#10-2.誰かにとっての自分
「ふう、どうなるかと思った……」
人間世界北部。テトラ近くの崖場にて。
しばしの準備期間を経て、ようやく崖登りを成功させた魔王一行は、上りきった崖の上、ぐったりとした様子で座り込んでいた。
雪の上だというのに、構わずへたり込んでいたのだ。
「うぅ、まさか生きてこの崖を昇れる日が来るなんて……生きててよかったー」
感無量と言った様子で涙目になってグシグシ鼻をこすっていたコニー。魔王もカルバーンもそう悪くない顔でそれを見守っていた。
「あんたがその変な剣手放してくれたら、もっと楽に引っ張りあげられたんだけどね……」
苦笑ながらに、魔王の持つ長剣を指差すカルバーン。
「いや、すまんねえ。これだけは手放せなかった」
申し訳なさそうに後ろ手で頭を掻く魔王。
なんとも人のよさそうな顔で、カルバーンも毒気が抜かれてしまっていた。
「置き去りにしてやればよかったわ……」
結果、こんな皮肉を言うだけにとどめていた。
国々を動かすほどの魔王への憎悪はしかし、今となってはかなり薄まっていると言えた。
「さてと、これからどうするの? 私は教団が気になるから一旦ディオミスに戻りたいんだけど」
「げ、元気ですね……方角的に、この辺りは私が落ちた崖と同じみたいだから、近くにテトラがあると思うんですけど……」
「じゃあ、私はテトラに戻ろうかな。コニーも戻るのだろう?」
「はい。随分長いこと村を空けちゃったし、レナスも心配してるだろうし……」
彼女にとっては実に半年振りの帰還である。そわそわしているのが見て取れた。
「ではカルバーン、しばしの別れだ」
手を挙げ、コニーと一緒にそそくさと歩き出そうとする魔王。
「ちょっと待った!!」
「むがっ!?」
しかし、がし、と襟首を掴まれ、魔王はがくりと喉を吊られてしまう。
何せ黒竜姫以上の力である。今の魔王にとってだって、その威力は半端なものではない。
「な、なんなんだ一体? 私が一体何を――」
涙目になりながら後ろに立つカルバーンに抗議する魔王だったが、カルバーンは必死の形相であった。
「あんた、まさかそのまま雲隠れするつもりじゃないでしょうね?」
「それは君が気にするような事なのか?」
「気にするわよ。気にするけど……とにかく、今のままじゃ色々問題あるでしょ。後で迎えに行くから、テトラから勝手に外に出たりしないでよね!」
ぎろりと睨みつけられてしまう。どうやら逃げられないらしいと、魔王は不承不承のまま頷く。
「解った。解ったから、離してくれたまえ」
「養父さんやアンナちゃんの事だってはっきりと聞いてないんだから! その辺りの説明も踏まえて、勝手に逃げようなんて思わないでよ!!」
「解ったって……全く、なんでこう、姉妹で違うかねえ」
なんとか襟首は離してくれたものの、よれてしまった服を手で直しながらに、魔王は嘆いていた。
「ふわ……やっぱり、教主様ってアンナさんの姉妹の方だったんですねえ。前から似てるなあって思ってたけど……」
そんな二人を見てか、コニーはしみじみ呟いていた。
「そうよ、アンナちゃんは私の双子の姉! 私の太陽!! 私の自慢っ」
そして妹馬鹿であった。
「でも、ずっと思ってたけど教主様の方が背が低いんですね……双子でも、背丈とかって違いが出るもんなんでしょうか」
全く遠慮なくカルバーンの身体を見やるコニー。
彼女の頭の中では今、以前温泉で見たアンナの裸との比較が始まっていた。
言われて魔王も見てみるが、確かにカルバーンとアンナとではかなり体型に違いがある。
いや、顔立ちやなんかはアンナと瓜二つだし、スタイルが悪い訳ではない。むしろ抜群である。
だが、背丈は人並に高い範囲に収まっていたし、それ以外の部分もアンナと比べると大人しめに感じられてしまう。
「……何よ、やらしい目で見ないでよ」
魔王の視線を感じ、胸元を手で隠すように腕を組むカルバーン。
「いや、そんな気持ちは更々無いんだがね」
枯れた魔王にはそんな意図は無かったのだが、誤解を受けていると気づき視線を逸らした。
「アンナちゃんと違って私は食べ物に気を遣ったりしなかったからね。お肉とかが身体に合わない分、成長面で差が出たんじゃない?」
この辺り、魔王も知らぬ事であったが、黒竜族の体質的に、肉食は全く相性が悪い。
