#8-2.暴竜ドッペルゲンガー
夜とは、彼にとって、なんとも恐ろしいものであった。
戦地での経験が豊富な彼は、ありとあらゆる戦場を知り、そこから生まれる苦しみも理解していた。
それは夜戦。夜にも飢える敵陣に対し、総攻撃を仕掛けようとしていた時の事である。
追い詰めた敵の気が萎え、最早抵抗もするまいかと思われるほどの攻め際。
突如として轟音が空に舞い、そうして――ソレは訪れた。
「あれは――」
敵も味方も空を眺めていた。ただ呆然と。ただ唖然と。
空に舞う金色の光。巨大な竜。空の支配者が、そこにいた。
かつてのエアロ・マスターのように、それとは異なる金色の王が、そこにいたのだ。
大きく裂けた口元には巨大な魔法陣。見慣れたブレスの予兆であった。
「いかんっ、逃げろぉぉぉぉぉぉぉっ!!!」
竜の眼下には自軍がある。ソレが何を意味するか、既に手遅れであると解っていながら、それでも叫ばずにはいられなかった。
彼は司令官であった。全軍を指揮し、動かし、逃がす立場にあった。
自分が逃げ遅れてでも、その号令だけはあげねばならぬと思っていたのだ。
だが、やはりそれは手遅れで。
『ファンタズマブレス――』
それは、全てを溶かす幻想の光。
ありとあらゆる幻想を壊してゆく光の雨。
何もかもが消えていった。彼の部下達が、彼の盟朋が、そして、彼自身も――
「はっ――」
そうして彼――司令官グレゴリーは眼を覚ます。
そこは見慣れた本陣。自身の休息の為のテント内であった。
長丁場の戦いの中、戦況の優位に満足し、他地域の戦勝に安堵した彼は、わずかながら休息をとっていたはずであった。
ベッドに横たわり、数日ばかり寝入るつもりであったが。
しかし、気がつけばじとりとした汗が流れ、胸を激しい動悸が襲う。
「こ、これは、一体――」
夢とも思えぬリアルがあった。
あの時、最後に見た金色の竜は笑ってはいなかったか。
なんとも背筋の凍る、恐ろしい光景であった。
「グレゴリー様、いかがなさいましたか?」
テントの外から聞こえる腹心の声に、グレゴリーは汗を拭きながらにベッドから立ち上がり、外へと出る。
「恐ろしい夢を見た。決戦の最中、金色の竜に襲われてな」
外で控えていたダルガジャに、すぐさまその夢の内容を伝えていた。
どうにも、ただの夢で済ませるには恐ろしい、そんな何かがあるような気がしたのだ。
「金色の竜……? 人間世界北部の、あの金色の竜ですか?」
「ああ。どうにも嫌な予感がする。計画通りの布陣では、何かまずいかも知れぬ」
それは、魔族の勘であった。
根拠などどこにもないが、戦場を生き抜いた彼らの本能は、時としてこのように『少し先の未来に起こりうる何か』を予感させる事があった。
それに従い生き延びる事も少なからずあるため、彼らにとっては無視しがたい話である。
「予定していた決戦までは二日の猶予がありますが、その期間でどこまで変えられますか……」
「急ぐのだ。まだ陽も昇りきってはおらぬ」
空を見れば、ようやく陽が昇ろうとしていた頃であった。
これから二日後の夜、パルティナ街道の残った敵陣に向け、総攻撃を開始する。
その為の準備も既に整い、最後の静養期間として三日の猶予を持たせた。
これにより兵の士気を保とうとしていたのだが、それどころではなくなったのだとグレゴリーは考えていた。
とにかく急がねばならぬ。今すぐにでも行動を起こし、少しでも多くの犠牲を減らさねばならぬ、と。
あくまで何も始まっていない、本当に何の予兆も無い、突拍子も無い事であったが、しかし、司令官である彼は、そんな思い込み程度のモノであっても看過することはできなかったのだ。
