#ED-1.重なる世界
レーズンとの別れを済ませてから、三日ほど経過した頃。
のんびりと温かな陽が溢れる中、魔王は、会談以降久方ぶりに正式にアプリコットを訊ね、シフォン皇帝らと会談をしていた。
「そちらの問題も片付いたようで、これからは心行くまで、平和についての話し合いができそうですな」
線が細いながらも、父親としての貫禄か、勇ましさを伴うようになった若き皇帝は、魔王を前にしても物怖じせず、爽やかな笑みを浮かべる。
「うむ。これからが楽しみだ。私はねシフォン皇帝。沢山、人間世界のことを知りたい。人間の事を知りたい。そうして、まだ君たちの事を何も知らない魔族世界の民に、人間というものがどういうものなのか、正しく伝えたいのだ」
魔王もまた、ニカリと悪戯気に笑いながら、シフォンに応える。
「お互い、沢山知り得ないことがあった。これからは少しずつですが、理解を深めて行きたいものです」
「本当にな。知る事が出来れば、理解する事が出来れば、それが互いの間で起こるかもしれん悲劇を止めてくれる事もあるだろう。無理解こそが、私達にとっては最大の悲劇だったのだ」
人類と魔族の相互理解。これこそが、両者を繋ぎとめるためのクサビなのだと、魔王は考える。
シフォンもまた頷きながらに、魔族の王の貫禄漂わせる黒の中年の瞳をじ、と見つめた。
「魔王殿。これからもよろしく頼みたい。世界はまだ、不安定なままだ」
「こちらこそ、シフォン皇帝。二人、世界をより善く、平和へとしていこうじゃあないか」
魔王も彼を見つめ、そうして、二人同時に頷いた。
「魔王殿。ご存知かも知れんが、こちらが私の妻、ヘーゼル。そして、これが私の息子『カシュー』だ」
会談は緩やかに、静かに進み、その日の予定が済むと、今度は会食の時間となった。
魔王はアリスを伴ってであったが、シフォンは皇后ヘーゼル、そして自らの後継者であるカシューをエリーセルとノアールに連れさせ、これに臨んでいた。
「二人とも、あの場にいましたな。正式にお話しするのは初めてか。初めまして、私が魔王――ドルアーガ」
色彩鮮やかな食卓の場に眼を輝かせながらも、魔王は正式な場では一度も名乗った事のない名を、この場で、初めて出した。
「初めまして魔王陛下――お名前をいただけるとは、光栄ですわ」
皇后ヘーゼルは席に着く前に淑やかにお辞儀し、魔王へ微笑みかける。
大人しめながら清涼感のある青のドレスは、彼女の人柄をよく表しているように見えて、魔王は『これが皇后か』と、感心させられた。
「カシュー、お辞儀なさい。大切なお客様ですよ」
そうして、侍女としてカシューを抱くエリーセルの方を向きながら、我が子に優しく語りかけた。
「お……やく、あま?」
「お客様よ。挨拶なさい」
皇后としてこの場にいる以上に、彼女は母親であった。
「……ん」
まだ幼い皇子殿は、母親に言われるまま、魔王を見る。
「や、やあ」
魔王も、できるだけ人の善い顔で笑いかける。
何せ大切なこの国の跡継ぎである。『怖い顔』だなどと印象付けられてはたまったものではないのもあった。
そしてそれ以上に、魔王は『人間の子供』というものがよくわかっていなかった。
おっかなびっくりだったのである。初めてだらけであった。
「あじめ、まして!」
そうして、幼子は元気一杯に挨拶する。
その様に、魔王はどこか「きゅん」と感じるものを感じてしまう。
「最近、ようやく言葉を話すようになったのです」
「ほ、ほう……あの時、トネリコの塔で見たときよりも大きくなったように感じたが……もう、喋れる様になったのか。すごいな」
誇らしげにわが子のことを語るシフォンに、魔王は心底ありがたいと思いながら、その言葉に乗っていた。
情けない事ながら、子供相手に、どのように接すれば良いのか、それが魔王には解らなかったのだ。
「カシュー様、お可愛いらしいですわ」
そうして、椅子にかけることなく魔王の後ろで控えていたアリスも、カシューを抱くエリーセルを羨ましげに見ていた。
「エリーセル、良いお役目を頂いたわね……」
「ふふん、とっても可愛いんですよカシュー様。私の事も『えりいせる』って呼んでくれましたし!」
「いいなあ」
素直に羨ましがるアリスに、エリーセルはどや顔で胸を張っていた。
アリスはそんな気更々ないのだが、どうやら何かに勝った気になれたらしい。
「最初の頃は折角抱かせていただいたのに落としてしまいそうになったりして、何度もヘーゼル様をひやひやさせていたけれどねぇ~」
そうしてエリーセルの隣に立つノアールが、調子に乗っているエリーセルを現実へと引き戻した。
