#1-1.ウィッチの見る夢
魔王城の一室。
緑に天幕に彩られたベッドに、二つの命。
ここは魔王マジック・マスターの私室。安寧の為の部屋であった。
「良く来てくれたわね」
先日生まれたばかりの、純白の布地に包まれた小さな命を抱えながら、魔王は微笑んでいた。
「この子が貴方の子よ。女の子だからウィッチになるのかしらね?」
そうして、嬉しそうに見つめてくるのだ。
――自分の子供。自分とこの方との間に出来た子供。
それがなんとも、嬉しくもこそばゆい。
だからか、彼女はどういう顔をしたら良いか解らず困惑してしまっていた。
緊張していたのだ。この、愛しい魔王が自分との間に子を成してくれたというのが嬉しくて仕方なかった。
だが、それ以上に畏れ多くもあり。
同時にこのような形で生まれてきた『わが子』に、どういう顔をして向き合えば良いかも解らなかった。
「笑ってあげて」
そのまま、嫌な沈黙が続くかに思えたが、気を利かせてか、魔王は彼女にそう求めてきた。
だから、彼女はぎこちないながら、赤子に向け微笑んで見せる。
それだけで魔王は満足げに頬を緩め、赤子に顔を向けた。
「アイゼンベルヘルト、貴方のパパよ。素敵でしょう?」
にっこりと語りかけるのだが、彼女はそれに違和感を感じていた。
「……アイゼンベルヘルト?」
「この子の名前よ。素敵だと思わない?」
首を傾げた彼女に、魔王は機嫌よさげに説明し始める。
――まさかそれがこの子の名前だったとは。
どう考えても女の子につける名前ではないと思ったが、それどころではない。
「あ、あの、陛下? 私どもウィッチ族には、固有の名前はつけないしきたりなのですが――」
ウィッチ族に名は無い。彼女自身もまたウィッチ族ではあり、やはり名前は無かった。
当然、魔王と彼女との間に生まれた子供はウィッチであろうから、その子にも名前はつけないのが慣例というもののはずなのだが。
だが、魔王は微笑を崩す事無く首を横に振る。
「私はそうは思わないわ。他ならいざ知らず、この子は私と貴方との間の子供よ。その辺のウィッチとは違う」
「……陛下」
この子の事を特別視しているのが解り、思わず彼女もジーンと来てしまった。
自然、涙がこぼれそうになる。
「また泣いてるの? もう、貴方は本当、泣き虫というか――父親なのだから、これからはもうちょっとビシッとしないと」
仕方ないわね、と、慈愛ある瞳で手をかざす。
彼女はそのまま魔王の傍へと寄り、胸元に顔を這わせた。
「すみません。こんな私との子供を、陛下が大切に思ってくださったのが嬉しくて……」
「仕方の無い娘だわ。まあ、そこが可愛らしいとも思えるかしら?」
そっと優しく髪を撫でてくれるのがたまらなく嬉しい。
背中にかけられる言葉は優しく、豊かな胸に顔を埋めているとそれだけで安心できてしまう。
彼女はもう、同性のはずの魔王から離れられそうに無かった。
「姉様に抱きついていたときの私は、こんな風だったのかしら……?」
ぽつり、何気なく出た口から言葉を彼女は気にはしなかったが。
魔王はどこか、戸惑いのようなものを覚えていた。
――なんでこんな事を?