「すぐさま北部方面軍と連絡を取り、作戦の中止を伝えるのだ。情勢も落ち着いておる、今すぐ敵と決戦を行わねばならん訳ではない!」
「かしこまりました。此度の決戦、中止でよろしいのですね?」
「構わん。すぐさま隊をばらけさせろ。竜に――あの光る竜に襲われる前に。あのブレスを受けてはならん!!」
彼が夢の中みたあの光景は、まさしく絶望であった。
抵抗すら敵わぬ。他のブレスと違い、それは光の速度で飛び交い、瞬時に自分達を溶かしていったのだ。
背筋が震える。肌が粟立ってしまう。その恐怖が、彼を駆り立てていた。
「すぐさま伝達いたします。グレゴリー様、どうかご安心を!」
「うむ、任せたぞダルガジャよ」
主のただならぬ様子に、ダルガジャも息を呑み、それに従う。
すぐさま駆け出し、まだ目覚めきらぬ本陣に対し声を張り上げていった。
「緊急招集!! 緊急招集だ!! 各大隊の指揮官は会議場に集まれ!! 軍議を行う!! 急ぎ起き召されぃ!!」
にわかにざわつき始める陣の中、グレゴリーも大きく息をつき、陽の昇り始めた空を見上げていた。
そしてわずか二日の間に、陣仕舞いすらおざなりに、グレゴリー軍は撤収。集結した部隊を念入りに散開させ、金色の竜の襲撃に備えた。
『――どこにもいないではないか。あの天使め』
そうして、グレゴリーの夢どおり、空には金色の竜が舞っていた。
決戦の地パルティナでは、陣構えに被害を受けぬがため要塞にこもる反乱軍が居るのみであった。
対陣する正規軍の軍勢などどこにも居らず、わずかに見える敵の斥候と思しき点は忙しなく動き回り、上空からでは狙いをつけることもままならない。
『おのれ、これでは何の為にここまで来たのか解らぬ。馬鹿馬鹿しい――』
天使パトリオットの指示で、はるばるこの地の反乱軍の支援をしにきたというのに、肝心の敵がそこにいないのだ。
これではまるで無駄足。金竜エレイソンは、無意味を通り越して徒労感ばかりを感じてしまう。
『もういい。魔族などと手を組もうと考えたのが間違いだったのだ。あの天使め、今度見かけたら喰らい殺してやるわ――』
呆れと苛立ちから、そのはけ口を眼下に求める。都合よく、地上には巨大な要塞があった。
無警戒にも対空兵器の準備すらしておらず、敵の不在に安穏としている様が見て取れる。
『――消え去れ!!』
滑空しながらに裂け目の口を開き、周囲の大気を雲もろとも吸い込み始める。
やがてそれが収まると、凶悪なトカゲ顔の前に巨大な魔法陣が展開し、限界まで広げられた喉奥から、一気に空気弾が発せられた。
『ファンタズマブレス!!』
空気の振動と共に発せられる古代魔法。
眩く光る幻想の雨が、本来の目標とは無関係の要塞へ、反乱軍の陣へと吹き付けられていった。
光を浴び、瞬く間に溶けてゆく要塞。控えていた兵は何事かと騒ぎ始めるが、そんなものはすぐに静かになっていった。
十万もいた兵士が、その全てが、金竜エレイソンのブレスの一吹きで消滅していった。
欠片も残さず。形跡すら残らず。数分掛からずにパルティナの地は、元の何も無い更地となっていた。
まるでそこに立っていた要塞が、陣を構えていた者達が、幻想であったかのように。
こうして、この地に集結していた西部地方の反乱軍は全滅。
結果として司令官グレゴリーの判断は正しく、正規軍はこの襲撃に際して一切の被害を出さぬまま、この地方の平定に成功した形となった。
同時に、斥候を介して金色の竜の恐ろしさを伝え聞いたグレゴリーは、即座にこの対処方法を練るべく、参謀本部にその様子を報告。
この脅威を漏らさず説明し、魔族世界への警笛とした。