成長の妨げになり、肌が荒れたりと美容の大敵になるほか、人間のように体臭が付くようになるなど若い娘にとってのデメリットが大きいのだ。
だが、カルバーンはその辺りあまり気にしていないらしく、それ以上に機嫌が悪くなる事も無かった。
「とにかく、私が教団の状況とか確認したらテトラに顔を出すから、それまで待ってるのよ。いいわね?」
「ああ、解ったとも。それじゃあね」
「ありがとうございました教主様。ご恩は決して忘れません」
三度の事で面倒くさそうに返す魔王と、深々と頭を下げ感謝を告げるコニー。
なんとも対照的な対応に、カルバーンも苦笑していたが。
魔王とコニー、カルバーンの両者は、ここで一旦の別れとなった。
「コニーっ!? ちょ、あんた、死んだはずじゃっ」
「生きてるよっ! 私生きてるよレナス!! 生きて帰れたんだよっ!!」
テトラに戻った二人を迎えてくれたのは、斥候として活躍したであろうレナスだった。
感動の再会である。二人、抱きしめあって軽口を言いあい、そのまま泣きじゃくっていた。
「ああもう、死んだと思ったからお墓まで作っちゃったし……担当してた村の人達にも、コニー死んじゃったって言って回っちゃったし……ぐすっ」
「も、もう、仕方ないなあ。じゃあ一緒に回ってごめんなさいしよ? 明日にでもさ。だって、あたし生きてるもん」
「うん……良かった。お帰りなさい、コニー」
「ただいま、レナス」
最後にはにっこりと笑いあっていた。
「いいもんだねえ。こういうシーンは」
横からそれを眺めていた魔王は、下手に言葉をかけるのも邪魔になるかと、ぽそぽそと呟くにとどめていたが。
やがて二人が振り向き、魔王の方を向くと、照れくさそうに頭を掻いていた。
「だが、歳を取った私には、ちょいと気恥ずかしくも思えてしまう。どうしたものか。とりあえず、おめでとう」
仲の良かった二人が再会できたのだ。これはめでたい事に違いないと、魔王は笑う。
「はい。公爵様、ありがとうございました」
「コニーがお世話になったみたいで……その、公爵様には何とお礼申し上げたら良いか」
二人してぺこぺこと頭を下げてくれる。これがなんとも、魔王にはもどかしい。
「やめてくれたまえ。私は……私は、本当に何もしてないんだ」
そうして思い出したのだ。魔王は、本当に何もしてない。項垂れてしまった。
谷底に滞在中、資材を集め火の気の維持をしていたのはコニー。
かき集めたリュックやロープを利用しての梯子作りをしていたのはカルバーン。
魔王はただ、燃える炎をぼんやりと眺めていただけであった。
実際に崖を登ったのはカルバーンだったし、片手に剣を持つ都合上よじ登れない魔王をくくりつけてロープで引き上げてくれたのもカルバーンとコニーの二人である。
悲しい事に、今回の脱出劇に魔王は何の役にも立っていない。
少なくとも魔王は、そう感じていたのだ。自身の無力を思い知らされたとも言える。
だが、そんな魔王に、コニーはくすくすと笑い出す。
何がおかしいのかと不思議そうに首を傾げる魔王であったが、コニーは自身の胸に手を当て、微笑みかける。
「公爵様が『悲観するのはまだ早い』って、『助かるかもしれない』って元気付けて下さったから、絶望せずに済んだんです。あの時の私って、ほんと、もう駄目なんじゃって思ってたから――」
「しかし、偉そうな事を言ったが、私は自分自身で……」
「もっと自信を持ってください公爵様! 貴方のおかげで、私はこうやってレナスと……親友と再会する事ができたんです!」
困り顔で視線を泳がせる魔王に、コニーは強く、はっきりと言ってのけたのだ。
これには魔王も驚かされ、同時に、心が温かくなっていくのを感じていた。
「――そうか。君たちの再会に役立てたか。そう、言ってくれるか」
魔王は嬉しかったのだ。こんな自分の言葉に、揺り動かされてくれた、そんな人間がいたのだ。
思わず涙目になっていた。大人げも無く、恥ずかしげも無く。
「ちょっ、公爵様っ?」
「コニーが柄にも無い事言うからっ」
「私の所為!? わわっ、ご、ごめんなさい公爵様っ、私、何か変なことを――」
勝手に始まる掛け合い。これも心地が良い。
魔王は涙ながらに笑い、しばし、そんな二人を見やっていた。
「北部の教団は、帝国軍の攻撃によって壊滅したようですね。兵隊さん達が引き上げていくのを見ました」
