#1-1.共闘
皇帝帰還後のアプリコットを包む熱気は、それを外から見守る魔王には、どこかつまらないもののように映っていた。
あんなに魅力的に映っていた街並が、活気が。その全てが、どこか色あせたような、そんな冬色めいていて。
彼女が守ろうとした国を、街を、魔界に戻る前にもう一目、見ておこうと思った魔王だったが、なんだか、ぼんやりしてしまっていたのだ。
「惜しい人がいなくなったわ」
高台の上、そんな魔王の背に声をかけたのは、カルバーンであった。
エリーシャの最期の時、彼女は城の外に退避していた。
民衆の突入が間近に迫っていた事には気づいていたのだ。
「ああ。だが、彼女が『生かした』世界だ。無駄にはしたくないね」
白に染まった街を眺めながらに、しかし、気が向いたのか、魔王は立ち上がり、ズボンを叩く。
「――私は、魔王城に戻らなくてはならんらしい。最後に彼女と会って、そう気づいたんだ」
振り向いた魔王に悲壮はなく。かといって人のよさそうな笑いもなく。
ただ、威厳ある男がそこにいたのだ。カルバーンは、思わず息を呑んだ。
「最初は、偽者が私と同じ事をするなら、私以上に上手くやれるなら、そいつに任せて一人死んでしまってもいいと思っていたんだ。私と同じ姿で同じ事が出来て、私より上手くやれるなら、皆そっちの方が良いだろう、と思っていた」
「そんなはずないじゃない」
魔王の告白に、しかしカルバーンはばっさりと斬り捨ててくれていた。
それがいっそすがすがしく、魔王は笑う。
「そうだな。そんな事にすら、私は気づかなかったんだ。エリーシャさんは、『私』を見て、笑ってくれたんだな。そして、『私』に託してくれたんだ。未来を。シフォン皇帝と共に歩む、先の世界を」
ぎり、と、奥歯を噛みながら歩き出す。向かう先は決まっていた。
「君はどうするねカルバーン? 北部に戻るも良いだろう。君ならば、また人間のフリをしてこの世界に紛れても良いかもしれん。誰も責めんよ」
その横を通り過ぎながら。魔王はカルバーンに問う。
歩みを止める事無く、返事など好きにしろと言わんばかりに。
そんな身勝手な魔王に、カルバーンは微笑を湛え、その背について歩いていた。
「馬鹿を言わないで頂戴。人間世界で、私に帰るべき所はもうないわ。今戻ってどうするのよ。人間の王達の代わりに処刑でもされろっていうの?」
冗談じゃないわ、と、苦笑しながら。
「アンナちゃんが心配だから、あんたについていく。でも勘違いしないでよ。これが終わったら、お母さんを殺しただけの責任は取ってもらう。今だけよ、今だけ!」
きり、と頬を引き締め、カルバーンは言うのだ。
その解り易い返しに、魔王はまた、笑ってしまっていた。
(なるほど、これは、好かれるな)
幼少期の彼女と変わらぬ負けん気ではあるが、その空気はどこか温かで柔らかかった。
エレイソンが恐れられていたのもあったのだろうが、教団が宗教組織として成り立ったのも、恐らくは彼女のその空気が人々の心を開いていったからなのではないかと、魔王はどこか納得していた。
現状、人間世界から魔王城へ向かうには、大きく分けて三つの方法がある。
まずは、人間世界との境界『アレキサンドリア線』にまで撤退している魔王軍が用意しているであろう転送陣を活用する方法。
二つ目は、人間世界東部からアレキサンドリア線を突破し、魔族世界西部を経由して中央部に到達。
そこからいずこかの大領主の館や城を経由して転送陣でたどり着く方法。
三つ目、これはとても特殊なケースだが、かつて人間側の意図によって張られた『魔族世界への転送陣』を再利用して魔族世界のいずこかに乗り込む方法。
一つ目と二つ目は既にドッペルゲンガーの命の元、各地の魔王軍や領主の私兵らが偽者警戒に回っている可能性もある為、魔王達は三つ目の方法で向かう事となった。
勿論、この方法は本来、かなりの博打要素があるのだが。
何せ人間世界に張られていた転送陣は、その多くがどこに出るのかも解らない半端なものでしかなく。
