#5-1.戦乙女の見る夢
それはかすかに流れる麦の波だった。
金色に染まった麦畑。少女は一人、馬車に乗って遠く消えていく影を見つめる。
秋の足音が近づくシナモンの村。ざぁ、という波の音だけが、その風景に色を伝えていた。
一人の勇者として魔王を討伐せんと旅立つ父に、少女はどこか、つまらないものを見るような目を向けていた。
少女にとっては尊敬する父親であるはずだったが、同時に、まだこんな幼い自分を置いて旅立ってしまう『勇者』が、どうしようもなく薄情に思えたのだ。
そんなだから、少女は旅立つ父を、どこか素直に送ることが出来なかった。
それが、今生の別れだったとしても。そんな事は、少女には解らなかったのだ――
少女が父の死を知ったのは、父が死んでから2年も経った頃である。
やはりシナモン村で、一人行儀良く本を読んだりしながら暮らしていた少女は、ある日突然、国を治める皇帝からの呼び出しを受けた。
聡明な彼女は、それで何かが起きたのだと悟ってしまった。
何事も無ければ、父は村に帰ってくるはずだと信じていたから。
アプリコットまでの馬車の中、少女は、多分、父が戦死したのだと考えていた。
まだ詳しい話を伝えられていないから解らないけれど、辛い事、嫌な事は先に想像してしまった方が良いのだ。
その証拠に、少女は馬車の中、色々と嫌な事をイメージしてしまって辛い気持ちになったが、アプリコットに着く頃にはある程度覚悟が決まっていた。
御者は妙に優しかったし、付き添いの侍女だという女性も彼女に色々気を遣ってくれていたのもある。
勇者の娘とは言え、田舎娘一人にそこまでしてしまうのである。
少女はもう、それを素直に「優しい」だけで受け取れる程幼くは無かった。
少女がアプリコットのお城に着くと、何度か会った事のある髭の皇帝が出迎えてくれた。
それがどれだけ大それた事かは流石に少女にも解ってしまい、変に恐縮してしまっていた。
髭の皇帝は、そんな少女の手を引き、玉座へと連れて行った。
玉座には他には誰も居らず、髭の皇帝と、少女の二人きりであった。
髭の皇帝は、少女に、豪華な玉座に座るように促した。
自分はと言うとなぜか絨毯の上にどかりと座り込んでいた。
いつもは沢山の従者や兵隊が控えているというのに、こんな時ばかり二人だけだった。
何から何まで特別過ぎた。
だが、覚悟できていたから少女はうろたえなかった。
少しの間、場を支配していたのは沈黙だった。
どちらとも話し始められず、空気は乾燥していき、二人の唇を乾かしていく。
「すまん、エリーシャよ」
その沈黙を破り、髭の皇帝は、絞るように言葉を発した。
「お前の父、勇者ゼガの、戦死が確認された……」
眼を瞑り、どこか申し訳なさそうに、自分より悲しそうに嘆くこの皇帝に、エリーシャは逆に悪い事をしている気分になってしまった。
「――そうですか」
父の戦死というショッキングなはずの出来事が起きたというのに、少女は涙一つ流さず、受け止めていた。
「魔界の、夜の領域と呼ばれる地域の城砦で、上級魔族相手に討ち死にしたらしい。命からがら逃げ延びた兵が、この度徒歩で帰還してな……」
皇帝は、それ以上言葉が続かないらしく、悲壮な表情そのままに、俯いてしまった。
「何故陛下がそんな悲しそうな顔を?」
逆にエリーシャの方が皇帝を心配してしまう、そんな逆転現象が起こっていた。
一番悲しむべき人間が、それより嘆いている人間を見てしまって、そこまで感情を強く出せなくなったのだ。
結果抱いたのは、皇帝への気遣いという奇妙な感情。
「すまんな、お前より俺が悲しんでいては仕方ないというのは解るのだがな……」
質問の意図に気づいてか、皇帝は力なく笑い、頬を掻いていた。
「ゼガは、俺の親友だった。若い頃は共に戦場を駆け抜け、切磋琢磨しあった仲だ。あいつだけじゃない、あいつのパーティーの誰もが、俺にとっては掛け替えの無い親友だったんだ――」
皇帝は笑う。目の前の少女を少しでも気遣おうと。
指導者としての自分に不甲斐無さを感じながら。親友を失った悲しみに暮れながら。
「大丈夫ですよ陛下。私、父が亡くなっても大丈夫です」
一人暮らしには慣れているつもりだった。
村の人達は皆優しく、一人ぼっちでも寂しくない位には友達も居たのだ。
夜も、もう泣いたりせずに眠れる位には大人になっているつもりだった。
だが、皇帝はそんなエリーシャに、余計に申し訳ない気持ちになったのか、その表情は硬いままであった。
「まだ幼いお前から、父親を奪ってしまった事を申し訳なく思っている。どうか、その償いをさせて欲しい」
