#11-3.ラストバトル
空気は次第に冷たくなってゆく。
魔王の後ろに立つアリスは、ただ魔王を見守っていた。
心配する風でもなく、レーズンを恐れる風でもなく、ただ。
「まあ、お前ならそう言うと思っていたわ――なら、止めてみせなさい」
そうして向き直ったレーズンは、凍てつくような冷たい視線を魔王に容赦なく向け、ひんやり、哂っていた。
「本気かね? 冗談かと思いたかった――な!!」
レーズンの左腕が一瞬ぶれたのを察した魔王は、考えるより先に、左腕が動いていた。
叩きつけられる拳と拳。一見五分のように見えはしたが。
侍女服のか細い左腕は、しかし、外套から突き出た長い腕を一瞬、押し込んでいた。
「ぐ――っ」
苦痛に頬を歪める魔王。レーズンは、哂っていた。
「――馬鹿にするなよ伯爵。私はレーズン=アルトリオンだぞ? 昔ならいざ知らず、弱体化しているお前如きに後れを取るはずがないじゃない?」
そのまま、魔王の拳を押し切ってわき腹へと叩き込む。
「っ――い、いや。見た目に似合わぬ馬鹿力だ。流石は最強の人類だけはある」
魔王はわき腹へと突き刺さった拳を腕で弾きながら、一歩後ろへ距離を取った。
頬には冷や汗。じとりした背筋の痺れ。拳やわき腹の痛みなど比較にならぬほどの重圧が、この場には掛かっていた。
「人の身で、どうしてここまで力を持つことが出来たのか、私には理解すら叶わんが――この力を使えば、容易に願いの一つも叶えられように。なんだって君は、それをしないのかね?」
引きながらに、ガードを固める。丁度そこに、レーズンの拳が叩き込まれていた。
零秒近接、零秒打撃。時間を超越した戦いがそこにはあった。
「何言ってんのよ。私は『魔王』としての力なんて何一つ行使していないわよ? 私が今やってるのは――ハーニュート人として生まれ付いて持っている力を、乱暴に、使っているだけ!」
叩きつけられた一撃一撃が、数日前戦ったあの勇者の攻撃よりも遥かに重く。
「ぐはっ――う、ぐっ」
固めていたはずのガードなど気にもならぬとばかりに、レーズンは強引にその守りを剥がし、顔面へと一撃を見舞う。
よろめく魔王。足元がつい、ふらついてしまう。
『癒えろ――』
それでも、ぼろぼろになっていた身体は即座に癒える。
レーズンはまた、その様を冷ややかに見つめていた。
「お前が最強の『魔王』であったのは、お前自身の最強クラスの身体能力だけではなく、その『コマンド』の優先順位の高さもあったわ。だけど、お前はそのコマンドを、自分の周囲の現象に制限し、それ以上の事には使おうとしなかった」
「当然だ、ロクに物事を知らん私がそんな強大な力を行使すれば、それはかつての私のように、世界そのものに悪影響を与え、滅ぼす事に繋がりかねん――影響は、最低限に抑えなくてはならんのだ!」
「お前はなんにもわかってないわ。『魔王』とは、それができる立場に在る存在を指す。悪影響? 世界の滅亡? お前は馬鹿なの? 世界が壊れたら創り直せば良い。絶滅した民などいくらでも『川』から掬い出した魂から創り出せるわ。『私達』はそれができる。できてしまえる」
戦いながらに、レーズンの言葉は続く。
魔王の戸惑いなど初めから知っていたとでも言わんばかりに。
圧倒的な力を叩きつけながら、言葉でも圧倒していた。
「『魔王』とは、その世界限定で何だってできてしまえる存在よ。女を囲って悦楽に浸るだけの奴だっていた。気に入らないことがあったからと、まるでゲームをリセットするかのように世界を消してやりなおした奴だっていたわ。だけど、それらは何ら罪悪ではない。当然よね。創り出した者が自分の都合の良い様に生み出した世界で何をしようと、それは創造主の勝手だものね?」
やがて低空から腹を蹴りつけられ、魔王が仰け反る。そこで、レーズンの猛攻は止まった。
まともに蹴りが入ったかのように見えた魔王であったが、レーズンの足を掴んでいたのだ。
「だが、生み出された者達にも人生があった。殺されるだけの人間にも心があった! 私達は何も知らなかったのだ。ただ生み出されただけの存在に、私達と同じものが備わっていたなんて!!」
「そうよ、それが答えよ!! 私が悪戯に『魔王』としての力を行使しないその理由が、それよ!!」
限界まで握られ力を溜めていた腕を、一気に叩き付ける。
掌底での一撃は、レーズンの胸元へ、直線的に跳んだ。
「か――はっ!?」
直後、強烈な魔力の波動が、そのままレーズンの体内に直接叩き込まれる。
以前、魔王がなんとなしに読んだ漫画に載っていた『拳法』とかいうものの極意であった。
「ごほっ――かふっ」
そのままうずくまり、胸を、口元を押さえ座り込んでしまう。
そうしてそれでも抑えきれないのか、指の間から赤が溢れていった。
『魔王』相手でも十分に威力を発揮したらしく、その出来に、魔王は幾分喜びのようなものを感じていたが。