自分が何を呟いたのか、何故そんなことを言ったのかも不思議とばかりに。
「陛下。お元気そうで何よりですわ。それから、ご出産おめでとうございます」
あれから何百年が経過しただろうか。
二人の間に生まれた娘は、今は魔王城で他の姉や妹達と遊びまわっている。
あまり健康ではなく、生まれた直後は色々と不安もあったが、とりあえずは駆け回れる程度には元気に育ったので彼女は安堵していた。
今回城を訪れたのは、この魔王が吸血王との間に身ごもった子供を、無事出産したとの話を聞いたからであった。
後には『あの』伯爵も登城するのだと事前に聞いていたので、二人きりで話せる時間はあまりないのだが、それでも彼女には貴重な『愛しい人との時間』であった。
「ありがとう。貴方も、遠いところ良く来てくれたわ」
だが、赤子を抱えた魔王は、どこか普段と異なる印象を――空気の違いを彼女に感じさせていた。
何がどう違うのかは解らない。だが、確かに違和感として伝わったのだ。
「……陛下?」
しかし、それをどう口にしたら良いのか。
迷ってしまい、ただその名を呼ぶことしか出来なかった。
「記憶をね、取り戻したの」
違和感に戸惑っていた彼女の様子をわかってか、魔王は苦笑しながら話し始める。
「記憶、ですか? その、陛下が失われていたのだという、魔族となる以前の記憶が……?」
魔王は、記憶を失っていた。
欠落した記憶の大部分は魔王が魔族となる前。恐らくは人間であったであろう時期のもの。
かつてどんな存在だったのか、何故魔族となったのかも解らないのだと、彼女は睦み事の最中に聞いていた。
「これは、ラミアにも伯爵にもまだ教えていないことだわ。伯爵には伝えるつもりだけど――貴方には、最初にそれを知ってほしかったの」
「光栄ですわ。それに、記憶を取り戻せたのなら、それはいい事なのでは……?」
あまり知られていない事ながら、彼女は、魔王がずっとその事で悩んでいたのを知っていた。
少し前など、人間の勇者と戦いになった際に唐突に頭痛に見舞われ、そのまま撤退した事すらあるほどだった。
何か自身の記憶に関係があるのでは、と、その勇者との戦いでは全力を出さぬよう、できれば自身も前線に出ないようにと考えるようになっていたのだ。
だが、魔王は首を横に振り、寂しげに微笑んでいた。
ただめでたい、喜ばしい事ばかりではないのだと、無言の空気が語っていた。
「私の真の名はタルト。この世界の未来からきた、今はまだ存在もしていない皇女」
しばしの沈黙の後、魔王は口を開く。
彼女もまた、その一言をも聞き逃すまいと、緊張がちにじっと見つめていた。
「貴方には、『私がいなくなった後の事』をお願いしたいの」
先ほどとは違って目に見えて悲しそうに微笑みながら、魔王は――タルト皇女は語りだした。
「……はぁ」
それは、遠き日の夢であった。
それでいて、彼女にしてみれば極最近とも言えた日々の記憶であった。
ラミアや伯爵に次ぐ魔王の側近の一人として、重鎮として、そして愛妾として、彼女は魔王の最後の願いを聞いた。
血の繋がった姉以上に愛しい、そんな相手からの願いを、彼女は断ることが出来なかった。
彼女にとって、愛しき人の出地など瑣末な問題であった。
人間の皇女であったことなどどうでも良い話であった。
『過去などどうでも良い。今をこそ生きるべきだわ』
傷ついた彼女を抱きしめながらそう言ってくれたのは、他ならぬあの魔王だったのだから。
だが、夢としてみるとやはり辛いものがあるのも事実で。
そうして何より、誰より愛しかったその人が今はもう居ないという現実が、彼女には堪らなく辛かった。
そこは、巨大な書物の並ぶ異空間。
膨大な数の本に支配された無限書庫の『最奥の最奥』であった。
目の前には、やはり倒れ、気を失ったままの彼女の娘と、その友人なのだという人間の姫君。
悪魔王の襲来に気づきすぐさま娘達を連れ退避したのだが、生憎と転移に使っていたペンダントは使用と同時に砕け散り、空間転移の反動をまともに受けてしまった。
この場所に来た事そのものは覚えているが、自分がどれ位の間意識を失っていたのかも解らず。
とにかく、その場にぺたんと座り込んでしまう。
「――トルテ様、もうすぐですわ。もうすぐ、貴方様の望んだ世界が参ります。貴方様の信じた者が、新たな世界を作ってくれるはずですわ」
自分の役目はもうすぐ終わる。
反乱はもう終わった。後は悪魔王を倒せばいい。
深い深いため息の中、彼女は自身の中からようやく緊張が抜けていくのを感じていた。
「どうか、私を護ってくださいまし。弱い私に、トルテ様のご加護を――」
それは、彼女の宗教であった。
信じるのは愛したその人ただ一人。
生きる理由は全てその人の為。その人の願いを叶える為。
彼女は自身の胸を抱き、その顔その声を、言葉を、願いを思い出していった。
