしていて、どことなく卑猥だ。老婆は目を見開いた。もったいぶったりはしない。「分かった。肺がんだ」。
ここで聞き耳を立てていたバーの客たちは腹を抱えて笑い出した。「43歳で肺がん? ひどいじゃないか」「苦しみながら死ぬね。『痛い、痛い』ってしきりに言っている。小学生の娘が、病院のベッドの横でぽろぽろ泣いているな」「おれは結婚しているんだな? 子どもは何人だい、おばちゃん?」。占い師はふうとため息をつく。「確かに結婚しているが、その後離婚しているね。子ども2人は全部かあちゃんが持っていった」と言って、ウイスキーの水割りが入ったグラスを飲んだ。のど仏がとても緩慢に上下する。「養育費を払うのに汲々としているよ。なのに近所の宝石屋の三十代の前半の人妻と付き合っているんだ。食事とか、コーヒーとか、ラブホテルとかの代金は全部向こうが持つんだ。惨めだね」
2 苦し紛れで不倫
占い師は未来をとうとうと語る。カワイは将来、スポーツクラブの事務員になり、同じ職場のアキエとねんごろになる。アキエは妊娠し、35まで結婚しない気だったカワイはしょうがないなと結婚する。子どもは女の子が2人でき、夫婦の仲むつまじく、幸せだった。だが、そこから運命が下り坂に差し掛かる。まずスポーツジムの経営が苦しくなり、突然解雇される。そのつぎに近所の歯医者で働く、歯科助手の23歳、トシコとのみだらな情事が、妻の知るところとなり、あれよあれよのうちに離婚届けにサインさせられる。カワイは路頭を彷徨うはめになったが、競輪専門誌の記者として再起の道が見えた。だが、会社の制度で受けた人間ドックで肺ガンが判明してしまう。苦し紛れに宝石屋の奥さんと不倫し始める。
ほかの客は笑い転げ、のたうち回った。「可哀相に、可哀相に」と同情もしていないのにそう言って、涙やよだれを垂らした。
カワイは「じゃあコイツの将来も見てやってくれよ、おばちゃん」と隣のワヤンを指差して言う。ワヤンは人気予備校講師という触れ込みの妙なヤツだった。
占い師は手のひらをカワイに見せた。「5千」。カワイはポケットの中の5千を渡した。それは洗濯したようにくしゃくしゃだった。
占い師は一通り水晶玉を眺めすかした。「この人は早いねえ。27で死ぬ」と言った。「27っていうとジミ・ヘンドリクスと一緒だな」とワヤンはあごをなでた。まんざらでもない様子だ。「ん、あんた、27歳より下なの?」と中年常連客のロイドさんがロイド眼鏡をずりあげながら聞いた。確かにワヤンの顔とふるまいは30代前半に見えた。だが、ワヤンは「こう見えても若いんですよ。心がガキのままだからね」と煙に巻いた。「たぶん、ジミヘンみたいにドラッグのせいで死ぬんだ」。
そこで占い師は言うのである。「見えたよ、見えた。この人は、食中毒で死ぬんだ」。ワヤンは広島へ女と旅行する。厳島神社を観光して、夕飯はどうしようかとなる。女は本格的な料亭で牡蠣を食べたいというが、ケチなこの人は妙な小料理屋にする。そこで生牡蠣をたくさん食うんだ。それがばっちり当たって2人はその夜、ホテルのベッドの上でぽっくり死んじまう。2人の死体は真っ裸。ゲロが部屋のそこいらに転がっている。この人には家族はいないから、葬式も何もない。ここにいるカワイくんが、漁師に手伝ってもらって、日本海に遺体を葬ってくれるんだ、というと、白雪姫に出てくる魔女のようにせせら笑った。
3 場末の酒場から
ここは「ミラクルクリスマス」という場末の酒場だ。夜ごと得体の知れない人間どもで賑わった。この種の人間はこの街に驚くほどたくさんいて、「普通の人」の目には見えない糸でつながっている。顔見知りだったり、知らなくても妙な周波数で交信していとも簡単に打ち解けたりする。「においをかげば、そいつが同類かどうかが分かるんだ」ともう10年近く通う職業不定のサカタ爺は言う。
この店はとびきりの変な店だったが、最も変な所は、正方形の店の真ん中にトナカイがいることだ。トナカイはそこで暮らしていた。3年前までは首輪でつながれていたが、彼に逃げる意志がないことが分かると首輪が外れた。だが、彼は自分の役割を理解しているのか、中心部に居座り続け、客の退屈な視線を受け止めた。
彼は酒場が開く6時ごろに目を覚まし、店が閉まる朝方5時ごろに眠る。窓のない、密閉された、煙草の匂いが染みついた店のなかで、彼は長らく太陽の光を見ていない。その顔は夜型人間の目そのものだ。まぶたは重たそうに覆い被さり、瞳はとろーんと濁っている。頬の肉はゆるみ、今にも崩壊しそうだ。
しかも、トナカイはぶくぶくに太っていた。そのお世辞にも広いとは言えないバーの中にずっといるせいで運動不足なのだ。だが、主たる原因はバーの客たちが上げる食べ物だ。客はよくビーフジャーキーやカシューナッツを頼んで、まるまる彼にあげた。常連客は近くの中華料理屋から出前を取って、焼き餃子をあげた。トナカイはそれをぺろりと平らげる。彼は何回でもおかわりがきいた。
あと、読書家のマスターも欠かせないファクターだ。男はいつもカウンターのなかにイタリア製の椅子を置いて、そこで分厚いハードカバーの本を、一心不乱に読んでいた。よく見ていると分かるが、マスターの読書のペースはものすごく速かった。見開きの2ページを読み終えるのに20秒かからない。ずんずんとページを手繰っていく。マスターは牛乳瓶のような眼鏡をかけ、白髪、いつも両切り煙草をくわえていて、文豪さながらだった。
だが、仕事をそっちのけにしていたかというと、そういうわけではない。まったく外界のことなど聞いてないという感じなのだが、一度誰かが注文をすると、香港の屋台で麺を作られるがごとき速度で、酒や簡単な食べ物を作った。ただマスターには1点だけNGがあった。彼は読書の時間を優先するあまり、客にカクテルの注文を「禁じていた」。彼には酒を混ぜ合わせる作業があまりにもまどろっこしいらしい。カクテルを注文すれば、それはすべてウイスキーの水割りになって返ってきた。「返品は受けつけないよ」と彼は言う。
4 売れない小説家
マスターは本の世界に没入し客とはあんまり口を聞かなかった。本を片手に人と接する方が万事が滑らかになる。そんなふうだった。だから彼が何者かを知るものはほとんどいなかった。客は勝手に彼がこの酒場の持ち主で家族もいない、天涯孤独のおやじ、と認識していた。
だが、店で一番古い常連客のロイド眼鏡の老人は、少しいきさつを知っているようだ。「マスターは売れない小説家なんだよな〜」。マスターが珍しく酒を飲んだときにぽろっともらしたという。それによると、マスターは大学で戯曲を勉強し、一度「ソーセージをスーパーマーケットに売る仕事」についたが、ほとほと嫌気が差した。彼はある日、大雨が降って街中がプールになる変事にでくわした。そのことを、毎日欠かさない日記にしたためてみた。すると文章が不思議と踊った。彼はそれまで自分の心が何かになりたがっているのには気づいていた。だが、何になりたがっているのかは見当がつかなかった。その文章を網膜が焼き切れるほど何度も何度も眺めた末に分かった。「おれは小説家になりたいんだ」—。
彼は方々のバーで働きながら小説を書きためた。夜働き、昼書く。かなり体にこたえたが、彼の噴き上がらんばかりの情熱が断然勝った。重たい原稿用紙の束を持って出版者に三度を踏んだ。そのうち、一つの小説が文芸誌に載った。それは突然狂気に駆られた男が、ガソリンを詰めたタンクに乗って、東京都庁に突っ込む話だった。文章は不細工だったが、彼が胸に秘めている怒りがインクに染み込み迫力があった。それはなかなか評判になり、彼のもとに執筆依頼が次々とやって来た。彼は得意になって頼まれれば頼まれるだけ書いた。しかし、途中からトンネルに迷い込んでしまった。最初の小説を上回るものが書けない。それどころか、小説の質がだんだん落ちていくのである。彼はやがて絶望感に取り憑かれて10年ぐらい書かなくなってしまう。
「実はマスターは『雇われ』なんだ」。ロイドさんは勝手にブランデーを自分のグラスに注いで、勘定書の正の字に一本線を加えた。マスターは夕飯で外に出ていた。「誰があんなやる気のない男を雇うんだ、と思うだろう。それがいるんだよな。この店の持ち主は有名な小説家のパトロンだよ。ものすごいデブらしいが、小説を見る目は一級品。彼が援助した小説家はことごとく大物になった。マスターを除いてはね」
ロイドさん皮肉な笑みを浮かべた。
「それでもそのパトロンはマスターの才能に惚れ込んでいる。マスターをここに据えて飯を食えるよう援助しているのさ。マスターはこの10年書いてないらしく、パトロンの意志をことごとく裏切っている。パトロンが怒って彼を放逐しないのも不自然なくらいらしい」
5 パトロン業の陳さん
さて、そのパトロンとは何者か。それは陳さんという日本人と結婚し日本国籍を持った台湾人の子どもだ。彼は商売では生き馬の目を抜く才能を持ち、決断は早く、誤ることがない。飲食店、ビル、駐車場、賃貸マンション、パチンコ屋などなどをごまんと持っていた。が、それが価値がないと思えば、彼は数分後には売っ払った。逆に価値があると思えば、いくらでも札束を積んで、すぐに自分の物にした。
そんな百戦錬磨の陳さんは面白いことに、とある大学の文学部映画学科にいたらしい。そこの映画学科に入るのは入学後にもう一度試験を受ける必要がある。かなりの難関だということだ。
彼は高校生のとき、名画座で観た溝口健二の「雨月物語」に心を奪われた。その夜は眠る前に5回「雨月物語」を最初から最後まで反芻した。それで翌朝、彼は映画監督になろうと決心した。とてもシンプルだ。
彼は学生時代、努力を惜しむということを知らず、ほとんど眠らずに映画のイロハを身につけた。だが、女との関係がもつれにもつれるうち、繊細な彼はバランスを崩し、学科の先頭集団からこぼれ落ちた。それ以来、彼には好機が訪れず、大好きな映画を手放した。
彼はそれまで夢を実現させるために古今東西の物語を読んでいた。その脳髄に刻み込まれた履歴は、彼が大人になって父親の商売を手伝うようになった後にも、死ぬことはなかった。それはときたま火山のように湧き上がり、彼をどうしようもなく渇いた気持ちにさせた。彼は歳を取り、父親の商売をもとの数倍の規模まで大きくさせていた。それで「儲けたカネで物語の創作者を育てよう」と小説家のパトロン業がスタートさせたのである。
6 鳴いたホトトギス
陳さんは「鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス」の人。それはパトロン業でも同じだ。彼が初めて援助したミステリ作家とのエピソードはとにかく有名だ。
そのミステリ作家は光り輝く才能の持ち主だった。その作家が書く小説はいつも出だしが群を抜いていた。あるときは残忍非道な借金取りの首を縛るロープが人格を持って、その借金取りの半生をしゃべり出し、またあるときは400年前の明朝の大連港で起きた事件と2千年前のローマ帝国支配下のシチリア島での出来事と3日前の東京都千代田区の帝国ホテルの客室で起きた外国要人変死事件の紛れもなき関連性が指摘される。その後も突拍子もない構成で読者の関心を釘付けにしていく。彼の中には大きな地図が描かれるべき、大きな方眼紙があるのは疑いがなかった。
だが、その小説は序盤が終わるころ、失速を始める。美麗なる筆致は陰をひそめ、支離滅裂になるか、伏線のスターリン的な「粛正」が起きる。彼の息が最後まで続くことはまったくなかった。
それには諸々の理由があった。小説の序盤が終わるころ、作家の関心は決まって酒か女か借金に移っていた。その男は毎晩新宿ゴールデン街で人に酒をせびって回って、人のカネで酒を飲んでいた。働く気なんかひとかけらもなく、ただただ酒を飲んでいれば御の字。そんなこんなで数週間1行も書かないことはざらだ。〆切りが来るととんでもないイカサマをやって、雨ざらしの食パンよりもひどいものを書いた。女か借金が絡んだ揉め事で東京を離れることもしばしばだった。
結局作家は借金で首が回らなくなってきた。家賃2万の安アパートには昼夜問わず、強面のおにいさんがやって来て、彼をがんがん脅かした。ものすごく鈍感なことで知られたその男も、寝る間もなく脅かされるうちに、さすがに気が滅入ってきた。ある日彼はゴールデン街の酒場で馬鹿のように酩酊した。おもむろに椅子を持ち上げ、ランボーのような素っ頓狂な叫び声を上げて店の物を片っ端からぶっ壊した。
彼は店主のオカマが呼び寄せたその〈界隈〉で有名なマッチョなちょび髭のスキンヘッドに叩きのめされた。路上で体を縛り上げられ、正座させられた。オカマからは損害弁償に迷惑料を上乗せした請求書を突きつけられた。騒ぎを聞きつけた借金取りも、檻に入る前に取り立てようと代わる代わる彼の襟を引っ張り上げた。四面楚歌とはこのことである。
そこに飄然と現れたのが、陳さんだったらしい。彼はセカンドバックの中から札束をちゃっちゃと取り出して配って回った。それで作家の借金やらなんやらがちゃらになった。その後、陳さんは作家を自分が管理する寮に入れて、経営する居酒屋で働かせた。彼は作家の1日を完全にコントロールした。1日12時間の労働と3時間の執筆が義務づけられた。稼いだカネは陳さんへの借金にまるまる充てられた。食事はすべて店のまかないである。
そんな生活を繰り返すなか、机の上に原稿用紙がリズムよく積み重なっていった。男に必要だったのは管理だが、それは自分自身ではなく、陳さんがもたらしたわけだ。ついにその翌年、彼はある長編小説をモノにした。それはこれまでの彼の「傾向」を完全に裏切っていた。奇抜な書き出しから始まる奇想天外なストーリーは息もつかせぬ怒濤の展開のうちに、あっという間に終幕を迎える。傑作だった。
その小説はどこの本屋でも山積みにされていた。通りかかる人はそれをリンゴかミカンかのように手に取り、金と引き替えにした。それは100万部をゆうゆうと突破し映画にもなった。彼は陳さんへの借金も一気に完済しただげでなく、小説執筆のリズムを掴んで小説家として大成した。
7 見つかった
陳さんの傾向からするとマスターにも1日数時間の執筆が課されているはずである。だが、マスターの小説の出版は10年前からメデューサに睨まれたように止まったままだ。マスターが書いてはいるが、出版者が出版しないのか。マスターが極度のスランプに陥っているのか。まったくやる気がなくなってしまっているのか。カワイとロイドさんはそんな憶測を言い合った。
だが、事実は突然明らかになった。他の日と区別がつかないある日、ロイドさんがカウンターで飲んでいると、酒棚に無造作に置かれたマスターのくたくたの革鞄から、原稿用紙の束が覗いたのだ。原稿用紙はがさがさ。かなり念入りに赤が入っている。推敲に推敲が重ねているのがありありと分かった。しかも原稿の厚さは長野の大根の太さほどもあり、かなりの大作であることは一目瞭然だった。
