#6-4.パン貴族とドーナツ
こうして工夫と犠牲の末、アプリコットの小さなパン屋で売り出された『チョココロネ』であるが、その可愛らしい形状と手ごろな価格、チョコクリームの甘さで子供と若い女性に大人気となり、一躍大ブームとなった。
更にはエリーシャを介してタルト皇女の口に入り、更にそこからシフォン皇子経由で婚約者のヘーゼルへ。
気に入ったヘーゼルが同じく貴族の子女に広め、中央諸国の高層階級の若い娘達に瞬く間に広まった。
当然そこまで人気になったものを小さなパン屋の娘一人でさばけるはずもなく、セーラはやむなく他のパン屋や王宮のパン職人にその技術を伝授したりと、店に集中していた客を他所に分散させる事を目論んだのだが、それでも店の繁忙はひっきりなしとなり、気が付くと大好きなテーブルパンよりもチョココロネを作っている時間の方が長くなるという本末転倒な事態に陥ってしまう。
好きなことに集中できないという危惧を抱いたセーラは、繁盛して得た金で人を雇い、店の規模を大きくしたり二軒目を建てたりとその経営規模を拡大する事によって自分の好きな事をする時間を得ようと試みてみた。
だが、皇室や貴族の御用達という箔の付いた店に来る店員希望者はどれも優秀で、人を増やせば増やしただけ、新しい店を建てれば建てただけ繁盛してしまう。
「私は一体どうしたら……」
気が付けばチョココロネで宮殿が建ってしまうほどの財産を手に入れてしまったセーラは、泣きながらエリーシャに助けを求めた。
「いや、私に言われても」
すがりつかれても困ってしまうのがエリーシャである。
チョココロネの人気の一端は間違いなくエリーシャの所為なのだが、だからとそれを止める義務はないし、何より「売れてよかったじゃない」位にしか思っていなかったのだ。
「私、別にその日が過ごせるお金さえあればそれでよかったんですよぉ。皆が楽しく美味しいパンを買って行ってくれたらそれでよかったんです。お金なんてそんなに要らないんですよ」
無欲の勝利といえば聞こえが良いが、実際忙しすぎでやりたいことがやれない日々が続くセーラにとっては、勝手に増えていくお金というのは不気味この上なかった。
「なんて無欲な子……まあ、平穏が欲しいというのは解らないでもないわ。折角大成したのに勿体無いとも思うけど、貴方が嫌なんじゃ仕方ないものね」
「うぅ……エリーシャさん、助けてください」
泣きながら袖を掴むセーラの頭を撫でながら、小さく溜息をついた。
「仕方ないわね。じゃあ私についてきなさい」
「は、はいっ」
どうしたらいいか解らなくなっていたセーラは、エリーシャに言われるまま、その後について行った。
「ついた、ここよ」
そこは、城であった。国の中枢。
皇帝シブーストのおわす巨大な城は、セーラとエリーシャの目の前にて荘厳にその存在をアピールしていた。
「あの、エリーシャさん、ここ、お城――」
「合ってるわよ。それじゃ、入るから」
「は、入るって、そんな、私――」
宮殿が建てられるくらいの財産を持っていても、セーラは所詮民間人である。
ほんの少し前までパン屋の経営者をやっていた程度の元貧乏人が、お城に入れるはずも無い。
「これはエリーシャ殿。どうぞお入り下さい」
城の入り口を固める衛兵は、エリーシャの姿を見ると即座に門を開いた。
「連れがいるの。一緒に入れてくださる?」
と、エリーシャは緊張に固まりまくるセーラを顎で指す。
「エリーシャ殿のお連れとあらば、お通しせねばなりますまい」
兵士も訳知り顔で快諾していた。
「ありがとう。どうしたのセーラ? 行くわよ」
「えっ? あ、は、はいっ」
名前を呼ばれ、ビクリと肩を震わせて先を行くエリーシャに駆け寄った。