レナスの勧めで入った宿で、魔王、それからコニーはレナスから現状の説明を受けていた。
「うそ……私が谷底で暮らしてる間にそんな事が起きてたなんて。これじゃ、教主様は……」
「うん。コニーの言うとおりなら、多分教主様に帰るところは残ってないよ。悲しい事になっちゃうね……」
作戦に参加したレナスも言いにくそうにしていたが、コニーの声は否定せずにいた。
「それから、大帝国にも動きがあったみたいです。帝都の方から行商に来た武器商人が話してましたけど、エリーシャ女王、アプリコットの民から猛反発を受けてて……」
「エリーシャ女王がかね? それはいつの話だ?」
作戦の成功はともかくとして、きな臭くなってきたアプリコットに、魔王は無関心ではいられなかった。
「北部攻撃に成功してからそう経たない頃だから……多分、今頃はかなり危ない事になってるんじゃないでしょうか」
ぱそこんがあればもっと詳しく解るのですが、と、残念そうに目を伏せるレナス。
「公爵様は、エリーシャ女王ともお知り合いなんですか?」
「うむ……まあ、ね。しかし、そうか、女王が……」
これも時代の流れというものなのかもしれない。
だが、それにしても早過ぎはしないだろうか。
魔王の中に、先ほどまでとは別の意味で、焦りのようなものが生まれていた。
「ここから急いでアプリコットに向かっても、たどり着いた時には、もう女王はいないかもしれんのか……」
「女王が強硬手段に出たという話は聞きませんから、ただのデモからクーデターとなる恐れは十分にありますね」
残念ながら、と、レナスも心なし寂しげに返してくれる。
「……そうか。大体は解ったよ。ありがとうレナス」
もう、どうにもなるまい。エリーシャは倒れる。
そして、自分もする事がなくなり、ただ呆けているだけとなった。
いや、それでいいのかと、疑問もある。良い訳がないと、自分の中の何かが答えるのにも、魔王は気づいていた。
どうでもよくないのだ。どうにもならぬからと放置して置けるような事ではないはずなのだ。
「――帝都に戻る事にするよ。間に合わんかもしれん。だが、それでも、私は女王と今一度、会いたい」
その結果どうなるかは解らない。少なくとも悲しい思いをするのは間違いなかった。
だが、それでも会いたいのだ。会えなかったら後悔すると、そんな変な確信があったのだ。
「……公爵様。はい。無事の到着を、祈っています」
「でも、どうか今夜だけはここで泊まっていってくださいね。宿代は私が払うからご心配なく。ゆっくりと疲れを癒して、それから歩いたほうが絶対に早いですから」
そうして、こんな時にも気遣ってくれる彼女たちが嬉しかった。
「ありがとう二人とも。そうだね。そうさせてもらうよ」
人間はいいなあと、心底羨ましく感じながら。
魔王は二人の厚意に甘えるフリをした。
「さてと、そろそろ行くか」
そうして、辺りが真っ暗になった頃、魔王はテトラの出口へと立つ。
ここから一気にサフラン、そしてアプリコットまで駆け抜ける。
魔族の身ならば、昼も夜もなく走り続ければあるいは間に合うかも知れない。そう踏んでの事だった。
「何処に行くつもりよ?」
そうして、その背後にかけられた声。
振り向くと、いつの間にやら金髪水色眼の教主殿が立っていた。
「止めないで欲しい。アプリコットに向かわなくてはならない。今から走らなくては」
「……急いでるの?」
「ああ」
魔王の様子がただならぬものであると気づいたカルバーンは、神妙そうな顔で魔王を見つめ、その返答に「ふうん」と、腕を組む。
「なら、ついてきなさい。教団の転送陣がまだ生きてる。アプリコットまで直通よ」
「アプリコットに……? そんなものがあって、なんで戦いで使わなかったのかね?」
「使えなかったのよ。私専用。試験段階だったし、多人数で扱うのはまだ無理だったの。そしてあの偽者は私を封印したから、教団内にあった私関連の魔法施設は完全に役立たずになってたはずよ」
馬鹿な事をしたわね、と、つまらなさそうに呟きながら背を向け歩き出す。
「教団本部。完全に駄目になってた。誰も残ってなかったわ。戦闘要員は皆殺し。酷いもんね」
先を急ぎたい魔王をよそにマイペースで歩くカルバーンは、自身の見てきたものをわざわざ説明してくれていた。