ロイドさんは胸がざわついたが、せっかく動き出した象を止めるのはよそうと知らない振りをした。だが、彼はマスターと20年以上の付き合いである。10年眠り続けたマスターが書き始めたという「快挙」を確認せずにはいられなかった。
マスターは毎日午後7時ごろから1時間ほど、夕飯を食うと言って、店をほったらかした。客は自分で酒を作り、自分で勘定書にペンを入れた。すべては正直さのもとに行われた。酒場という人間のネガティブな面が出る場所では、これはとても興味深い。
ロイドさんはその1時間を利用して、カウンターに入るとこっそり原稿用紙を鞄から抜き取って確かめてみた。彼は驚いた。確かに新作の小説だった。1枚目に「タイトル未定」と書いてある。早速読み始めた。「雨には人類が確認しただけで176種類がある。古代ブルガリア人はそのうち4種類しか知らなかった」と始まる。
その文章はかつてのマスターのそれとは一変していた。そこには、文学の先達が受け継いだ流麗なリズムがあった。秘められた筆者の叙情的な高まりが、次第に露出され、物語世界が大きなうねりを作る。面白い。彼は原稿用紙を手繰る手を止めることができなくなった。
「没頭」という言葉を、これほど忠実に表現した例は世界でも稀ではないか。ロイドさんの体はバーのカウンターで、不死鳥カールルイスのスタート時の構えのごときになっていた。文章が彼の目玉を引っ張って、のけぞらされているように見えた。
そこで、彼の肩がぽんと叩かれた。が、彼は気づかなかった。もう一度ぽん。その後もぽんぽん。気づかない。最後は頭を揺らされた。そこで我に返る。牛乳瓶の眼鏡があった。「ずいぶん楽しそうにしてるじゃないか」。落ち着いたトーンの声だった。
8 ありがとう、ありがとう
ロイドさんはぎくりとした。マスターの顔は笑っても泣いてもいない。普通のままだ。だが、その目は真っ直ぐロイドさんを射抜いた。怒っているかも知れない。そう思うとロイドさんは胸が押される気がした。
だが、マスターは「なんとか、ホトトギスが鳴きそうなんだよ」と静かに言った。その顔は晴れ晴れとしていた。小説の上梓が近づいていることが、その表情から手に取るように理解できた。マスターは「最後まで読んで欲しい。感想を聞ききたい」と言った。それでロイドさんはまた小説の世界に没頭した。
マスターはレコードをかけた。ドビュッシーの「月光」だった。両切り煙草をくわえて、すとんとカウンターの中の椅子に座り込むと、17歳の処女のように目を瞑って、しみじみとそれに聴き入った。その音楽は彼の中に住み続ける少年が持つ哀しさそのものだった。彼は不覚にも落涙した。彼がそのレコードをかけるのはこの10年なかったことだ。
ロイドさんが小説を読み終えたのは読み始めてから18時間後のことだ。翌日の午後1時である。彼は心を振るわせた。それが、彼の涙腺をくすぐるのを、恥ずかしがり屋のロイドさんはうんうん唸りながらごまかした。そして言った。「ここにはあんたの10年がつまっているよ。それだけ、でっかい、おったまげるくらいでっかいものをあんたは作り上げたんだ」。
寝ずの番をしたマスターは、その言葉を聞いた後、喉をごくりとならした。その音が、ぼろいバーの中に異様に響いた。「そうか、ありがとう」。長い沈黙の後にそんな言葉が出た。「ありがとう、ありがとう」。
9 不可避的にうなぎに向かう思考
さて話を占い師の夜に戻そう。
占い師はずばずばと酔客の死に様を暴いていき、客は笑いころげ、7人目の預言を終えた。
彼女は切り上げ時を探っていた。これまで予言1回5千円で7回、トータル3万5千円を稼いでいた。それは彼女が1週間かけて稼ぐ額である。それがたった1時間で手に入った。十分すぎる収入だ。普通なら「おかわり」となるものだが、あいにく彼女に商売根性はなかった。飢えないくらいに稼いで、週に一度映画館に行き、たまに酒が飲めれば、それでよかった。「だってもうそういう年じゃないのよ」と彼女はよく言った。
そのとき、彼女の思考はロケットが宇宙空間を目指すように、不可避的にうな重に向かっていた。彼女の中には、大きな実入りがあったときは近所の高級うなぎ屋で「松」のうな重を食べる、という、死活的な掟があった。そのとき掟はすでに発動し、彼女の考えをぎゅうぎゅう縛りつけた。
想像が始まる。うなぎの黒くて細長い肢体が、水を張られた桶の中でぐるぐる回っている。それを職人のずんぐりとした手がきゅっと掴む。うなぎはびちびちと抵抗し、水滴が跳ね飛ぶ。彼の体はぬるぬるしている。押さえ付けるのは用意じゃない。けれど職人はいとも簡単に彼をまな板の上に押しつける。よく研がれた包丁が彼の頭に当てられ、すうと引かれる。彼の神経が断裂し、動きが止まる。さらに腹も一筋切られる。白い肉と赤い血が露出する…。
10 美男と美女
そこでひらりと5千円札が2枚やって来た。「私たちもお願いします」。四半世紀は聞かなかった上品な声だった。占い師は内心で驚いた。声の主はこの場末のバーにふさわしくない、爽やかなカップルだった。
2人は絵に描いたような美男美女だ。顔立ちのバランスが極めてよく、隙がなかった。びんと背筋が立ち、少しだけあごを引き、上目遣いに相手を見た。人の話を聞くときは、大げさすぎない適量の相づちを入れた。何もかもが完璧なのだ。
ただ、占い師は2人を見ていると、写真を見ているのではないかという錯覚にとらわれた。2人の実在感は希薄だった。認められるのは、コンベアを走るコカコーラ瓶さながらの均質性だ。個としてあることをかなぐり捨てた、機能性だけがむき出しになった人間。人から嫌われず、周囲と軋轢を作らないようプログラムされた人間。あるいはアンドロイド。そう思うと、占い師は分厚い面の皮の裏側で、顔をしかめた。
他の客たちも内心、そもそもどうしてこのカップルがここにいるのかと首を捻った。ミラクルクリスマスは「普通の人間」がその入り口に辿り着くことはおろか、その存在を知るのも難しい。地の果てのあなぐらのような場所だ。
11 平凡な未来を生きろ
占い師は「この2人で最後にしようか」と言った。ぼうと水晶玉を眺めた。奇妙な間があった。彼女のしわだらけの顔は表情を変えていない。ただ目の面積が40%は増した。目がかっと開かれたということだ。視線は射抜くように厳しくなった。
客にも彼女に何らかの異変が起きたことがうかがい知れた。それは彼女の預言への期待値を上げていく。「これは度肝を抜く死に方をするな」。注目は夏の日の積乱雲のようにみるみるうちに大きくなった。
沈黙は遅く感じられる。カップルは相変わらずニコニコ笑って待っている。そこで占い師は言った。「ふう〜やっと見えたよ。やっぱ歳だね。目が遠くなって手間取っちまったよ」。口びるをひょっとこのようにすぼめていた。
男を指差した。しわくちゃの指がぷるぷる震えている。「あんたは94歳の大往生だ。良かったね。正月にね、親戚があんたらの家に集まっていたよ。楽しそうだったな。家も立派で、盆栽がたくさんあって、あんたが盆栽から育てた松が庭で雪を被ってた。そこであんたは縁側で雑煮のもちを一塊、一気に飲み込んで、喉に詰まらせちまうんだな。それでぽっくり」。
その指を平行移動して女に向けた。「あんたは72歳。肝臓がん。乳がんを発症して、おっぱいを取ってたんだけど、転移した。このお兄さんと結婚してるね。髪の毛が一本もない、老けたこの人が、役者もできないようなひどい悲しみ方をしているよ。あと息子、娘、孫。みんな集まっている。どうやら海外の病院みたいだ。医者が金髪だよ。目を半分瞑って首を振ってるね。『どうしようもなかった』って感じだ」。
客たちは微妙な反応だ。2人の「死に様」はあまりにも平凡すぎた。ただワヤンが意味ありげに1人顔色を曇らせていた。
12 ジャッジ・ナカヤマ
そしておもむろにけんかが始まる。芝居小屋の支配人トウゴウとインチキ古美術商のサカマキが衝突事故を起こしたのだ。
NHKにまつわる会話が戦争の始まりだった。
トウゴウはNHKのニュースを「客観性を装った政府の広報だい。大本営発表だい」とこき下ろした。彼の芝居小屋では、登場人物全員が一糸まとわないまま演技をする劇だとか、霞ヶ関の地下にある「悪の組織のアジト」を攻撃する劇だとかがやっていた。彼自身もそういう人物である。
トウゴウは「そうだろう、サカマキ?」と同意を求めた。これに対し、サカマキはちょっと自分のエッセンスを見せびらかしたくなった。彼は洒落ているが安っぽいスーツを、自慢げに着ているような男だ。「それは認めるケド。でもドキュメンタリーは良いものがあるじゃない」と言って、メープル色に染めた前髪をきざったらしくかき上げた。「トウゴウ君はある意味、物事を正当に評価することができないんだヨネ」。
トウゴウは怒り心頭で、「コノヤロー」とサカマキの襟を掴んだ。負けずにサカマキも「コノヤロー」とトウゴウの顎髭を引っつかむ。客がどっとはやし立てる。ボクシングの試合前の雰囲気だ。
誰かが路上に出て「ナカヤマさーん」と絶叫した。
数十秒後には、雨に濡れたスキンヘッドのおっさんナカヤマさんが現れた。アディダスの審判服を着ている。「俺を呼んだってコトは…ジャッジだな」とおっさん。客の説明を一通り聞くと「その方面のジャッジね」とにやりと笑った。
ナカヤマさんは「〈界隈〉の審判」だった。
前職はパチンコの釘師だったが、夜中機械と相対する仕事に嫌気が差し、人と触れ合う仕事がしたくなっていたとき、偶然スナックとカラオケが路上看板の置き方でもめていた所に居合わし、素晴らしい裁定を下したことがきっかけで、色んなもめごとに首を突っ込むことになった。
あるときは、ミッション系女子高の高校生と教師がスカートの丈の長さをめぐりもめていた。ナカヤマさんは「恋をしている場合は青天井」という裁定基準を編み出し、抑圧された女子高校生の人権を守った。またあるときは、とあるホステスと会社重役の愛人関係が泥沼化した。ナカヤマさんは、権謀術数を駆使して別れが避けがたい流れを一変させ、メロドラマのように2人は以前にも増して愛し合うようになった。いまや〈界隈〉では「弁護士を呼ぶ前に一度、ナカヤマを呼んでみろ」と語る人がごまんといるのである。
ナカヤマさんはミラクルクリスマスの客に聞く。「で、誰がいくら払うんだ? 判定は慈善活動じゃないからな」。彼が求めているのは、彼の技術に対するしかるべき報酬と尊敬だった。客はわいわい議論し「ギャラは負けた方が全額負担すればいい」に落ち着いた。
「さあ、張った。張った。トウゴウか、それとも、サカマキか」。ノミ競馬屋の声がかかった。即席の張り場になったテーブルに、おのおのが札束を投げつける。ナカヤマさんはすかさず「誰がどう張ったかおれと馬2人に見えないようにしろよ」と警告した。「あいわかった」とノミ屋はカーテンを外して幕を張った。
「万事良しだな」
スキンヘッドの目がハゲワシのように鋭く光った。ムッソリーニのような威厳の態度で話し始める。
「さてみなさん、今日は『争い』について一考する夜になりそうです。歴史を紐解けば、人間は争いを繰り返してきたことは言うまでもありません。教養不足のみなさんでも、自分の身の周りで、争い事が絶えないことくらいは分かるはずです。ここで、私は問います。人間はどうして争うのか、あなたは考えたことはありますか、と。
どうでしょうか。でも私は確信しているんです。人間たちがそんなことを考えるはずがないとね。なぜなら争いはすでに起こっているものなんです。それが存在した時初めて、争いになる。だから争いが起きたときには、争う相手をどうぶっ倒すかだけを考えて、その根本を見ることなどするはずがない。
さて今宵、ここに猛り狂った馬が2頭います。この2頭のどちらかが勝者になり、どちらかが敗者になります。でも大事なのは人間がどうして争うのか、あなたたちが考えることです。2頭にかけた金のことは忘れてください。あなたが考えることは、人間に生まれた義務なのです」
無駄なくらい厳粛な空気が生まれた。
彼のポケットから、大きな大きなゴングが出る。カンと鳴る。「プレイボール!」。腕がトウゴウを差す。「1回の表、トウゴウ」。
—わああああああああ。
どっと湧いた。店はいつの間にか足の踏み場もないほど混雑していた。
13 ヒラメ顔
ゲートが開いた。トウゴウは顔を真っ赤にして、サカマキを罵倒し始めた。それは罵倒以外の何物でもない。NHKのことなど触れもしない。一直線にサカマキのパーソナリティを否定しにかかっている。「おまえは昔からうそつき八百だ。友を騙し、女を騙し、親を騙してきた。その八百野郎がいまは贋作をさばいているんだろ。お似合いだな。みんな言ってるぜ。おまえはガラクタを売ってるってな。この野郎。骸骨みてえな面しやがって。むかつくんだよ。このうそつき骸骨!」。
どわっと客が湧いた。サカマキはガムをくちゃくちゃと噛んで余裕を装っているが、体がぷるぷると震えている。
カン。ナカヤマさんがゴングを鳴らした。「トウゴウ良かったなあ。気持ちがこもってたよ」と晴れ晴れとした顔でほめる。トウゴウは昇進が決まった陸軍二等兵の表情である。
「じゃあ、今度はどんな反撃がまっているのかなあ。1回の裏、サカマキ」
サカマキの顔に気合いがほとばしる。
「おい、ヒラメ顔。この前、劇団員の女子大生を酔わせて、いてこまそうとしやがっただろう。しかもこいつは個室居酒屋でチューしようとして、ビンタを喰らってフラれたんだ。『気持ち悪いのよ、ヒラメ顔!』ってけんもほろろだったんだろう。あっはっはっはっは。ヒラメ顔とは傑作だな。いつも人の悪口ばっかりさがしているんだろう。しかもだ。その女はピカチューみたいな顔したロリータ女だよ。19歳だよ。どうなってるんだよ。あんた43だろう? いい年してなにもうろくしてやがるんだ、このヒラメ顔! バーカ! このヒラメ顔! バーカ!」
14 波
その夜は狂騒が続いた。人々は笑い、怒り、悲しみ合って楽しそうだった。騒がしさは時間を食べる。夜が深まり、やがて朝の足音がひたひたと近づいた。カワイは次第にアルコールの海に落ちていった。その海は冷たくない。浅くて変な温かさがある。そして海の上には真っ暗な空がある。そして辺りには波の音しかない。
カワイは深い眠りの中で夢を見る。
カワイはあの美男美女のカップルの女と性交している。見たことのない、窓のない部屋には、仄かな明かりが照らされ、天井ではファンシーなセイリングが緩慢に回っている。その部屋の中にある大きなベッド。2人は忙しくまぐわっている。