「償い……?」
「俺の娘になってくれんか。生活には不自由させん。倅達や従者達にも、俺の娘として扱うように言い聞かせてある。どうだ?」
皇帝は、人のよさそうな笑顔で笑っていた。悲痛な笑みだった。
大人って可哀想だ、と、エリーシャは思ってしまう。
それは、エリーシャにとっては想像だにしなかった提案であった。
父とこの皇帝が親友だったからと、そこまでする必要があるのかと疑問に感じてしまう。
この場面で冷静にそう考えてしまう辺りがエリーシャの、普通の田舎娘とは違うところだった。
「トルテも、お前が姉になるならと喜んでいるぞ。別に皇室のしきたりだとか面倒くさい事に従わせようとはせん。好きに暮らしていいんだ。だが、どうか俺に保護させて欲しい」
「それは、生前の父との約束とか、そういうのですか?」
エリーシャにとって、唯一考えられた可能性がそれだった。
父は、自分が死んだら娘を頼む、だとか皇帝にお願いしたのではないか。彼女はそう考えたのだ。
だが、皇帝は静かに首を振り、「そうじゃない」と眼を瞑る。
「お前の事は心配ないと、あいつは言ってたんだ。だが、俺はあいつをお前から引き剥がしてしまった、その責任があると思うのだ。その責任を果たさねば、あいつに顔向けができん」
エリーシャにとっては意外な事に、皇帝は、勇者への義によってエリーシャを引き取ろうとしていたのだ。
「勇者が戦い、戦地で死ぬことはそんなに珍しくもない事だと聞いています」
だがエリーシャは、歳に似合わず冷静に、言葉を紡いでいく。
「だったなら、父が戦死したのは仕方のない事です。勇者なんていつでもやめられたのに、それをやめなかったから死んでしまっただけ」
「だがな、エリーシャ――」
「勇者の娘って、ほとんど一人ぼっち確定なんだと思います。起きて当たり前が今まで起きなかっただけで、私はすごく幸運だったんですよ」
エリーシャは、笑っていた。
頬を伝う何かを感じてはいたが、もう父の死を受け入れてしまっていた。
父の死は、エリーシャには解りきっていた事だったのだ。
戦地とは危ない所なのだ。
死と隣り合わせなのだと聞けば、そんな所に毎度のように首を突っ込んでいる人がその内死ぬのは、当たり前だととっくに気づいていた。
何かの間違いで死んだのではない。
死んで当たり前の人間が当たり前の事として死んだだけの話なのだ。
そういう風に割り切る術を、エリーシャは幼い頃からの一人暮らしの中で既に体得していた。
「戦地で戦ってる他の勇者の人や兵隊さんにだって家族はいるんでしょう? だったら、陛下、好きで世界を救いに行って死んだ勇者の娘より、別に好きで戦ってる訳じゃない人達の家族を見てあげてください」
それは、これ以上皇帝に気遣われたくなくて出た言葉だったが、不思議と偽善を感じさせる優しさがある、都合のいい逃げの言葉だった。
「ですから、陛下、私の事は心配なさらなくても平気です。私、結構自分だけで生きていけちゃいますから」
少女は笑ってみせるのだ。まるで自分のほうが目上のように、自分の父の死を嘆き、その娘を心配する皇帝を気遣うように。
「そうは言うが、お前一人で生きていくのは辛い事だと俺は思うのだ」
「確かに辛いでしょうけど。でも、私は一人の田舎娘で良いのです。皇室になんて入ったら、ストレスで早死にしちゃいます」
なんでこんなに辛そうな顔をしてるんだろう、と思っていた。
他人事のはずなのに、ここまで自分のことのように辛そうな顔が出来る人なんてすごいと、エリーシャは感じたのだ。
いい人だなあ、悲しませたくないなあ、なんて考えているうちに、色々と言い訳が浮かんできたのだった。
「父だって、陛下にいつまでも気負われていたら、申し訳なくていつまでも静かに眠れませんよ」
「う、うむ……そういうものか? すまん、どうやら暴走していたらしいな。お前の気持ちも考えず、独りよがりな考えだったようだ」
彼女としても若干卑怯かなと思い始めた言い訳は、しかし、皇帝が冷静になるには十分な時間を稼いでいたらしかった。
結局、エリーシャは髭の皇帝を見事説き伏せ、そのまま村に帰ることとなった。
魔界という遥か遠くでの戦死だった為、父の遺体はおろか、遺品すら持ち帰れず、その功績とは裏腹に小さな墓が故郷の村に作られただけだった。
それでも、エリーシャは毎日のように墓の手入れをしたり、花を添えたりと、少しでも傍に居ようとしていたのだが。
その姿は、当人はともかくとしても、村人達には涙を誘う健気なものに映ったらしく、一人ぼっちになってしまった少女を暖かく見守っていた。