#4-2.再会できなかった二人
「そういえばエルフィリース。私が知る限り、君は二代も前の魔王の時代を生きていたんだと思ったが……あまり容姿に変化が無いようだね? というより、人間にしては長生き過ぎはしないか?」
頭が痛くなるばかりの難しい話は放り投げることに決めた魔王は、とりあえず、全く変わらない外見のエルフィリースに話を向けることにした。
「それは私自身も最初は疑問に思ったものですが、二百を超えた辺りで考えるのが馬鹿らしくなりましたわ」
いつまで経ってもお婆ちゃんにはなれそうにありません、と、エルフィリースは両腕を広げ、苦笑する。
「エルフィリースには、かつてこの世界で栄華を築いた最古の人類、『魔法使い』の血が流れているようですね」
困った様子のエルフィリースに、ヴァルキリーが横から舟を出す。
「魔法使い……アルム家か」
「恐らくは。こうして永きに渡り彼女の外見が変わらないのも、先祖がえりを起こしているからなのでしょうね、血が」
なるほど、確かにアルム家の娘には時折、このように外見が変わらぬ者がいくらかいた、という話がある。
それを頭に浮かべながら、魔王はエルフィリースの、そしてかつて自分と話すことすらためらっていたタルト皇女を思い出し、見比べていた。
大体の部分、タルト皇女と違いがなさそうであった。
ただ、同じ顔、胸以外はほぼ同じ体型なのにも関わらず全く違う印象を受けるのは、やはり踏んだ場数、環境の違いが大きいのだろうか。
アンナやカルバーンのように、魔族であっても環境が異なればそれまでとは全く違うように性質を変異させる事はままある。
アルム家の出の者がこのようになる事自体、魔族の性質変異と似たようなものなのかもしれない、と魔王は考えていた。
「お二人の話を聞くと混乱してしまいそうなのだけれど、やはり、記憶を失う前の私に関係した何事かが、このような現象を生んでいるのでしょうか?」
少し困ったような顔をしながらも、魔王とヴァルキリーとを交互に見て曖昧な笑みを浮かべるエルフィリース。
「んー……」
魔王も顎に手を当てたまま、しばし黙り込む。
詳しく説明すべきなのか。それとも黙っておくべきなのか。
ともかく、確認が必要であると結論が出て、じ、と魔王の瞳がエルフィリースを見つめる。
「……伯爵殿?」
「確認だが、君は自身が記憶を失う前の自分を、それとなくでも覚えているのかね?」
魔王の知るエルリルフィルスは、原理となる一つの願いを除いて全てを忘れ去っていた。
だが、目の前に座る彼女は、別世界の存在である。
もしかしたら違う人生を歩み、途中で気づいたのではないか。
その可能性も無視はできなかった。
だが、エルフィリースは静かに首を横に振り、目を伏せてしまう。
わずかな間が空き、小さなため息。魔王の物であった。
「――そうか。やはり、君は全てを忘れているらしいね」
「ですが、それで辛いと思ったことはありません。私は記憶を失って尚家族に恵まれ、そうして、友や愛する方にも恵まれましたから」
とても幸せに過ごせていました、と、噛み締めるように。
だが、どこか悲しげに目の端を光らせながらの言葉であった。
そんな幸せな世界は、もうどこにもないのだ。
例えひと時が幸せであろうと、それらは全て、滅びてしまっていた。
今彼女に残されているのは、似ていながらも全く勝手の違う世界。
それと、友人のヴァルキリーのみなのだ。
このヴァルキリーの存在が彼女にとって救いではあったが、彼女には子孫なりがいた可能性もあり、それらが失われたのはやはり辛いのだろう、と、魔王はしばし黙り、待った。
やがて落ち着いたのか、目の端を指で掬いながらも、再びエルフィリースが瞳を、そして唇を開く。
「私は、沢山のモノを失ったのでしょうが。ですが、こうして私を知る多くの方と会うことが出来ました。これは僥倖とも言えるもののはずですわ」
「うむ。そうだね。私もそう思うよ。私は、君とまた会えて、嬉しかった――」