カワイは彼女の顔を見た。その顔はこの世のものとは思えないほどきれいだ。彼は彼女の顔を手で触った。指で頬から目尻までを辿った。サチはプラスチックのような笑顔を浮かべたままだ。カワイがどんなふうに動いても、彼女はニコニコと笑っている。ただ細めた目の間にある瞳は、カワイをずっと見ている。それがどうしてかカワイの背中を冷たくさせる。
そのとき波の音が聞こえる。部屋の中に波が押し寄せている。
外は海だ。それはなぜか知っている。その海にミサイルが行き交い、爆発が空を橙色に染めている映像が、波を通じてもたらされる。
ベッドにも波が覆い被さり2人は濡れるが、それでもその行為を止めようとはしない。部屋は少しずつ水浸しになる。2人は少しずつ水中に落ちていく。息が苦しくなる。とてつもなく苦しくなる。水の中には〈悪い魚〉が何匹も泳いでいる。〈悪い魚〉は2人を食べてしまおうとこそこそ相談している。横目でこっちをみながら、舌なめづりをし、よだれを垂らした。だけど、ぼくたちはそれをやめることができない。水が、不純物が混じり込んだ水が喉の奥から臓腑にまで染み込み、その毒のせいで息が完全に止まってしまう。
15 雨の構造
雨には人類が確認しただけで176の種類がある。古代ブルガリア人はそのうち4種類しか知らなかった。その雨は176種類の内の52番目だ。細雨と呼ばれるものだった。
占い師の夜の翌日。カワイは安アパートの一室に籠もり、その音を聞いていた。昨日のアルコールがいかんともしがたく後を引いていた。こめかみの間を、細い針金が通っているようだ。体中に巣くったどうしようもない気だるさ。胃腸の痙攣。頭蓋骨の中のスクリーンに途切れ途切れに映る、昨夜の記憶…。
細雨はそういったものを洗い流してくれるように感じられた。この雨は夏の通り雨のように無粋に地面を叩いたりしない。しっとりと世界をなでる。これは地球ができたときからある、素晴らしい音楽だ。
部屋にはカーテンが掛かっている。電気はついていない。雨が虚空に斜線を描く様はそこからは見えない。彼は目を閉じて、じっと動かなかった。彼は雨とは音の回路のみで接していた。雨の音風景は「見渡す限り」広がっていく。一見、均質なホワイトノイズの連なりに聞こえる。だがそれは間違いだ。草の葉、木の葉、川面、トタン屋根、瓦屋根、自動車、アスファルト、電線。雨と合奏するものはあまりにもたくさんある。雨音は場所場所で細やかに異なり、多様だ。耳を澄ませばそれは分かる。彼は音をもとに頭の中に画を描き出した。それは水彩絵の具で描いた、抽象画のようだ。その画は絶えずその形を変えている。
16 クラゲ
彼の耳は部屋のなかに狭められた。静かだ。ぶううんというモーター音。水槽に空気を送り込んでいる。その空包が水を出て空気に触れ、消える。
簡素な部屋とは対照的に、その水槽はとてもきれいだ。真っ白な蛍光灯の光に照らされている。動きはスローモーションのようだ。どことなく、人に鑑賞されるためにできた生き物に見える。彼の体は透明だ。透き通っている。だが、中心部に赤い線がほとばしる。実は猛毒の針を忍ばせている。バラのようだ。
彼はいくらクラゲを眺めても飽きなかった。クラゲがその透明な体を揺らす姿には何かある。カワイの心を捕らえて話さない何かがある。彼はたまに彼に話しかけた。「今日も最悪だったよ」とか「キミは何を考えているんだ」とか。クラゲはうなずきもしない。カワイとクラゲは異相の世界を生きている。カワイは何となくそれで気づいている。でもそれで良かった。
彼の部屋は本棚がある。世界文学全集と百科事典。ガルシア・マルケス、ボルヘス、トマス・ピンチョンの本が並んでいる。本は本棚に収まりきらず、フローリングの床に山積みになっている。
煙草の匂いが充満していた。部屋には灰皿が3つある。そのどれも竹林のようにセブンスターが突き立っている。テーブルには飲み止しのインスタントコーヒーを入れたカップ4つが死んでいる。その黒い水面には乳成分の膜が張り、ほこりが浮かんだ。
彼はお湯を沸かしインスタントコーヒーを作った。飲み止しのカップを、荒っぽく流しに置いた。煙草を吸う。立ち上がると、雨の音は異なる聞こえ方をする。
彼は再び世界を想像する。またたく間に巨大な世界が、頭脳の中に構築されていく。その世界を思うと、心がうずいた。彼は一所にとどまれぬ人間だった。
17 知られざる愉悦
カワイは方々をうろつく若者だった。18歳のころから、ある土地で1年くらい仕事した後、その土地を離れるということを繰り返していた。
いまはバーの副店長に収まっている。仕事に熱意はない。給料は安く、朝方までの仕事でへとへとだった。まだたいして長く働いていないが、また違う土地に行って、もっと条件の良い仕事にでもつこうかな、との思いはある。
副店長になったのはちょっとした成り行きだった。1年前、カワイは他の土地で暮らしていた。だが、その前の仕事から逃げ出して、この街で行くあてをなくしていた。彼が「異常者」であることは、ミラクルクリスマスを見つけ出したことで立証される。そこで予備校教師のワヤンに出会った。彼はカワイの状況を知ると、「いいところがあるよ。ちょっといわくつきだがな」とカワイの手を引っ張った。
そのときはさんざ飲んだ後の深夜4時ごろだ。辿り着いたバー「アンノウウン・プレジャー」には客はなく、店長のハブちゃんはカウンターで一人チェスをやっていた。液晶テレビはむなしくリオネル・メッシのゴールシーンを繰り返している。
店内は南極大陸のような静寂が支配していた。カワイはハブちゃんの雰囲気に着目した。指は禍々しい模様の銀の指輪に占領され、しゃれこうべのネックレスを付けている。顔つきは30代だがピアスが右耳に3つ付き、眉はとても短く整えられていた。高いエネルギーを秘めていることが感じられる。不純物を多く含んだガソリンのような印象だ。
「働き手を探しているんじゃなかったかな。ここにいい若者がいるよ」
ワヤンの大きな声は、静寂とけんかした。ハブちゃんはぎょろとした目を剥いてカワイじっとを見る。「ここで働くかい」。見た目の割に軽妙な声が、そう聞いた。その場で条件を話し合って、その翌週からカワイがそこで働くことが決まった。
18 アンノウン
バー「アンノウン・プレジャー(アンノウン)」が入居するとされる「太平洋興産ビル」は怪しい怪しい建物だった。
入り口はないし、窓はないし、看板もないし、通気口もない。あるのは灰色の塗装を施されたコンクリートの外壁だけだ。6、7階建てくらいの建物の外壁には装飾はなく、のっぺらぼうの平面であり、空気中にグリッド線が浮かび上がりそうなほど、律儀な直方体だった。
推理小説に出てくる、いかにも秘密を抱えている風の大邸宅住まいの未亡人の雰囲気をまとっていた。未亡人は探偵が聞きただすと最初は「あなた、どの口がそんなこというのよ」と高飛車なふるまいだが、ひとたび堰が切れるやいなや、涙と鼻水混じりにばんばんコトの全容を話してしまう。そういう悲しい人間像だ。
ビルは向かいから見るとただのコンクリートの棒に見える。似たような背丈のビルが、求愛するトカゲのようにびったりと肌を寄せ合っているせいで、太平洋興産ビルの異様さが、その〈界隈〉で浮かび上がることはなかった。
むしろ、〈界隈〉の人々の中には、その建物が何らかの重要な機能を担っていると考えていた。酒屋のパタヤじいさん(3年前にタイのパタヤビーチに旅行して、その様子を三日三晩吹聴したことから拝名した)は仕出しで毎日ビルの前を軽トラで行ったり、来たりしており、事情に通暁しているらしい。
「あそこはビルに見えるけど、中身は立体浄水場なんだな。この〈界隈〉は戦前から朝鮮戦争まで軍需工場だった。そのときに地下水に水銀やら何やらが紛れ込んだ。でもこの〈界隈〉は今や酒場があるし、賭場があるし、いろんなもんがある。みんな水を必要だよな。うん」
「————」
「そいで水をきれいにしなくちゃならない。けれども、有害な水だからさ、きれいにするとき有毒なガスが出るわけよ。もくもくもくってな。それを人間が吸うと、DDTをかけられたゴキブリのごとき有様になると相場がきまってるんだ。だからさ、あそこは密封されているんだ。人の命を守ろうってわけだ。ちがうか」
建物ができあがった時期も気になる。ゴンザァレスという、何を好んでかこの〈界隈〉に20年ほど出入りするメキシコ人がいる。そいつはバブルの前からそれがあったと言った。
「バブル前なことは確かだ。バブルの時にこの〈界隈〉は壮絶な地上げがあった。この〈界隈〉の真上をモノレールを通そうっていう話があって、モノレールが構内を通る巨大マンションを、この〈界隈〉を全部どかしてさ、おっ建てちまおうと意気込んだヤツらがいたんだ。でもねえ。この辺の権利関係はDNAの配列並みに複雑すぎるんだ。どう考えても無理な話だった。それでも、3分の1が立ち退きを飲むところまでいったが、あの灰色の建物はどうしても動かせなかったらしい。理由が公に語られたことはないが、そのときの地上げ軍団は『何でもやる』ことで有名だった。しかし、そいつらが根を上げた。だから、相当な力が働いたんじゃないかって言われている。だから建物はバブルの時にはもうあったんだ」
19 アンノウンの入り口に関する説明
どうもいわくありげだ。
ほかにも変な要素がある。それはビルの入り口だ。繰り返すが、ビルは灰色ののっぺりした直方体で 入り口はどこにも見当たらない。
事実はこうだ。
太平洋興産ビルの入り口は「功徳観光ビル」という真向かいの雑居ビルから始まる—。
少しばかり複雑だが、ご了承いただきたい。世の中そういことはごまんとある。自分の細胞を採取して顕微鏡で眺めてみるか、あるいはマクドナルドのアルバイト店員の昇給制度を参照していただければ納得してもらえる。
功徳観光ビルはノンバンクが所有するちっぽけなビルだ。仮死状態の消化器が9台あって、ペットフードの匂いがエレベーターや廊下に染みついている。
さて大事な「入り口の始まり」は1階のゲームセンターの入り口の袖に忘れ去られた下降階段をから始まる。真夜中の森のような暗さに満ち満ちていて、たいまつを使うのが相応しいだろう。
その階段の壁では無数の都会記号の洪水が起きている。上位4位は「キモチよくなりたいでしょ?ユミ090—××××—×××」「千年王国を崇めろ」「生まれながらの囚人」「アメリカに支配されている」。ほかは落選。それから、文庫本一冊分の大きさの絵。それは職人的な神経質さによって精巧に彫り込まれていて、一度見るとそれは頭から離れない。あたかも幼いころから自分の中にあった記憶のような顔をする。じゃあそれは何か。
「蓄音機と犬」の絵だ。
20 曲線をめぐる議論
階段を下ると、4トントラックの荷台くらいの広さの、人をどうしようもなく不安にさせる、がらんどうの部屋がある。その名も「箱」。床はごみが散乱し、鼠と虫とは虫類が這いずりまわっている。得体の知れぬ何かも徘徊している、との主張も散見される。
そこに明後日の方向から、光が空間に差している。裸電球が等間隔でぶら下がり、首つり死体のシルエットを作る。幅50センチほどのコンクリむき出しの通路が燦然と突き抜けた。
その通路の構造に関してはかんかんがくがくの議論がある。
真っ直ぐじゃあないことで一致している。
どれだけ曲がっているかが議論の争点だ。
ほんの少し曲がっていると言う者もいる。ぐにゃぐにゃに曲がっているという者もいる。らせん構造だという者もいる。変わり種では垂直で地下に下っているという者もすらいる。
電球が照らす通路は、蜃気楼のようにぐにゃぐにゃ歪んで見えるため、人の感覚が狂ってしまう。だから、どの説も他の説を追いやるには至っていない。
さらに音が「死ぬ」。階段までは高らかに響いたかかとのスタッカートが地下の「箱」らへんからスポンジケーキを踏むような静けさへと変わり、通路でそれはまったくのゼロになるのだ。すると自分のからだの音だけが聞こえる。心臓の鼓動、血液の環流、筋肉のうずき、呼吸の音…。そして人は内部に外部の音を想像する。それはきまって不吉で、禍々しく、凶暴なものなのだ。
客はついに煌々とした光に行き当たる。ガラス張りのドア。樹脂製の「Unknown Pleasure」と書かれたパネルがかかる。袖に椅子が置かれ、「オンデル・オンデル」というインドネシア・ジャカルタ由来の人形が座っている。陽気さと神性を携えたそれは来客に「また来てね」と話すことで有名だ。その声は「トムとジェリー」のジェリーの愛らしいかん高い声から拝借したなんて言われる。
21 近未来的な店内
アンノウンの店内はエイリアンが暴れ回りそうな宇宙船さながら。語彙の軽やかな人々が「近未来をコンセプトにした〜」と表現したがる、近未来的なお店だった。
間接照明の青白い光に照らされ、壁も床も近未来的にてかてか照り輝いた無機質さの局地とも言うべき空間。近未来系の類のアイテムたちが、奇妙な計算に基づいた配置でぞろぞろ置いてある。ロボットの触手が数本伸び、のこぎりや大型はさみ、ドリルなど剣呑な装備を誇る自動手術寝椅子。カート・ヴォネガットの作品から飛び出した奇妙な時間等曲率漏斗。無重力を意識した天井へと段を低くする階段。壁の一点に向けて固定されたバズーカ砲のごときレンズのハイテク双眼鏡。などなど—。
22 死刑台のエレベーター
だが、最も特筆すべきは奥のエレベーターである。
その老いぼれの造りは近未来どころか昭和というか、戦前の白黒映画である。エレベーターは「棺桶」と呼ばれていた。広さは電話ボックスの3分の2ほど。2人乗ったらボブディランのアルバムの表紙のように身を寄せ合うことは必至。ボタンの横に1964年製造と昔のフォントで書かれているプレートがあり、あるメーカーの「A」の文字が書け黒い着色がごま塩のようにはげたロゴがある。その箱のポンコツさたるやとんでもない。上りながらごとんごとんと大げさに揺れ、吊り縄がきいきいと悲鳴を上げた。モーターの作動音は、メタルロックのバスドラム16分音符連打のごときエキサイティングさを孕む。
「棺桶」の樹脂製の壁は—もとは白かったのだろうか—煙草の脂や空気中の粒子の漂着により茶色く変色しているし、壁の一部は撃墜された戦闘機の鋼板のごとくはがれ、どぎつい銀色の、暴力性を隠匿した鉄板が露出している。足下のカーペットはがさがさ。天井の排気口はとりわけ茶色く、死んでいる。各階のボタンスイッチは、甘いのもあれば、かちこちに凍結したのもある。煙草を置きっ放しにした灰皿の匂いが充満している。このエレベーターへの従業員、関係者以外の乗り込みは厳格に禁じられていた。
23 上階に立ち寄りし者
じゃあ誰がためにエレベーターはある?