「ま、若い娘や子供が酷い目にあった様子はないし、戦う気のない信者まで殺そうとはしなかった辺り、軍隊としての良識はあったんでしょうね。これが南部辺りだったら、教化の目的で陵辱・拷問、なんでもありになってたでしょうし」
「……君は、なんで私を打倒しようと思っていたのだ?」
「あんたが母さんを殺したから。それから、アンナちゃんがあんたの隣に居たから」
「アンナが?」
「アンナちゃんのは最近の話だけどね。私は、母さんがあんたに魔力を奪われるのを見てしまった。次に殺されるのは私だと思ってた。見てしまったから。だから、怖かったから逃げたの。あの頃の私は、まだ子供だったからね」
魔王の質問に、振り向きもせず答える。
声が少し震えていたが、歩みは止まらなかった。
「だけど、アンナちゃんが無事で、何故かあんたの事を崇拝してて、『あれ、なんか違う?』って思い始めた。エリーシャ女王も、何故かあんたとは仲が良かったみたいだし? だから、余計に訳がわかんなくなっちゃったのよ」
「……アンナは良い娘だよ。私の事をよく支え、尽くしてくれていると思う。愛すべき娘だ」
「馬鹿なこと言わないでよロリコン!! アンナちゃんをあんたなんかにくれてやる気は更々無いんだから!!」
今度は背を向けたままがなっていた。幼い頃と変わらず、感情の起伏がとても激しい性分らしかった。
「……だけど、アンナちゃんがひどい目にあわずに今まで元気に生きてこられたから、その辺りは駄目だとは思わないわ」
そうしてぼそりと付け足す。判定基準が全部双子の姉というあたり、彼女のシスコンは筋金入りであった。
「まあ、いいがね……」
魔王も思わず苦笑する。そう、びっくりするほど変わらないのだ、この娘は。
自身の記憶の中にある、あの幼かった彼女と、本質の部分が全く違わない。
それがむしろ魔王にとっては頼もしいというか、気弱になりそうな今は、ありがたかった。
「私は、あの偽者に敗けてしまった。今魔王城に戻っても、私の居場所など何処にも無いのかもしれないと、そう思っていたんだ」
今度は魔王が話す番であった。自身がずっと抱いていた事を、今、話したいと思っていたのだ。
「谷底にいた時にやたら大人しかったのって、もしかしてその所為?」
「私なりに色々考えてはいたんだ。コニーを助けたいという気持ちもあった。だが、下手な事をして状況を悪化させるのもよくないと思ったし……何より、怖かった」
「怖かった?」
「これ以上、失うのが。今の私には、なんにもないと思っていたのだ。今まで築いてきたもの、今まで積み上げたもの。それら全てがなくなってしまったような……そんな喪失感があったんだ。さっきまではね!」
今は違うが、と、言葉尻を強く、魔王は続ける。
「コニーに元気付けられたよ。そうだ、私にだってできることはあった。私のやった事は、間違いなく誰かを突き動かし、そして、何かを解決する、そんな力があるはずなのだ」
剣の柄を持つ拳を強く握り、奥歯をぎり、と噛む。
「そうよ。私達は強いの。力が、とかじゃなく。私達は、この世界に生きる人の誰一人だって、無力な人なんていないの」
笑われるかに思えた言葉は、しかしカルバーンに受け入れられていた。
「私は、この眼で色んな人達を見てきたわ。人間って、とっても弱い。儚い。そう思ってきたけど、違うの。そういう面も確かにある。だけど、弱くて儚いと思ったその人が、同じ人が、とっても強くて、頼りになる面だって持ってる。人間だけじゃないわ。きっと魔族だってそう。一面だけ見たんじゃ、それは解んないのよ」
そうでしょ? と、顔だけ振り向きながら、カルバーンは笑っていた。
「……ああ、そうだな!」
魔王も、にやりと返していた。
「もうすぐ着くわ。女王と実際に会ってどうするのか。それまでに考えておきなさいよね」
「うむ。ありがとうなカルバーン。君はやはり、彼女の娘だ」
「やめてよね、母さんの事言って褒めるの。あんたなんて憎くて仕方なかったのに、笑っちゃいそうになる」
それがよほど嬉しくてか、カルバーンは再び正面を向き、さっきよりもいそいそと歩き出してしまった。
「ははは。解ったよ」
そんなカルバーンの様子に、魔王もなんとなしに心がほぐれていくのを感じ、詰まっていた息が解けていった。




