#10-1.竜の見る夢
それはいつの事だったのだろう。
彼が目を覚ますと空は暗く、顔には冷たい何かが当たっていた。
何かに濡れてぼんやりと見えるそれは誰かの顔で、どこか悲しげに見下ろしている。
今にしてみれば泣いてるのだろうと思えた。とても大切なその女性は、彼の顔を見て泣いていたのだ。
唇が動く。何かを言っているようにも聞こえるが、彼にはそれが何なのかは理解できない。
その人とは別の所から、後ろの方から声がして、その人は大粒の涙を流しながら、また一言二言何かを言った。
それから――すぐに視界がブレた。
さっきまで感じられた温もりはどこかに消し飛び、布伝いに感じる強い振動。とても冷たい風。
恐怖よりも離れたくないその人から離れた事が嫌で、彼は泣いてしまう。泣き喚いてしまう。
どうする事も出来なかった。そもそも考えられなかった。
その時の彼は、何の力も無いただの赤子だったのだ。
赤子には何の力も無い。落ちる所まで落ちてそのまま死ぬのだ。
ズン、と一際強い衝撃を受け、彼の意識は一旦そこで消える。
次に目が覚めた時には、また別の人の顔が見えていた。
金髪で、冷めた水色の眼の若い男だった。時代がかった貴族のような釣りズボン。紺色のシャツ。
目つきは悪いし口元は皮肉げに半開きのままの、そんな不敵男だ。
その男は彼を抱きながら笑っていた。にやにやと。
「勿体無いな。折角の世界最強が台無しになるところだった」
その低い声とは裏腹に、男は嬉しそうに、とても機嫌よさげに彼をゆする。あやすように。
「おい坊主、死にたくないだろう? 死ぬのは怖いよな? 一人ぼっちは嫌だろう?」
言葉を返せない彼に、男は言葉を続ける。返答など求めてない様子だった。
「助けてやる。感謝しろよ。お前くらいの坊主じゃ、崖下に落ちたら即死だ。ぐちゃぐちゃになる所だった」
一方的な物言い。視界がまたブレる。
ずる、と嫌な感触がして、目の前には真っ暗な、なんにもない何かが見えた。
彼は、今度こそ恐怖で泣き叫んだ。怖くて仕方ない。暗いのは嫌で、怖いのは嫌だった。
「おーおー、泣くなよ坊主。お前は世界の支配者になる男だぞ。泣くな。笑って生きられるようにしてやるから」
また、顔の前に男の顔が見える。
ゆらゆらと心地よい振動が伝わり、少しだけ恐怖が薄らぐ。
男は楽しげに彼の顔を見て、そうして、優しく笑っていた。
それからは、彼は男と一緒であった。寝る時も食事の時も風呂でさえ一緒であった。
彼が歩けるようになると、しばらくは旅のようなものを続け、いつしか険しい山のような場所に来た彼らは、そこにあった小さな小屋で暮らすようになった。
赤子に過ぎなかった彼を救った男は、自分を『アル』と名乗り、成長した彼にもそう呼ばせた。
対してアルはいつまでも彼の事を『坊主』と呼び、彼も何の疑問も抱かずその呼び方のまま呼ばせていた。
アルは彼にとって父でもあり、唯一の理解者でもあり、そして師でもあった。
どれだけの月日が経ったのか解らない中、彼はとても長い時間を体感し、そのほとんどをアルと共に過ごした。
赤子の頃は理解できなかった事も、成長していくにつれ理解できるようになった。
アルが何を思い彼を助けたのかは解らないままだったが、それでもアルは彼に様々な事を教えてくれた。
生きる為の知恵。彼が何者で、赤子の時に見た、あの泣いていた女性は誰だったのか。
父とは、母とは何か。家族とは何なのか。愛とは、悲しみとは、喜びとは、そして虚しさとは何なのか。
アルは彼の疑問に、とても丁寧に解りやすく答えた。説明した。教育もした。
そうして、彼は自分の『心』を自覚し、その心には家族に対する想いが形作られていった。
「坊主、お前は今年でいくつになった?」
ある日、切り株の上でアルに貰った本を読んでいると、不意にアルが彼の隣にきてこう尋ねてきた。
「アルと出会ってから二百年位かな。うん、二百歳だね」
アルの言葉で読書を中断して、立ち上がって質問に答える。
そう、その日は彼の誕生日だった。
彼がアルと出会った最初の日らしい。
後から聞いたから彼には本当かは知らないが、そう信じていた。
「二百歳か……」
自分が生まれた日を誕生日と呼ぶことは、既にアルから教わっていた。
本来は最初の数年と五十年、百年、二百年と誕生日ごとにお祝いをするらしいのだが、アルはその辺り淡白で『おめでとう』の一言も言わず、彼はその都度腑に落ちないものを感じていたものだが。
アルは疑問について答えてはくれるが、あまりそういった事は好きでは無いらしく、どこか寂しい人だった。
それでも共に過ごすうちに冗談を言いあったり喧嘩をしたりして、とても楽しく過ごしていたのだが。
そんなアルが、彼の歳を聞いて考え込んでいた。とても珍しく、彼もまた驚いてしまう。
「そうか、坊主ももうそんな歳か。まあそうだよな。がたいもでかくなったし、何より顔立ちも大人びている」
感慨深げに、顎に手などを当てながら。アルは見上げるのだ。
そう、彼は見下ろせるようになっていた。
いつの間にか彼はアルより背が高くなり、筋肉も付いて、肩幅も広くなっていたのだ。
「あんなちっこい赤子が、こんながたいの良い若い衆に育ったんだ。そうか、二百年も経てば、そうなるよなあ」
彼の顔を見ながら、アルはしみじみ笑う。どこか嬉しそうで、それが彼にも嬉しかった。
だが――
「もうそろそろ、一人でも大丈夫かねぇ」
――不意に、そんな言葉が聞こえて、どくん、と衝撃が走った。
「えっ?」
口を開き、信じられないように眼を見開いて、アルを見ていた。
「独り立ちだよ。もうお前は一人で生きられるだけの知恵と力を持ってる。ほっといても簡単には死にはせんだろう」
「独り立ちって……アル、何を言ってるの?」
驚きは隠せない。動揺はすぐに顔の筋肉を支配する。
眼からは熱い何かがこぼれ始める。しゃっくりが止まらない。
「やだよ! 僕は独り立ちなんてできないっ!! アルが一緒じゃないと無理だっ!!」
「――泣くなよ坊主。折角の世界最強が、台無しだ」
どこかで聞いたようなその言葉に、彼は理不尽さを感じていた。
初めて、アルに対してどうしようもない憤りと怒りを感じたのだ。
信じていたその人に、いきなり突き放されてどうしたらいいか解らなかった。
一人になったことのない彼は、一人になる前から一人になる事が怖くて仕方なかった。
何より、ずっと傍にいたその人が自分の傍から離れてしまうことなんて、考えたくもなかったのだ。
「ふぅ、困った奴だ。私としては、いい加減眠りにつきたいんだがね」
心底困った顔をしながら、ポリポリと頭を掻く。
その様が、どうしてかとても申し訳なく感じてしまう。
「眠りにって……」
アルの言葉尻に違和感を感じて、それを問おうとした時。強い風が吹いた。
「――あら、もう終わりで良いの? 私としてはまだまだ続いても良いのだけれど」