置いていかれないように。
「――と言う訳なのです、ヘーゼル様」
「なるほど、事情は良く解りましたわ」
エリーシャ達が訪れたのはヘーゼルの私室であった。
間も無く結婚、という時期で、ヘーゼルの部屋には色々と品が届いていた。
「セーラさん、と仰いましたか。貴方はパンを焼くのがお好きなのですね?」
「は、はい……」
椅子に腰掛け、気さくに笑うヘーゼルに対し、セーラは緊張でガチガチになっていた。
貴族の娘を前にする事など初めてで、その、民衆にはない気品の良さに圧倒されていたのだ。
「貴方には相応の資産があるようですから、いっその事貴族になってしまえばよろしいかと」
「へっ?」
ヘーゼルの口から出たのはとんでもない提案であった。
貴族になる、というのがどういうものなのかなど、民間人のセーラには正直全く想像もつかない。
「まず、領地の無い方は貴族にはなれませんから、お持ちの資産で領地を購入するのです。貴族と一言で言っても、経営難に苦しむ方もいらっしゃいますから、そういった方に頼めば快く譲っていただけると思いますわ」
「あ、あの、それって、お金さえあれば貴族になれるって事ですか……?」
ヘーゼルの言葉どおりならば、成金貴族が世にはばかる事になるのだが、そんな貴族は聞いたことも無かった。
「いえ、お金だけで解決できるのは領地の獲得だけですわ。それだけでは、村を作ったり街の権力者になる事はできても、貴族になる事は出来ません」
やはり、成金なだけでは貴族にはなれないらしく、ヘーゼルは静かに首を横に振っていた。
「では、一体どうすれば……? それに、貴族になる事が、何故解決策になるのですか?」
「そうですね……まず何から説明したものやら」
少しだけ考える仕草をし、ヘーゼルは笑った。決まったらしい。
「まず、貴族になる為には爵位と領地が必要なのです。領地は財産に関わる事ですから、お金でやり取りができます。ただ、爵位はその方が積んだ功績によってのみ与えられる物ですので、ただお金持ち、というだけでは貴族にはなれないのです」
「それじゃ、私なんかじゃやっぱり貴族には……」
否定しようとするセーラに、ヘーゼルは再び首を横に振る。
「貴方は『チョココロネ』という素晴らしいパンを開発し、これを世に広めました。これは中央の貴族の誰もが認める多大な功績ですわ」
にこりとたおやかに笑いながら、ヘーゼルはセーラの功績を称えていた。
「そして、私が貴族になる事をお勧めしたのは、貴族には一定量の税が課せられることと、他の方に追われる事無く、平穏な生活を望めるからなのです」
無駄に稼いだ金を領地獲得と税に費やし、誰にも侵害される事の無い自由な時間を得られる。
それがヘーゼルの伝えたかった事であった。
「そんな生活が……あの、貴族様って、そんなに自由なんですか?」
「私のような家柄に縛られる地位にいる者はともかくとして、それにこだわりのない、一代限りの貴族というのは本当に自由だと思いますわ」
ヘーゼルは眼を瞑り想い馳せる。貴族というのは、家柄によってはがんじがらめにされる事も少なからずあるが、それなりに自由なのだ。
金が続く限り好き勝手できると言ってもいい。勿論常識の範囲での話だが、望めばどんな暮らしもできると言える。
大好きな人と一緒に暮らす事だってできるだろう。夢を抱き、それに熱中する趣味人は、貴族にこそ多い。
「でも、私、貴族様の作法とか知らないし……それに、大きなお屋敷に暮らすのって、慣れそうにないです……」
どれだけ儲けてもセーラの家はあの小さなパン屋なのだ。大きな家で暮らす気など全然起きなかった。
