#3-1.助けられた聖女
彼女が目を醒ました時、まず目に入ったのは、ボロ小屋のような素組の天井であった。
しばしぼーっと見ていたが、やがて『まだ生きている』という事に気付き、そっと腕に力を込める。
「――痛っ」
激痛が走り、身をビクリと震わせる。
だが、そのままこらえてベッドに膝を付き、半身を起き上がらせる。
腕だけでなく腹部も涙目になるほど痛かったが、それでも視界を広げたかったのだ。状況を把握したかったのだ。
(ここは……? 私、いつの間にこんなところに……)
彼女――ロザリーは、勇者リットルとの戦いの後、アプリコットを目指していたはずであった。
闇夜に紛れ、人目に触れぬよう街道を避けて進み、あとわずかでアプリコット、というところで意識が途切れそうになり、無念のまま死ぬのだと思っていた。
何故このような状況になっているのか解らないし、ここが何処なのかも彼女にはわからなかったのだ。
「あっ、起きたんですねおねえさん。よかった――」
しばしぼーっとしていると、部屋のドアを開けて少女が入ってきた。
手にはスープが入ったボウル。
スプーンと一緒に、ロザリーのベッド傍の椅子へと置いた。
「貴方は……お花を売っていた……」
その少女には見覚えがあったのだ。
アプリコットに滞在していた際、きまぐれに花を買ってあげた少女。
直後にエリーシャの居場所が割れたが、その後もなんとなしにすぐ戻る気がせず、ずるずると滞在していた中、幾度か花を買ってあげたものだが。
「あの、ここ、わたしの家なんです。アプリコットからはちょっと離れたカウっていう村なんだけど……」
「そう、カウに……」
カウはアプリコットから南にわずかばかり離れた村である。
自分の居場所が思ったより目的地より遠くはなかった事に安堵を覚えながらも、疑問も感じていた。
「わたし、季節のお花を採りに、森のお花畑によく行くんですけど、そこでお姉さんが倒れてたから、危ないなあって思って。弟と二人で頑張って運びました」
ニコニコと微笑みながらドアの方を指さす少女。
見ると、ドアの隙間から心配そうにこちらを見ている顔が見えた。
「何故私を……? 見ず知らずの大人なんて、怖くないです?」
「だってお姉さん、いつもお花を買ってくれたし。お花好きな人に悪い人っていないと思います」
どうやらこの少女は、本当に自分が花が好きで買っていたのだと思っていたらしいと気づき、苦笑してしまう。
本当は違うのだ。ただ同情から、なんとなしに救ってあげた気になりたいから買っただけなのだ。
昔の自分が救われたかったのに救われなかったから、今困っている子を見捨てるのが嫌だっただけなのだ。
そんな浅ましい自分が気まぐれでやっただけなのにそのおかげで命を救われるなんて、と、ロザリーは複雑な気分になっていた。
「いつも、この村からアプリコットまできてましたの……? 半日くらい歩きますわよね?」
大人の足で半日の距離。この位の少女なら一日がかりかもしれない。
街道を通れば危険は少ないとは言え、決して楽な道のりではなかった。
「この村にいたままじゃお花は売れないし……帝都まで行くと、綺麗なお花を喜んでくれる人っているんですよ。帝都の人はお姉さんみたいにお花が好きなんですね、きっと」
おかげで助かってます、とホクホク顔であった。その笑顔、純真さに、どこか洗い流されるようなモノを感じてしまうのだ。
「まあ、そうなのかもしれませんわ」
なので、否定する気も起きなかった。少女の夢を壊すのは、あまりにも残酷すぎるだろう、と。
「貴方たち、ご両親は?」
この家には、大人の居る気配がしなかった。
そもそも娘が帝都まで花売りに来るような状況なのだから、ある程度察する事はできたが。
「お母さんは小さい頃に。お父さんは……戦争で」
「……そう。戦争で」
「帝都の兵隊さんだったんです。この村って貧しくてなんにもないけど、お父さん、『かせぎがしら』っていうものだったらしくて。わたしたちが村にいられるのも、お父さんが村にたくさんお金を使ってくれたからなんだって、村長さんが言ってました」
帝都の兵隊で死ぬという事は、対魔族戦争ではなく、南部との戦いで死んだことに他ならない。
間接的にせよ直接的にせよ、この少女の親の仇の同胞なのだ。
ロザリーは皮肉げに口元を歪ませた。
「貴方、怖くありませんの? 服装から、私が南部の者だという位はわかるでしょう?」
「だってお姉さん、お花を買ってくれたし……それに、軍人さんじゃなくて聖女様でしょう? わたし、ちっちゃい頃に一度だけ街の聖堂に行った事があるんです」
そう言いながら、少女は胸の前で十字を切ってみせる。
「えへへ。本当はこんなことしたら怒られちゃうけど、聖女様にならいいですよね」
「……ええ。女神様もきっと、喜んでらっしゃいますわ」
――この笑顔は裏切れなかった。この信頼は裏切れなかった。
ロザリーは、ただ静かにその顔を見つめていた。
「貴方、お名前は?」
冷めてしまうからと渡されたスープをスプーンに掬いながら、ロザリーは少女に名を問う。
「わたしですか? わたしは、ロザリーっていいます」
「……え?」
「ロザリー。それから、あっちの弟はカインっていいます」
一瞬、奇妙な感覚に陥っていた。
目の前で椅子に座りにこやかに自己紹介する少女が、自分と同じ名前を名乗ったから。
同じ名を持ち、ある意味自分と似たような境遇だった少女が、しかし、自分と全く違う平穏の中、貧しくとも純真さを失わずにこうして自分の前にいるのが、なんとも奇妙に感じてしまったのだ。
「……そう、ロザリー。素敵な名前ですわ。貴方によく似合っている」
ごまかし半分にスープを啜る。味は感じられない。もとより味覚などとっくに壊れていたが。
彼女の舌は苦味以外を認識できないのだ。
色のついた白湯のようなものであった。だが、それを味わうように目を閉じ飲み込む。
「美味しい。私、お腹が空いてましたの。とっても美味しいですわ」
「ほんとうですか? よかった……お父さんから教わったスープだから、よその人にはあわないんじゃないかって、心配だったんです」
「そんな事ありませんわ。貴方の優しさが滲んでくるよう」
――こんな私の為に気を遣ってくれる。助けようとしてくれる。
この少女のそんな優しさが、ロザリーには染み入るように暖かく、そして、傷口を抉るように残酷であった。
「あの、お姉さんのお名前は、なんて言うんですか?」
「私ですか? 私は――」
告げるべきか。いや、そうではないだろう、と。
ロザリーは開いた目を細め、微笑みながらスプーンを皿の上に置く。
「――ふふっ、思い出せませんわね。私、記憶を失ってしまったようで」
名前だけ忘れてしまうなんてご都合、通るはずも無いと思いながらも、ロザリーは少女の顔を見た。
「記憶が……た、大変ですっ、あの、わたしにできる事なら何でも――」
少女はパニックに陥っていた。心底心配してくれているらしいので、ロザリーも笑ってしまう。
「あらあら、大丈夫ですのよ? 名前なんてそんなに大した物ではありませんから」
そう、名前などどうでもいいのだ。彼女にとっては。
そも、物心ついてから恩人に救われるまで、名前で呼ばれたことなど一度も無い。
ロザリーという名も恩人に出会った時につけられたもの。
ならば、そんな綺麗な名は『本物のロザリー』が持っていたほうが良いのだ。
だから、ロザリーは少女の前では『名称不明の聖女様』で通す事にした。