#11-1.ラムの砂浜にて
人間世界西部・ラムクーヘン王国。
王都ラムは国の新しさとは裏腹に古くから残る古都で、ここの西の海岸はかつて存在した『海の向こう側』と陸続きだったと言われている。
その向こう側が存在したのは遥か紀元前、魔王と呼ばれる魔族達の盟主が生まれる、それよりも前に分断・消失されたというのだから、途方も無い。
国境から一日。
ようやくにして馬車から降りた一行は、着いたからとすぐに国王に謁見を申し込みには行かず、まずは疲れを取る事にした。
ざぁ、という波の音が聞こえる、そこそこ大きめの旅籠。
その大きさの割には中々良心的な価格設定で、旅人には中々優しいのがカルバーン一行にはありがたい。
ゆっくりと湯浴みをして身支度を整え、共連れの者達との打ち合わせも済ませ、ほどなく夜となる。
食事も重要である。この辺り、カルバーンは手抜かりがない。
顔色が悪かったり旅路で健康を害するようでは外交は成り立たないので、事前に泊まる宿を選ぶ際に美味しい料理を出してくれる所を調べていた。
商業都市の側面が強いラムの名物は、様々な種類の上質な酒と、西の海で獲れる新鮮な海の幸。
ラムクーヘンは農業は土地柄あまり盛んな国ではないが、海路と陸路双方での貿易は国を豊かにし、各地から名産品・特産品が集まる。
ブドウ酒の原料となるブドウやエールの原料となる大麦、アップルランド等からはリンゴ、様々な国の様々な特産品が集まり、それらを原料にした様々な種類のお酒が出回るようになっていた。
この中で、特に変わっているのは『カクテル』と呼ばれる酒である。
複数の酒や蜂蜜、レモン果汁などを混ぜたもので、甘い物も多く、これが甘党のカルバーンにはたまらなく美味しく感じていた。
色々種類があった中で特に彼女が気に入ったのは、『ラム・ヴァイオレット』と呼ばれる、スミレの花から作ったリキュールを基本にしたカクテル。
アクセントに青リンゴの果汁と輪切りにしたレモンが入っていて、これが酒の苦味を打ち消して甘酸っぱく感じさせてくれるのだ。
カルバーンはそんな甘いお酒だけで満足してしまうが、一緒に連れてきた魔術師達はもっと度の強い、善く酔える酒が好みらしく、こちらは北部からの蒸留酒や南部産の芋のお酒なんかを飲んでいた。
つまみに海の幸も忘れない。カルバーンは食事として食べたが、つまみの種類も豊富なのがこのラムの酒場の強みである。
一部地域除き川魚しか食べられない北部の住民にとって、海の幸は滅多に食べられない贅沢品。
外交で何度か西部に来ることはあったとはいえ、教団一向にとってはこれが一番の楽しみとばかりに、テーブルに並ぶと喝采が上がった。
焼いて食べてよし、塩漬けにしてよし、油で揚げて塩をかけて食べるのもよしで、一口頬張る度に旨味が口の中に広がるのがたまらないのだ。
ただ、カルバーン的に、エビとカニだけは食べられなかった。どう考えても虫に見えてしまう。初めて見た時にそのままボイルにしたものが出てきて以来、どうにも受け付けなかったのだ。
教団の魔術師らは舌鼓を打っていたが、どうにも足が沢山ついている生き物を口に運ぶのには、彼女には抵抗があった。
何より意外とつぶらな瞳をしているのが辛いのだ。
死んでいるのに自分を見ているような気がして、彼女は余計に食べられなかった。
そんな風に食事を済ませ、その日はそれ以上何をするでもなく、自由時間となる。
集団でいると時々こういう個人のプライベートなリラックスタイムが必要なのだと、カルバーンはよく知っていた。
だが、ここまでやってることは旅行と大差ない。
皆土産物は何を買おうかだの、飲み足りないからはしごをしようだの、楽しげに個々に散っていく。
そんな部下たちを見やりながら、カルバーンは従者に「適当に散歩してくるわ」とだけ言って離れる。
酒がまだ頭に残っていて、ふわふわとした気分のまま灯りのともった夜の街を見てまわりたかったのだ。
こういうのも旅の楽しみ。
活気のあるラムの街は、夜は漁を終えた海の男達や貿易商が酒を求めてあっちの店へこっちの店へとうろうろする。
そんな男達を誘うように露出の多目な服を着た若い女達がその夜の相手を探したりもするし、色々いかがわしいお店も点在しているのが、夜のラムだった。
ラムクーヘンは西部有数の商業国家で、特にラムは異国との交流が盛んな多文化都市の面も持っている。
色んな国の人達がこの街に訪れる。
人種・宗教・出身地・地位・学歴・職の貴賎。そんな物は全て度外視して、この街はあらゆる者を受け入れる。
それは、ある種の自由。
色んな人が、どんな人達でも、こうやって一つの何かの為に集える。楽しめる。幸せになれる。
時には悲しむこともあるし、横暴な誰かが不幸な誰かに暴力を振るう事もある。
でも大体はその中で収まり、解決される。
明確なルールはあるだろうけど、誰もが頬をゆるめきった堕落の世界がここにある。
彼女の隣を抜けていった酔っ払いはとても幸せそうないい顔で笑っていた。堕落とは幸せな事である。
怠惰できるほど安心できて、それだけ何かを忘れられる。それはとても幸せな事のはずだった。
人は欲望の為に生き、欲望の為なら同族だって殺せる。
だけれど、欲望の為なら団結だって出来る。大概の事は欲望によって解決できてしまう。
人間は、魔族に比べて欲に対する執着が薄く、割合対人関係を重視する傾向がある。
けれどそれは、あくまで彼らの内面にある欲望を守らんとする為に、うわべを取り繕っているだけに過ぎないのだと、カルバーンは考えていた。
魔族も人間も本質的には欲望によって支配されていて、その欲があるからこそ進歩でき、幸せでいられる。
両者の違いなんて、実際には空気を吸うか一緒に魔力を吸うかの違いしかないんじゃないかと、そう思ってしまうのだ。
これは人間の側に立った魔族だからこそ感じられる事なのだと自覚しているが故の、特殊な感傷。
遥か昔に一人の英雄が抱いた『人間と魔族の共存』という理想を、ある意味実現可能だと感じさせてくれる事柄でもあった。
もっとも、彼女はそんな『理想』に耳を傾ける気などさらさらなかったのだが。
海岸を伝う波の痕。
砂浜には何組か、夜の散歩にしゃれ込んでいる老人やら恋人達らしき影が見えていた。
皆無言。余計な事は喋らず、ただこの海の演奏に心を傾けている。
彼女もその中の一人。余計な事は喋らない。喋れない。喋る必要は無い。
普段教主として忙しない日々を送る彼女も、のんびりしたい時はある。
こういう時は静かに過ごす方が感傷に耽る事が出来て、彼女は好きだった。
この波の音が、どこか遠い昔、懐かしさを感じさせてくれるのは何故だろうか、と、一人想い耽る。
故郷には海なんてなかったはずだし、海というものをこの目で見たのは極最近の事のはずなのに。
何故か彼女はこれを懐かしく感じ、不思議な気持ちになってしまうのだ。
この海の鼓動に何か未知の力が秘められてるんじゃ、なんて考えてしまう。
どれくらいの時間かも解らない。ただ、彼女は聴き入っていた。