「別に、貴族だからと大きなお屋敷で暮らす必要はありませんわ。勿論、好きなことをやるのなら相応に機材の揃った工房をお持ちになった方が便利だとは思いますが」
「あ……工房かぁ。確かに色んなパンは焼きたいと思ってましたけど……」
少しだけ心が揺らいでしまった。素朴な家も捨てがたいが、心行くままにパンを焼くなら、やはりあの小さなパン屋ではあまりにも機材不足過ぎる。
最新式のタンドール窯等は非常に高価で、これで焼かれるナーンと呼ばれるパンはかなり興味深かった。
そういったものを焼くにも、やはり新しい工房のほうが良いのは間違いない。
「……いいなあ、新しい機材。新しい工房」
「どのようにするのかは貴方の自由ですが、貴族になるおつもりでしたら、一度皇帝陛下に謁見を申し入れてみてはいかがでしょうか? 爵位を得るには、当然ながら皇室の許可が必要ですから。それと、領地関係の管理も皇室が行っていますので、皇帝陛下にお尋ねすればその辺りもわかりやすいと思いますわ」
「あ……は、はい、解りました。ありがとうございます、ヘーゼル様。それとエリーシャさんも。おかげ様で打開できそうです」
ヘーゼルもとても解りやすく説明してくれる為、セーラはどんどん乗り気になっていった。
「いえいえ。私も貴方のパンのファンですから、こうして役に立てるのは光栄ですわ。何より、私が貴族の子女に広めてしまった事が、貴方の苦悩の原因となってしまったようですし」
ヘーゼルも思うところがあった故の提案だったらしい。
「貴方がお望みでしたら、陛下との謁見も取り持ちますが……一般の方ですと、謁見まで数日待つこともザラですから」
幼い頃からシフォンの侍女兼友達として皇室に仕えていたヘーゼルにとって、皇帝は決して遠い存在ではなかった。
偉大なる皇帝ではあるが、どちらかといえばシフォンの父親という面の方を多く見ている為であり、何より遠からず義理の父となる相手である。
それなりに気安くもあり、時には雑談する事もある位には親しんでいたのだ。
「あ、あの、お願いできますか? 私、すぐにでも、パンを作れる生活に戻りたいんです」
セーラは、必死の表情で懇願した。
それを見て、ヘーゼルは柔らかに微笑み、「解りました」とだけ、言った。
同時に、ヘーゼルがセーラ達の後ろを見やり、部屋の入り口に立っていた侍女が静かに頷き、部屋から出て行ったのを、エリーシャは見逃さなかった。
「ありがとうヘーゼル様。忙しい所なのに、面倒ごとを持ち込んでしまって」
「いいのですよエリーシャ様。私は貴方にこのように頼られるのが嬉しいですわ」
一応ヘーゼルから見てのエリーシャは、愛しきシフォン皇子の心を奪われかけた憎き相手、という事になってもおかしくない位の相手なはずなのだが、決して私心でもそんな事は思わず、良好な関係が続いていた。
(いい人だわ)
(いい方です……)
エリーシャもセーラも、心の中で静かにそう思い、ペコリと頭を下げる。
「……?」
にこやかに笑いながら、その仕草に不思議そうに首を傾けるヘーゼルであった。
その後、シブースト皇帝と謁見を果たしたセーラは、その気さくさに唖然としながらも、見事爵位と領地を譲り受け、貴族の仲間入りを果たした。
程なくして新たなパン工房の建造を開始し、それが建つ頃にはチョココロネの人気は、チョココロネを原型として新たに生まれた『クリームパン』に飲み込まれていった。
新たな人気商品は瞬く間に貴族の子女の間でも人気になったが、パン貴族となったセーラは、不思議とそれを見てやる気を取り戻し、新たなパンや焼き菓子の製作に取りかかる事になる。
そうして生まれたセーラの新作達は、魔物の増殖によって流通が滞り始めた現代においても世界中に広められ、世界中の技術と融合したハイブリットな存在感を醸し出していた。
