#9-1.晩秋
大帝国による北部諸国及び聖竜の揺り籠教団本部への攻撃は、被害軽微の大戦果によって口火を切られた。
この開幕よりの打撃が痛打となり、中心となっていた教団本部が攻撃に晒された事もあって、北部諸国連合は徐々に瓦解してゆく。
対魔族戦争ではあれほどに頑強な抵抗をして見せた北部はしかし、対人では地形すらまともに活かせず、大帝国の数に押し切られ、短期間のうちにその多くが陥落していった。
北部の山々が冬の地獄を迎える寸前の、ほんのわずかな期間を見ての隙間を塗っての進撃は、成功に終わったのだ。
その報告が届く頃、帝都アプリコットでは、民衆によるデモが勃発しはじめる。
長く続く人間同士での戦争に嫌気が差し始めた帝都の民は、このデモによって日ごろの不満や鬱憤を爆発させ、女王退陣を望む声はアプリコットのいたるところで噴出していた。
「戦争をやめろーっ!!」
「女王エリーシャは今すぐ皇帝陛下を解放しろっ!!」
「私の大切な人を返してっ!!」
「女王を降ろせっ!! 俺達の国を傾国の悪女から取り返すんだ!!」
民衆の声は日ごとに増してゆき、それを抑えようとする城兵らも困惑するばかりであった。
彼らは敵襲に備えるために城に詰めているだけで、民衆が自身の意見を訴えるため、こうして城の周りを取り囲むような事態は想定していなかったのだ。
そもそも、帝国の長い歴史上、このような事は初めてであった。
代々の皇帝が民衆からの熱狂的とも言える支持を受けていたのに対し、その代理として女王の座についたエリーシャは、今となっては民衆からはばかりも無く悪女扱いされるまで墜ちていたのだ。
魔族という外敵に対しては我慢もできた民だが、これが同じ人間同士の殺し合いとなるや、途端に耐えられなくなったのである。
「――女王エリーシャも、ここまでだな」
そんな城の様子を、街の時計台から眺める長身の中年男が一人。
魔王の姿をし、魔王の声で、一人ごちていた。
「北部を陥落させ、世界最強の国家となった大帝国の女王が、他ならぬ自国の民によってひきずり降ろされるとは、皮肉な物だ――」
エリーシャとて、望んで国民に嫌われている訳でも無かろうに。
彼女自身が解っていた事とはいえ、それは本心から望んでの事ではないだろう、と、彼は自身の肉体の記憶からそれを読み取る。
だが、民は彼女の心など微塵も考えてくれない。
為政者の心など、民には伝わらないのだ。
エリーシャとて、決して無能な訳ではなく、むしろ善政とも言えるほど民を考えての政治を行っていたはずだった。
魔族と手を組んだのだって自国民をこれ以上魔族との戦火に晒したくないから。
周辺諸国や西部諸国を吸収し、南部や北部を攻撃する事になったのだって、そのままでは同じ事を繰り返すと解っていたから。
痛みを伴うものの、その場その時においては最善・最良とも言える選択だったのは、少し考えれば誰にだって解りそうなものであったが。
存外、民というのはわがままらしい、と、ドッペルゲンガーは苦笑する。
「私自身は面識も無いが、この魔王は存外、エリーシャを好ましく思っていた様だな。このまま見捨ててしまうのは忍びなくも感じてしまう――」
今、魔王と成り代わった彼は、それを見捨てようとしていた。
エリーシャに手を差し伸べ、このデモを鎮圧する事は実に容易い。
だが、彼はそれをしようとは思わなかった。
これが、彼女の選んだ道の先に待っていたもの。
こうなると解った上で、それでも進もうとして進んだ道なのだから。
(明日は我が身やも知れぬ。いや、事実身内から刃を向けられてもいたのだ、この魔王は。早々に戻り、地盤を堅固にせねばなるまい……)
成り代わって、彼が初めて知った事ながら、この魔王はあまりにも内政を蔑ろにしすぎていた。
その結果、天使に操られたとはいえ、悪魔王による大反乱を招いたのだから、このように人間世界を見ていても笑うことなどできはしない。
いずれ第二・第三の悪魔王が生まれるかもしれない。
何より、まだ崖に落とした魔王が死んだとは限らないのだから。
(しかし――あの魔王め、なんと恐ろしい記憶を……このような闇を抱きながら、あのような偽善をのたまっていたのか、あの男は――)
同時に、彼は複写した魔王の記憶に苦しめられてもいた。
それは古の記憶。魔王がまだロクに感情も持ち合わせていない頃のモノであったが。
そんなもの知る由もなく知ってしまったドッペルゲンガーは、そのあまりにも規格外でデタラメで不気味この上ない過去に、心底怖気を抱いてしまっていた。
そうして、そんな記憶なのに忘れる事ができない。眼を閉じただけでその光景が浮かんでしまう。
全ての人間が死んでいた。
全ての生物が死んでいた。
そこには生など欠片もなく。無機物すらもがただの死に塗れていた。
彼の視点から見て、それはどうしようもなく悪であり。
そして、それを一人でやってのけたのが、あの魔王なのだ。
見た事もないような外道であった。鬼畜という言葉ですら形容するには生ぬるいほどに狂っていた。
何よりドッペルゲンガーが恐ろしいと感じたのは、そんな中にいて、他者を殺す時にも、殺したモノを眺めている時ですら、何の感情も、感傷もなく、ただそれを見ていただけだった事にあった。
(あの魔王は――確実に殺さなくてはならなかった。あんな奴を野放しにする訳にはいかん。でなくてはこの世界が――滅ぼされてしまう)
色々な経緯があって今のような人格に収まったのも彼には解っていたが、そんなものは仮初に過ぎないとも解っていた。
あの魔王の本質は『完全なる無』。なんにもないのだ。今も尚、その心には空虚な穴が空いている。
それを埋めるようにドッペルゲンガー自身の人格が収まっているが、では、成り代わっていない方の魔王はどうなのか、と考えると薄ら寒いものを感じていた。
(帰ろう、魔王城へ。そして、出来うる限りの対抗策を考え、今度こそあの魔王を殺さなくてはならん!)
決意に拳を握り、長身の中年姿の偽者は、姿を消した。