それはどこからともなく湧いてくる、奇妙な来客のためなのだ。その上階に立ち寄る人間はことごとく、普通の人間じゃあない。いでたち、たたずまい、顔つき、仕草、癖、言葉遣い、そのどれかが、あるいはいくつかが、もしくはすべてが完全に「普通」の範疇の外にいる。でも、それはやくざもののカテゴリーでもない。むしろ、奇妙な人間、まさしくそれだ。
例えばある着流しの男がいる。この男は頬がげっそりこけ、目も窪み骸骨みたいだ。無精髭。太いまゆ毛。手入れされていない長髪。体の中に埋め込まれたプルトニウム爆弾の起爆装置に配慮するがごとき、ぎこちなくゆったりとしたふるまいには、能楽を観覧するがごとき様式美がある。江戸時代の悪党が使うがごとき、厳めしい細工のキセルを、いつもくわえ込んでいるが、そこから煙が出たのを見たものはいない。
ただ、一つとても不可解な所があった。男はいつも栓抜きを右手に握りしめて来店した。カウンター席を好んだ。やることはいつでも一緒。大げさにどっかと回転椅子に座ると、その栓抜きをカウンターの上にほっぽって、コロナビールを頼む。懐から表紙のひしゃげた、ぼろぼろの数独の本を取り出し没頭する。
そのときに男は決まってある口笛を吹く。ビョークの「ハイパーバラッド」である。それを聞くと、周囲の人々は腰を浮かし、椅子から崩れ落ち、きつねに摘まれた顔をする。そして面白いもの見たさ半分、怖さもの見たさ半分で男の顔を見るのだが、男は数字遊びのさなかで気にもかけない。なんともいえない、独特な空気に包まれる。
あるいは伯爵と呼ばれる小男がいた。きざなストローハットに19世紀にマレー半島で活躍した英国紳士風のスーツを身につけ、横笛のように異様に長い葉巻をくわえていた。顔は若いと言えば若いが、「歳の取り方を忘れたおじさん」のようでもあり年齢不詳だ。この小男は尻尾を切られたとかげのようにせからしく、恐ろしくちょこまかと動き回る。スコッチのロックを飲むにしても、一度ぺろと液をなめる。顔をしかめる。首を傾げる。ため息をつく。グラスを眺める。グラスの位置を下げて、上から液を眺める。鼻をくんくんやる。んーという顔をする。この工程を常人の3倍回しほどの速さでやる、というわけだ。
伯爵はいつも、がっしりしたステッキを持っている。機嫌が良いときはいつも、犬の尻尾みたいに、ステッキはその手のひらを基点にぐるんぐるんプロペラ回転する。それが及ぼす結果は悪夢だ。カウンターの上のグラスやビールびんを叩き壊したり、低い位置に置かれた照明をこなごなにしたりして店の空気を白けさせるし、ちょっと怖〜いチンピラの脳天を叩くのもしばしばで、そのたびにパンチを食らい、伯爵が床に吹っ飛び、ストローハットが数拍遅れて、ふわっと着地する始末だ。が、彼はそんな細かいこと気にしない。どんなに殴られてもニコニコしているし、パンチが効いているフシもない。一度機械仕掛けの熊のようなアメリカ人海兵に12発も殴られたが、やつは何にも無かったのごとく起き上がり、素知らぬ顔でスコッチをお代わりして以来、「不死身」のうわさが立った。
それから、マッシュルームカットの卓球中年も独特だ。彼はぴょんぴょんとジャンプしないと歩けない性質で、彼にかかる重力は常人の半分程度じゃないのかと思われた。飛びすぎて天井の銀色の管にぶつかることもしばしばで、カワイが卓球じゃなくて、棒高跳びのほうが向いてるんじゃないか、セルゲイ・ブブカになれますよ、というと、いつもニコゥ〜と笑っている顔が、様式便器が称える水のごとき真顔に変わった。結局、彼はカワイの言ったことをすっかり無視した。
彼はルーティンを大切にしていた。いつも角のボックス席で、1時間かけて卓球ラケット手入れするのだ。飲むのはピナコラーダ。酒は飲まず、グラスを彩るチェリー、オレンジ、パイナップルだけを喰らう。それから数万円のラケットに卓球クリームを塗り、フェルトで丹念に拭き取る、ぼさぼさになった、毛筆のようなものをしゅっしゅっとあててホコリやごみをとる。ラケットへのまなざしは我が子を見つめる聖母のそれのごときであった。
おわかりになっただろう。変な人間ばかりだ。
24 例外はつきもの
だが、突然変異の存在も確認できる。まったく普通の青年1人がいた。いつも量産型の黒っぽいスーツを着て、無個性の黒い革鞄を持っている。とても自然な速度でフロアを歩き、滑らかな動作でエレベーターのボタンを押し、すっとそれに乗る。店員たちは彼が何物かとうわさした。どこかの二流企業の新入社員だろうと店員の推測は簡単に一致した。
それもそのはずだ。その青年の普通さには隙がなく、トンカチでたたき割って、臼で引いて、手でこねてこねてこねても、それは元の均質性を保ち続ける類の普通さだったのだ。人間国宝ものである。
例えば顔。そこには誰かが職人的な几帳面さであらゆる特徴を抜き取った形跡があった。奇妙なことにそれは5分経てば忘れる類のものだ。誰も彼の顔を思い出せなかった。彼がやって来たときも、記憶はおぼろげで「あいつはあんな顔だったかな?」となる。でも、結局はなんとなく「そういや、あんな顔だった気もするな」に落ち着く。それの繰り返しだ。
この青年と話した者はいない。
彼は入り口から真っ直ぐ「棺桶」に乗るのが常だった。
25 じゃあ、上階は何なのか?
じゃあ上階は何なのか?
という疑問が当然湧く。
「当然、死体処理場でしょうね」
それが、「名探偵コナン」が好きなアルバイト店員エミの視点だ。
「たぶん、死体を持ち込んで、肉屋みたいに肉包丁をばんばん使って、ばらばらにしているのよ。脂肪はそのまま石鹸やロウソクにするけど、ほかの肉や骨は粉々にして消しゴムくらいの塊をいくつも作るわけ。それを靴下の中にコソッと隠して、何回にもわけて外に運び出しているに決まっているわ。そうね、謎は解けたわ」
あるいは、上階は仮想空間があるという刺激的な説の持ち主もいる。留学生のアルバイト店員ティヤンだ。「ぼくが開発した計測器によると、上階では時空のねじれが生じている」。なんでも計測器は時空のねじれが生じる際に放出されるスクモ粒子の量を計れるという触れ込みである。「おそらく上階では、仮想空間が現実空間を浸食している、という事態が起きている。誰かが作った仮想空間が、何かの間違いで、現実に表出し、そのまま流れ込んでいるのだろう」彼は思慮深げに顎を掴む。「裏を返せば、その〈亀裂〉に入りこめれば、現実の人間たる自分が、仮想空間に入れる。これはものすごい逆転現象じゃあないか」彼はものすごい発見をしたという顔をする…。
でも一番人気はもっと俗っぽいものに落ち着いた。
—秘密結社のアジト。
そこではならず者が集まって、ひそひそと悪い相談事。「どうやって社会の転覆させるか」知恵を絞る。彼らはことごとく今の世の中から無視され、疎外され、虐げられてい。家族の命とかくらいはとっくに奪われている。このまま生きていても八方ふさがり。だったら、おれたちで新しい社会を作っちまおうとなるのは、歴史とされるものの中じゃまったく変なことじゃない。「今は北朝鮮と連携して、東京に核弾頭を搭載したテポドンを落とすという、狂気じみたプランに夢中なんだ。ヤツらは!」。冗談好きの店員サカモトはそんな説をぶつ。
だが、結局のところ上階が何なのか、確かな情報はない。肝心なことはしっかり守秘される。うわさの雲に包まれた謎の場所、というわけだ。
カワイは店長のハブちゃんに尋ねたことがある。ハブちゃんはきょとんとしてから、意味ありげな笑いをした。「知らない方が良いこともあるんじゃん」。ハブちゃんは目をむいた。「そういうの気になる人はウチじゃ働けないんじゃん?」
彼はカワイを見つめた。「っていうか、実はオレも知らないんだ。オーナーから知らなくて良いって言われている。ああ、そうだ。安心してくれ、オーナーは麻雀と盆栽と孫を愛する偏屈な爺さんだ。ヤバイ筋じゃない。みんなそういうのは気にするからね」。そう言うと、彼はうまそうにマルボロメンソールを吸った。
26 色狂いのハブちゃん
そのハブちゃんも一筋縄じゃいかない。一言で言えば色狂いだった。体を合わせた女は「覚えている」だけで400人と豪語する。30代半ばだが、枯れるところを知らない。黒い髪の毛は沐浴したばかりのようにつやつやし、顔は油でてかてかしていて、ホルモンの活動があきらかだ。身長170センチと小さいが、筋骨隆々で、立っていると駐車している装甲車のような印象を人に抱かせた。一重まぶたの細い、人のよさそうな目に、天狗鼻が特徴的だ。
結婚、離婚ともに3回した。1人とも1年保ったことがなかった。1人目との結婚は彼が18歳のとき。相手は16歳の高校生だった。2人は両親に反対されたまま届けを役所に出したため、大っぴらな結婚式を上げられなかった。だから、知り合いのレストランでちょっとした披露宴をやったのだが、それが仇になった。ハブちゃんはそこで新婦の女友人タカサキ・マリとねんごろになり、その翌日には郊外の古ぼけたラブホテルで関係を持った。それはすぐさま新婦に露見した。婚姻届の2週間後に離婚届を出すハメになった。
2人目との別れは「4股」が原因だった。2人目が雇った私立探偵が調べたところによると、ハブちゃんは妻以外の3人を五反田のラブホテル「伊賀の城」の302号室に連れ込んでいた。302号室は豪勢な造りが有名だ。天井が水槽で無数の熱帯魚が泳ぎ、貝殻を模した円いベッドは緩慢に回った。ガラス張りのシャワー室に透明なガラス造りの便器と趣が凝らしてある。彼はその部屋の片隅にあるスロットマシーンを打ちながら「妻とはじきにわかれるぞう」とうそぶくのが癖だった。
3人目とは半年保った。彼女は売り出し中の写真家で、芸術肌なのだろうか、彼が他の女と同衾するのをとがめなかった。しかし、彼女は高名な賞を取り、審査員だった女癖の悪いベテランの有名写真家に見そめられると、あっさりハブちゃんと袂を分かった。
この激動のできごとを経ても、ハブちゃんは1ミリたりとも傷ついていなかったし、後悔もしてなかった。彼は終始無邪気でいれる強い心臓を持った。それは類い希なる才能とも言えるし、巨大なる不幸とも言える。
ハブちゃんは店の経営にも無邪気だった。副店長のカワイは帳簿を見ることができた。店はこの16カ月黒字がない。イチローがヒットを量産するように、店は小さな赤字をコンスタントに積み上げている。売り上げの折れ線グラフの推移を見ていれば、この店が潰れることが簡単に思い浮かんだ。従業員が少しずつ減っていき、営業時間が次第に短縮され、メニューが減り、やがてある日、フロアが空っぽのコンクリがむき出しの「がらんどう」になる…。
だが、ハブちゃんにはこれぽっちも危機感がなかった。カワイは何度か黒字にできるような妙案を出したが、ハブちゃんはにべもなく蹴っ飛ばした。あるときカワイが食らいつくと、ハブちゃんは「仕方がないな」と事情を白状した。
「この店は赤字で良いんだよ。小さな赤字を『こつこつ』と積み重ねていく。それでいいんだ。赤字は確かに悪い。でもさ、ときには良いもんなんだ。つまりこういうことだよ。ここのオーナーのジイさんはさ、いろいろ事業をやっているんだ。この店の赤字がさ、ジイさんの税金対策になるらしいんだよ。下手に黒字になると、いろんな所で加税を喰らうらしいんだ。ジイさんはお金が大好きだからさ。お金の使い方を知らない役所にはこれぽっちも払いたくないわけよ。『役人は金をムダにする天才だ』。ジイさんの口癖さ。確かに赤字の方が良いってのは変な話だけどなあ。まあ、そういうことなんだよ」
27 似かよりすぎた日々
そう言うわけで、カワイは成功した社会主義の社会で暮らす市民のように、仕事へのやる気がなくなった。彼には、土地に留まる時期と、土地を捨て新たな土地を探す時期が絶えず入れ替わるというリズムがある。まだ、新たな土地を探す時期は来ていない気がしたし、仕事は土地にしがみつくための、避けられない手段なだけで、まあ、仕事で何かを達成する必要は必ずしもなかった。
だが、ベクトルを持たない仕事というのは、つらい。特に彼は日本の社会を嫌いながらも、その社会が強制的に個人に課すルールにはどっぷりと浸かってもいた。彼は人生の中で何かを成さなくてはならないという固定観念から逃れられないし、組織のために個人を犠牲にする「常識」からも自由じゃない。自分がいま、名も無き月曜日から日曜日の間に繰り返していることが、自分の部屋の中の水槽に閉じ込められたクラゲが成すことまったくおなじではないかと感じるのだ。それは、すごくつらかった。
28 AM4
それは宇宙のどこにでもある午後4時だった。人はそろそろ語るべき言葉を失い、夜の闇の深さが最高点ににじり寄り、鳥はそれを恐れて身を隠しながら、やがて来る夜明けを待ち受けている。
アンノウン・プレジャーのテニスコート1・5面分の店内では、何もかもが黙り込んでいた。硬質的で白いリノリウムの床も、ビールサーバーの金色のノズルも、着流しが忘れていった数独の本も一言も発しない。音を吸い取って無化する吸着剤が、空気中に散布されているせいかもしれない。
この時間は地球が違う惑星へと密かにすり替わるときとも言われる。特にこの密閉された地下には、他の惑星から離れた、淋しい惑星があてがわれていると思われた。その惑星には人は住んでいない。その惑星を包み込む特殊なガスを含んだ大気に適合した、陸上型タコのような異星人が住んでいて、人とのコンタクトのタイミングを待ち望んでいる、のかもしれない。
経営面から見れば、店はとても暇だった。テーブル席16卓のうち埋まっているのはたった3席。そのグループたちも朝を待ちながら、言葉少なげにのんびり酒を飲んでいた。
奥に4畳ほどの事務所がある。備品を入れた段ボール箱、行き場のない酒のケースが積み上げられているせいで、とっても狭い。カワイはそこの背もたれが壊れた椅子に、だらしない姿勢で座り、ぐうぐう居眠りしていた。傍らのデスクトップパソコンでは、スクリーンセーバーが騒がしく画面を動かしている。彼に気づいてほしそうに、ウィンドウズのマークを入れ替わり立ち替わり浮かばせていた。
けれど彼の意識はほかの惑星にある。そこのサボテンも何にもない荒野の上で大の字になり、うっすらとした夢を見る。それは起きたら霧散するはかない夢だった。その夢の機密性は高く、内容は分からない。ただ、それがおそらく無人機に関するものだというのが定説である。その間、彼は海流のようなものを体の中に感じていた。ほのかな寒気の粒子が背筋を回遊する。小さな予感がある。
29 夜明け前の化学反応
アルバイト店員のフクタとエミが店を回していた。だが、2人にはすることがなかった。閉店準備も前倒しで済ましている。黙っていると、深夜の静けさに飲み込まれてしまうから、2人はおしゃべりをした。2人は大学生同士で話題が合った。講義が退屈だとか、サークルがどうしたとか、将来就職をどうするだとか、そういうことだ。深夜4時には不思議な魔力がある。人をとても淋しくさせる。厳寒の中で人が身を寄せ合うように2人は距離を縮めていく。
フクタは女と別れた話をした。半年前までイエローページを読むのが趣味の一風変わった女子大生と付き合っていた。女は可愛かったし、楽しい性格だったが不思議なところがあった。フクタはときどき彼女が何を考えているのか掴めなかった。彼女との距離はいつの間にか、開いていった。気づいたときには、彼女は成人式で再会した元彼と復縁していた。フクタはそれを、渋谷の裏っ側のちょっとおしゃれなカフェで突然知らされた。「運命の出会いだったのよ」。女の最後通牒はとても残酷だった。フクタはショックだった。「自分勝手な言いようだよな」とぼやいた、けど相手にはあんまり響かない。水槽の中で1人でしゃべっっているようだった。
フクタは髪の毛さらさらした、普通の男の子だ。山陽にある元陸軍士官学校の男子校を出たせいで、女の子が得体の知れない生物に見えるところがある。目にかかりそうな髪の毛が彼のシャイさを代弁していた。