同時に、今は自分の中にだけある最愛の人との思い出も。
「貴方がウィッチ族の長なのね?」
「……長と言えるか、自信がありませんが」
初めてのその魔王との謁見は、恐怖ばかりが身を支配していた。
かつて謁見した先代魔王アルドワイアルディは、会ったその時に何が気に食わないのか「戦え」と命じられ、ぼろ雑巾になるまで嬲られた。
その場にいた彼女の双子の姉が止めに入り、それでも尚止まらず、姉どもども殺されかけたところでラミアが「それくらいに」とアルドワイアルディを説得し、ようやくである。
その結果、彼女はとても長い時を、瀕死の重傷から立ち直るために費やした。
ようやく傷が癒えた後も、その時の負傷とショックが原因でしばらくの間男と話せなくなり、女としての機能も失ってしまっていた。
子を成せなくなった長族に意味はないと、絶望の余り自害しようとしたこともあった。
けれど、姉に「私を一人残すつもり?」と止められ、死ぬに死ねず生き恥を晒すことになっていた。
余りに惨めな人生、魔王の側近からは「あいつは腰抜けの役立たずだ」と蔑まれ、「女としても役立たずらしい」と笑われる日々。
苦悩した末に、けれどある時アルドワイアルディが病によって崩御し、人生が変わった。
新たな魔王エルリルフィルスとの出会いは、決して希望に満ちたものではなかった。
何せ、先代以上に苛烈な、気に食わない者は容赦なく殺すという、魔族にとっても恐怖そのものとなる存在だ。
初めての謁見からしばらくの間、魔王はやはり魔王であると、恐怖を抱くべき存在なのだと彼女は心に刻んでいた。
「貴方、私と子供を作りなさい」
その認識が変わったのは、魔王が思い付きで唐突なことを言い出してからだった。
新体制にも慣れ、魔法に見識深いウィッチ族の長として、そして魔王軍内でも研究職のトップとして相応に地位を築き、ようやく辛い日々から脱却し始めていた頃だった。
魔王が唐突に思い付きを口にするのは、何も珍しいことではなかった。
例えばラミアに「あの湖畔に砦を築きなさい、一夜で」と、敵前で砦を築くように命じたり。
例えば伯爵に「貴方戦わないからエルヒライゼン送りね」と、誰も住みたがらない僻地への封印を命じたり。
とにかく、突然にそれは始まるのだ。
そしてそれに抗った者は、もれなく殺された。
「子供……と、言いますと?」
突然のこと過ぎて唖然としていたが、それは、彼女にとって無理のある話だった。
彼女は、子供を作ることができなくなっていたからだ。
いかなる治癒の魔法を遣おうと、奇跡に縋ろうと、それが行える部位は、アルドワイアルディからの攻撃を受けた際、真っ先に破壊され、回復することができない。
けれど、抗えば殺されるのは解っていた。
だから、問う事しかできなかった。
問うて、せめて気づいていただけたら、と。
「だから、私と作るのよ。赤ちゃんを。今私は、『城内を子供で埋め尽くす』計画を実行中でね?」
「それは……私も存じております、が……」
加えて言うなら魔王は女性で、同性間で子供を成すことはできない、と彼女は思っていた。
確かに魔王が、とっぴな思い付きから魔界の各種族の王や長族との間に子を成しているのは知っていたが。
自分までそうなるとは思いもしなかったので、どこか他人事のように思っていたのだ。
だが、順番は当たり前のように回ってきた。
「解ってるわよ。女しかいないから無理って言うんでしょう? でもウィッチって女しかいないんでしょう? 蛇女は元がオロチ族だからそっちで妥協するつもりだけど、変種でもないのに女しかいないのは貴方達くらいだから、仕方ないじゃない?」
「で、ですが……いえ、陛下がそうおっしゃるなら私は……ですが、私は……」
――子供を作れないのです。
自分の口からはそう言いたくない、言ってまた、笑われたくないという気持ちがあった。
この魔王は、自分が先代によって非道の限りを尽くされたことを知らないのだ。
だから、普通の女に対して言ってるつもりなのだろう、というのは解っていた。
「うーん……産みたくない、というなら仕方ないわね」
「あっ……あ、あの……っ」
何か諦めたような一言。
思案する魔王に、彼女は「殺されるの?」と、恐怖を抱いた。
気まぐれで殺すような魔王だった。
気に食わないから、逆らったから、文句をつけたから。
ただそれだけで、何人の上級魔族が葬られたか。
自分も、機嫌を損ね殺されるのかもしれない。
その可能性が高くなったように感じ、ウィッチは瞳を揺らす。
「じゃあ、私が産むから、貴方、男になりなさい」
「……えっ」
その時から、彼女の運命は変わった。
(あの方は……私のような女でも、愛してくれた。ダメになってしまった私を、慰めてくれたもの……)
ぎゅ、と胸を抱くようにしながら、自分の頬が熱を帯びてゆくのを感じていた。
愛しい人が初めて自分を抱いた時、なんと言ってくれたのか。