「……もうやめよう。私では君を殺すのは無理だろうし、君だって、私を殺す訳にはいかんのだろう?」
一見して追い詰めたように見えるレーズンであったが、魔王の言葉に、ぴくり、背を震わせ。
やがて、何事もなかったかのように立ち上がった。
口元にも指先にも血の汚れ等なく。まるで戦う前のままであるかのように、皺一つ無い清潔な侍女服が風にたなびく。
「今のは痛かったわよ。子供の頃の私なら思わず泣いちゃう位痛かった、かもね」
そうして皮肉まで垂れる始末である。やれやれ、と、魔王は苦笑した。
「あーあ。散々だわ。やっぱ、お前と会うとロクな事にならない」
悪態をつきながらに、なんでもなかったかのように背を向けとてとてと歩き出し、やがて、木影に置いたままの荷物を手にする。
「君は何故、私達が来るのを待っていたんだね? それこそ、その気になればわざわざ私に見つかる事無くすぐにでも行けただろうに」
「……別に。ただの感傷よ。つまんない感傷」
背を向けたまま、レーズンはやがて、時空に干渉し始める。
「私は、沢山の世界を行き来したわ。そこでエリーやアンナと出会い、初めて、幸せな日常を、望み続けた平穏を手に入れたの」
その声にはもう冷たさはなく。どこか、氷を溶かすような優しさを魔王達に感じさせながら、ぽつり、ぽつり、語っていく。
「かけがえのない日々だったわ。私の人生で、一番楽しい時間だったと、今でも思う。だから、私は後悔したの」
「後悔?」
「それを得る為に。ただそれを維持するためだけに、エリーを見殺しにしてしまった事を。馬鹿な話だけど、その時の私は、エリーを見殺しにしてでも、『普通』でありたいと思ってしまっていたの。そんな私を、殺してしまいたかった」
やがて、黙り込んで間が空く。
だが、魔王は悪戯に口を挟んだりせず、ただ、待っていた。
「次に私が思ったのは、『またあの日々をやり直したい』という、願望だったの。またあの楽しい日々に戻れば、あの生活を繰り返せば、この辛くて苦しい気持ちも、少しは癒されるんじゃないか。晴れるんじゃないか、って」
「晴れたのかね?」
「――全然。むしろ、酷くなったわ。結局、焼き回しではダメなんだって気付いて、今度は未来にまで出向いて、『本来エルフィリースになる事の無いタルト皇女』まで、その運命を捻じ曲げて過去へと送り込んだりするようになったの。だって、そうしないと過去にはエルフィリースがいなくなってしまうから」
たったそれだけの為に、と。身勝手の告白。
「過去は変えられない。過去に干渉しようと、未来を捻じ曲げようと、それによって変わるのは全く似たような、完全に別物の世界だけだ」
「それでも、やらなきゃいけなかったのよ。心の平穏の為には。お前も言っていた通り、私達の持つ力は絶大すぎる。わずかな心の均衡が壊れただけで、ただ世界を壊し続けるだけの存在へと成り下がってしまう。欲望の赴くまま好き勝手やってる連中だって、そうしなくては自分というものを維持できないのを知っているからそうしているだけ」
最古参の『魔王』の、悲痛な言葉であった。
魔王自身から見ても遥か以前から生きている先人の、虚しすぎる告白であった。
「――だけどね、気付いてたわ。私がやってた事は、私自身にとってすら辛い、誰も得をしないことなんだと。だって、エリーシャ様が死んでしまったとき、私、泣いてしまったもの。あの方が、いいえ、代々のレプレキア家の者がトリステラを大事にしてくれていたと聞いたとき、私は、初めて自分の気持ちに、正面から向き合ったの。そして、『こんな事はやめなくちゃいけない』って、諦める勇気を、持つことが出来たのよ」
少し背を震わせ、言葉を詰まらせながらに。
やがて、振り向いたレーズンの顔は、憑き物が落ちたかのように晴れ晴れとしていた。
「だから、私は確認したいの。私も関わらず、伯爵も関わらず。パトリオットの良いようにされなくなった世界で、あの娘が、どのように生きるのかを。本来どのように生きられたのかを、私は見たくなったの」
「……そうか」
泣きながらの笑顔。自身の咎に苦しみながらも、それでも彼女はやはり、親友だった娘に拘っていた。
やがて、レーズンの背後の世界が大きく揺れた。
水滴が落ちたように波紋が広がり、それが時空への干渉の完了を伝える。
「もう、行くわ」
「ああ、だがレーズン。一つだけ言わせてくれ」
涙をぬぐいながら、笑いながらに旅立とうとする彼女を前に、魔王は一歩進み出て、耳元に顔を近づけ、ぼそぼそと聞かせる。
やがて、驚いた様子で眼を見開いたレーズンは、しかし、口元を押さえ、笑い出した。
「お前に言われたくないわよ! 全く、お節介な奴ねぇ」
馬鹿じゃないの、と、屈託無く笑いながら。レーズンは手を挙げ、次元の狭間へと踏み込む。
「じゃあね」
たった一言。味気ない別れの言葉であったが。
あの『魔王』と自分との関係なら、これ位が相応しいに違いない、と、魔王は小さく頷き、その背を見送った。
 