すると、エミもまた1週間前に彼氏と別れたことを伝えた。彼女の話は、几帳面に片付けられた建築家の仕事部屋のようだ。さっぱりしている。いわく、その男はものすごくだらしなくどうしようもない奴だった。一人暮らしのアパートはごみ屋敷のごとく汚く、デートには決まって3時間遅れでやって来た。大学の成績は惨憺たるもので1年、2年と留年を繰り返し、卒業が危ぶまれていた。「将来はお前に食わせてもらう」などという。彼女は別れるきっかけを掴めず、たまたま交わった情に流されて、ずるずると付き合ってきた。
エミはショートカットに知的そうな縁眼鏡、黒髪の意志の強よそうな女だった。すべてを断言する物の言い方をするが、それがいやな感じに聞こえない感じだった。
2人は、なんとなく、前のめりになっている。無意識のうちに。それが2人をさらに共犯的にさせる。行き着くところはなんとなく見えている。
30 水槽トーキー映画
そして午後4時半だった。
4時との区別などつきようもない4時半。
火星にあった意識が、カワイの頭蓋骨の中に戻ってきた。カワイは立ち上がり、店を閉める準備をしようと思った。あごを触る。髭が生えてきている。
カウンターで話し込む、フクタとエミの2人を横目に見ながら、宇宙船の司令室のような近未来的な造りの内装に目を走らせた。
ただ1カ所。意趣を別にする造りがあった。それは4つある壁の一つに貼り付けられた水槽だ。中には無数の金魚が泳いでいた。それは悪くない光景だった。金銀黒赤色の金魚が行き交ったり、水車の模型で遊んだり、お互いを追いかけ回していたりしている。水の透明感。青白い蛍光灯の光が色とりどりのうろこの美しさを際だたせていた。
これはハブちゃんがある客のいない夜に、うんうん唸りながら悩んで、いきなり「ようし、壁面金魚鉢作ろうよ」としゃべり出してできた。何のことか分からずうろたえるスタッフに、彼は念を押した。「ねえ、壁面金魚鉢。良いアイデアだろう。金魚は中国で幸運を運ぶ魚ってされているじゃん。金魚がいれば、ある意味、客が来る気にもなろうもんよ」。その翌日には業者が入り、高額の水槽の取り付けが始まった。
カワイは水槽の横に穿たれたドアから、暗い裏手に回って、水槽にエサを放り込んだ。金魚は緩慢にエサを追っている。想像するような、エサの取り合いはない。「飯か、面倒くせえなあ。いかい、飯を食わないと死ぬってえしなあ、まあ喰っとくか。損はねえだろう」。カワイは吹き込みをやる。水槽を照らす蛍光灯の青白い光が、彼の無機的な顔を照らしていた。彼の顔の造りは悪くない。世に言う美男とは違うが、なんだろう、ガンダーラ美術の彫刻のような趣がある。
彼は金魚の活動写真をにらみつけては、吹き込みをやった。
「はあ、なんてたって退屈だい。世界がまるごとひっくり返んねえかな。それでオレたちだけが生き残るんだ。世界にはオレたちだけしかいないから、それは完全なる自由だ」とボーイフレンド役の赤い金魚がガラの悪い声を出した。ひどくやさぐれているがロマンティックなところがうかがえる。
「あなた、なんて馬鹿なこと言っているのかしら。この世界に生まれたんだから、楽しく生きなくちゃ馬鹿みたいじゃないの。分かる?こう足並みを世界のモードに合わせていくの。私たちはそうやって自由になっていくのよ」と呑気なガールフレンド役の黒い金魚が言う。
「だけどよ、オレたちの運命はこの水槽の中に閉じ込められているじゃあねえかい。それが現実だ。この狭い個室の外以外を、知らないままぽっくり死ぬんだ。オレはそれがいやでいやでしょうがねえんだよ」とボーイフレンドが嘆いた。
「そうね…」とガールフレンドが重たいため息で応じた。「ここから出れば、もっと広い世界があるのに。私たちはどうやっても出られないのよ。それは、とっても悲しい事実だわ」。彼女の目には諦めの色が浮かぶ。その色は深海の碧のように深かった。
「そうだよなあ、おれたちの一生は人間が仕組んだところから始まるじゃあねえか。世界の映像を得たとき、そこは養殖業者の大型ビニール水槽だったなあ。青いんだよなあの水槽はよ。それでちょっとしたら買い手がついて、この水槽にまっしぐらってわけだ。おれたちには、この次はない。ここで歩止まりだ。ある日、体の力が抜けて、水面にぷくぅと浮き上がるのを待つだけなんだ」。ボーイフレンドの声は、どうしようもない絶望感に震えている。
「ちょっとあんたやめてよ。そんな風に言われたら、自分が無様に思えてくるじゃない、やめてよ」
すると、ボーイフレンドはおもむろにランボオの詩を詠んだ。
また 見つかった。
—何が、—永遠が。
海と溶け合う太陽が。
俺は架空のオペラとなった。俺は全ての存在が、幸福の宿命を持っているのを見た。行為は生活ではない、一種の力を、言わばある衰耗をでっち上げる方法なのだ。道徳とは脳髄の衰弱だ。
そこで、カワイは声優をやめて、自分自身としてしゃべる。
「なあ、この世界には海っていう広い場所がある。海は世界のどこまでもつながっている」
声には抑揚が欠けていて、換気扇の騒音のように人の意識に引っかからないものだった。彼の顔はなんだろう、さっきよりも青白さを増し、生き物というよりも、インチキ現代芸術家がこしらえたオブジェみたいだ。
31 怪しい来客
カワイはむき出しの山刀のような視線を与えるヤツがいることに気づいた。えさやりに集中しているそぶりで、その視線の糸を引いて手繰ってみた。ガラス2枚と水槽の水が光をよじらすせいで映像はぐにゃぐにゃに歪んでいるが、ベージュ色のフロックコートを着た男が見えた。
「フロックコート?」。カワイは思わず口にして、それが深夜に響いて口をすぼめた。もう夏になろうとしているんだぜ…。心中でそうつぶやいた。
男が座っている姿は積み重なった洗濯物さながらだった。彼の着ているフロックコートはこれでもかというばかりにへなへなだった。生地を見れば、そのムラのある色落ちは、古い写真を見ている感覚を覚えさせる。
彼はメジャーじゃない競艇場にいる、負けだか、あるいは諦めだかを背中に抱えたおっさんに相似していた。まぶたは雪を乗せた木の枝のように垂れ下がり、ぼうぼうの口髭は手入れされないまま血色の悪い唇の上に乗っている。目の光は水銀が混じったように汚濁している。
ただ酒の飲み方には、軍隊上がりじゃないか、と思わせるフシがあった。フロックはコロナビールを能率的な操縦士を得たショベルカーのごとく、ペースを保ちながら飲んでいる。はじめの1口はぐいといき、2口目から老練のプロゴルファーのごとく刻んでいく。すぐに空っぽの瓶のできあがりだ。
そして酔いは全然顔に表れない。その顔の硬質さはものすごい。建物を破壊する、チェーンで吊られた鉄球を想起させた。野球のホームベースのような顔の表情はまったく変わらない。ただギョロついた目がにょろにょろと動くだけだ。不気味。
「おれはなあ、嫌いなもんが一つある。なんだか分かるか」。フロックはふいに言った。唄いすぎて喉を潰したロック・シンガーのようなしゃがれ声は、その意外さも混じって、空白のなかにふんわり浮遊した。
「分かりません」。カワイは新しい、ライムを載せたコロナビールの瓶を男の前に放った。フロックはそのライムをぎゅっと絞った。一滴たりとも無駄にしないくらい念入りなやり方だ。それから口を斜めにして言う。
「オマエの嫌いなもんはなんだ?」
一口目はぐいといく。のど仏がスロットマシーンのハンドルのような具合で勢いよく動く。「オマエの嫌いなもんはなんだ?」。椎茸みたいな鼻の先が血中のアルコールのせいでぽっと赤くなっているし、しゃがれ声のせいで、あんまり圧迫感はない。
32 ピッチングマシーンをめぐる考察
そこでカワイは宣誓した。
「ぼくには嫌いなものがあります。それはピッチングマシーンです。ああいう均質的な球を放る機械には、ぼくは底知れぬ憎しみを覚えるのであります」
フロックは読売新聞の論客みたいに真っ直ぐカワイを見て真剣に話を聞いている。
「ネッド・ラダムさんと呼ばれた人がいますって知ってますか。イギリス人です。彼は機械に職を奪われると考えて、靴下製造器機械をぶっ壊して、それがラッダイト運動と呼ばれるものにつながります。そのときには、機械がわれわれの社会に深く入り込む時代がやってきていた」
カワイは球廷場の誓いでもやるように、ぴしと指を立てる。
「何を言いたいかっていうと、シンプルです。ぼくもラダムさんのように、ピッチングマシーンをやっつける覚悟があるってことです」
「確か、バレーボールにも似たような機械があるな、あれはどうなんだ?」
「大丈夫です。あれは雑魚です」
「雑魚か」
「あくまで、本丸はピッチングマシーンです」
そこで、ドスン、とフロックがカウンターを叩いた。
「おれは他人に対し二通りの出方しかしない。つまり信頼するか、しないかだ」
彼はからからに渇いた笑い混じりに言う。
「おれはおまえを信頼する。ピッチングマシーン。そうか、そんな悪いやつのことをおれは忘れていた」
33 処刑
それで、早速、繁華街の真裏にある、ひっそりとしたバッティングセンターに照準が合わされた。そこは寂れていて、何重もの緑色のネットと金網に覆れている。田舎の公衆トイレの電灯のようなか細い照明が、表の繁華街の眠らないネオンとのコントラストのなかで、早くに子どもを亡くした夫婦のように淋しそうに見えた。
カワイとフロックが訪れたときには、北欧の狼のような髪型のホスト2人組がわいわいいながら、バットを下手くそに振り回しているだけで、他には誰もいなかった。それもそのはず。時刻は午前5時を少し過ぎたばかり。小鳥がちゅんちゅんと朝日が上る時間について周到な打ち合わせをしているのが、都会のあちらこちらから聞こえた。
そのバッティングセンターは80キロ、100キロ、120キロ、140キロの個室がありストレートとカーブ、スライダーなど球種も選べる優れもの。しかし、過激派はさっそくけちをつける。「こういう速さとか球種とかを選べるのが、とかくダメなんだ。ピッチャーがどんな球を投げるかは、『神のみぞ知る』だろう。これこそ人類の堕落じゃあないか」。フロックは数世紀前からピッチングマシーンを恨んでいたかのように演説する。ディビッド・ボウイを真似た身振りを交えるのが、彼の粗雑な顔つきや丸っこい体にてんで似合わない。「球は人間が投げるもんだ。人間の体の微妙なバイオリズム、精神の揺れが球に影響するんだ。だから面白いんだ。そうだろ、カワイ?」
カワイはあっさり言う。「当然その通りであります」。
さらに球が出るときには、マシーンの手前に据え付けられた液晶に映る、実物ピッチャーの録画映像が投げるふりまでしてくれる。それもまたカワイたち過激派の心を逆なでした。「おかしい。このピッチャー野郎は何度投げても、寸分違わず同じモーションじゃあないか」。フロックは義憤に打ち震えていた。「ゆるせねえ、この機械は万死に値しやがる…」
フロックは金属バットを引っつかむんで、猪のように突進した。ピッチングマシーンは殺気を察するのか、ピッチを上げてフロックに球を投げつける。それはフロックの胃腸をタフに打撃するけれども、致命的なダメージであるわけがなかった。
フロックはバッドを振り下ろし、間を与えず何度も何度も念入りに叩いた。マシーンはぺしゃんこになって、死にかけのバッタの足さながらにベアリングを回していた。かしゃんかしゃん。かしゃんかしゃん……。ものの悲しげな断末魔だった。
その残酷な処刑は残りの8台のマシーンにも下された。フランス革命のような決然とした意志を込めた処刑だった。最後の一台のときに、フロックが「ちょっとイイことを思いついた。このマリー・アントワネットにはもっと特別なステージをあてがってやろうじゃないか」とか言った。
34 金好き坊主
フロックはエアコンのリモコンみたいにコンパクトな携帯で誰かを呼んだ。「マリーアントワネットの処刑を手伝ってくれ」。すると間もなく東京の街にそぐわない大振りの黄緑色のダンプ・トラックが、その土汚れを付けたヘビーデューティな肢体をやかましく揺らせてやって来た。高い運転席から出てきた法衣姿の坊主は、バーボンと女物の香水の匂いがぷんとして、この世の穢れに首まで使っている、そんな欲深い顔をしていた。席の奥にはスカートをはだけさせた年増のホステスが、鼻提灯を付けて眠っている。それは妙な光景だった。が、坊主は意に介さず法衣の袖をまくりながら、ひょうひょうときいた。
「やあやあ、どこだね、マリーアントワネットちゅうのは?」
「こいつさ」
フロックは処刑におびえて黙り込むマシーンを指差した。坊主は見ると「うひゃあ、こいつは傑作だ。どう見てもお姫様には見えないねぇ〜」と破顔一笑した。「他の無産貴族の方々はどうなすったの?」フロックは「こいつ以外はみんな死んじまったよ」と言う。「あんたらが殺したんだろ?」。坊主は両手で口もとのよだれを押さえながら、哄笑した。「いやあ、たいしたバカだ、あんたら。かっはっはっは」
それから坊主は大げさに手を合わせて、念仏をやり出した。が、「やめろよ」とフロックがさえぎった。「おれはお布施ってのはやらないよ。貧乏人なんだ」。「なに? 念仏のために呼んだんじゃないのかい?」「ちげえんだ。そのダンプに用があるんだ」とフロック。「へっ? ダンプに用があるだって?じゃああたしにゃ用がないってぇ言いぐさにきこえますわなあ」「なにいってんだ。おまえがいなきゃ、誰が運転するんだ、金好き坊主よ」「へっよく言うよ。このおっさんはねえ」
坊主が来てからというもの、夜はおかしなムードを深め始めた。怪しいざわざわが、その闇の液体に足された。そう、もうすぐ開けそうだというのに、夜はどうも間違った出口に、決然と進み出した感じがある。カワイはそう思った。
3人はマリー・アントワネットをダンプの後部に乗せる間、コトの顛末を2人から聞くと、坊主はカワイの方を向いて「こんな変なおっさんと関わっちゃいけないよう、ぎゃははは」と噴き出した。「良いんですよ。ぼくはぼくで楽しんでるんですよ」とカワイは笑みを浮かべて答えた。「分かってるよう。あんたも変なヤツなんでしょう。この夜明け前の時間には、みんな顔が正体を現すんだ。あんた、あどけない、子どもみたいな顔に見えるけど、狂気じみたところがあるんだろう。そんな顔してるよ」
坊主は上方落語家のような男だった。ハンドルを握りながらべらべら一席ぶった。「あたしには好きな物四つあるのさ」。それは完璧な自己紹介だった。「それは酒と女と金と釈尊だ」。彼は高笑いした。これで彼の人となりが分かるというものだ。
「あたしゃね。お墓を売ったり、偉いお父さんから相続したりしてね。お金には不自由してないのさ。しかもだよ、あたしにゃね、お金もうけの才覚があったわけよ。こうコツが分かるっていうのかね? 金は増えたし、バブルでもリーマンショックでもあたしはぜんぜん倒れなかったんだからすごいもんでしょ」
ふう、とため息をつく。
「でもねえ、いくら金があってもねえ、こころは買えないんだよぅ。ぼくは若いころ、大切なものを喪失したんだなぁ。あれは悲しかったなあ」
そのとき東京に朝焼けがやって来た。坊主は妙なにやけ顔だが、絶望的にくたびれていた。顔の肌は干からびたみかんの皮みたいにがさがさで、目の下は真っ青のくまがある。歳は30台後半くらいだろう。その傍らで、ジャミラのような年増のホステスががあがあといびきをたてた。硬いシートの上で姿勢は崩れかかり、風船のような腹が呼吸とともに上下していた。安っぽいピンクのニットの肩口からは、首近くまでせり上がったブラジャーが異様に露出したが、まったくセクシャル感がなかった。
35 処刑のエクスタシー