魔王も思うところがあるのか、そのまま正直に笑うこともできず、頬を強張らせたままであった。
彼は、知っているのだ。彼女の過去を。
「――エルフィリース。良かったら、私と同行して欲しい。君に会わせたい人達がいるんだ」
「私に、会わせたい人?」
「ああ。君は、その人達と会わなければならない。構わんね?」
同行を求める、などと言いながら、ほとんど強制のような決め方であった。
構わずに魔王は玉座を立ち、エルフィリースの前まで歩いて手を差し伸べた。
「……解りました。伯爵殿がそう仰るのなら」
戸惑いのようなものは見せたものの、エルフィリースは魔王の手を取り、立ち上がった。
人間世界・大帝国帝都アプリコットの王城にて。
夜分、突然来訪し、急遽会談を申し入れてきた魔王に、復権した皇帝シフォンは驚かされながらも歓待を以って迎えたのだが。
玉座にて魔王らを迎えようとしていたシフォンは、彼の隣に立っていた女性の姿に唖然としてしまっていた。
「――トルテ……無事、戻ってこれたのか。よくぞ……よくぞっ」
すぐさま人払いすると、肩を震えさせながら飛び出し、その手を握った。
「……? トルテ?」
だが、エルフィリースは要領をつかめていない様子で、不思議そうに魔王とシフォンとを交互に見ていた。
「ああ、顔も変わっておらぬ。健やかに過ごせていたのか? 魔王殿、よくぞ、トルテを連れてきて下さいました!」
そんな彼女の様子に気付く事も無く、シフォンは整った顔を感涙で濡らしながら、今度は魔王の手を取り、強く握った。
だが、魔王はエルフィリースの反応が芳しくないのを見て「やはりそうか」と、少々胸が締め付けられる思いになり、シフォンには笑いかけられない。
「……どうしたのですか魔王殿? それに、トルテも」
流石に様子がおかしいのに気づいたのか、シフォンは目元を袖でこすりながら、二人の顔を見比べていた。
「エルフィリース、解るかね? 君の兄上、シフォン殿だ。この大帝国アップルランドの皇帝陛下だ」
やがて、魔王はエルフィリースの顔を見ながらに、反応を促していた。
「この方が、私の……兄上? 伯爵殿、これはどういう事ですか? 私に会わせたい方、というのは――」
魔王の紹介に、彼女も困惑している様子だった。
無理もない。記憶のない彼女には、この状況は意味不明過ぎるだろう。
突然自分の兄がいて、その人が皇帝だった、などと言われても混乱してしまうかもしれない。
だが、面倒な事にこれが事実だった。
「魔王殿? まさか、トルテは――」
聡明なる皇帝陛下は、たったそれだけで把握してしまったようだった。
嬉し泣きに濡れていた顔が、今度は蒼白に変わってゆく。
魔王も胃がきりきりと痛むのを感じていた。
「その通りだシフォン皇帝。タルト皇女は……このように、記憶を失ってしまっている。魔法によって過去に飛ばされ、その時の副作用で失われたんだと思う」
これがコールドスリープの副作用なのかは、正確には解らない。
もっと別の要因によって失われた可能性もあった。
だが、そんな曖昧なものは説明する意味を成さない。
ただ、『魔法で失われた』と言っておけば、その方が解り易く、受け入れやすいだろうから。
だから、魔王は自分の中でだけそれらを組み立て、説明していく事にした。
「今の彼女の名は『エルフィリース』。このアプリコットにも銅像として伝えられていた、『大賢者エルフィリース』その人だ」
空気の重さに堪えながら、魔王はどんどんと説明を続けてしまう。
二人の困惑は広がるばかりのようだが、反応を待つつもりなどなかった。
こんなのは、感動の再会などではない。ただ、二人に辛い思いをさせているだけだと、解っていたから。
「――俄かには信じられません。我が妹が、あの大賢者だったなどと……」
驚きの中、黙りこくってしまったエルフィリースとは対照的に、シフォンは抑えきれない心中を呟く。