転送陣の位置自体は魔王には解るものの、その転送陣がいかほど役に立つかは実際に転移してみないと解らないのだ。
だが、魔王には心当たりがあった。
かつて魔王が先代の遺したキメラの対処に困った事件。
人間世界からエルヒライゼンへと繋げられていたあの転送陣は、キメラ達を送れる様に双方向から行き来が可能になったままのはずだ。
魔王もこんな時でもなければ忘れたままだっただろうが、上手くいけばそれが役に立つかもしれない、と。
「ううん、なんというかこの……獣臭いわねえ」
人間世界南西部、旧ミズウリ王国の王城に、二人は居た。
カルバーンが扱う転送魔法は、その転送範囲こそ魔族の扱うそれより短いのだが、以前自身が出向いた記憶がある場所ならどこへでもいけるというとても画期的なものであった。
魔族世界から出た彼女が各地に旅をしたのが、こうして後々まで役に立つのだから、世の中解らないものである。
「まあ、ここから這い出たキメラが国を蹂躙したというのだから、長らくの間ここが奴らの巣みたいになってたんだろうね」
それ自体は魔王のアイデアあっての事だが、城の中には血の痕こそあれ骨一つ転がらず、獣臭さだけが残っていた。
カルバーンなどは臭いの強さに耐えかねてか、口元鼻元をハンカチーフで抑えているほどである。
魔王は苦笑ながら、王城に展開されているはずの転送陣を探すため歩いていた。
「ミズウリの王族は、皆キメラに襲われ喰われてしまったと聞いたけれど……骨一つ転がってないのね」
「骨まで喰い尽されたか風化したか、はたまた別の何かが持ち去ったのかは解らんがね。まあ、下手に転がっているよりは、邪魔にもならんし見た目もまだ、マシだと思うよ」
そこにないからこそ感じずに済む感傷というのもある。
何もいない、何も残らないこの王城は、静けさと相俟って不気味ではあったが、そこに哀しみや苦しみといった人間の生きた負の痕跡も少ないため、魔王もカルバーンも、さほど心は痛まなかった。
戦争なのだ。沢山の人が絶望の中で苦しみながら死んでいく様も、二人は知っている。
ソレと比べれば、何もないこの城内は大分、穏やかに映ったのだ。
「――ここだ。ここに転送陣がある」
そうしてたどり着いた大きな扉の前。
魔王は軽く力を込めながら、錆び付いたその扉を押していく。
床の埃が舞うが気にしない。強引に押し込み、扉を開いた。
「……うわあ」
ハンカチをあてながらに、後ろのカルバーンが一層嫌そうな顔をする。
転送陣の敷かれている大広間は、一面埃で埋もれているのもあるが、いたるところ赤黒く塗れ、悪臭が強い。
ところどころ糞が固まったような物体が転がっており、避けて歩くのに苦労する。
「焼き払ってしまいたいわ」
「我慢してくれたまえ。うかつな事をして転送陣のバランスを壊せば、折角の近道が台無しになる」
魔族の展開する転送陣ですら、強大な魔法に晒されればその魔法としてのバランスが崩れ消滅したり座標設定が狂ってしまう。
北部のような先進的かつ高度な技術を開拓しているならともかく、少なくともここに展開されている転送陣はかなり古い時代の技術の流用でしかない。
些細な魔法的な要因が元になり壊れてしまうことも考えられた。
「幸い、転送陣そのものはまだ動かせるようだ。上手くエルヒライゼンへ着けば良いが……」
警戒されている可能性が低いとはいえ、偽者が上手くラミアを引き込んでいればその限りではないのは魔王も解っていた。
ここが閉じられていれば、恐らく無血で人間世界より直接魔族世界に転移する手段は失われる。
あくまで近道として確実性が高いというだけで博打には違いないが、正確に転送陣の性質を調査する時間も技術もないのが現状であった。
ともかく、あまり居心地のいい場所ではないのは魔王も同じで、さっさと移動してしまいたいのだ。
『――転移・エルヒライゼンへ』
魔王が転送陣に魔力を込め、そう呟くと、陣が発動し、広間は光に溢れた。