坊主とフロックコートと陰気な青年による変人小隊は、午前6時のJR渋谷駅ハチ公口の交差点に到着した。薄い朝日が差し込み、うっすらと冷気が漂っている。一晩中荒れ回った人間の欲望たちの渦巻きがどこかに去り、変わりに砂漠のような静けさが路上を支配している。それはあたかも試合に負けてロッカールームで呆然とするボクサーのように憔悴していた。
ダンプトラックのごつごつした体はそんな雰囲気にあまりにもそぐわなかったが、幸い街は注意を払うような活力を失っていた。
「さあ、マリー・アントワネット嬢の処刑の始まりだ」。坊主は交差点の中央でダンプを停車し、足下のレバーを引っ張った。4人とも車を降りて見物に回る。ビービービーといううるさいアラーム。荷台が緩慢に傾きを増す。やがてマリー・アントワネットはずるずると荷台を滑り、最後には水面を目指すトビウオのような角度で、交差点のアスファルトに衝突した。
機械とアスファルトがぶつかる可憐な叫び声が、冷たい路上に響いた。残骸はぺしゃんこになったショートケーキのようだった。4人は最初目をつむり、それから刑の執行が粛々と行われたことを祝して、拍手をした。渇いた響きだった。その後坊主は念仏をやった。ほかの3人は再び目をつむり、神妙にそれに聴き入った。最後に坊主は「魂があちらに行かれました」と奥歯が重たくて仕方ないというふうに、じっとりと語った。
ぱらぱらとやって来た人々は、その残骸を無視して自分の行き先に急いだ。交差点を見下ろす、ビルのオーロラビジョンはコスメティック製品のコマーシャルを流している。そのコスメを塗れば、芸能人の○○さんのような美白肌が手に入る。昔振り向いてくれなかった美男子が「あれ」という調子で振り向く、しかもその魔法のコスメがなんと1980円と破格のお値段だからびっくりだ。「さああなたも『美白美人』になりましょう」と訴えかける。
それはからからに乾いた鎮魂歌だった。
36 ホステス
3人はその後ガードレール下の24時間営業の中華料理屋で「葬儀」と理屈付けてびんビールを飲んだ。
「マリー・アントワネットと7人の王族に」
そう言って、フロックは中華料理屋のちっこいコップを持ち上げた。3人も「マリー・アントワネットと7人の王族に」と応じた。飲み干したビールは、レモンを搾ったように酸っぱく感じられた。我々は鎮魂歌を歌って周囲の注目を浴びた後、しばし黙り込んだ。
カワイはもうくにゃくにゃだった。中年2人も疲労の色も濃かった。外から差し込む朝日もなぜか、夕日のように映った。たばこはもう、ちっともおいしくないのに、吸う作業を止められない。踵のくつずれが気になるし、靴下の中もむずむずしている。
24時間営業のラーメン屋にはほかにも「昼まで組」がたくさん集って、ラーメンなんか食わないで、ビールを飲んでどやどやとしゃべっていた。
ホステスは長い眠りから目を覚まし、元気いっぱいに自分の生い立ちをまくしたてた。「わたしは秋田の農家の四女として生まれ、口減らしだからと親が手放して、中学を出たときにマスターシュのおっさんに手を引かれて東京に来たのが運の尽き。器量が悪けりゃ地方の旅館か、あんま師ってのが相場だったけど、幸い器量が良かったから、麻布のクラブで働きながら女優を目指したのよ。でもねえ、残酷なもんよ。きれいな女の子は世界にごまんといるの。自信がなくなったわねえ。それでもひいきにしてくれる人はいたし、有名な俳優とも付き合ってたんだから。ほら知っている?××××っていうのその人。ええ知らないの?まあそうね、知るひとぞ知るってところもあったからねえ」
ホステスはラッキーストライクをせかせかと吸った。すぐに一本が燃え尽き、数珠つなぎで次の一本に行く。彼女の眉間には特撮「ウルトラマン」のオープニングタイトルさながらのぐにゃぐにゃしたしわが寄っていた。
「それでも、だんだん仕事がいやになってね。一度、仲良かった友だちと一緒にカラオケバーを始めたのよ。最初のうちはうまくいった。お客さんがたくさん来て、来る日も来る日もわいわい賑わった。だけど、ものごとはそんな簡単にはいかないものなのね」
ホステスは18歳のチンピラのような煙の吐き方をする。
「ミホっていう女の子がいたの。その子は女の私もはっとため息ついちゃうくらいきれいだったのよ。お客さんはねえ。みな彼女に夢中だった。彼女はとても頭の良い子だったから、皆と同じ距離のまま付き合ったわけ。だから彼女はみんなのアイドルだったわけよ。でもね話はちょっと難しいのよ。ミホはごっつい借金抱えてたのよ。利息を返すのだって難しいくらいのをね。
だから、ミホはあるとき、上客だった小太りの不動産屋に囲われるの。借金の肩代わりを条件にね。でもね、その不動産屋は悪〜いヤツでね。ミホをマンションの25階に住ませて家政婦を付けてね、外に出るのを禁じるの。そのマンションはすごい豪奢だったわ。部屋の中に滝が下っているし、そこから東京の摩天楼の前景が見えた。けれど、彼女は城に閉じ込められたお姫様になったわ。不動産屋とは週に2回、そのマンションで会うの。それ以外の時間、彼女はひがな地下のプールに行ったり、スポーツクラブに行ったり、構内のコンビニで肉まんを買ったり、DVDを見たり、雑誌をよんだり、インターネットをしたりして暮らすわけ…。
彼女の心がおかしくなるまで時間はかからなかった。彼女は私に涙ながらに電話したわ。私は彼女を城から逃がすことを決心した。私はそのマンションに行ったわ。すごいのよ。ラクシュアリー極まりないわけ。マーライオンっていうの? あれがね、入り口のところにいるし、バリ風のボーイがかしずいてくれちゃったりもするわけよ。受付には、クイズ番組の司会者みたいな、イタリアのスーツを着たダンディなおじさまがいるのよ。そこはとっても良い匂いふわっとしてね、空気が外界の7倍くらい澄んでいるの。すぐにゴージャスな気分になっちゃった。なんでこんな良いところに住んでて満足できないのよ、ミホは、って思ったわ。正直なところ。私がミホに代わってあげてもいいのにってね。うふふふふ」
彼女は3人の顔を見回した。それからビールをひょいと一飲みした。鼻をすんすんやると、鼻の右側の大きなほくろがぴくぴく動いた。
「ああーうまいわねえ、朝飲むビールは」
37 運命はベートーベンだけのものじゃない
3人はダンプトラックに戻る。トラックが走り始めるやいなや、ホステスは話の続きに戻った。フロックはすぐさま化石みたいな眠り方をして脱落した。
「それで私はミホの手を引いて、部屋を出てエレベーターの乗った。そのエレベーターもすごくてね。全面ガラス張りで、注に浮いている気分になれるのよ。足下なんか地面がそのまま見えるんだから。すごいでしょう。
でもね、エレベーター降りたところで、その不動産屋が待ち構えていたのよ。マッカーサー総帥のごときグラサンかけてて、『おい、どういうことだ、ミホ』ってキゼンと言うわけ。『ちょっとミホがかわいそうじゃない』ってわたしが言ってやったわけ。『こんなところにミホを縛り付けておくなんて、どういうつもりよ』。不動産屋は私のことを無視してミホの胸ぐらを掴んで、エレベーターの中に押し返したわ。2人は時代劇みたいなもみ合いなったのよ。わたしはとっさに受付の司会者に助けを求めたわ。すると彼がなんて言ったと思う?『民事不介入です』とか言うのよ。なんか納得できないだけど、言い返すこともできないうちに、うげえええって聞こえたのよ。
振り向いたらビックリよ。不動産屋が腹から血を流して、つり上げられたはまちみたいにびちびち床で跳ねているわけ。ミホは血のついた果物包丁を持って呆然としているわけ。目の焦点が合ってなかったわ。わたしはミホに抱きついた。『ミホあんたは悪くないのよ。この男が悪いのよ』」
ダンプは首都高に乗った。朝の渋滞が始まっていて、車の進みは緩慢だ。スモッグに曇る、無機質な都会が見えた。空の異様に狭い、監獄のようなところだ。
女は昨夜から数えると82本目のラッキーストライクに火をつけた。
「不動産屋は死んだわ。その事件はすぐに人の口から口に伝わった。わたしの店は悪くないんだけど、みんなのアイドルが悲しすぎる運命に直面したって事実があるかぎり、うちでは楽しく飲めないものなのね。客足は遠のき、店はタイタニック号のように沈没したわ。わたしは借金に追いかけ回されるようになったのよ」
女の横顔はとても淋しそうだった。40代中盤と推測される。
「でも、それで終わりじゃなかった。ミホは檻の中で首を吊って死んだの。最悪でしょ。わたしはその日の3日前に彼女に面会に行ったのよ。彼女はそんなそぶりなんてなかったのよ。檻に入ったときは、いつも気持ちが沈んでいたし、裁判所では沈鬱そうだったけど、元気になり始めていたわ。他の囚人のことを面白おかしく話すの。万引きのなになにさんがどうしたとか、女総会屋のなになにさんがどうなったとかね。良い笑顔だったわ。空いた時間にセーターを編んでるんだって言っていたわ。で、そのセーターを使って、首を吊ったんだってさ。
彼女は天涯孤独だったの。わたしと似たような境遇なのよ。だから葬式の喪主はわたしがやったわ。そのときにお願いしたのが、この破戒坊主だったのよ」
彼女は坊主を指差した。
「わたしは宿命的なものを感じたわ。わたしはミホを失った。そしてその弔いの場で、新たな出会いがあった。たぶん、この坊主はなにか、ミホのなにかを受け継いでいるような気がするのよ。科学的じゃないけど、わたしはそう信じているのよ」
「あれは運命的だったな」
坊主は無難な相づちを打った。
38 トリップ、ドリーム
大きな話が過ぎて車中は一気に寡黙になる。カワイの頭はとても混乱した。どうも変なところにおれは迷い込んでしまったんじゃなかろうか。その肌触りは疑念というよりも、確信に近かった。
カワイが頭を抱えていると、ホステスが妙な錠剤を見せびらかした。透明なカプセルの中に赤青白黄の細かい粒が入っている。不穏なイメージをまとっている。「これを飲めば元気になれるよ」。女は妖しく笑う。カワイはそれをつまんで、「AKIRAに出てきたやつに似ているな」と言ったが、世代間の相違があるみたいで通じなかった。ひょいと飲んでみた。女も坊主も飲む。その効き目はすぐにやってきて、彼は妙な恍惚感に包まれた。
するとダンプトラックの大きなフロントガラスに飛び込む風景が楽しくて楽しくて、たまらなくなった。現代的なビルの雑木林とSF映画の背景に使えそうな臨海開発地域の風景。東京はこんな格好をしていたんだと驚いた。自分はまったく、とっても小さな〈界隈〉でしか息をしていないんだなと思う。この都会はあまりにも膨大すぎる。何から何まであり、何でもできそうな気がするのに、自分がやることと言ったら、ほんの限られた日常だけだ。胸の中で誰かの声が響いた。どっかに行きたい気がする。
やがて映像はモザイク状に分断され、モザイクの一つ一つが蜃気楼のように揺れ始めた。その全てに超越的な「目」が隠れていて、おれを見張っているんじゃないか。自分の皮膚の周りを覆う、「自分」というものを閉じ込め、また形取っている境界線がメルトダウンし、「自分」が外に流れ出している。「自分」は風景と溶け合い、全体化した。一方で視覚は揺らめきながらも、なんとか有り様をぎりぎりのところで保っている。
坊主の顔は崩壊していた。
そして、怒声を上げる。
目の焦点が合っていない。
モノローグを始めた。
「この東京に死を与えてくれ。この都会にはもう何にもない。本当に何にもない。土に根付いた人々のこころは、生き物たちの声は、草木の声は、どこかに消えてしまった。巨大な経済のアメーバがすべてを飲み込み一つにしてしまった。この架空の森に巣くうのは、魂を失った機械仕掛けで顔のない泥人形たちだ。あまりにも複雑な、あまりにも極端な、あまりにも空虚な場所になってしまったんだ、この東京という街は!!!」
39 白い気球
都心の風景にそぐわないダンプトラック。
その背後の上空には白い気球が浮かんでいた。気球は百科事典のスケッチ絵の風合いだ。あくまで沈黙を守り、一定の高度を保ったまま、接近もせず離れもせずにダンプトラックの後を追っていた。気球が黙っている限りは異常を認めることは困難に思われる。だが気球を覆う雰囲気には、ある素粒子が混じる。その素粒子は森の中にあるぽっかり開けた空間を想起させる。不可解だ。
その不可解さの糸を引っ張ると、どういうことだろう、気球は実に多くの不可解さで
満ちていることが分かる。
それはまったく合理的なものじゃない。手で触る。鼻で嗅ぐ。口に含む。そういうことでしか達せられぬ、感覚的な情報だ。だが、その情報は巨大な多様さと豊穣さを孕んでいる。
その情報がもたらす答えは、あやふやなものだ。だが、どこかに硬質でもある。
つまりこういうことだ。
その白い気球は何かしら不穏なものを含んでいる。
40 ノック
カワイは夕方部屋に帰るとそのままぐうぐうと眠りこける。少しすると雨が追っかけた。雨の季節なのだ。
そして夜が来て雨があがり、どんどんどんとあごの割れた借金取りを連想させる粗暴なノックがやってきた。それでもカワイの眠りは完璧のままだった。もう一度どんどんどん。それから変な女のわめき声が聞こえた。
ノックは部屋にある古ぼけたテレビと関係がある。テレビはもともとカワイのものじゃなく、関西方面に引っ越した「痴れ者」と呼ばれる女好きの2流大学生のものだった。
カワイが痴れ者について知りうることはすべて大家のおばさん、トミ子さん(42)からもたらされたものだった。
その痴れ者は大学1年生のころから、ずっとテクニック荘202号室に住んでいた。その間、入れ替わり立ち替わり、いろんな女が202号室に訪れた。中学生のような幼い女から、けばけばしいキャバクラ嬢、眉のつり上がった人妻まで多種多彩だ。
トミ子さんは彼の名前すら忘れていた。彼のことが無意識に嫌いなのもあったし、井戸端会議で「痴れ者がね〜」「あの痴れ者ったら〜」と繰り返しているうちに、痴れ者ととしてインプットされてしまったのもある。
痴れ者はこの春、大阪で就職したらしい。男は性格の方も変わっていて部屋の荷を宅急便で大阪の新居に送ると、自分は「関西」とでかでかと書かれた段ボールを使い、目の前の通りでヒッチハイクを開始した。すぐさま若い女の乗った車が彼を拾ったのが彼の最後だった。
痴れ者は格好が良かったらしい。身の回りがきれいに整い、趣味の良い服を着ていたようだ。でも、彼の顔は特徴が薄かったらしく、覚えているものはいなかった。大家は確か「甘いマスク系」だったと言うけれど、カワイの隣人の30女は「渋みがかった系」と形容し、両者の見解は完全に相違していた。
痴れ者は四つのモノを部屋に置き去りにしたことがわかった。一つは前述のテレビ。残り三つは女だった。
41 ノック2
ノックしたのはエリという肉感的な女子大生だった。カワイは熟睡を邪魔されて機嫌が悪かった。「なあんだよ? 新聞ならとらねえぞ?」。洗濯しすぎたTシャツにトランクスという格好でドアを開けた。エリは目を飛び出さんばかりにぎょっとする。「……あんた誰? モーリ君の友だち?」「あんたこそ誰だ?」
かみ合わないやりとりの後、カワイはやっとエリがモーリ君を訪ねてきたことが分かった。大家から「痴れ者」のうわさは聞いていた。
カワイはその女をしさいに観察する。客商売をするものの習性だ。彼女は少々肉感的だが、小綺麗な服を身につけ化粧もあらがなかった。平均以上の成績で、先生にも好かれているとみられる。大手企業で課長止まりの父親と専業主婦でそこそこ満足の母親を持ち、一般的な常識に縛られる平凡で幸福な20歳の一山いくらの女。郊外型分譲マンションの潜在的な購買層になる。
「なるほど、なるほど、モーリ君というのか彼は。ぼくは別名しかしらないんだな。まあいい。彼のことは何度も聞いているが、悪いけど、彼については何にも知らないんだよ、エリさん」。そう言って真っ赤に充血した目でエリをにらめつけた。
エリは黙り込んでいる。グランドキャニオンの崖っぷちにでも立っているというふうな、ただならぬ悲壮感をまといながら。