『可哀想に。アルドワイアルディは何も解っていなかったのね。こんなにきれいな、可愛らしい娘に、なんて非道を』
『へ、陛下……』
『大丈夫よ。貴方はとっても素敵だわ。今まで私を抱いてきたどんな男より、貴方はとてもきれいで、いいにおいがするもの。ああ、私より華奢で、やわらかくて、とっても温かで……癒されるわ』
癒される。
そう言ってくれた魔王に、彼女は涙した。
女としての尊厳を失ったからではない。
無理やり男として相手をさせられているからではない。
ようやく、ようやくにして、自分の在り方を理解できたからだった。
そういう在り方を許容してくれる、あんな人が自分の前に現れたからだった。
彼女は、ずっと双子の姉に憧れていた。
強くたくましく、そしてどんどんと自分の意見を言えて軍の中で頭角を現していた姉が、誇らしくて、羨ましくて仕方なかった。
彼女の中での姉は、この世の何よりも素晴らしい、憧れの存在だった。
そしてそんな姉は、自分の事をずっと「可愛い」と、優しく撫でたり、抱きしめたりしてくれたのも、彼女には嬉しかったのだ。
そんな姉のようになりたい一心で頑張っていた中で、ようやく謁見が叶った矢先にアルドワイアルディに貶められた彼女にとって、自分の存在とは何なのかと、ずっと疑問に感じていたのだ。
自分は、姉のようにはなれない。姉のように、強く生きることができない。
自信も喪失し、人から笑われるような惨めな生き物に成り下がってしまい、アイデンティティが崩壊していた。
そんな中、自分を肯定してくれる人に、ようやく出会えた。
自分が、魔王を癒すことができるのだと、そう思えたのだ。
それ以降は、暇さえあればいつでも魔王と会っていた。
エルリルフィルスは、日々些細なことで苛立ち、怒りをぶちまけ続けてしまう。
それだけ疲れていたのだ。それだけ、苦しんでいたのだ。
魔王という地位は、いかに最強の存在であっても、重いプレッシャーだったのだから。
『貴方と一緒にいると、とても癒されるわ。素敵よ……』
『……私も、エルリルフィルス様を癒せて……沢山、幸せにして差し上げたいと、ずっと思っていて……』
『可愛いわ。そんな風に私に気を向けてくれる人なんて、いないと思っていたし』
『そんな事……エルリルフィルス様は、とても美しくて、ああ、言葉にするのも、なんと表現したものか』
『貴方は本当に、可愛いわね』
愛しいわ、と、首筋にキスをしてくれたりもした。
可愛いと連呼され、この上なく満たされるものを感じていた。
自分を肯定してもらえて、自分を認めてもらえて、自分を受け入れてもらえて。
それが、今までの人生で味わったこともないくらい心地よくて、気持ちよくて。
一生、この人のために尽くしたいと思っていた。
彼女の忠誠心は、愛によって紡がれ、決して失われることはなかった。
魔王マジック・マスターの第三の側近である彼女は、この時に生まれたのだ。
「――貴方、大丈夫? 無理していない?」
彼女の姉は、事あるごとに彼女と会い、そして、無事を確認してきた。
いや、無事ではなく、正気の確認なのかもしれないと、彼女は思っていたが。
「大丈夫ですよ姉様。私は最近、とても幸せで――」
「……そ、う。私も、貴方が元気でいてくれるのは、嬉しいわ」
「はい……♪ これというのも、エルリルフィルス様のおかげです。私、生きていて……あの時、姉様が助けてくださってよかったと、ようやく思えるようになったんです」
「私も……貴方が幸せそうで、よかったわ」
その頃にはもう、魔王の寵愛を受けていたことは、魔界中に知られていた。
同性愛は、魔界において何より嫌悪される禁忌。
ひとたび行い、何かしらの間違いで子を成せば、それによって歪みを持った子が産まれてしまう。
その歪みは、魔界において間違いなく害を成す、危険な存在となると、かつての歴史が証明していた。
そんな凶行を自分の妹と魔王とが行っている事を、しかし、姉は止めたくても止められなかった。
圧倒的な力を持つ魔王と、そして、そんな魔王に抱かれ、幸せにそうしている妹を見て、止められるはずがなかったのだ。
「ごめんなさい姉様……でも、私にとって、エルリルフィルス様はどんな男性より……」
難しそうな顔をしながらも、それでも最後は祝福し、去っていく姉を見つめながら。
彼女はいつも、申し訳ない気持ちになっていた。
それでも尚、愛する人の事を想うのは、やめられないのだから。
「あの日々があるから、生きられる。あの日々があるから私は、どんなことでもできる――」
魔王が子を成すまでと思っていた関係は、しかし、我が子を得てもなお続き、愛妾としての地位は揺らぐこともなく、いつまでも愛され、癒しとなることができた。
その思い出があるからこそ、想いが残っているからこそ、彼女は、胸の内の決意を揺らがせることなく、愛した人の願いの為、生きられた。