「こちらが、その品ですわ」
「これが最近人間世界に広まってるパンかね……その、なんだ、丸いな」
「丸いですわね」
「はい、まんまるで可愛いです」
魔王と黒竜姫、エルゼ、そしてラミアの四人は、のんびりとお茶会をしながらそのパンを眺めていた。
手に入れるのが困難だった為一人一つずつ、それぞれの皿の上に乗せられていた。
「そもそも穴が開いているぞ。なんなんだこれは」
どう食べたら良いのかも想像がつかない。
エルゼがころころとフォークで転がしているが、ある時ハッとした黒竜姫と魔王が声をあげる。
「まるでイヤリングみたいですわ」
「まるでイカリングみたいだな」
想像しているのは似たような形状のはずなのに、乙女と中年ではこうも違うのか。悲しい齟齬であった。
「ドーナツ、というモノだそうです。なんでも、人類最高峰のパン貴族が作ったものだとか……」
三人がつくテーブルの前に立つラミア。下半身が巨大すぎて座る椅子などないので彼女だけ立ったままである。悪意は無い。
「パン貴族って何だ」
「パンを作る事に執念を燃やす貴族らしいですわ。趣味人だとか」
説明を聞いても訳が解らなかったが、なにやら執念深さを感じた魔王は頷く。
「人間はパン一つ作るのにも執念を燃やす者がいるのか。末恐ろしいな。ううむ」
魔王も唸らざるを得ない。
「とりあえずどうやって食べるのだこれは。何かつけたりするのかね?」
「いえ、そのまま手にとってかじるそうですわ。こう、がりっと」
ラミアの説明も又聞きらしく、説明しながらラミア自身でも良く解らないというのはひしひし伝わっていた。
「まあ、とりあえずかじるか……」
「そのまま手に取るのはどうなのかしら……陛下、紙ナプキンを使っては」
素手で食べ物に触るのを躊躇う黒竜姫は、傍らに控える侍女に言いつけ、それを用意させていた。
「あぁ、まあ、私はそんなに気にしないがね。まあいい、ありがとう」
断るのもなんだからと、差し出された紙ナプキンを受け取り、それを手とドーナツの間に挟んで持った。
「では私も頂きますわ」
黒竜姫も魔王に倣い、手に取る。
エルゼもラミアも同じようにする。ラミアは手が滑り落としてしまった。三秒ルールなど魔界には存在しない。
「ほう、これは中々美味いな。だがぱさぱさしているぞ。口の中が乾いてしまうな」
最初に食べた魔王がその味と食感を伝える。
「うぅ……こ、紅茶やミルクを飲みながら食べるとより楽しめる、と……」
ラミアは涙目になりながらその食べ方を伝えていた。
「なるほどね。確かにこれは紅茶と合うかも……」
「ミルクティーと一緒ならもっといいかもしれませんね」
ラミアの言うとおりに紅茶と交互に口に含んだ黒竜姫とエルゼは、その口の中に広がる紅茶の風味の良さとドーナツの甘さに頬を綻ばせていた。
ドーナツを食べた三人とも、その評価はなかなかの物である。
食べ終わると、物は小さかったので魔王はやや物足りなさそうだが、黒竜姫とエルゼは満足そうに笑っていた。
「中々美味しかったわ。人間ってこんなものも作れるのね。少しだけ見直したわ」
「本当に、ご馳走様でした」
「うむ。たまになら食べてもいいな。だが、甘ったるいより私はしょっぱい方が好みだ。イカリングが食いたい」
魔王はパンよりつまみ派だった。
「……べ、別に悔しくないですし……人間の食べ物なんて興味も何もないですし――」
一人ぶつぶつ呟くラミアであった。
その後、ラミアがひっそりと部下にドーナツを買いに行かせているのを目撃してしまった魔王は、あまりの居た堪れなさに思わず涙目になったのだという。
ともあれ、パン貴族セーラの作り上げた品は、人魔の境を超え広まっていったのだった。