カワイはため息をつき、「そうだなあ、まあ入りなよ」とドアの中に手招きした。初対面、下着姿の男の部屋に入る女ではなさそうだというヨミの上である。女を追い返そうというと意図を込めていた。彼はなにしろ機嫌が悪かったし、布団のあったかみが恋しかった。
だが、予想を裏切ってエリは「そうね」と言ってあっさり中に入ってきた。エリはとたんに部屋の汚さに驚いた。部屋には本がタイの仏塔のごとく積み上げられ、いくつかの仏塔はビルマ人の攻撃を受けたがごとく崩壊していた。「ものすごく汚いのね。あなたの部屋って」。眉間にしわを寄せる。声には軽蔑の色も含んでいる。
これに腹を立てたカワイは、冷蔵庫から缶ビールを2個取って1個を彼女に渡した。これも彼は彼女に帰れとの意味合いを込めた。確かに彼女は確かにぎょっとはした。「真っ昼間からビール飲めっていうの?」。不機嫌な大阪中年女性のようにとげとげしい声だった。だが、彼女は缶を掴むとフタを開けてあっさり飲んだ。喉仏が下品に大きく上下する。缶をリノリウムの床に置く。カツンとやかましい音が聞こえた。
「人は見かけによらず」だなとカワイはビールのフタを開けながら思った。
42 モーリ君
彼女は鯨のように酒を飲み、浜辺で自殺した鯨のように酔っぱらった。モーリ君が何の説明もなく消えた顛末について、マルボロメンソールをたくさん吸いながら話しまくるのだが、あんまり要領を得なかった。どこに球が飛んでいくか分からない。あっちに行ったと思えばこっちに行く。こっちに行けばあっちに戻る。その繰り返しだった。
エリは広島から出てきた、女子大の2年生だった。広島の下着の色まで指定する(PTAは白以外の着用を許さなかった)「厳格な」女子中高一貫校で育ち、世の中を知らなかった。大学に出て世界の広がりに驚いた、と彼女は言う。
「いろんな男と付き合ってもみたけど、いま考えるとそれは東京に出てきたことに興奮していたせいで、全部ただの雰囲気だったのよ」。女は恋愛に関しては卓越した話者であることが多い。「でもモーリ君は違う気がしたの」。
モーリ君とは学園祭で出会った。彼はとてもさりげなく話しかけてきた。不思議なほど話が弾み、連絡先を交換し別れた。彼は知的でウィットに富んでいた。彼女はいかんともしがたくときめいた。1週間後食事し、2週間後買い物に行き、3週間後、遊園地に行って帰り際、五反田のラブホテル「伊賀の城」で同衾した。それから、2人はなんとなくつきあい始めた。
「いま考えれば、彼は不思議な人だった。彼は忙しくて会うのは木曜日と決まっていた。彼が何をしているか、私は見当もつかない」
エリはさんざ話した末に眠りだした。ビールの空き缶が28本残った。そのほとんどを彼女が飲んだ。マッチョな豪州人のような飲みっぷりだ。カワイもまた、ぼろぼろのソファの上で、電車で眠りこけているサラリーマンのように眠った。朝方目を覚ますと、彼女はいつのまにか、いなくなっていた。
43 エリちゃんの冒険
カワイはどうもその夜からのことの現実感が持てなかった。正確にはフロックが部屋を訪れてからのことだ。もしかしたらあれは、壮大な夢だったんじゃないか。何かの偶然で誰かの夢がぼくの現実に迷い込んだんではないかと思った。
けど、数日後の昼、エリが再び彼の巣を訪れたことで、やっぱり現実だったんだな、と思った。彼女はカワイに対して、すでに旧友のような親しみを持っていた。2人はミラクルクリスマスに行って酒を飲んだ。店にうら若き乙女が訪れるのは何年ぶりだろう。客は物珍しげにじろじろ見たけれど、彼女は気にも止めなかった。
彼女は上機嫌で飲んで飲んで飲みまくって、しゃべってしゃべってしゃべりまくった。たくさん煙草を吸う。上品な顔立ち裏腹に、煙草を吸い方はおばさんみたいだとカワイは思った。彼女は腕組みをして、顔をしかめながらじっくり煙を吸い込むのだ。彼女には自分に起きたことを清算する必要があった。話すことで、それは外に出ていき、彼女はまた新しいことをできる。
水は低いところに下っていく。そんなこんなでエリとカワイは頻繁に会うようになり、やがてねんごろになる。他人同士だった2人は奇妙すぎる結びつき方をした。エリは19歳だった。カワイは28歳だった。「19歳は若いな」とカワイは思う。エリは「この人はおじさんだ」と思う。
だが、エリは結局痴れ者を忘れられない。「ごめんなさい」。ある日カワイに別れを告げて大阪まで追っかけていった。彼女と話すのもそれっきりだと思われた。
数日後彼女から電話がかかってくる。彼女は彼女のミステリアスな体験を、事細かに告白した。大阪の雑踏の中で「へんてこなビル」を見つける。「コンクリートがそのまま建っているビル。灰色で窓も看板もなんにもない。真っ平らなの」。カワイはとても詳らかな質問をしていった。それは聞けば聞くほど三六興業ビルに酷似していた。しかも入り口は向かいのこぢんまりとした雑居ビルの地下にあって、奇妙な通路を抜けると「微妙なバー」がある。「壁一面が水槽で金魚が泳いでいる。奥のエレベーターに変な人間が乗り込んでいくの。店員はやる気が無くて、だらけた空気が流れている」
そこにモーリ君がいた。ちょこんとテーブル席に座ってる。彼は昔と変わらず極めて快活だった。ぴりとほどよくスパイスの利いた冗談を良い、抑えめの手振りを交えながらいかにも聡明そうに話し、映画俳優のような甘い笑顔を浮かべられた。
でも彼女はある疑問を持った。「彼の顔ってこんな感じだっけ?」。確信が得られぬまま、彼女は自分を無理矢理納得させた。彼女は彼と酒を飲み、彼と食事し、彼のしゅっとした2DKで彼とまぐわった。いまは彼と幸せに暮らしている。そういうことらしい。
「なるほど、そうか」とカワイは言った。「じゃあ、幸せに暮らすんだよ」。電話を切る。それからカワイはあっさりエリのことを忘れた。もう二度と会うこともないだろうと思った。よくよく考えてみると、あれは成り行きだった。彼女とはたぶんそういう縁だったのだ。
44 再びノック
でもモーリ君にまつわる出来事はそれで終わらなかった。しばらくしたころ、誰かがカワイの部屋をノックした。カワイも例によって二日酔いだった。ドアの前にはほっそりとした、顔の小さいかわいい女がたっていた。水玉模様のチューブトップにか細いジーズを履き足にはミュールを履いていた。「モーリ君はどこですか?」と顔を微妙に傾けて言った。鼻にかかる声。ぶりっこだろう。カワイはロダンの「考える人」のポーズを取り、大きな声でがなった。「また来やがった」。
カワイは「顧客の損失に関する責任を当社は一切負いません」と明言するときの証券マンをイメージしながら、「モーリ君はエリちゃんっていう女子大生と大阪でよろしくやってるよ。おれには関係のないことだよ」と語った。カワイは鼻をすんすんやる。彼女の付けている、幼い顔つきに似合わぬけばけばしい香水の匂いが、二日酔いの頭を粉砕しそうだった。一刻も早く布団に戻りたい。
「はあ、エリちゃんって誰?」。女の顔が、真夏の積乱雲並みに曇った。「エリちゃんはね、彼の元彼女。元のさやに戻るってやつ、そういうことが起きたわけだ。じゃあ、わかったね。よろしくどうぞ」とドアを閉めた。
「ちょっと待ってよ!」。女は近所中に響く金切り声を上げ、丸太で城郭の門を突き破るようなやかましいノックをやる。どすんどすん。「モーリ君はそんな人じゃないわよー!エリって誰よいったい?」。彼女はナイアガラの滝のような涙を流した。騒ぎに感づいて、隣のうわさ好きの30女がドアを開けてこっちを眺めた。口元がほころんでいる。鼻の穴も心なしか広くなっている。カワイが女を泣かせたと独り合点しているに違いなかった。
その30女は「うわさの工場」などと呼ばれている。、うわさ業界のやり手だった。彼女がうわさを一度聞き、かみ砕いて、他の人に話すとそのうわさのセンセーショナルさは7倍つり上がるとまことしやかに囁かれていた。それだけじゃなく、細かい情報を独自の荒っぽい方法で統合分析すると、一つの存在しなかった事実を発明する技術を兼ね備えていた。
南無三—。
カワイはとりあえず、30女が得る情報の最小化を図った。Tシャツとトランクス姿で、嫌〜な顔をして女に手招きし、追い出しにかけた。でも女はちゅうちょもせずに入ってきた。
ユミと名乗った女は、カワイが嫌がらせで渡したウイスキーのオンザロックをおいしそうに飲みながら、しゃべりまくった。カワイはデジャ・ビュを禁じ得なかった。ユミはサークルのパーティでさりげなくモーリ君に話しかけられ、デートを重ね、五反田の「伊賀の城」で同衾したらしい。
45 並列的に存在できるモーリシンスケ
ユミとカワイは、エリのときと同じように成り行きで結びついていく。カワイはモーリ君がどんなヤツか気になった。「なあ、ユミ? モーリくんの写真見せてくれ」。「ないのよ。彼、写真が大嫌いだったの。一緒にとったのもこうやって…」。彼女はいろんなものが詰まっているルイ・ヴィトンのバッグをがさがさまさぐって、写真を取り出した。カワイは眉をひそめた。彼とユミが大阪のくいだおれ人形の前で身を寄せ合っている。だが、肝心の彼の顔の部分がラグビーボールのようなだ円でくりぬかれていたのだ。「モーリ君は不思議なの。自分の顔を切り抜いちゃうのよ。わたし、彼の顔が映っている写真はひとつも持っていないのよ」
ちょっと時が経つと女はこう言った。「私、モーリ君のこと忘れられないの」「あそう」「あなたのことが嫌いってわけじゃないの。良いと思うわ。でもね、こればっかりはそうはいかないじゃない」。「そうか、彼のいるところは知っているよ」「金沢でしょ。私も知ってるわ、それくらい」。「いやちげえよ……」
彼女は話も聞かずに部屋を出て行った。「……大阪だよ」。
数日後電話がある。ユミの鼻にひっかかる声がする。「彼に会ったわ」。少ないボキャブラリーで金沢の風景描写をした。その顛末はエリととても似ている。コンクリの延べ棒みたいな変なビルの向かいから入る、地下の変な酒場で酒を飲み、どっかで飯を食い、しゅっとした2LDKで抱き合った。
彼は肉感的なエリに電話をした。エリは出た。「ハロー」「エリ、いま何している」「彼と一緒にいるわ。私たちは愛のゆりかごの中にいるのよ」。「一緒にいるだと?」「そうよ。彼のマンションにいるの」「彼の名前は何だ?」「モーリ君よ。何度もいったじゃない」「フルネームは?」「モーリシンスケよ」エリは勝ち誇った声を出した。「どこにいる」「大阪に決まっているんじゃない。彼にはここで仕事があるの。一緒に暮らしているのよ」。電話を切った。
すかさず、ユミに電話する。「ユミ、男のフルネームは?」「モーリシンスケ」「どこにいる?」「金沢に決まっているじゃない。彼はここで仕事があるんだから」。
「一緒に暮らしているのか?」
「当たり前じゃない」
電話を切った。
カワイは困った。
どんどん。
ノックの音がした…。
46 3人目の女は知的メガネ
3人目の女は知的メガネのクミだった。控えめな顔の良さをうまい具合に引き出すメガネをかけている。肌の色が透き通るように白い、冷めた都会的な女の子だった。「モーリはここにはいねえよ!」。カワイはナポレオンがロシアを屈服させるときに抱いたがごとき断固たる決意でドアをばたんと閉め、部屋にカギをかけた。そしてカワイはトランクスもシャツも邪魔くさいので脱ぎ捨て、布団に引っ返し、二日酔いの体を癒した。女はわめきもしないし、うるさくドアをノックしたりもしない。どうやら諦めてくれたみたいだ。カワイは久々の勝利に味を占めて、わっしゃっしゃと布団の中でほくそ笑んだ。
しかし、かちゃんという音がした後、メガネ女は悠然と部屋に入ってきた。「合い鍵を持っているのよ。わたし。お客さんにあのふるまいはないと思うわ、あなた。それにしても、汚い部屋ねえ」と顔をしかめる。
メガネ女は古いテレビに目をやった。「あっこのテレビ懐かしいわ」と言った。テレビは電源とつながれていないし、アンテナも接続されていない。ビデオとか他の機器もついてない。「このテレビでよく古い映画を観たのよ。チャップリンとかバスター・キートンとかをねえ。このテレビで観るから良かったのよ」。彼女はテレビの前でしゃがみ込み、控えめな笑みを浮かべた。それから、テレビの背後に回ると、「あった」と素っ頓狂な声を上げた。「彼はこれがばかのように好きだったの」。
彼女の差した指の先には、犬が蓄音機を眺めているマークがある。カワイはそれを観たとき、アイスクリーム製造器で脳味噌がかき混ぜられているがごときまどろみが襲った。どこかから超低温のずうううんという音が湧き上がった。
するとどういうことだろう。犬が蓄音機ではなく、こっちを、カワイの方を向いたのだ。犬はさっきまでの穏やかさを取り払い、不穏さの塊のごとき様相でこっちを睨んでいる。
おまえがそれをするべきだ。おまえしかそれをなせるものはいない。
それは一言一言を噛みしめるように、ゆっくりそう言った。地をはうような低い声だった。背後では蓄音機が鳴らすクラシックが聞こえる。
カワイは目をこすった。
そのときには犬は元のマークの中に戻っていた。
47 ハワイ
預言を使命感に駆られて全うしていく求道者のごとく、カワイはメガネのサユリと「いつか来た道」を辿っていった。彼女は少しばかり奇抜なたちだった。モーリ君の行き先をハワイだと予見したのだ。小金を持ったらハワイを観光する日本人の文化を鼻で笑いそうな彼女の口から、「ハワイ」という単語が出るのは、ものすごく意外だ。カワイは「モーリ君は大阪と金沢にいるよ」と忠告するが、その親切心はもちろん簡単に無視される。彼女はシチリアンマフィア風のサングラスにシックな紺色のスーツを着て、ハワイに向かう。彼は空港まで送ってみることにしたが、帰りの京浜急行のなかで、「おれはいったい何をやっているんだろう」という問いに締め付けられるハメになった。彼女の門出を祝うように、空は透き通るように青かった。胸の空気が澄むようだ。
例のごとく、数日後、彼女から国際電話がかかってきた。彼女は首尾良く彼を見つけ出したと言った。それは聡明な彼女にとって、あまりにも簡単すぎて退屈すら覚えた、というニュアンスが潜んでいた。「それでも彼はよく見つけてくれたね、って言ったわ」。彼女はハワイの気候、人間、海、地形、商業主義、日本人の多さについてウィットに富んだ説明を加えていく。それは聴き手まで、その土地を訪れた気にさせる類のものだ。
でも、話はやはり似たようなところに収斂していく。彼女はハワイの裏通りにある、「コンクリートの豆腐」のようなへんてこな建物に、向かいのビルの地下から入り、壁に金魚鉢のついた、忘れられた地下のバーで彼と逢瀬し、外で食事し、しゅっとした2LDKで求め合ったらしい。彼と暮らしていくことを決めたようだ。似たような話というか同じ話である。
だが、少し尻尾がついた。
「いかにも女好きそうな、脂ぎったマッチョの30代の男が、バーの店主だった」。受話器は言う。「しかも、陰気そうなちょっと猫背の男が、ナンバー2で働いていたわ。それが『ビバリーヒルズ・コップ』並みに面白いのよ。その男はあなたそっくりだった。でもあなたじゃないのよ。わたしは試しに何度も話しかけてみたけど、その男はまったく気づかなかったから」。
そして受話器は黙り込んだ。
カワイはピッポッパとアイフォンを駆使し、ほかの2人の「姉」の位置と状況を尋ねた。3人は大阪、金沢、ハワイにちょうど彼といるところだった。すべての男の名前はモーリシンスケだった。
カワイは呆然とする以外なかった。
48 重なるモンタージュ
それでカワイは絵描き崩れの旧友ロンちゃんを、彼が入り浸る雀荘「九龍」に訪ねた。
「なあんだよ。いまいいところなんだよ」とロンちゃんは不快さを隠さなかった。負けが込んでいるらしい。「ロンちゃん頑張れ〜」。店の剣呑な雰囲気とはどうにも混ざらない80年代の青春ドラマのヒロイン風のかわいい女がそう言った。カワイは、ロンちゃんまた女を替えたなと思いながらも、そんな感じはおくびにも出さず、女にあいさつした。
