#1-3.敗戦処理係ウィッチ
本隊総崩れの報は、しかし現場の混乱によって方々を駆け巡る事なく、諸方面はカオスの真っ只中に陥っていた。
まず、大帝国よりの増援を足止めしていた部隊は本隊陣地を失った事によって安全に撤退する事が出来なくなり、わずかな撤退判断の遅れが致命傷となりそのまま押し潰されてしまう。
魔王らは一応その日の内にクノーヘン砦を陥落させたものの、夜にはヘレナからの大増援と勇者エリーシャ指揮する敵本隊分遣隊の挟撃を受けそうになり即座に要塞を放棄してカルナディアスへ撤退。
ティティ湖周辺の魔王軍はその戦力の悉くが勇者リットル指揮する敵本隊に潰され、後方カルナディアスに配置された防衛陣にまで敵部隊が迫っている始末であった。
「ひぃっ、ふぅっ、はーっ」
そんな中、総司令官の立場であるはずのハエ男は、今更のように激痛走る左肩に悶えながら、どこへ行くでもなく森の中を彷徨っていた。
「どこへ行こうというの、ベェル総司令」
「なっ!?」
頭上から声が聞こえ辺りを見渡す。
辺りには樹が生い茂り、何者が居るのかも定かではない。
「誰だ、姿を見せろっ」
「眼が悪いの? ここよここ」
こんこん、と、樹を叩く音。
ベェルがそちらを見ると、樹の枝の上に腰掛ける、赤いとんがり帽子のウィッチが居た。
四天王筆頭ラミアの腹心。魔界随一のメテオの遣い手。
そして彼にとっては、ラミア共々政敵でもある相手だった。
「き、貴様、赤い帽子の……!?」
「そうよ、ウィッチです。それで、こんな所で何をしているのかしら?」
にやにや笑いながら、冷酷に見下ろす。
その様に苛立ちを感じながら、しかしベェルは自分の置かれた状況を思い出していた。
「さ……作戦失敗により撤退中だ。手を貸せ。貴様の箒なら私を運べるはずだ」
「あら情けない。作戦が破綻して、挙句今まで見下してた私に助けを請うの? みっともない男ねぇ」
癖のある長い金髪をくるくるといじりながら、樹上のウィッチはあくまで静かに笑いかけていた。
まるで虫けらを見るような、人間を見るような目で自分を見下すその女に、ベェルはたまらず叫ぶ。
「ふざけるな貴様!! このベェルが、下手に出てやっていればいい気になりおって!! 調子に乗るなよ、貴様ごとき右腕一本あれば――」
「醜いハエ男さん。やめてくれないかしら? 私、別に貴方みたいなハエを殺しに来た訳じゃないんだけど。ラミア様の指示の下、どこかの馬鹿がヘマした尻拭いにきたのよ? 分かってる?」
我慢ならなくなったのはどちらだったのか。
ベェルが右腕をかざし、風を集めようとした途端、ウィッチはパチリと指を鳴らした。
直後、勝負は決まった。
「ごふぁっ……ばか……な……」
そこには、ハエのように惨めに地に伏し押し潰されている男が居た。
「その『馬鹿な』っていうの、程ほどにした方が良いと思うわ。まるで何も考えて無いみたいに感じるもの」
嘲笑しながら、小さく溜息をつく。
「『グラヴィティ』っていう魔法なの。私が長い間研究してた新魔法でね? 私、初めては貴方にって決めてたのよ」
にこにこと微笑み、ぱん、と手を鳴らす。
「ぐぅぅぅっ!? や、やめ――」
「すごいでしょう。風魔法と物理魔法の応用なのよ。空気単位の重さを増加させて、相手を押し潰したり捕らえる魔法なんだけど――」
ベェルの命乞いなど意に介さず、パン、パン、と手を何度も鳴らす。
その度にうなる様な惨めな悲鳴をあげ、ベェルは強まる重圧に苦しむ。
「ねぇベェル。貴方って、ラミア様のこと嫌ってたわよね? なんていうの。女だからなのかしら? 私は貴方の事人間並に嫌いだけど、それは別に思想が違うからって訳じゃなくて、単に貴方が不細工で気持ち悪い性格だから嫌いだったんだけど」
「やめて……くれ……た、たの……これいじょ――」
「何調子のいい事言ってるの? 反逆者の癖に」
それまでニヨニヨと語っていたウィッチが、途端に冷徹に吐き捨てた言葉だった。
「別に私を罠に嵌めようとか考える位なら気にしないけど、ラミア様を貶めるような事をするなんて許さないわよ?」
すっかり冷めた目で見ていた。その瞳には何の色も宿っていない。
「私ね、魔界において、絶対に私が譲れない、すごく尊敬している人が三人いるの。三人よ。誰だか分かる? 教えてあげましょうか?」
ぴ、と指を三本見せながら、ウィッチはベェルの反応を見る。
「う……ぐ……」
呻きながら必死に息する男に、ウィッチは満足げに笑った。
「一人目は勿論ラミア様。妹をかばってともども死にかけてたところを拾ってくださった偉大なる恩人。この方には命を捧げても良いと思ってるの。これは知ってるわよね?」
片目を閉じながら、掌を振り振り。ベェルは反応しなかった。
「二人目は黒竜姫様。軍務と研究しか能の無い私なんかと一緒に居て『楽しい』と言ってくださった方だわ。今でも時々お茶をしたりしてる。怖いけどとても強くて安心できる……そう、『友達』と言っても差し支えない方だわ」
両目を閉じる。掌を振り振り。ベェルは、小さく呻く。
「三人目は……貴方が今回罠に嵌めようとした魔王陛下。私はこの方に一度命を救われ、本当の意味で心の底から救われた気持ちになったの。塔の娘達と違って愛情とかはないけど、臣下としてこれ程信頼できる王はいないと思ってるわ」
閉じた眼を開く。色の無かった瞳にざらりとした光が差し込み、ウィッチは地面に降り立った。
「三人のうち二人を貶めるようなことをしてくれた貴方を、なんで私が許してあげないといけないのかっていうお話なの。理解してくれまして?」
「……ああ、理解したとも」
躊躇なく近づいてきたウィッチに、ベェルは意外にも、にやついた例の笑顔で対応していた。
「あら、意外。余裕じゃない」
「言っただろう。右腕一本あれば、貴様など――」
しかし、勢いよく顔を上げたベェルの前には、思い切り箒を振りかぶるウィッチがいた。
「――っ!?」
鈍い水音が森に響き渡り、そして、森には一人だけが残った。
「ああやだやだ。汚い、臭い、醜い、汚らわしい。これだからハエは嫌いなのよ」
肌に飛び散った血肉に露骨な嫌悪を感じながら、ウィッチは身支度を整えていた。
「ラミア様ラミア様。愚か者の処刑は終わりましたわ」
通信用の水晶を取り出し、一連の報告する。
『あらそうお疲れ様。他の所は大丈夫な訳?』
「問題ありませんわ。ティティ湖は壊滅してたので引き払いました。陛下が撤退していた最中でしたので、後はこれを拾って、カルナディアスに着けばOKです」
『カルナディアス、襲撃受けてるみたいだけど?』
「そちらも手配済みですわ。とびきり屈強な部隊を送っておきましたから」
ぐっ、と拳を握り、力強さをアピールなどしていた。
『それは何より。こういうのもアレだけど、敗戦処理は貴方に任せると楽でいいわぁ』
「お褒めに預かり光栄です。それでは、また後ほど」
『ええ、気をつけて頂戴ね』
尊敬する上司のねぎらいに、ウィッチは一瞬で上機嫌になっていた。