#10-1.『過去』との戦いにて
黒に染まった花畑。
美しい光景に溢れるリヴィエラにあって、そこだけが沈んだ色彩に支配された特異な場所であり。
その中心にあるティーテーブル、そして、その前に一人立つ赤髪桃色羽の熾天使の姿は、二人の眼から見ても異様に感じられた。
天使の見目そのものは麗しく、ヴァルキリーと比べても遜色ない出で立ちであったが。
その身に纏う白い布もどこか幻想的であったが。
だが、その顔はどこか寂しげであり、苦しげであった。
「パトリオット」
その左足に嵌められた枷を見やりながら、まずはヴァルキリーが口を開く。
手には王剣。既に強く握り締め、いつでも挑みかかれる様になっていた。
「――とうとうきてしまったのね、二人とも。足止めは、あまり役に立たなかったかしら?」
先ほどヴァルキリーと戦っていた分身とは裏腹に、静かに、感情をあまり感じさせない口調で語りだすパトリオット。
魔王は、その視線の冷たさに、ごくり、息を呑む。
「まあ、いいです。端から役に立つとは思っていませんでしたから。魔神に魔女に天使に……自分の要らないパーツに。所詮、あんなものはこの枷が消えるまでの時間稼ぎに過ぎませんでしたし。それも叶いませんでしたから」
困ったものです、と、苦笑ながらに。
色の感じさせない瞳で、パトリオットは左手を挙げた。
「――っ!!」
直後、ヴァルキリーがパトリオットに飛びかかり、その首を飾る首輪もろとも、斬り落とさんと肉薄する。
……だが。
「――行儀が悪いわ、ヴァルキリー」
パトリオットの正面にいた『何者か』に、ヴァルキリーの一撃は受け止められてしまう。
そのすぐ後ろでほくそ笑むパトリオット。魔王は「ほう」と、感心したように口元を歪める。
「その男、『勇者』か。どこか懐かしい雰囲気を感じるぞ。あの男の中にいた時と比べても、こいつからはひしひしとそれが伝わってくる!」
面白い事をするなあ、と、こつりこつりと前に出る。
ぎり、と拳を握り、ヴァルキリーを押し返した男――『勇者』の前に立つ。
「追い求め続けていた頃はがむしゃらに時と労力ばかりかけていたが。なんだって、今になって会えてしまうんだろうねえ」
勇者と対峙する魔王。その口から出る言葉の一つ一つが、感慨深げであった。
「――全く、こんな時に出なくてもよかろうに。これでは、感動すらできやしない」
そうして、勇者から視線を逸らし――奥に立つ熾天使をにらみつけた。
「だが、こいつを見て納得した。どうやら、本当にお前が黒幕らしいね。この世界の。そして、私の人生の」
その瞬間。花畑は、不可視の重圧によって押しつぶされていった。
勇者もパトリオットも目に見えて動じた様子は無いが、そこには明らかな『力』が発生していた。
魔王の眼は、全く笑っていない。
「……」
憎しみすら感じさせるその表情に、勇者は無言のままに、ぞわりと来るものを感じて息を呑んだ。
「久しぶりね、伯爵。こういった姿で相見えるのは初めてになるかしら?」
だが、パトリオットは表情にすら揺らぎを見せず、微笑みかけて見せた。
「ああ、久しぶりだな。バイト女神」
相対するのは、アプリコットで見かけて以来であった。
最も、その際パトリオットは、女神リーシアの風を装っていたのだが。
――こいつが黒幕に違いない。こいつが、全てを仕組んだのだ。
外見も声も異なる、口調だけがどこか似ているように感じられる程度のものであったが、魔王は確信めいて睨みつけていた。
「あの時はまさか、リーシアを演じていたとは思いもしなかった。そもそも、お前の事など知りもしなかったからな」
魔王にしてみれば、パトリオットなどという名前には全く覚えが無かった。
今目の前に立つ赤髪の天使など、一度たりとも見た覚えが無かった。
だが、確かに会っているのだ。魔王の、魔族としての勘がその感覚を『正』であると後押しする。
魔王の皮肉めいた言葉に、しかしパトリオットは余裕の表情のまま羽を軽く揺らす。
「だって貴方、リーシアの顔なんて覚えてないでしょうからね。記憶にあって? 女神リーシアのそのお顔を。その声を。そして、その記憶に自信を持てて?」
黒い花の絨毯の上をふわりと浮きながら、すらすらとすべるように揺れて動き、踊るようにくるりと回る。
ふざけたような、嘲るような仕草に、しかし魔王は苛立ちより先に、疑問を感じてしまっていた。
「……記憶には、あまり自信が無いな。だが、最初の出会いはかすかに覚えている」
パトリオットの指摘するように、確かにリーシアの容姿に関して、かなり曖昧な記憶となっていた。
何せ、偽者の演技に気付けずに、そのまま信じ込んでいたのだから。
明確に覚えていたのなら、何がしか違和感を感じてもおかしくないはずで、それに気付けなかったのは、確かに自分の中でリーシアという存在が曖昧になっているからだ、と、自覚しはじめていた。
だが、パトリオットは笑う。くすくすと愛らしく。
そう、まるであの時のリーシアのように。あの時の。あの時の。