ロンちゃんはカワイを口実に負け戦をいったんやめることに落ち着いた。カワイは「3姉妹」に電話し、モーリ君の顔の特徴を仔細に聞きただし、同時進行でロンちゃんにモンタージュを描かせた。
ロンちゃんは20分麻雀牌を握らないと腕が痙れんし、30分握らないと足腰がまひし、1時間に達すると呼吸困難に陥ってしまうところがあった。だから、決死の思いでモンタージュを一枚描いては半荘打ち、また一枚描いては半荘打ちをしなくてはならなかった。
3枚ができあがるとロンちゃんは本格的に打ち始めた。カワイは報酬で5万渡したが、その5万は彼の傍らのかごに収まり、2分後にはそれに手が伸びて卓に放り上げられた。向かいの眉間に大きな縫い後のあるスキンヘッドが押し黙ったまま、ほかの2人が投げた5万ともどもそれを掴んで、自分の籠に入れた。それでおしまい。なんとあっけないことか。カワイは人の世の無情さを感じることを禁じ得なかった。
ロンちゃんはそのアザラシのごとき顔からは想像もつかないほどのボンボンだった。六本木の高級マンションに住み、カウンタックを乗り回し、金目当ての女たちと付き合ってきた。
親は一人っ子の彼に事業を次がせようとしていたが、富める者として生まれた身としては、金儲けは醜い人間どもが愛する下劣な行為に思えた。彼は高校生から絵描きの修行をして、日本画の道を目指したが、大学院でどうしてもかなわないやつが少なくとも7人いるように思われてから、だんだん足を踏み外していき、いまじゃ筆の持ち方もわすれてしまった。「渋沢栄一の遠縁の血族」(とロンちゃんは主張する)の親の遺産を溶かしながら、目的もなく生きているせいで、雀荘に巣くう狼集の食い物にされていたが、どんな事故にあっても彼の金は尽きない。彼がしていることは徒労以外ほかにない。
さてモンタージュだ。カワイはその3枚を観て愕然とする。その特徴のない顔は、三つが三つとも同じカテゴリーの中に入るどころか、ほとんどコピーの域の一致具合であった。
「こいつはよくねえ、よくねえ」とカワイはひとり言葉を言った。
49 ワヤンと相談
カワイは高レートの麻雀に加わるほど勇ましくなかった。憔悴気味のロンちゃんにさよならを言って、その足でてくてくミラクルクリスマスに向かった。てくてく歩く夜の街は、その日も盛っていた。ネオン、看板、嬌声、表情、こころ、騒音が錯綜している。人間はなぜ都会を作り上げたのか。これが必要なのか。この複雑な過剰と混沌はどこに向かっていくのか。その問いをせせら笑うように、都会は昨日もあったし、今日もあったし、明日もあるだろう。空がぐずついていた。空気もいくぶん湿っている。雨が降りそうだった。そうだ。いまは雨の季節だ。
カウンター席でワヤンがまあまあ酔っぱらってる。「まあ座りねえ、相棒」と陽気な声を出した。
カワイはさっそく、自分に起きた不思議なできごとを、非常に些細な部分まで聞かせた。コロナビールの瓶が三つ、ウイスキーのオンザロックが3グラス開くほどの時間が費やされた。それから例のモーリ君のモンタージュを見せた。「こいつはよくねえよな」。ワヤンはそれを一通り眺めて、うんんっん、と一旦は顔を険しくさせた。彼の中でさまざまな回路がせわしなく交信をしているようだったが、それはうまい具合につながらなかった。
ワヤンはとたんにむっと黙り込んだ。周りの人が息をするのもはばかられる空気が流れた。彼は苦悩しているように見えた。
ワヤンはモンタージュをカウンターに放ると、懐から煙草入れを取り出し、ちっちゃな両切り煙草を咥えて火をつけた。紫煙がたなびく衣のように天井の暗がりへと上っていく。カワイはそのモンタージュを拾い上げぶるぶる揺らした。
「どうしても、そのモーリ君っていうのが気になる。嫉妬とかじゃない。おれはこの平凡すぎる男が、なにか不穏な考えを持っているような気がするんだ」
でも、ワヤンは黙り込んだままだ。
50 トライアングルは2回だけ
ワヤンはそれから一言もしゃべらずに、ベルトコンベヤーのリズムでウォッカを何杯も飲んだ。べろんべろんだった。目は泳ぎ、膝はキンシャサでカシアス・クレイにやられかけているジョージ・フォアマンのようにがたがた痙攣した。
「おい、そろそろ出番だ。行くぞ」とカワイは彼の肩を担いだ。ワヤンは少年時代の過ちを思い出している。「どうしてあんときおれはあんな決断をしたんだ」。独り言を言い、つばか酒か分からぬ液体を路上にぺえっと吐いた。
2人は〈界隈〉のライブハウス「解放区」で出演を控えていた。2人は、社会の負け犬たちの間でこっそりと人気を誇る62人編成のインプロビゼーション(即興)電子音楽バンド「驟雨、あのジャングル」のメンバーだった。カワイはトライアングル担当、ワヤンはサンプラー(音声剽窃器)担当だった。その日の公演は「住宅ローンの奴隷を撃て」と銘打たれた。
48分の演奏の間、カワイが鉄を叩いた回数はわずか2回だった。観客のその道の人によると、即興とはそういうものであり、一度も鳴らさないという選択すらあり得たそうだ。最後に鳴らしてから、25分間、彼は鳴らしそうで鳴らさない、という状態を保っていた。カワイは絶妙のタイミングでトライアングルを振動させたのではあるまいか、という考えは、演奏が佳境という佳境を迎えないまま佳境に向かう間に、メンバーや客の中で確信された。
ワヤンは酔っぱらっているせいか、演奏はあまりにやかましかった。自分が鳴らすテレビコマーシャル、路上宣伝、最近フィットネスを始めた近所のおばちゃんの独白、通りすがりのサラリーマンによる上司の悪口、夫婦の痴話げんかなどの音声に、自惚れた。そのやかましさたるや、62人の均衡をぶち壊しそうになるまでに至ったため、エンジニヤが彼の音を搾り、彼が初めてゲーム機を握る小学生のガキのようにぴこぴことボタンを押しても、彼はその音の出力を確かめることができなかった。
ライブの後は狭苦しい畳敷きの居酒屋で飲み会になった。昔は赤線で売春をあっせんしていた、怪物ばばあの店だった。バンドや客たちはライブハウスにいたときにすでに酔っぱらっていたから、居酒屋は頭が狂いそうな乱痴気騒ぎになった。
どこからともなく現れた「女将」風の着物姿の女が振り付けながら演歌を唄い、禿頭の写真家が「やばいぜぇやばいぜぇ」と言いながらちっちゃいレフを使う。秀才風のドイツ人がスーツ姿でテルミンを冗長極まりなく延々演奏し、審判ナカヤマは脱衣卓球のジャッジに勤しんだ。頭上をせからしくフリスビーが飛び交ってもいたし、人間台のミッキーマウスが焼酎の一升瓶を継いで回り、女を酔わせて「あわよくば」を狙う。アメリカンフットボール選手も防具を着けたまま楕円球片手に「タッチダウン先」を探して走り回った。
宴もたけなわのころ、タキシード姿のニューヨークタイムスのルイ・ヴィトンの広告欄から抜け出したフランス人が現れる。テレビが飼い慣らした聴衆のやる類の拍手がなる。「はいはい、じゃあ始めましょう。『会合』をね」。彼は笑みを見せる。盛り上げるバックグラウンドミュージックがなる。
ここではこの「会合」の重要性には触れない。多くの書籍がそれを雄弁に語ってきた。
ワヤンとカワイはそこにはいなかった。上階にいた。昔ちょんの間に使われた小部屋でふたりはこそこそ話していた。そこは長らく放っておかれたせいで、何もかもぼろぼろだった。
「実はなあ、おれにも変なことがあったんだ」
ワヤンはついにそう打ち明けた。陰鬱な表情である。
51 回想 占い師
「話数週間巻き戻る必要がある。占い師の夜だ」
「あの夜がどうかしたのか」
カワイはぽかんと尋ねた。酒臭い息を吐いた。
*
あの夜、占い師は順繰りに人のご臨終を占い、あの美男美女に差し掛かった。彼女はその未来を語る前に妙に間を持たせた。「この2人で最後にしよう」。老婆はそれまでもれなく抱腹絶倒のご臨終を語っていた。料金5千に値する話をしようという彼女のこころづもりではなかろうか。だが、美男美女に関してその才覚はまったく発揮されなかった。
ワヤンのアンテナがカジキマグロを捕らえた釣り竿のように震えた。彼女の表情は、神経質なほど心の内を隠していたが、頬や眉の筋肉に微妙なこわばりが感じられた。
ワヤンは考えればすぐに行動に移す。その翌朝までカワイらと遊んだ後、占い師御用達のうなぎ屋の向かいにある、冷房の効きすぎた喫茶店の窓際の席を確保した。車通りは少なく、占い師の老眼でも届かないくらいの絶妙な距離があった。彼は探険服を着て、第二次世界大戦で使われたようなアンティークの双眼鏡を手から話さず、一杯のコーヒー以外何も注文しなかった。
やがて老婆は軽い足取りで来店し、1時間かけてうなぎ重「松」と肝吸いを堪能した。ついに店を後にするとき、ワヤンがすかさず捕まえた。孫の誕生を見守るような晴れやかな顔は、あっという間に不機嫌さに曇った。
「言いがかりをつけなさんな。あたしは本当のことを言ったんだ」
向かいの喫茶店で占い師は言った。
ワヤンはなんとかして口を割ろうとしたが、占い師は知らぬ存ぜぬの一点張りで硬直状態になった。彼は何にも会話の中で持ち上げたり、揺さぶったり、けなしたり、不意に脅かしたりして、占い師の表情や声、仕草、リアクションをみてみた。
占い師は94%潔白のようだった。だが彼は残りの6%が気になった。顕微鏡をその6%に向けると、彼女はやはり嘘をついているとしか思えなくなる。しかも相手は占い師のばあさんだ。人生に迷いを感じる人たちに嘘八百をかましてきたわけで、面の皮の厚さも尋常じゃないだろう。寝不足の頭は一度勘ぐり出すともう泥沼だった。
52 失踪
ワヤンは彼女の秘密に全神経を注いだ。彼は職場の予備校で塾長の立場にあったから、とある筋からの紹介で私立探偵を雇い、占い師の一挙一動を報告させた。私立探偵はしわしわのフロックコートを着た中年男で、喉を潰したロックシンガーのような声が特徴的だった。
私立探偵は2週間丁寧に仕事をし、突然音信不通になった。紹介したとある筋に電話する。「どうなっている?」「こっちが聞きたいくらいだ」「………」「あいつは行方をくらました」。
ブツ。ツーツーツー。
ワヤンの胸はざわついた。報酬はまだ渡してない。たぶん、これは「とんずら」なんかじゃない。
もっと深刻な何かの可能性がある。
黒い疑念が彼の頭蓋骨の中の狭い個室をぱんぱんにした。テレビを見ていても、歯を磨いていても、電気料金を銀行決済していても、必ずそのことが頭にちらついた。ある夜中、彼はおもむろに布団を吹き飛ばして、私立探偵の報告書で老婆の巣の住所を調べると、パジャマのまま出立した。
53 突入
その夜はいやに深かった。
混濁し、そして黙り込んでいた。
川沿いの住宅地をいやに足早に歩いた。粗末な2階建てのアパートの1階。黄色いドアの横に占い師の名札を見つけた。チャイムを押した。沈黙。チャイム。沈黙。チャイム。沈黙…。
ドアは琥珀の中に閉じ込められた蝶々のように硬直していた。
彼はちゅうちょしなかった。そのすらっとした足を使って、ドアをどかんとぶっとばしたのだ。
しかし、部屋の中はなかはもぬけのからだった。
畳敷きの8畳にはかんかんの生ぬるい空気が漂った。唯一部屋に残っていたのは、アンティーク風の赤いブラウン管テレビ。畳のど真ん中に置かれていた。カワイの部屋にあるものに極めて似ていたが、ワヤンはそれを知らない。
ひゅっと何かが彼の心を引っかける。
犬が蓄音機を眺めているマーク。彼は凝視する。頭の中に金属片が紛れ込んだような違和感が現れる。脳味噌は記憶とそのマークの接合点を必死で探す。だが、どうもうまくいかなかった。
窓のない密室だ。真っ暗な部屋には月明かりも差さない。
不意にテレビに電源が入った。
ブラウン管が光を捉えるのは、とても緩慢だった。箱が壁や畳を照らし出した。白と黒を上下に二分した画が映った。だんだん白と黒の境界が曖昧になる。そしてうずまきが生まれ、白と黒は混ざり合っていく。光はそういう情報だけを伝えた。
だが、「突然、ギロチンが落ちる時の摩擦音を出したかと思うと、テレビはこと切れた。その後は文字通り死んでいた。
部屋はとても静かだった。
おれはライターの火でくらやみを照らした。テレビのコンセントは外れていた。外部の接続もなかった。
54 匿名電話
そこでワヤンの携帯電話が鳴った。
ワヤンは番号を確かめる。「私立探偵の携帯だ」。
「もしもし、あんたか」
「…………」
「もしもし」
「…………」
「……? ……誰だ?」
「くっくっくっく」
コンピューターボイス。
「誰だ」
「お婆さんは捕まえた。フロックコートの男も捕まえた」
「なんだと」
くっくっくっく。
ここで電話は切れた。
ワヤンは少し考えた後、階下に降りていった。
55 死んだ電話
それ以来、ワヤンは〈界隈〉から姿を消した。まるっきり音沙汰がなくなった。彼がどこに住んでいるのか、どこの人間か、何歳かを知っている人間は1人もいなかった。彼はどこか得体の知れぬ風来坊だった。
雨は相変わらず降っては止み、降っては止みを繰り返した。
あるとき大きな台風がやって来て、三日三晩激しい暴風雨を東京にもたらした。〈界隈〉では街路樹が一本折れ、はんこ屋の立て看板が真っ二つになった。豆腐屋の桶が路上に投げ出されてかんかんかんとやかましく音をたて、バラック建ての焼き鳥屋の天井の穴が広がり雨漏りが一層ひどくなった。その台風が去った後、かんかん照りがやってきた。気温は摂氏34度に達した。それを合図に雨の季節は終わった。
夏がやってきた。
カワイはワヤンがいなくなったせいで、暇を持て余していた。赤字を享受する職場での仕事はますます乱雑さを増した。仕事中も平気で近所のゲームセンターに通い、そこにある競馬ゲームに熱中した。カワイはゲームの仕組みに通暁し、着々と勝ち続けた。ゲームセンターのメダルが山のように増えていった。メダルは換金できないし、景品と交換できるわけでもない。それは贅沢な徒労だった。
いつの間にか、彼はモーリシンスケに感じた不安を忘れた。
ある日、フクタがサッカーの試合を見に行こうと誘ってきた。カワイはサッカーの試合を見に行くヤツを馬鹿にしていた。あんなものの何が楽しいんだ、と。フクタはエミと付き合っている。エミが大学生の女友だちを連れてきて、4人で見に行かないかということだ。よくある話だった。
その試合に向かう電車で読んだ朝刊が、ワヤンを驚愕させた。
電車轢断で死亡 失踪中の70代女性 新潟県糸魚川市 —
記事は警察が線路上にバリケードを作った写真とともにあった。
記事はこう言う。
「北国12号富山行きは4日午前6時半ごろ、糸魚川市内を走行中、人と見られる物体が線路上に横たわっているのを確認。緊急停止したが間に合わず物体を轢いた。警察の捜査で、電車が轢いたのが東京都豊島区のサイトウハツミさん(74)だったことが分かった。
警察によると、遺体は十数部分に轢断されていた。轢断前までハツミさんは生きていた可能性が高いとみられる。ハツミさんの体がレールに対し垂直に置かれていたことも。轢断後から轢断痕から判明した。
ハツミさんは先月20日、都内の映画館を訪れたのを最後に消息を絶っていた。同22日未明に男性が戸を蹴破り、駒込のハツミさん宅に侵入したことが小紙の独自取材で判明。部屋には旧型テレビ以外の所持品が持ち去られていたという。警察は小紙に対し、男性について慎重に捜査をするとした。(以下省略)
このサイトウハツミさんこそ、あの占い師だった。
彼女がおかしすぎる死に方をしたのだ。
カワイは茫然自失になった。考えがまとまるはずがなかった。ワヤンに電話をかける。
背に数百の百足が張りついたような感覚に襲われた。答えない携帯を彼は何も言わずにただじっと眺めた。それはずっと空虚な通話音を繰り返すだけだった。