魔王にも、その気持ちは解らないでもなかった。
魔法で妹が過去に飛び、その過去で妹が自分も知る英雄になっていたなど、誰が信じられようか。
恐らく、この場にエルフィリースがいたからこそ、そしてそれを話したのが魔王だからこそ、シフォンは受け入れ難いそれを、なんとか飲み込もうとしてくれているのだ。
「ただ、会わせたかったんだ。記憶を失っても、貴方の妹には違いがない。エルフィリース、いや、タルト皇女にとっては、数少ない血の繋がった家族のはずだ」
「家族……私の、家族……?」
魔王の言葉に、エルフィリースが反応する。
何かが彼女の心に触れたらしい。それが嬉しいのか、シフォンはエルフィリースの顔をじ、と見つめ、優しく微笑みながら話しかける。
「そうだとも。トルテ。私はお前の兄だ。お前には、私という兄と、ヘーゼルという、私の妻なのだが、これもお前の義理の姉がいる。それから――」
「それから?」
「それから、記憶を失う前のお前が、誰よりも慕っていた姉上が一人、居たのだ」
居たのだ、と、繰り返し呟きながら。
最後の方は、やはり辛そうに、しかし、妹の手前それを表には出せず、笑い続けていた。
「この城は、お前の帰るべき場所だ。記憶にはないかもしれぬ。解らない事だらけかもしれぬ。だが、この兄と共にいて欲しい。今宵はパーティーにしよう。ヘーゼルもきっと喜ぶ。知っているか? お前には甥が出来たのだぞ? カシューと言う。まだ幼子だが、とても勇ましい顔立ちだ。きっと父上のような勇敢な男に育つ」
そっと手を取りながら、やや早口になりながら、言って聞かせていた。
これ以上は邪魔になるか、と、魔王は二人を見やりながら、しばし様子を見る。
「お前の父は、とても勇敢な男だった。皇帝として誰からも尊敬され、愛されていた。敵からは畏怖されていた。お前自身、父上は尊敬していたはずだ」
思い出せまいが、それでも語ることでわずかでも思い出せてくれれば、と考えたのかもしれない。
あるいは、兄として、咄嗟の行動だったのかもしれない。
いずれにせよその姿はいじましく、涙を誘うものであった。
「だがなトルテよ。欲を言うならば、いま少し……いま少し、早く戻ってきてくれれば――お前に、一番会わせたい人に、会わせる事が出来たというのに――」
やがて、口惜しさに歯を食いしばり、シフォンは俯いてしまう。
「……兄さん」
悲しみの中崩れ落ちそうになったシフォンを支えながら、エルフィリースは兄を呼ぶ。
だが、それはかつての彼女の呼び方ではなく、今の彼女の呼び方であった。
「ごめんなさい兄さん。私は、やはり貴方の、貴方がたの事を思い出せそうにありません。このお城にも違和感ばかりで。とても、自分が皇女様だったなんて、信じられないのです」
申し訳なさそうに目を伏せながら、エルフィリースはシフォンから離れ、背を向けてしまう。
「私の名はエルフィリース。世界を平和へと導くため生きた、ただの女ですわ」
一人、歩き出しながら。震える肩を抱きしめるように押さえつけ、早足に去っていった。
「このまま、帰るつもりかね?」
バルコニーから街を見下ろしていたエルフィリースに向けて、魔王はこの先を問うた。
「どうしろと言うのですか、伯爵殿。私はもう、会うべき人と会ったのでは? それとも、義理の姉だというヘーゼルという方とも会えと仰るので?」
同じ事になるだけですわ、と、振り向きながら語る彼女の顔は、既に涼やかであった。
無理に繕ったような、繕えてしまえるような大人になってしまった顔であった。
「確かにヘーゼル殿とは会うべきだと思うがね。だが、それ以上に会わせたい……会わせたかった人がいる。場所は聞いている。ついてきなさい」
またも、エルフィリースの意思など無視した上での物言いであった。
魔王は背を向け、勝手に歩き出してしまうのだ。
「……貴方は、やはり勝手な方だわ。昔から思っていたけれど」