「ちょっと!? そういう事はこういう場では言わないでよっ!? 旦那様だって聞いてらっしゃるのに――あぁぁぁぁっ!? ち、違いますからね旦那様っ? わ、私はっ、エリーセルはきちんとお役目を――あうあうあう」
たった一言でパニックに陥る始末であった。魔王もこれには苦笑してしまう。
「まあ、二人が楽しく働いてくれているようで何よりだ」
だが、同時に安堵もしていた。自分の大切な人形達が自分の下から巣立つのは寂しいが。
それでも、こうやって彼女たちなりの幸せを見つけてるなら、それもアリなのではないかと思い始めていた。
「彼女たちはとてもよくやってくれています。平和な世界とはいえ、我が息子を預けることが出来る者は限られている。妻も、『この二人ならば』と、信頼しているのです」
魔王の人形だった事を知りながらも、シフォン皇帝もヘーゼルも、そしてこの城の者達も、皆がノアールとエリーセルと受け入れていた。
人は、魔族を受け入れられる。人形と人の境目など、あやふやになっているように思えた。
「――ありがたい事だ」
つくづく、噛み締めるように、魔王は思う。
受け入れられること。それがどれほどに喜ばしく、有り難い事なのかを、魔王は知っていた。
だから、彼は満面の笑みであった。
「カシュー君。私は、魔王」
そうして魔王は、シフォンに求められるままに次世代の皇帝へと顔を近づけ、話しかけていた。
「……まおー?」
ちょっとだけ困惑げに母親を見ていたものの、「大丈夫よ」と、にっこりと微笑む母を見てか、首をかしげながらに言葉を返す幼き皇子。
「うむ。沢山の趣味を持っている――ちょっとばかし趣味人な、魔王だよ」
「ゆみ……ん? ゆみにん?」
「趣味人」
「ひゅ……しゅ、みにん。しゅみ、じんな、まおー?」
何度か詰まりながら、自分で繰り返しながら、やがて自分で理解したのか、ぱあ、と笑顔になる。
「しゅみじんな、まおー?」
「ああ、そうさ。よろしくな、カシュー君」
その小さな手を指先で軽くつまむようにしながら、握手。笑いかけた。
「――おろしく、よろしく、まおーっ」
何が楽しいのか、ニコニコと魔王の指を握り返してくれる、そんな様が可愛らしく感じられ。
しばし、会食も止まったままに、幼子との時間を大切にしていた。
「はあ、可愛かったなあ、小さな子供」
会談からの帰り道。のんびりと夜の帝都、その公園を歩く魔王一行が、そこにいた。
「そうですね。カシュー様、ますます可愛くなっちゃって」
ほんわかしましたね、と、アリスもニコニコ笑顔で魔王に従う。
「エリーセルちゃんとノアールちゃんも幸せそうだった。ああやって、皆自分の幸せを見つけていくのかな……」
ひんやりとした空気の中、しみじみ思いながらに、その寂しさを噛み締める。
幸せな寂しさだった。手を伸ばせばいつだってそこにいる。だけれど、少しだけ自分から離れてしまった、そんな寂しさ。
「旦那様は、シャイすぎますわ」
そんな主に、アリスは珍しく一言を述べる。
「もっと、手を伸ばしても誰も怒りませんのに。寂しくなったら会いに行ってあげれば良いですし、もっと、我侭になっても良いと思います」
誰も困りません、と、柔らかく微笑みながら、金髪を右手で煽る。
さら、と、風で金糸のような髪が舞い、灯りにキラキラと輝いた。
「……そうかな?」
「きっとそうですわ。私は、もっと旦那様が積極的になった位の方が、幸せになれる方は多いのではないかと、そう思うのです」
ぴたり、足を止め、自分の方に振り向いた魔王に、アリスはさもありなんと言った様子でじ、とその眼を見つめ返す。
「私は、そう思います。物事も落ち着きましたし、ご自身の幸せを、もっと考えてもよろしいのでは?」
「……そうか」
「きっとそうです」
にやり、笑う魔王に、アリスもにやりと笑って返す。
こんな笑い方をするアリスちゃんは初めてだと思いながら、初めてみたその表情が、とても魅力的なもののように感じられて。
「――ヘーゼル皇后、あれはよかったなあ。やはり、王の傍には、美しい妻というのは必要なのかも知れん」
また、歩き出す。話題逸らしではない。続いていた。
「私は、アリスちゃんが傍に居れば、それで良いんじゃないかと思っていたが」
「私は人形ですからね。旦那様の人形ではいられても、奥様にはなれませんもの」
残念ですが、と、ちょっと眉を下げながら。だが、魔王のその先を封じたりはしない。
「やはり、妻は必要か」
「必要だと思いますわ。赤ちゃん、私も抱きたいですし」
二人、並んで歩きながらも、語るのは先の人生であった。