『生物はね、みんな、生まれる事によって、何かしらの意味を背負うものなのよ。貴方もきっと、貴方が成すべき何かを背負っているはずよ』
『人は哀しい時、涙を流すものなの。辛い時、苦しい時。嗚咽を漏らし、心の痛みに身を震わせる。貴方は、そうなれるのかしら?』
『可哀想なドルアーガ。なんにもわからないのね。大丈夫よ。私は貴方の味方。知らない事は何でも教えてあげましょう』
「……っ!?」
突然浮かんできたその言葉、その光景に、魔王は顔をしかめ、驚いたようにパトリオットを見つめていた。
「気付けたのかしら? そう。私は、私『達』は、貴方が考えていたよりもずっと昔から、貴方と会っていたんですよ?」
魔王の動揺を見透かしてか、パトリオットは地へと降り立ち、ヴァルキリーと勇者との互いの剣を押さえつけ、降ろさせる。
まるで『無粋な真似はやめて』とでも言わんばかりに。
何故か逆らう事もできず、ヴァルキリーも勇者も、居心地悪そうに視線を背けながらに大人しくなってしまう。
魔王の支配したはずの空気が、いつの間にやらパトリオットに支配されていたのだ。
「そもそも。貴方の記憶の中にある最初のリーシアは、本来その時点で存在していなかったはずなの。意識すら、人格すら持っていなかった当事の貴方によって叩き潰されたのですから。そうしてリーシアの犠牲によって初めて、貴方は自身の存在に疑問を抱くことが出来て、そこからようやく人格らしいものが芽生え始めた。順番が違うのよ。矛盾していると思わない?」
おかしいでしょう、と、細い指をちらちらと揺らしながら、パトリオットは魔王の周りをくるくると歩き出す。
「――そう。貴方の記憶のどこにも、初めからリーシアなんていなかった。貴方が知っているリーシアは、全部が偽者。貴方は、リーシアを知っているはずがないんだもの」
魔王の肩口に首を当てながら、耳元で囁くように息を吹きかけ、気分の悪そうな魔王をからかって遊ぶ。
「教えてあげましょうか? 初めてリーシアのフリをして、貴方を抱きしめてあげたのは、そこにいるヴァルキリー。貴方に多くの知恵を吹き込んだのはリーブラという天使で、貴方が勇者を殺してしまった後、貴方に色々教えてあげたのはこの私」
貴方の人生騙されすぎ、と、鼻で笑いながらに距離を開ける。
「そうしてそうして、貴方は自分の人生の大半を誰かに、操られているとも知らずに過ごし、愛しい侍女と悲しいお別れをしたり、大切な友人と死に別れたり、自分を師として愛してくれた女性を自分の手で殺す事になったりしたの」
背を向けながらに、しかし言葉ばかりは魔王の胸に突き刺さるように。
パトリオットはその無機質な声を、愛らしい唇から淡々と紡いでゆく。
「――私が貴方の人生の黒幕、という表現は実に的を射ているわ。そう。私は貴方をどうにかしてしまいたかったのです」
そうして振り向いたパトリオットは、それまでの無機質を感じさせない満面の笑みであった。
「理解していただけまして? 私はね、貴方という存在をこの世から消すためなら、何だってするつもりだったの。最初から」
「ああ。よく理解できたよ。お前が私の事をどれだけ排除したがっていたのか。そしてやはり、私にとっては邪魔になりそうなこともな」
その笑顔を見ながらに。魔王は小さくため息をつきながら、困ったような、人の良い笑顔を見せる。
「私一人の為に、随分と大仰な事をしてくれたものだよ。本当にそうまでしなければいけないのかは私には解らんが、壮大すぎて、正直正しいかどうかなどどうでもいいとすら思えてしまう」
怒りはあった。憎しみもあった。だが、それ以上に、どうでもいいとすら思えてしまっていた。
もう、どうでもいいのだ。だから、魔王は苦笑する。いつもの顔だった。
「実を言うとな。もう、過去にはそんなにこだわりはないんだ。あれほど求めたそこの勇者との決着も、あれほど嘆き、心に穴が空いたように感じられたヴァルキリーとの別れすらも、今の私には、失いたくないものを失うのに比べれば、どうってことない事のようにすら感じてしまう」
どこか哀しげな、だが、決意に裏打ちされた堅い意思が、魔王の瞳には宿っていた。
揺らぎもせず、ひたすらにパトリオットを、その背後にある『世界』を見ていた。
「掌で踊っていて欲しかったのかもしれんが、私の邪魔となるなら、お前には消えてもらう。過去の清算の為などではない。私の、私達の未来の為に、お前は邪魔なんだ」
覚悟は良いか、と、魔王は右の拳をぐ、と握り、パトリオットの前にそっとつきだす。
「――ええ、そうでしょうね。結局、私達はそう在る事しか出来ないのです――勇者バハムート」
対するパトリオットは、ヴァルキリーと対峙していた勇者に向き直り、微笑みかける。
「倒しなさい。貴方にとって、この男は倒さねばならぬ敵。『勇者』としての使命を、今果たすのです」
女神のような微笑を向けながら。パトリオットは、『勇者』にそう命じた。
「……」
勇者もまた、無言のままに頷き。
戦いが、始まる。