後を歩きついてくるエルフィリースは、強張らせた頬のまま、ぽそり、皮肉をぶつけていた。
「そうかもしれんね。あまり、人の都合や気持ちなどを考えたりはしない。私のような奴の事を人は『エゴイスト』と言うのだろうが、私はそうは思わない。私はきっと、誰よりも周りの事を考えている」
結果がそうなるとは限らんが、と、苦笑しながらに歩く魔王。まるで意に介さない。
向かった先は、城の屋上であった。
小さな庭園となっていたその最奥、街が見渡せる場所に作られた、新しい塔が建っていた。
三メートルほどのその小さな塔は、夜の中にありながら優しげな灯りに照らされ、その存在をこの世に示し続ける。
「私は、『彼女』に会わせたかったんだ。きっとシフォン殿も。そして、彼女自身も、最期の瞬間まで、君と会いたがっていた」
「彼女……? 伯爵殿、ここは一体――」
「お墓だよ。かつて君が姉と慕っていた、エリーシャさんのお墓だ。彼女はここで、今もこの国を見守ってくれている」
とても素敵な女性だった、と、感慨深げに塔を見上げながら。
魔王は、エルフィリースの背をそっと押し、塔の前に立たせた。
「……この塔が、お墓? 私が姉と慕っていたという事は、やはり、皇族か何かの――」
「いいや、彼女は勇者だった。そうして、君を失い、女王となった。この国の為、自身の全てを犠牲にしながら――この世界の平和の礎となった」
その偉業は生涯忘れないだろう、と、魔王は考える。
記録には残せない。だが、決して忘れない記憶として、残すつもりであった。
「――エリーシャ。この世界で、私と同じ道を歩んだ方」
エルフィリースは塔の表面に手をあて、そっと撫で、その淡い光を眼に焼き付けているようだった。
やがて目を閉じ、再び口を開く。
「……やはり思い出せそうにありません。私には、エリーシャという名に全く覚えがない」
「そうか」
魔王も、ため息混じりにそう返すのがやっとだった。
これでも何も感じられないというなら、本当に、微塵も残っていないのだろう、と。
「――ですが」
だが、よくよく見ればエルフィリースの指先は、小刻みに震えていた。
「何故なのでしょう。これが、その方のお墓なのだと。この方と、二度と会う事ができないのだと思うと――涙が溢れて、止まりません――っ」
魔王からは、エルフィリースの顔は見えなかった。
身を震わせ、やがて崩れ落ちてしまった彼女を、魔王はただ、見つめていた。
何も言えなかった。じっと、黙って見てやる事しかできなかったのだ。
夜の庭園に、皇女に戻れなかった彼女の、悲痛な嗚咽が響いていた。
「本当に良かったのかね? 城に戻らず。今戻れば、君は記憶を取り戻せないながらも、かつての君と同じ生活を送る事ができるはずだ」
しばし泣いた後、エルフィリースは伯爵とともに魔王城に帰る事を選んだ。
彼女なりに思うところもあるのだろうが、それでも迷っている節があり、魔王としても悩ましかったのだが。
「考える時間が欲しいのです。こちらの世界にきてからと言うもの、目まぐるしく動く環境に、心の整理が追いつきません」
心が破裂してしまいそうです、と、ややふくよかになった胸に手を当てながら語る。
「解った。君がそう願うなら、私は友人としてできる限りの事はするよ。だが、気持ちが落ち着いたなら、その時は――」
「ええ、その時は、この世界に置いてきてしまった『自分』と、もう少し向き合えたらと思います」
人の心は、そう強くはない。
永きを生きた彼女とて、根本は人間なのだ。
それでも、少女の頃の彼女ならば困惑ばかりだっただろうが、今の彼女は大分、精神的に逞しくなっている。
これだけのことがあっても、今、彼女は無理矢理にでも笑おうとしているのだから。
こうして、エルフィリースは正式に魔王の友人として、魔王城に迎え入れられる事となった。
シフォン皇帝は彼女の決断に落ち込みこそしたものの、「それも妹の選択ならば」と、不平も言わず受け入れた。